第一章 8話 処刑台の役なし
アスターには、人が「役割」や「筋書き」に押されている時、黒い文字として見える。
その文字は現実の紙や石に書かれているわけではなく、アスターの目にだけ見える。
未来予知ではない。
真実を見抜く力でもない。
ただ、「このままだとそいつが何をさせられそうか」が分かる。
文字は濃いほど強い。
触れて引き剥がすことができる。
引き剥がした文字は、放置すると戻るか散る。
だからアスターは喰う。
喰うと相手は少し自由になるが、文字の衝動がアスターの中に残る。
大きすぎる文字は、簡単には喰えない。
神官兵に両腕を押さえられ、俺は中央広場へ引き出された。
人混みの熱が、肌にまとわりついてくる。汗、酒、焼けた肉、踏み荒らされた花飾り、石畳にこぼれた果実酒の甘い匂い。その全部が混ざって、広場全体が大きな生き物の腹の中みたいだった。誰もが同じ方を見ている。処刑台だ。白い木材で組まれた台は、さっきまでの裁判台よりも低い。その分、民衆との距離が近かった。人が死ぬ顔を、できるだけ近くで見られるように作られている。
台の中央には、首を置くための台座があった。
まだ血はついていない。
それなのに、そこだけはもう赤く見えた。
「何だ、あいつ」
「役なしだろ?」
「悪女の仲間か?」
ざわめきが広がっていく。
俺は神官兵に押されながら、処刑台の階段へ向かった。腕を掴む手は強い。逃げられないほどではないが、ここで無理に振りほどけば、バルトの言葉に形を与えるだけだ。悪女の協力者が暴れた。異端者が裁きの場を乱した。そう叫ばれれば、民衆は喜んでそちらを見る。
だから俺は抵抗しなかった。
今は、運ばれる。
敵の手で、処刑台の真ん中へ。
階段を上がると、広場の声が一段低くなった。台の上に立つだけで、民衆の顔がよく見える。前列の男が口を開けて俺を見ていた。隣の女は胸元の聖印を握っている。子どもは父親の肩の上から身を乗り出し、何か新しい見世物が始まったと思っている顔をしていた。
その視線の先に、イリスがいた。
黒いドレスは、裁判台で見た時よりも乱れている。手首の鉄枷はそのまま。足首にも鎖。王国兵二人に挟まれ、処刑台の左側に立たされていた。白い髪が西日に透け、頬に落ちる影だけがやけに濃い。
イリスは俺を見た。
驚きはあった。
けれど、それだけだった。
助けを期待した顔ではない。俺が来たことを喜ぶ顔でもない。むしろ、余計なものまで巻き込まれたとでも言いたげに、ほんのわずか眉を寄せた。
それでいい。
救われる側の顔をされるより、よほどやりやすい。
処刑台の右側には、レオナール王子が立っていた。
白銀の礼装。腰の剣。整った顔。裁判台の上で見た時と同じように、彼は王子としてそこにいた。けれど、近くで見ると、目元に疲れが滲んでいる。正しい裁きを下す者の顔というより、正しい裁きを下さなければならない者の顔だった。
バルト司祭が、王子のそばへ歩み寄る。
片目の下の火傷跡が、西日の中で赤黒く沈んでいた。
「殿下。この男です」
バルトの声は大きすぎない。だが、台の上にいる者には十分に届いた。民衆に聞かせるためではなく、まず王子に聞かせるための声だった。
「証人ミラに接触し、南区の施療院で教会の指示を妨害した役なし。名はアスター。さらに、聖女様がお休みになっていた西翼にも、不審な雑役が入り込んだとの報告があります」
レオナールの視線が俺へ向く。
「お前が、アスターか」
王子が俺の名を知っている。
驚きはなかった。
白鳩施療院でバルトに見られ、南区で神官兵に追われ、西翼でも足跡を残した。さっき廊下で聞いた通り、名前まで調べられていたなら、ここで王子の耳に入っていてもおかしくない。
「人違いだと言ったら?」
「この場で冗談を言う余裕があるのか」
「余裕はない。癖だ」
王子の眉がわずかに動いた。
バルトが静かに口を挟む。
「ご覧の通りです、殿下。裁きの場においても、この態度。聖女様と証人に近づいた目的を、問いただす必要があるかと」
「黙れ」
レオナールが短く言った。
バルトではなく、俺でもなく、その場のざわめきへ向けた声だった。王子の一言で、台の上の兵士たちが姿勢を正す。民衆の声も少しだけ引いた。
レオナールは俺を見据える。
「アスター。お前は証人ミラに接触したのか」
「した」
「南区の施療院で、教会の指示を妨害したのか」
「子どもに薬を出させた」
「質問に答えろ」
「答えてる。薬を止められてた子どもに、薬を出させた」
レオナールの視線が、ほんの一瞬だけバルトへ動いた。
バルトは表情を変えない。
「薬を止められていた?」
王子の声が低くなる。
「どういうことだ、バルト司祭」
「配給手続きの確認が入っていたにすぎません」
バルトはすぐに答えた。
「証人の親族に関わる事柄です。裁きの公平性を保つため、一時的に教会側で確認しておりました」
「その子どもは病人だったのか」
「病人であるからこそ、慎重な管理が必要だったのです。薬は命に関わります。誰にでも自由に渡してよいものではありません」
一瞬、言い返すための隙が消えた。
言葉だけ聞けば、間違ったことを言っていないように聞こえる。だが俺は白鳩施療院で見ている。薬師の震える手。トマの赤い顔。世話係の女の青ざめた表情。そして、教会の判断です、と同じ言葉を繰り返したバルトの声。
「慎重な管理ね」
俺は喉の痛みに顔をしかめながら言った。
「便利な言い方だな。死にかけた子どもに薬を出さないことも、そう呼べば清く見える」
民衆がざわつく。
バルトは待っていたように、広場へ視線を向けた。
「民よ、惑わされてはなりません」
声が広場へ広がった。
「この男は証人に近づき、聖女様の周辺にまで入り込んだ。罪人イリスの処刑を止めるため、裁きの場を乱そうとしているのです」
民衆の視線が俺に刺さる。
悪女の仲間。
異端。
裁きを乱す者。
黒い文字が、俺の足元に浮かび始めた。
さっきまで俺を拘束していた神官兵の命令とは違う。これは民衆の視線と、バルトの言葉と、処刑台そのものの空気が混ざって生まれている。まだ細い。だが、増えている。増えれば増えるほど、俺はこの場で「そういう者」として扱われる。
悪女の協力者。
一文が、足元で濃くなった。
俺は舌打ちした。
今度は俺が、悪女の側に立つ人間として並べられようとしている。
「俺はイリスに命じられてない」
「ええ。そうでしょうとも」
バルトは頷いた。
「悪女は、直接命じるとは限りません。人の弱さにつけ込み、怒りや同情を利用し、自分に都合のよい言葉を語らせる。あなたもまた、その一人なのでしょう」
否定しようとすると、こちらの言葉まで怪しく見える。
嫌な形だった。
俺はイリスに命じられていない。けれど、証人には近づいた。聖女のそばにも入り込んだ。施療院で教会の指示を妨害し、神官兵から逃げた。並べ方ひとつで、俺は十分に怪しくなる。
その怪しさを、バルトはイリスへ繋げようとしている。
「殿下」
バルトは王子へ向き直る。
「この者を、このまま放置すれば、処刑の場は乱されます。民の前で、誰に命じられ、何を企んだのかを明らかにすべきです」
「俺を台に上げた時点で、もう十分乱れてるだろ」
俺が言うと、神官兵が腕を強く押さえた。
痛みが肩へ走る。
レオナールは黙っていた。
彼はバルトの言葉を丸ごと信じているわけではない。そう見えた。だが、俺を信じる理由もない。王子の目から見れば、俺は得体の知れない役なしだ。証人に接触し、聖女に近づき、教会の兵と揉めた男。それ以上でも、それ以下でもない。
やがてレオナールは口を開いた。
「アスター。お前はなぜ証人に近づいた」
「言えなくされてたからだ」
「誰に」
「そこの司祭に」
広場が揺れた。
バルトは表情を変えない。
「何を根拠に」
「ミラの弟の薬を止めていた」
「先ほど申し上げた通り、配給手続きの確認です」
「証人が言うことを聞くまで薬を出さない。あんたは白鳩施療院でそうしてた」
「証拠は?」
バルトの声は静かだった。
証拠。
その一言で、台の上の空気が変わる。
俺は一瞬だけ黙った。
トマはいる。薬師もいる。世話係もいる。だが、今この場にはいない。ミラはいるが、まだ証言台に立っていない。俺がここで何を言っても、バルトは「異端者の妄言」と言える。
言葉だけでは足りない。
そんなことは、分かっていたはずだった。
それでも、一瞬詰まった。
その沈黙に、バルトの声が滑り込んでくる。
「殿下。お分かりでしょう。この男は、証人の弟という弱い部分を持ち出し、教会への疑いを植えつけようとしているのです。罪人イリスの処刑が近づいた今、都合よくこのような話を持ち出す。あまりにも分かりやすい」
民衆の中から声が上がった。
「悪女の手先だ!」
「聖女様にまで近づいたのか!」
「異端者を下ろせ!」
「いや、聞けよ!」
誰かが叫ぶ。
すぐに別の声にかき消された。
広場は割れ始めている。
まだ小さい。
だが、完全に一つではない。
俺はその音を聞きながら、処刑台の端に視線を向けた。
ミラはどこだ。
いた。
台の下、証人控えのそば。修道女に支えられながら、青い顔で立っている。神官兵が横にいる。ミラは俺を見ていた。唇が震えている。足元に黒い文が見えた。
黙れ。
証言を守れ。
弟を守れ。
まだ残っている。
けれど、さっきより薄い。
言えるかどうかは分からない。
ただ、声を出す準備だけはできている。
俺は次に、祈祷席の方を見た。
フィリアはまだいない。
いや、まだ来ていない方がいい。
このまま出てくれば、バルトはすぐに「聖女様を利用した」と言う。フィリアが声を出すなら、場が割れた後だ。全部が一方向へ流れきる前に、けれど早すぎないところで。
俺は息を吐いた。
喉が痛い。
何度も喰ったせいで、声が掠れている。だが、この場で黙れば、バルトの言葉だけが残る。
「レオナール」
王子の名を呼ぶと、神官兵の手がさらに強くなった。
「殿下を呼び捨てにするな!」
「いい」
レオナールが止めた。
「言わせろ」
俺は王子を見た。
「俺は真実を見抜けるわけじゃない。イリスがどんな人間かも知らない。善人かどうかも知らない。たぶん、性格は悪い」
イリスの目が細くなった。
「今それを言いますの?」
小さな声だったが、聞こえた。
俺は無視した。
「でも、このままだと、あいつは悪女として殺される」
「どういう意味だ」
「俺には、そう見える」
広場が騒ぐ。
俺は続けた。
「誰が正しいかなんて知らない。あんたが何を信じてるのかも知らない。ただ、証人の口は塞がれてた。聖女の言葉も曲げられてた。俺が見たのは、それだけだ」
「見た、だと」
バルトが静かに言った。
「何を見たというのです」
俺は答えなかった。
答えられない。
黒い文字のことをここで言えば、それこそ異端者の妄言として処理される。説明すればするほど、こちらがおかしく見える。それくらいは分かる。
だから、具体的なことだけを言う。
「ミラに聞け」
俺は台の下を見た。
「本人に聞けばいい」
バルトの顔が、ほんのわずかに硬くなった。
レオナールが視線を動かす。
「証人ミラを台上へ」
バルトが口を開きかけた。
「殿下、証人は心身ともに」
「台上へ」
二度目の声は、命令だった。
神官兵が動く。ミラは修道女に支えられながら、階段へ向かった。一段ずつ、足を運ぶたびに鎖でも引きずっているような顔をしている。実際には、彼女の足に鎖はない。けれど、俺には見える。足元に絡む黒い文が、階段を上がるたびにミラを下へ引き戻そうとしていた。
黙れ。
証言を守れ。
弟を守れ。
裏切りを認めるな。
俺は歯を食いしばった。
今はまだ喰うな。
ここで俺が動けば、バルトに止められる。ミラが自分の足で台に立つ必要がある。声が震えていても、途中で止まっても、まずは彼女自身がそこに立たなければ意味がない。
ミラが台上に上がる。
イリスの近くに立たされた瞬間、彼女は顔を歪めた。
イリスは何も言わなかった。
責めない。
許さない。
慰めない。
ただ、ミラを見た。
その沈黙の方が、たぶんミラにはきつかった。
「証人ミラ」
レオナールが言った。
「この男の言葉は事実か」
ミラの喉が動く。
黒い文が喉元に絡む。
言うな。
俺は動けない。
神官兵の手が両腕に食い込んでいる。バルトの視線もこちらへ向いている。ここで無理に手を伸ばせば、完全に止められる。
ミラ。
三つだけだ。
ミラは両手を握った。
「私は……」
声が消えかける。
広場の誰かが笑った。
「聞こえないぞ!」
別の誰かが黙れと怒鳴る。
ミラは目を閉じた。
その頬を、涙が一筋落ちた。
そして、もう一度口を開く。
「私は、イリス様から……毒を入れろとは、命じられていません」
広場が、一瞬止まった。
止まったように感じただけかもしれない。
だが確かに、空気が切れた。
バルトが動く。
「証人は混乱しています」
「黙れ」
レオナールの声が飛んだ。
今度は、はっきりバルトへ向けていた。
バルトの口が閉じる。
ミラは震えながら続ける。
「弟の薬を、止めると……言われました」
そこで声が途切れた。
広場がざわめく。
レオナールの表情が変わった。
「誰に言われた」
ミラは答えない。
答えられない、というより、答えた瞬間に何かが終わると分かっている顔だった。視線が足元へ落ちる。両手は祈るように握られているのに、祈りには見えなかった。
バルトが静かに口を開く。
「殿下。証人は混乱しています。これ以上問い詰めれば、かえって証言の正確さが損なわれます」
「黙れ」
レオナールはバルトを見ずに言った。
それから、もう一度ミラへ向き直る。
「名を知らないなら、特徴だけでいい。誰に言われた」
ミラの唇が震えた。
「……片目の下に」
そこまで言って、息が詰まる。
広場の音が遠のいたように感じた。
「火傷の跡が、ある……司祭様に」
視線が、バルトへ集まった。
さっきまで処刑を待つだけだった民衆も、王国兵も、修道士たちも、ほんの一瞬だけ同じ場所を見た。
バルトの顔から、笑みが消えた。
ほんの一瞬だ。
だが、消えた。
レオナールの声が低くなる。
「続けろ」
ミラは泣きながら、最後の一つを押し出した。
「杯の位置は、私が戻った時には、変わっていました」
その言葉が落ちた瞬間、処刑台へ集まっていた黒い線の一部が裂けた。
実際に音がしたわけではない。だが俺には、張り詰めた糸が切れるような感覚があった。
悪女は死ぬ。
その大きな流れが、ほんの少しだけ歪む。
「偽りです」
バルトが言った。
怒鳴りはしなかった。
けれど、声の端が硬い。
「証人は惑わされています。この男に、あるいは罪人イリスに、弱みを握られ、今さら証言を翻そうとしているのです」
「バルト司祭」
レオナールの声は低かった。
「証人の弟の薬について、後で詳しく聞くと言ったはずだ」
「殿下、今は処刑の場です。裁きを乱してはなりません」
「乱したのは誰だ」
その一言で、バルトが黙る。
広場がざわめく。
王子が教会の司祭に疑いを向けた。
それだけで、民衆の空気が変わる。完全に味方になったわけではない。だが、一方向ではなくなった。
その時だった。
広場の奥、祈祷席へ続く道が開いた。
白い修道服の人影が、近衛兵に付き添われて歩いてくる。
フィリアだった。
顔色は悪い。
足取りも頼りない。
それでも彼女は、前を見ていた。
彼女の喉元には、まだ黒い文が絡んでいる。
泣け。
許せ。
祈れ。
聖女は裁きを乱すな。
だが、その中の一つだけは薄い。
何も見なかったことにしろ。
フィリアは処刑台の前で足を止めた。
民衆が一斉に静まっていく。
聖女が来た。
その事実だけで、広場の空気がまた別の形へ整えられようとする。
バルトがすぐに膝をついた。
「聖女様。どうか、この乱れた場へ祈りを」
フィリアはバルトを見た。
それから、イリスを見た。
ミラを見た。
最後に、俺を見た。
俺は何も言わなかった。
ここから先は、俺の声では届かない。
フィリアは胸元の聖印を握りしめた。指先は震えている。今にも祈りの言葉がこぼれそうだった。たぶん、ずっとそうしてきたのだろう。怖い時も、苦しい時も、言葉を飲み込む代わりに祈ってきた。
けれど、彼女は首を横に振った。
「……祈りでは、ありません」
広場が静まる。
フィリアの声は震えていた。けれど、消えなかった。
「私は、祈るために来たのではありません」
バルトの表情が、わずかに強張る。
フィリアは一度唇を噛み、それからイリスを見た。
「私は、イリス様が毒を命じたところを、見ていません」
その瞬間、イリスの目がかすかに揺れた。
安堵ではない。
怒りでもない。
処刑台に立たされてから、イリスはずっと「悪女」として見られていた。民衆も、兵士も、教会も、彼女をそう扱っていた。けれど今、フィリアの声だけは違った。
毒を盛った悪女ではなく、かつて自分に礼法を教えた公爵令嬢へ向けられた声。
そんなふうに聞こえた。
イリスはゆっくりと顔を上げた。
鉄枷の鎖が、足元でかすかに鳴った。




