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第2話 六畳一間の戦略会議

第2話 六畳一間の戦略会議


 六月の雨は容赦がなかった。


 灰色の空から落ちる雨粒が、古びたアパートのトタン屋根を激しく叩いている。


 神楽坂恵流沙は両手に荷物を抱え、細い階段を上っていた。


「二〇三号室……ここね」


 築四十年。


 駅から徒歩十八分。


 エレベーターなし。


 オートロックなし。


 神楽坂家の令嬢として育った彼女が住むには、あまりにも質素な住まいだった。


 鍵を回す。


 ギイッという音とともにドアが開いた。


 湿った畳の匂いが鼻をくすぐる。


 六畳一間。


 小さな流し台。


 黄ばんだ壁紙。


 窓のサッシにはうっすら錆が浮いている。


 静かだった。


 いや、静かすぎた。


 屋敷では常に誰かの足音がしていた。


 料理人。


 運転手。


 秘書。


 掃除スタッフ。


 使用人たちの声がいつも聞こえていた。


 しかし今は違う。


 雨音だけが部屋を支配している。


 恵流沙は荷物を置いた。


 段ボールは三箱しかない。


 服。


 本。


 ノートパソコン。


 それだけだった。


 彼女は窓際に腰を下ろした。


 膝を抱える。


 窓ガラスを伝う雨を見つめる。


 父はどうしているだろう。


 母は。


 社員たちは。


 神楽坂グループで働いていた数千人は。


 胸の奥がずしりと重くなった。


 目頭が熱くなる。


 今なら泣ける。


 泣こうと思えばいくらでも泣ける。


 だがその時だった。


 スマートフォンが震えた。


 ニュース速報。


『神楽坂グループ倒産 経営陣の責任追及へ』


 続いてSNS通知。


『元お嬢様終了』


『婚約破棄されたらしい』


『ざまあ』


 恵流沙はしばらく画面を見つめた。


 それから突然立ち上がった。


「……よし」


 涙は引っ込んだ。


「泣くのは後でいい」


 財布を取り出す。


「今は現状分析」


 その日の夕方。


 彼女は近所のホームセンターにいた。


 店内には木材の匂いが漂い、軽快なBGMが流れている。


 作業服姿の職人たちに混じりながら、恵流沙は真剣な顔で商品を見ていた。


 店員が不思議そうに声をかける。


「何かお探しですか?」


「ホワイトボードください」


「会議用ですか?」


「人生再建用です」


「……はい?」


 店員が首を傾げる。


 恵流沙は真顔だった。


 その十分後。


 彼女は大型ホワイトボードを抱えて帰宅していた。


 夜。


 コンビニの鮭おにぎりとカップ味噌汁が夕食だった。


 豪華なフレンチも懐石料理もない。


 だが味噌汁の湯気は温かかった。


 昆布だしの香りが胃に染みる。


「意外と悪くないわね」


 一人で呟く。


 食事を終えると、彼女は壁にホワイトボードを立てかけた。


 黒いマーカーを手に取る。


 カチッ。


 キャップを外す音が部屋に響いた。


「さて」


 恵流沙は深呼吸した。


「神楽坂恵流沙、経営会議を始めます」


 もちろん参加者は一人だ。


 しかし彼女は本気だった。


 ホワイトボードに大きく四つの枠を書く。


 Strength。


 Weakness。


 Opportunity。


 Threat。


 大学院で何百回も使ったフレームワーク。


 SWOT分析だった。


「強みは?」


 自分に問いかける。


「MBA取得」


 書く。


「経営知識」


 書く。


「プレゼン能力」


 書く。


「人脈」


 少し迷う。


「……半分消滅」


 小さく笑った。


 次に弱み。


「資金ゼロ」


 書く。


「信用ゼロ」


 書く。


「住居六畳」


 書く。


「冷蔵庫ほぼ空」


 書く。


 だんだん面白くなってきた。


「機会は?」


 彼女はパソコンを開く。


 物流。


 EC。


 人手不足。


 高齢化。


 データを次々読み込む。


 時計を見ると午後十一時を過ぎていた。


 それでも止まらない。


 目が輝いていた。


 まるで大学院時代のようだった。


 真夜中。


 突然スマートフォンが鳴った。


 画面を見る。


 相沢蓮。


 MBA時代の同期だった。


「もしもし」


『ニュース見た』


「見たわ」


『大丈夫か』


「全然」


『嘘つけ』


 恵流沙は少し笑った。


 久しぶりに聞く声だった。


『泣いたか?』


「まだ」


『まだ?』


「忙しいから」


 電話の向こうで蓮が吹き出した。


『何してる』


「市場調査」


『倒産翌日に?』


「翌日だからよ」


 沈黙。


 そして蓮が言う。


『相変わらずだな』


「褒め言葉として受け取るわ」


『そうしろ』


 少しだけ心が軽くなった。


 電話を切った後も、恵流沙は作業を続けた。


 深夜一時。


 深夜二時。


 深夜三時。


 窓の外では雨が止み始めていた。


 ホワイトボードは文字で埋まっている。


 市場分析。


 競合分析。


 顧客分析。


 アイデア。


 事業モデル。


 数字。


 数字。


 数字。


 やがて東の空が白み始めた。


 雀の鳴き声が聞こえる。


 恵流沙はマーカーを置いた。


 肩が痛い。


 目も疲れている。


 だが充実感があった。


 彼女はホワイトボードを見上げた。


 何もなかった壁が、未来への地図で埋め尽くされている。


 昨日まで失ったものばかり数えていた。


 けれど今は違う。


 見えているのは可能性だった。


「なるほど」


 彼女は呟いた。


「市場はまだ空いている」


 窓を開ける。


 雨上がりの空気が流れ込んだ。


 土と緑の匂い。


 新しい朝の匂い。


 遠くで電車が走る音がする。


 東京は今日も動き始める。


 恵流沙は微笑んだ。


「倒産したのは会社だけ」


 ホワイトボードに向かって言う。


「私の人生は、まだ黒字化できる」


 朝日が部屋に差し込んだ。


 六畳一間の戦略会議は、こうして夜明けを迎えたのだった。



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