第一章 9話 イリス・ヴァルクラインⅠ
ここから数話は悪女の過去を
イリス・ヴァルクラインが最初に覚えたのは、泣き方ではなく、泣かないための姿勢だった。
イリスが五歳になった春。
王都の北にあるヴァルクライン公爵邸では、庭の白薔薇が咲き始めていた。満開にはまだ少し早い。けれど、客を迎えるには十分だった。庭師たちは夜明け前から枝を整え、使用人たちは銀の盆を磨き、侍女たちは花瓶の水を何度も替えていた。大理石の柱は水で拭き上げられ、廊下の絨毯には皺ひとつなく、玄関ホールの花瓶には白薔薇と薄紫の小花が左右対称に生けられている。
屋敷全体が、誰かに見られるための顔を作っていた。
その日、屋敷には王都の貴族たちが集まることになっていた。
父は「春の挨拶にすぎない」と言った。
母は「挨拶ほど人を見る場はありません」と言った。
イリスには、どちらの意味もまだよく分からなかった。ただ、朝から着せられた淡い紫のドレスが重く、首元の飾りが少し苦しく、硬い靴の中で足が窮屈なことだけは分かっていた。
少女用に仕立てられたはずのドレスなのに、腰のあたりはきつく、袖には細かな刺繍が重ねられていて、腕を動かすたびに布が肌へ引っかかった。鏡の前に座らされている間も、イリスは何度か肩を回したくなった。けれど、背後に立つ侍女が髪を梳いている。隣には母がいる。動いてはいけない気がした。
「背を丸めてはなりません」
母のセレナ・ヴァルクラインは、鏡越しに言った。
侍女の手が、そこでぴたりと止まる。
イリスは鏡の中の自分を見た。白に近い銀髪。薄い紫の瞳。白い肌。淡い紫のドレス。首元には小さな真珠。誰かが見れば、きっと綺麗だと言うのだろう。
けれど、イリスには、鏡の中の自分が少し怖かった。
まばたきをする人形のようだった。
「苦しいです」
思わず言うと、母は叱らなかった。
ただ、イリスの背中に手を添えた。母の手は冷たくも熱くもない。いつもと同じ、整った温度だった。
「苦しくても、背は伸ばせます」
「どうしてですか」
「あなたがヴァルクラインの娘だからです」
母の声は冷たくなかった。むしろ、静かで、やわらかい。けれど、その言葉には逃げ道がなかった。
ヴァルクラインの娘。
イリスはその言葉を、名前より先に覚えた気がする。
「イリスでは、だめなのですか」
鏡の中で、母の目がわずかに細くなった。
怒ったのではない。困ったのでもない。イリスの言葉を、一度胸の内で受け止めてから、どこへ置くべきか考えているような顔だった。
「イリスであることと、ヴァルクラインの娘であることは、分けられません」
「どうして」
「あなたの一歩は、あなただけのものではないからです」
イリスには、やはり分からなかった。
自分の足で歩くのに、自分だけのものではない。自分の声で話すのに、自分だけのものではない。なら、自分のものとは何なのだろう。
聞きたかった。
けれど、母はもう侍女へ目配せをしていた。侍女は再び櫛を動かし、イリスの髪を綺麗に編み込んでいく。細い髪飾りが差されるたび、頭が少しだけ重くなった。
母の言葉の意味を、五歳のイリスは理解していない。
けれど、理解できない言葉ほど、身体のどこかに残ることがある。
その日、イリスの背中には、母の手の感触が残った。苦しくても伸ばされる背筋。動きたくても動かしてはいけない肩。鏡の中に座る、綺麗に整えられた自分。
それらはまだ考えではなかった。
ただ、姿勢だった。
庭に出ると、陽射しは思ったより強かった。
白薔薇の間を、色とりどりの衣装をまとった大人たちが歩いている。笑い声、扇を閉じる音、薄い硝子の杯が触れ合う音。香水の匂いと花の匂いが混ざり、そこへ焼き菓子の甘い香りがかすかに流れてきた。すべてが整っていて、だからこそ少し息苦しかった。
父のオルド・ヴァルクラインは、来客の中心にいた。
大きな声で笑う人ではない。相手が何を言っても、わずかに頷き、必要な分だけ答える。父が立つだけで、その周囲の空気は自然と静かになる。誰かが冗談を言えば、父は薄く微笑む。誰かが政治の話を持ち出せば、父は言葉を選ぶ。誰かが探るような目を向ければ、父はそれを最初から知っていたような顔で受け流す。
イリスは、父を立派だと思っていた。
同時に、少し怖いとも思っていた。
父のそばに立つ大人たちは、皆、笑っている。けれど、誰も本当に笑っているようには見えなかった。言葉の端に別の意味があり、微笑みの奥に別の考えがある。イリスにはそれを読む力はなかった。けれど、笑っているのに冷たいものが混じる瞬間だけは、なぜか分かった。
理由は分からない。
ただ、ここでは間違えてはいけないのだと感じた。
母の隣で、イリスは教えられた通りに挨拶をした。
「イリス・ヴァルクラインでございます。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
何度も練習した言葉だった。
発音も、礼の角度も、視線を上げるタイミングも間違えなかったはずだ。それでも、挨拶を終えるたびに大人たちは微笑んだ。
「まあ、お人形のようですこと」
「さすがヴァルクラインの姫君だ」
「もう立派な公爵令嬢でいらっしゃる」
褒められているのだと分かっていた。
けれど、イリスは嬉しくなかった。
お人形。
姫君。
公爵令嬢。
誰も、ただの「イリス」とは呼ばなかった。
それでも、笑わなければならない。母に教えられた通り、口角を少しだけ上げる。大きく笑ってはいけない。子どもらしくはしゃいでもいけない。静かに、きちんと、そこにいる。
そのうち、頬のあたりが少し痛くなってきた。
ずっと同じ顔をしていると、顔も疲れるのだとイリスは初めて知った。
庭の奥で、同じ年頃の子どもたちが集まっていた。
下級貴族の子、分家の子、招かれた商家の娘。彼らは大人たちの目を盗むように、小さな菓子をつまみ、噴水のそばで囁き合っていた。レースの手袋を外して木苺の菓子を食べている子がいた。扇で顔を隠しながら笑っている子がいた。靴を汚さないように、けれど少しだけ庭の端へ踏み出している子もいた。
イリスはそちらを見ないようにした。
見れば行きたくなる。
行きたい顔をすれば、誰かがそれに気づく。
気づかれれば、また何かの名前がつけられる。
子どもらしい。
落ち着きがない。
寂しそう。
退屈そう。
公爵令嬢らしくない。
まだ言われていない言葉まで、先に聞こえる気がした。
「イリス様」
ふいに声をかけられた。
振り向くと、淡い金髪の少年が立っていた。名前は知らない。たぶん、父の客の子どもの一人だ。年はイリスより少し上。綺麗な上着を着ていて、靴は庭を歩いても汚れないように、つま先だけ少し浮かせるような歩き方をしていた。
笑っている。
けれど、目はあまり笑っていなかった。
「一緒に遊びませんか」
遊ぶ。
その言葉に、イリスの胸が少しだけ跳ねた。
ほんの少しだけ、噴水のそばへ行ってみたかった。菓子を食べながら、他の子どもたちが何を話しているのか聞いてみたかった。ドレスの裾が汚れないように気をつければ、少しくらいなら大丈夫かもしれない。母も今は遠くで貴婦人と話している。こちらを見てはいない。
けれど、見られていないことと、見られていないと思ってよいことは違う。
イリスは、さっき母に言われた言葉を思い出した。
あなたの一歩は、あなただけのものではない。
「私は、こちらにおります」
イリスはそう答えた。
少年は首を傾げる。
「遊べないんですか」
「遊べないのではありません」
「では、遊びましょう」
「今は、その時ではありません」
母の言い方を真似た。
口にした瞬間、自分でも少し嫌な言い方だと思った。けれど、他にどう言えばいいのか分からなかった。
少年は少しだけ唇を尖らせた。
「つまらない方ですね」
そう言って、彼は噴水の方へ戻っていった。
胸の奥が、ちくりとした。
つまらない。
たったそれだけの言葉なのに、なぜかずっと残った。
イリスは、誰にも見られないように指先を握った。遊びたくなかったわけではない。笑いたくなかったわけでもない。ただ、どうすればいいのか分からなかった。
分からないまま正しく立とうとすると、人はつまらなく見えるのかもしれない。
そう思うと、少しだけ泣きたくなった。
もちろん、泣かなかった。
その時、近くで小さな悲鳴が上がった。
振り向くと、先ほどの少年が噴水のそばで身を引いたところだった。倒れたのは少年ではない。彼の肘がぶつかり、盆を運んでいた使用人の少女がよろめいたのだ。
銀の盆が傾く。
硝子の杯が滑る。
少女が慌てて手を伸ばす。
けれど、間に合わない。
薄い硝子の杯が石畳に落ちた。
澄んだ音がした。
割れた。
その音は、庭の笑い声よりずっと小さかったはずなのに、イリスには妙にはっきり聞こえた。
少女は真っ青な顔で膝をついた。年はイリスよりかなり上に見えたが、それでもまだ大人ではない。使用人の服は少し大きく、袖口から細い手首が覗いていた。さっきから何度も盆を運んでいた子だ。大人の間を抜けるたび、邪魔にならないよう身体を細くして歩いていた。
「申し訳ございません……!」
少女の声が震える。
少年はすぐに言った。
「僕ではありません。彼女が勝手に転んだんです」
嘘だった。
イリスは見ていた。
少年の肘が盆に当たった。少女は避けようとしたが、間に合わなかった。
少女は割れた杯へ手を伸ばす。触れた瞬間、指先を切った。細い赤が、白い指に滲む。
周囲の大人たちが集まってくる。
庭の笑い声が止まり、視線が一か所へ集まった。白薔薇の匂いも、菓子の甘さも、急に遠くなる。割れた硝子の破片だけが、陽を受けて小さく光っていた。
「申し訳ございません……申し訳ございません……」
少女は繰り返す。
誰に向かって謝っているのか、イリスには分からなかった。
杯にか。
少年にか。
この場にいる大人たちにか。
それとも、壊れた空気そのものにか。
「どうしたの」
少年の母らしき女が近づいてきた。柔らかい布を重ねた衣装を着て、手には白い羽根の扇を持っている。歩くたびに香水の匂いが揺れた。
少年はすぐに母のそばへ寄った。
「何もしていません。彼女が勝手に」
「そう」
女は少女を見下ろした。
責める声ではなかった。むしろ、やわらかい声だった。けれど、そのやわらかさが、少女の背をさらに小さくした。
「気をつけなければね」
少女は深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
イリスは反射的に一歩踏み出した。
「違います」
声が出た。
自分でも驚いた。
大人たちの視線が、今度はイリスへ向く。
少年もイリスを見た。さっきまでの笑顔は消えている。
「何が違うのですか、イリス様」
少年の母が、やわらかい声で聞いた。
イリスは少女を見た。少女は石畳に膝をついたまま、顔を上げられずにいる。指先から血が落ちていた。誰も、まずその手を包もうとはしていない。
「その子は、勝手に転んだのではありません」
庭が静まり返る。
イリスは喉が乾くのを感じた。
「その方の肘が、盆に当たりました」
少年の顔が赤くなる。
「嘘だ」
「嘘ではありません」
「見間違いです。イリス様は遠くにいた」
「見ていました」
イリスはそう言った。
声が少し震えた。
震えたことが、自分でも嫌だった。震えれば、弱く聞こえる。弱く聞こえれば、間違っているように見える。そんな気がして、イリスは背を伸ばした。
少年の母は、扇で口元を隠した。
「子どものことですわ。誰が悪いという話でもありませんでしょう」
その言い方に、イリスは困った。
誰が悪いという話ではない。
たしかに、そうかもしれない。
少年がわざとやったのか、たまたま当たったのか、イリスには分からない。けれど、少女だけが石畳に膝をついている。少年は立っている。大人たちは笑っている。割れた硝子を片づけるのも、手を切ったまま謝っているのも、少女だけだった。
それは違うと思った。
何がどう違うのか、うまく言えない。
ただ、違う。
「では、その子に謝らせる必要はありません」
イリスは言った。
その瞬間、空気が固まった。
自分が何かを間違えたのだと、すぐに分かった。
けれど、どこを間違えたのかは分からなかった。
少年の母が、わずかに目を細める。
「公爵令嬢は、使用人にもお優しいのですね」
褒め言葉の形をしていた。
でも、違う。
イリスにもそれだけは分かった。
「優しいわけではありません。見たことを言っただけです」
「まあ」
女は扇で口元を隠したまま、笑った。
「さすが、ヴァルクライン家のお嬢様。正しさにも手厳しい」
周囲から小さな笑いが起こる。
手厳しい。
その言葉も、胸の奥に残った。
イリスは少女を助けたかったわけではない。ただ、見たことと違うことが、そのまま進んでいくのが嫌だった。なのに、周囲は別のものを見ている。
優しい。
手厳しい。
公爵令嬢らしい。
子どもなのに立派。
子どもなのに怖い。
誰も、割れた杯の前に膝をついている少女の手を見ていなかった。
「イリス」
母の声がした。
それだけで、イリスは口を閉じた。
母はゆっくりと近づいてきた。走らない。慌てない。表情を崩さない。場の中心に自然と立ち、割れた杯と少女の手と少年の顔と、その母の扇を順に見た。
母は誰かを責めなかった。
「手を」
母が言うと、近くの侍女がすぐに少女の手を取った。
「破片は触らせないように。水で洗ってから、薬を」
「はい、奥様」
「杯の破片は全て拾いなさい。小さなものも残さずに。子どもが踏みます」
「はい」
母の声は静かだった。
静かなのに、誰も逆らわなかった。
少年の母が笑みを浮かべる。
「お騒がせしてしまいましたわ」
「こちらこそ、行き届かず失礼いたしました」
母はそう返した。
その言葉に、イリスは母を見た。
行き届かず。
母が謝るのか。
どうして。
少年の肘が当たったのに。
少女の手が切れたのに。
自分は見たことを言ったのに。
母はイリスを見なかった。ただ、場を元の形へ戻すように、使用人へ指示を出し、客へ微笑み、割れた音がなかったことになるように空気を整えた。
大人たちはまた笑い始めた。
場は戻った。
何事もなかったように。
けれど、イリスの中では戻らなかった。
その後、庭での挨拶は続いた。イリスは母の隣に立ち、求められるたびに礼をした。誰かが「先ほどはご立派でした」と言った。別の誰かは「幼いのに、もう人を裁く目をお持ちだ」と言った。
人を裁く目。
そう言われた時、イリスは初めて、自分の目を隠したいと思った。
けれど、目を伏せれば「怯えている」と見られるかもしれない。怒れば「高慢」と見られるかもしれない。笑えば「余裕がある」と見られるかもしれない。
何をしても、誰かが別の意味をつける。
イリスは、何もしていない顔をした。
それが一番、疲れた。
夕方になって客が帰り、庭に残った花びらと足跡が片づけられる頃、母はイリスを自室へ連れていった。
廊下を歩く間、母は何も言わなかった。イリスも何も言わなかった。窓の外では使用人たちが庭の片づけをしている。割れた杯の破片はもう残っていない。噴水のそばも、白薔薇の下も、昼間の出来事などなかったように整えられていた。
部屋に入ると、イリスはようやく息を吐いた。
その途端、かかとの少し上がずきりと痛んだ。
靴を脱ぐと、白い長靴下の後ろ側に、うっすら血が滲んでいた。朝から硬い靴で立ち続けていたせいで、靴の縁が足首の後ろを擦っていたのだ。庭にいる間は気づかなかった痛みが、静かな部屋に戻った途端、遅れて追いついてきた。
涙が出そうになった。
イリスは唇を噛んだ。
母は侍女を下がらせ、自分で薬箱を開けた。傷に薬を塗る手つきは丁寧だった。冷たい薬が擦れた皮膚に触れ、イリスは思わず肩を震わせる。
「痛いですか」
母が聞いた。
イリスは頷きそうになった。
けれど、昼間の庭を思い出した。
大人たちの視線。扇の向こうの笑み。手厳しい、という言葉。人を裁く目、という言葉。少女の血よりも、自分の言葉の方が大きく扱われてしまったこと。
「痛くありません」
母は少しだけ目を伏せた。
「痛い時は、痛いと言って構いません」
「でも」
イリスは母を見る。
「背を丸めてはならないのでしょう」
母の手が止まった。
部屋の外から、遠くで使用人たちが動く音が聞こえる。夕食の準備だろう。屋敷はもういつもの静けさに戻っていた。
「イリス」
母は薬の蓋を閉めた。
「背を伸ばすことと、痛みを感じないふりをすることは、同じではありません」
「分かりません」
「今は、それでいいのです」
母は長靴下を少し下ろし、傷口に布を当てながら言った。
「ただ、覚えておきなさい。あなたが人前で見せたものは、あなた一人のものではなくなります」
イリスは黙った。
「涙も、怒りも、優しさも。見せた瞬間、誰かが名前をつけます。あれは弱さだ。あれは高慢だ。あれは慈悲だ。あれは支配だ、と」
母の声は静かだった。
「だから、見せるなら、自分で選びなさい」
「選べなかったら?」
「その時は、選ばされます」
イリスは足首に当てられた白い布を見た。
布はきれいだった。けれど、その下には傷がある。布を当てたからといって、痛みが消えるわけではない。けれど、布を巻けば、外からは見えなくなる。
見えなくなれば、なかったことになるのだろうか。
そんなはずはない。
痛いものは、痛い。
けれど、見えなければ、誰もそれに気づかない。
「今日、私は間違えましたか」
イリスは聞いた。
母はすぐには答えなかった。
「あなたは、見たことを言いました」
「それは、間違いですか」
「間違いではありません」
母はそう言った。
イリスは少しだけ息を吸った。
しかし、母の言葉は続いた。
「けれど、正しいことを言えば、正しく受け取られるとは限りません」
イリスは顔を上げた。
その言葉の意味が、全部分かったわけではなかった。
ただ、胸の奥が冷えた。
「では、どうすればいいのですか」
「言葉を選ぶのです」
「選んでも、違う意味にされたら?」
母はイリスの髪を撫でた。
「その時のために、背を伸ばしておくのです」
答えになっているようで、なっていない。
けれど、母はそれ以上言わなかった。
母は優しい人だったのかもしれない。厳しい人だったのかもしれない。イリスにはまだ分からなかった。ただ、母の言葉はいつも、抱きしめる代わりに背中を押す。泣いていいと言いながら、泣いても世界は変わらないことを教える。
それが優しさなのか、冷たさなのか。
五歳のイリスには、まだ分からなかった。
夜になり、イリスは寝台に入った。
かかとの少し上は、まだじんじんと痛んでいた。昼間の少女の手は、ちゃんと手当てされたのだろうか。少年は謝ったのだろうか。大人たちは、あの出来事をどう話しているのだろうか。
公爵令嬢は優しい。
公爵令嬢は手厳しい。
公爵令嬢は人を裁く目をしている。
どれも、イリスが自分で言ったことではない。
けれど、昼間の庭では、それらがイリスの周りに少しずつ積もっていった。
寝返りを打つと、足が少し痛んだ。
涙が滲む。
イリスは枕に顔を埋めかけて、やめた。
背を丸めてはならない。
母の言葉が、耳の奥に残っていた。
寝台の上で背を伸ばしても、誰も見ていない。そんなことに意味があるのかは分からなかった。それでもイリスは、仰向けになり、涙がこぼれないように瞬きをした。
泣かなかった。
泣けなかったのではない。
泣かない方を選んだ。
そう思うことにした。
翌朝、昨日の使用人の少女が、イリスの部屋へ礼を言いに来た。
手には包帯が巻かれていた。顔色は悪いが、昨日よりは落ち着いている。侍女に連れられて部屋へ入ってきた少女は、扉の近くで足を止め、深く頭を下げた。
「イリス様。昨日は、ありがとうございました」
イリスは何と答えればいいのか分からなかった。
ありがとうと言われることではない。見たことを言っただけだ。そう言おうとして、昨日の庭を思い出す。
優しい。
手厳しい。
人を裁く目。
言葉は、出した瞬間に誰かのものになる。
イリスは少し迷ってから、言った。
「名前は」
少女は驚いたように顔を上げた。
「え?」
「あなたの名前です」
「あ……リリア、です」
「リリア」
イリスはその名を繰り返した。
昨日、庭で膝をついていた時には、誰もその子の名を呼ばなかった。使用人。あの子。そこの者。そんな呼び方ばかりだった気がする。
リリア。
名前を口にすると、少女は少しだけ目を丸くした。
「次からは、盆を持つ時に人の肘を見なさい」
リリアはさらに目を丸くする。
「え……」
「足元だけ見ているから、避けられないのです。人の近くを通る時は、手と肘を見ること。特に、よく喋る人間の肘は動きます」
リリアはぽかんとしていた。
礼を言われたのに、説教を返した。
自分でも、ひどい言い方だと思った。
本当は、手は痛むかと聞きたかった。
怖かったかと聞きたかった。
昨日はよく耐えたと言いたかった。
けれど、そのどれも、イリスが言えば別のものになる気がした。優しいと言われるかもしれない。使用人に恩を売ったと言われるかもしれない。公爵令嬢の気まぐれだと笑われるかもしれない。
だから、役に立つことだけを言った。
リリアは少し遅れて、小さく頷いた。
「はい。気をつけます」
「そうしなさい」
イリスはそれだけ言って、窓の方を向いた。
リリアがもう一度頭を下げる気配がした。
「ありがとうございます、イリス様」
扉が閉まる。
部屋が静かになる。
イリスは自分の手を見た。
小さな手だった。
昨日、あの子を助けようとした手。
けれど、今日の言葉はたぶん優しくなかった。
それでも、もう一度同じことが起きたら、リリアは少しだけ避けられるかもしれない。盆を落とさずに済むかもしれない。手を切らずに済むかもしれない。誰かに謝らされずに済むかもしれない。
なら、それでいい。
優しいと言われるより、役に立つ方がましだ。
イリスはそう思った。
それが、寂しい考えなのだとは、まだ知らなかった。
ただ、その日からイリスは、人前で何かを言う前に、必ず一度だけ息を止めるようになった。
この言葉は、どう読まれるのか。
この表情は、何と呼ばれるのか。
この沈黙は、誰の都合に使われるのか。
五歳の少女が考えるには、重すぎることだった。
それでもイリスは考えた。
考えて、選んだ。
泣かないことを。
優しく見せないことを。
背を伸ばすことを。
たとえその姿勢まで、いつか誰かに別の名前で呼ばれるとしても。




