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勇者でも魔王でもない俺は、物語に殺される君を救う  作者: ハリオアマツバメは泣いた
第一章 役なしは悪女の脚本を喰う
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第一章 10話 イリス・ヴァルクラインⅡ

イリス・ヴァルクラインが次に覚えたのは、優しさは、そのまま相手に届くとは限らないということだった。


八歳になった年、イリスは北廊下の小書斎で、多くの時間を過ごすようになっていた。


小書斎には、いつも古い紙の匂いがした。春が過ぎ、白薔薇の花びらが庭の隅に落ち始めても、その部屋だけは少し涼しい。厚い本の背表紙は陽に焼け、窓際の机には細かな傷がいくつも残っている。羽根ペンの先、乾いたインクの瓶、古びた地図、銀の文鎮。礼法の稽古場よりも静かで、誰かに微笑み方を直されることもなかった。


イリスは、その部屋が嫌いではなかった。


立ち方、笑い方、扇の開き方、茶器を持つ指の角度。そういうものを一つずつ直される時間より、文字を書き写す時間の方が、まだ楽だった。紙に向かっている間だけは、誰かの視線や笑い方を気にしなくて済む。


もっとも、そこでも背を丸めることは許されない。


「字は、姿勢に似ます」


グラナートは、よくそう言った。


グラナートは、古い本棚のそばに立つと、棚の影と見分けがつきにくい教師だった。白く薄い髪を後ろへ撫でつけ、黒に近い深緑の上着をいつもきちんと着ている。袖口は少し擦り切れていたが、みすぼらしくは見えない。長く使われた本の角が丸くなるように、その人もまた、余計なものを時間の中で削ってきたように見えた。


灰色の目は、たいてい半分ほど伏せられている。眠たげにも見える。けれど、イリスが文字を書き損じた時や、答える前に息を止めた時だけ、その目がわずかに上がった。


見られている。


そう気づくのは、いつも少し遅れてからだった。


グラナートは急がない。イリスが問いを投げても、すぐには答えない。まず羽根ペンの先を整え、紙の端を揃え、机に残ったインクの染みを指先で避けてから、ようやく言葉を返す。その沈黙の長さが、最初の頃のイリスには苦手だった。答えを待つ間、自分の質問が間違っていたのではないかと考えてしまうからだ。


けれど、グラナートは笑わない。小馬鹿にもしない。ただ、イリスの問いがどこから出てきたのかを確かめるように、しばらく黙るだけだった。


その沈黙が怖くなくなるまでに、少し時間がかかった。


その日、イリスは古い年代記を書き写していた。


王国の北境で起きた小さな争いについての記録だった。村の名、領主の名、派遣された騎士の数、麦倉が焼けた日付。八歳のイリスにとって、そこに書かれた出来事は遠い。けれど、書き写すこと自体は嫌いではなかった。紙の上の文字を一つずつ写している間だけは、背筋や笑い方を考えずに済んだ。


「ここを読んでください」


グラナートが、節くれだった指で一文を示した。


イリスは背を伸ばし、声に出す。


「村人たちは領主に背き、麦倉に火を放った」


「では、こちらを」


グラナートは、机の端に置いていた薄い紙束から、別の一枚を抜き出した。


紙の色は少し違っていた。先ほどの記録よりも黄ばみ、端が黒ずんでいる。右下の文字は水を吸ったように滲み、行の途中からいくつかの単語が読めなくなっていた。


イリスは、示された行を読んだ。


「領主の兵が麦倉を押さえたため、村人たちは火を放った」


読み終えてから、イリスは眉を寄せた。


同じ麦倉の話だ。同じ村の名前もある。火が出た日付も同じ。


なのに、最初の紙では村人が悪いように読めた。次の紙では、領主の兵が先に何かをしたように読める。


「違います」


「何がですか」


「悪い人が変わっています」


グラナートは、ほんの少しだけ目を細めた。褒めたのか、ただ聞いているだけなのか、イリスには分からない。


「どちらが正しいのですか」


「両方とも、嘘だけで書かれたものではありません」


「でも、同じことには聞こえません」


「ええ。同じことには聞こえませんね」


グラナートは、二枚の紙を横に並べた。


それから、片方の余白を指で叩く。


「こちらには、麦倉に火が放たれたことが書かれています。けれど、その前に領主の兵が何をしたかは書かれていない」


次に、もう一枚の滲んだ行を示した。


「こちらには、兵が麦倉を押さえたことが書かれています。けれど、村人たちがその前に何を訴えていたかは、途中から読めなくなっている」


イリスは紙を見つめた。


滲んだ文字の下に、消えかけた名前があった。たぶん、人の名前だ。けれど、インクが広がっていて読めない。名前の上には、何かを書き直した跡もある。細い線で一度消され、その横に別の言葉が書き足されていた。


「消えています」


「はい」


「この人は、何をした人ですか」


「分かりません」


「先生にも?」


「私にも」


グラナートは静かに言った。


「残らなかった名前は、あとから読めません」


その言葉に、イリスは黙った。


紙の上には、残った名前と、消えた名前がある。書かれたことと、書かれなかったことがある。汚れたせいで読めない行もあれば、誰かが意図して削ったように見える行もある。


同じ出来事でも、何が残され、何が書かれず、何が滲んだのかで、読んだ人が思い浮かべる景色は変わる。


「ずるいです」


イリスは言った。


「そうですね」


グラナートは否定しなかった。


「ですが、ずるいからといって、読まなくてよいことにはなりません」


「どうしてですか」


「読まなければ、最初に声の大きかった紙だけが残ります」


イリスは、二枚の記録を見比べた。


どちらの紙にも、全部の答えは書かれていない。けれど、片方だけを読んだ時より、何かが隠れていることは分かった。


グラナートは、右側の記録を少しだけイリスの方へ寄せた。


「イリス様。正しく書かれた言葉でも、正しく読まれるとは限りません。けれど、だからといって言葉を捨てれば、今度は誰かが代わりに書きます」


「では、どうすればいいのですか」


イリスは聞いた。


母にも似たようなことを聞いた覚えがある。


どうすればいいのか。


その答えを、誰もすぐにはくれない。


グラナートは目を細めた。


「まず、よく見ることです」


「見る?」


「文字を見る。人を見る。黙っている人を見る。誰が何を言い、誰が何を言わなかったのかを見る」


彼はそこで言葉を切り、乾いた指で滲んだ名前のあたりを指した。


「それから、急いで名前をつけないことです」


急いで名前をつけない。


イリスはその言葉を、心の中で繰り返した。


意味は、まだ全部分からない。


けれど、覚えておかなければならない気がした。

















小書斎を出ると、廊下には昼前の白い光が差していた。


窓枠の影はまだ短く、磨かれた床に薄く伸びている。使用人たちの足音は、昼食の支度が近いせいか、いつもより少しだけ忙しい。廊下の向こうからは、食器を運ぶかすかな音が聞こえた。


ヴァルクライン邸の廊下は広い。貴族が通るための場所であり、使用人が音を立てずに通り過ぎるための場所でもある。


同じ廊下なのに、歩く人間によって道の広さが変わる。


父が歩く時、廊下は広くなる。


母が歩く時、人は自然と脇へ寄る。


イリスが歩く時、使用人たちは壁際に下がる。


リリアは、その中でも特に壁に近い場所を歩いた。


走っているわけではない。急いでいるようにも見えない。けれど、立ち止まってはいけない人の歩き方だった。誰かとすれ違う時は、半歩だけ身を引く。目線は高すぎず、低すぎず、必要なものだけを拾う。名前を呼ばれると、一拍遅れて顔を上げる。


そのわずかな遅れが、イリスには気になった。


まるで、自分の名前がこの廊下で呼ばれるはずがないと思っているみたいだった。


「リリア」


イリスが声をかけると、リリアは足を止めた。


「イリス様」


声は小さい。


けれど、消えそうな声ではなかった。消えないように、慎重に置かれた声だった。


「その紙は?」


イリスは、リリアが胸元に抱えていた薄い束を見た。


リリアは少しだけ手元を隠すようにした。


「薬棚の札を、写すように言われました」


「読めるのですか」


「全部では、ありません」


「では、どうして写せるのですか」


リリアは困ったように視線を落とした。


「形で、覚えています」


形。


イリスはその紙を見た。リリアの指は、紙の端を強く握りすぎて少し白くなっている。爪の近くには、小さな傷がいくつもあった。水仕事のせいか、紙で切ったのか、あるいはもっと別の理由か。イリスには分からない。


「形だけでは、間違えます」


イリスが言うと、リリアはすぐに頭を下げた。


「申し訳ございません」


まただ。


謝られると、イリスは少し苛立つ。


責めたいわけではないのに、責めたことになるからだ。


「謝ることではありません」


「はい」


「読めないと困るのでしょう」


リリアは少しだけ迷ってから、頷いた。


「困ります」


その一言は、小さかった。


けれど、イリスにははっきり聞こえた。


リリアは、滅多に自分の都合を言わない。頼まれたこと、命じられたこと、謝るべきことは口にする。けれど、自分が何に困っているのかは、あまり言わない。


だからその一言が、イリスの中に残った。


「では、覚えればいいのではありませんか」


リリアが顔を上げる。


「え?」


「読めないと困るのでしょう。なら、読めるようになればいいのです」


「ですが」


「何ですか」


「私が全部を読む必要はないと、言われています」


誰に、と聞こうとして、イリスはやめた。


たぶん、誰か一人ではない。


この屋敷では、必要な者だけが文字を読む。必要がないと見なされた者は、形だけ覚える。札の形、棚の位置、主人の顔色、床を踏む音。そういうものを覚えて、間違えないように働く。


イリスには、それが少し嫌だった。


「必要かどうかは、困っている人が決めればいいでしょう」


リリアは目を丸くした。


「私が、ですか」


「他に誰が決めるのです」


自分で言ってから、イリスは息を止めた。


少し強い。


また、強く聞こえたかもしれない。


リリアはすぐには答えなかった。怒ったわけではない。困ったわけでもない。ただ、手の中にある紙を見つめている。薄い紙束の端が、彼女の指で少し曲がっていた。


「昼食の後、北廊下の小部屋に来なさい」


イリスは言った。


「小部屋、ですか」


「誰も使っていません。そこで教えます」


「イリス様が?」


「他に誰がいるのです」


また少し強くなった。


リリアは小さく肩を縮める。


イリスは唇を噛みそうになった。


「……文字は、覚えた方がいいです」


今度は少しだけ声を落とした。


「薬棚を間違えたら、あなたが叱られます」


リリアは、ほんのわずかに目を見開いた。


イリスが屋敷のためではなく、リリア自身のために言っているのだと、その時ようやく分かったのかもしれない。


「はい」


リリアは紙束を胸に抱え直した。


「参ります」


北廊下の小部屋は、屋敷の中で忘れられたような場所だった。


昔は誰かの控え室だったらしい。古い椅子と机が一つずつあり、壁には色の褪せた布が掛かっている。窓からは庭の端が見えた。華やかな中央庭園ではない。庭師の道具小屋と、植え替えを待つ鉢植えが並ぶ場所だ。


昼食の後、リリアは本当に来た。


扉を叩く音は小さかった。


「入りなさい」


イリスが言うと、リリアは少しだけ隙間を開け、それから身体を滑り込ませるように入ってきた。部屋へ入るだけなのに、誰かの邪魔にならない通り道を探しているようだった。


「座って」


リリアは椅子を見た。


それから、イリスを見た。


「私が、ですか」


「文字を覚えるのに立ったままでは不便でしょう」


「ですが」


「座りなさい」


リリアはおそるおそる椅子へ腰を下ろした。


浅い。


今にも立ち上がれるような座り方だった。


イリスは机に練習帳を置いた。自分が幼い頃に使っていたものだ。紙の端は少し擦れているが、まだ使える。最初の頁には、大きく簡単な文字が並んでいた。


「まず、自分の名前からです」


リリアは羽根ペンを持つ手をぎこちなく構えた。


「リリア」


イリスは紙に書いて見せる。


「この文字が、リ。次が、リ。最後が、ア」


「リ、リ、ア」


リリアは声に出した。


それだけなのに、少し嬉しそうだった。


ペン先が紙に触れる。線は曲がり、インクは少し滲み、最後の文字は途中で折れた。リリアはすぐに謝ろうとした。


「申し訳」


「謝らなくていいです」


イリスは遮った。


リリアの口が閉じる。


「文字は、謝っても整いません」


リリアは数秒遅れて、頷いた。


「はい」


「もう一度」


「はい」


イリスの教え方は、優しくはなかった。


間違えれば指摘する。

同じ間違いをすれば、理由を聞く。

線が曲がれば、手首の位置を直す。

読めない札があれば、同じ形の文字を探させる。


リリアは何度も困った顔をした。けれど、来なくなることはなかった。


リリアは、文字を覚えるのが早い方ではなかった。


けれど、忘れない子だった。


一度覚えた文字を、翌日には必ず紙の端に小さく書いてくる。練習帳の余白には、リリアの名前が何度も並んだ。最初は震えていた線が、日ごとに少しずつまっすぐになる。文字の高さはまだ揃わない。けれど、読める。


読める、ということが、リリアには大きかった。


三日目には、自分の名前を見つけられるようになった。


五日目には、厨房の札をいくつか読めるようになった。


十日目には、薬棚の札を二つ見分けられるようになった。


「これ、読めます」


リリアは紙を見つめたまま言った。


「読んでみなさい」


「苦い薬」


「正解です」


「こっちは、熱冷まし」


「正解」


リリアは口元を押さえた。


「読めました」


「そうですね」


「私、読めました」


「一度言えば分かります」


イリスはそう答えた。


冷たく聞こえたかもしれない。


けれど、リリアは笑った。


ほんの少しだけだった。花が咲くような笑いではない。水面に落ちた光が、一瞬だけ揺れるような笑みだった。


イリスはその顔を見て、胸の奥が少し軽くなった。


嬉しい、と思った。


でも、嬉しい顔はしなかった。


顔に出せば、また何かになる気がした。


ある日、リリアは練習帳を胸に抱えたまま言った。


「イリス様は、どうして私に教えてくださるのですか」


イリスはペンを止めた。


理由。


そんなことは考えていなかった。


読めないと困るから。

間違えたらリリアが叱られるから。

リリアが廊下で紙を隠したから。

自分が使わない練習帳があったから。


理由はいくつかあった。


けれど、どれを言えばいいのか分からなかった。


「必要だからです」


イリスは答えた。


「私に?」


「あなたに」


リリアは目を伏せた。


その頬が少し赤くなっている。


「では、頑張ります」


「頑張るだけでは読めるようになりません。覚えなさい」


「はい」


リリアはまた笑った。


イリスの胸の奥が、少し痛んだ。


優しい言葉ではないのに、リリアは笑う。


それが不思議だった。


もしかしたら、リリアはイリスの言葉の角ばった部分ではなく、その下に隠れているものを見ようとしていたのかもしれない。


けれど、そのことに気づくには、イリスはまだ幼すぎた。


そして、自分の言葉が誰かにちゃんと届いたかもしれないと思うには、少し怖がりすぎていた。

















夏に入る前、ヴァルクライン邸で小さな茶会が開かれた。


大人たちのものではない。貴族の子どもたちを集めた、礼法の練習を兼ねた茶会だった。母は「同年代との関わりを覚えるためです」と言った。イリスはそれを聞いて、少しだけ気が重くなった。


同年代。


それは、笑い方を知っている子どもたちのことだった。


北庭には小さな卓が並べられた。白い布、焼き菓子、薄い茶、果実の砂糖漬け。子ども用の茶会とはいえ、使用人たちは大人の宴と同じように動いた。華やかな笑い声の下で、足音と視線と手順だけが静かに交差する。


リリアもいた。


イリスは気づいたが、声はかけなかった。


リリアも、イリスを見なかった。


ただ、近くを通る時に少しだけ指先が強張った。緊張しているのかもしれない。あるいは、イリスが見ていることに気づいたのかもしれない。どちらにしても、リリアは何も落とさず、何もこぼさず、静かに茶器を運んだ。


それを見て、イリスはほんの少しだけ口元を緩めかけた。


その時、隣の少女が言った。


「イリス様、あの子をご存じなの?」


イリスはすぐに表情を戻した。


「使用人です」


「そうではなくて」


少女は扇で口元を隠す。年はイリスより一つ上くらい。名前はカミラ。伯爵家の娘だった。笑い方が母親に似ていると、誰かが言っていた。


「ずいぶん目で追っていらっしゃるから」


「茶器の運び方を見ていただけです」


「まあ」


カミラは小さく笑った。


「変わっていますのね」


別の少年が言う。


「あの使用人、最近、文字を覚えているって聞いたぞ」


イリスの指が止まった。


「誰から聞いたのですか」


「うちの従僕が、ここの女中から聞いたんだ。公爵令嬢が、使用人に直々に教えているって」


子どもたちの視線が、イリスへ集まる。


リリアは少し離れた場所で茶を運んでいた。こちらの話は聞こえていないかもしれない。けれど、イリスには急に庭の音が遠くなったように感じられた。


「必要だったからです」


イリスは答えた。


「必要?」


カミラが首を傾げる。


「使用人に、そんなに文字が必要かしら」


「薬棚の札を読めないと困ります」


「まあ。優しいのね」


優しい。


その言葉に、イリスの胸が小さく固まった。


まただ。


「優しいわけではありません」


「では、どうして?」


「役に立つからです」


「誰に?」


カミラは笑っている。


イリスは一瞬答えに詰まった。


リリアに。


そう言えばよかったのかもしれない。


けれど、その一言が、リリアをもっと目立たせる気がした。


イリスが黙ったその隙に、別の少年が言った。


「お気に入りなんだろう」


「違います」


「じゃあ、なんでその子だけ?」


その子だけ。


イリスは言葉を失った。


リリアだけを特別にしたつもりはなかった。ただ、リリアが困っていたから教えた。それだけだった。けれど、言われてみれば、イリスはリリアにだけ教えていた。他の使用人には教えていない。厨房の子にも、庭師の見習いにも、洗濯場の少女にも教えていない。


なぜリリアだけなのか。


自分でも、すぐには答えられなかった。


カミラは扇を閉じる。


「公爵令嬢に気に入られたら、使用人でもお勉強ができるのね」


声は明るかった。


でも、その明るさは庭の陽射しより冷たかった。


「違います」


イリスはもう一度言った。


声が少し強くなった。


「リリアは、必要だから覚えているだけです」


カミラは目を丸くする。


「名前まで呼ぶのね」


周囲の子どもたちが笑った。


その笑い声が、リリアの方まで届いた。


リリアがこちらを見る。


一瞬だけだった。


すぐに視線は下がった。


けれど、その一瞬で、イリスは自分が何かを壊したのだと分かった。


茶器は落ちていない。


誰も怪我をしていない。


叱責もまだない。


それでも、何かが割れた。


今度は音がしなかっただけだ。


茶会のあと、リリアは小部屋に来なかった。


次の日も来なかった。


三日目の昼、イリスは北廊下の小部屋でしばらく待った。机の上には練習帳がある。インクも用意してある。リリアが間違えやすい文字には、印までつけていた。


扉は開かなかった。


その沈黙が、グラナートの沈黙とは違っていた。


問いを待つ沈黙ではない。


もう答えが返ってこない沈黙だった。


イリスは初めて、自分から使用人棟へ向かった。


公爵令嬢が一人で使用人棟へ行くことは、あまりない。廊下ですれ違う者たちは皆、驚いた顔で道を開けた。イリスはその視線を受けながら、リリアを探した。


洗濯場にいた年上の女中が、気まずそうに言った。


「リリアなら、南棟へ移りました」


「南棟?」


「帳簿係の手伝いです。文字を少し覚えたので、奥様が」


イリスは一瞬、息を止めた。


帳簿係の手伝い。


それは悪いことではないはずだった。使用人としては、ただ茶器を運ぶより良い仕事かもしれない。薬棚の札を読めるようになったことが、役に立ったのかもしれない。


けれど、なぜ何も言わずに。


「リリアは、望んだのですか」


女中は困った顔をした。


「さあ……奥様のお決めになったことですから」


それ以上聞いても、答えは返ってこなかった。


イリスは母の部屋へ向かった。


母は手紙を読んでいた。


イリスが入ると、静かに顔を上げる。


「リリアを南棟へ移したのですか」


「ええ」


「なぜですか」


「文字を覚えたのでしょう。なら、文字を使う仕事の方がよい」


「私に言わずに?」


母は手紙を机に置いた。


「あなたに許可を取ることではありません」


「でも、私が教えました」


「だからです」


母の声は静かだった。


イリスは黙った。


だから。


その言葉の意味が分からなかった。


「リリアは、あなたの友人ではありません」


母は言った。


「使用人です」


「分かっています」


「本当に?」


イリスは言い返そうとして、止まった。


本当に分かっているのか。


分からなかった。


リリアと一緒に菓子を食べたことはない。遊んだこともない。対等に話したこともない。いつも教える側と教えられる側だった。イリスは直し、リリアは頷く。イリスは指摘し、リリアは謝る。


それでも、リリアが読めるようになった時、イリスは嬉しかった。


それは何なのだろう。


「私は、リリアを困らせたくありませんでした」


イリスは言った。


母は少しだけ表情を和らげた。


「それは分かっています」


「なら」


「けれど、あなたの善意は、あなたの立場と切り離せません」


イリスは唇を噛んだ。


また、分からない言葉だった。


母は続ける。


「あなたが使用人に何かを与えれば、それはただの親切では済みません。周りは理由を探します。お気に入りなのか。見せつけなのか。支配なのか。教育なのか。施しなのか。本人の望みとは関係なく、そう読まれます」


「リリアは、そんなふうに思っていません」


「リリアだけが思わなくても、周りが思います」


「周りが間違っています」


「そうですね」


母はあっさり頷いた。


「ですが、間違った見方でも、人を傷つける力はあります」


イリスは何も言えなかった。


母は窓の外へ目を向ける。


「リリアを南棟へ移したのは、罰ではありません。文字を使う仕事を覚えれば、あの子の役に立つでしょう。あなたのそばに置き続けるより、その方がよい」


「私のそばにいると、悪いのですか」


「あなたが悪いのではありません」


「では、なぜ」


「あなたが近すぎると、あの子はあなたのものに見えます」


イリスの胸が冷えた。


私のもの。


そんなつもりはなかった。


一度もなかった。


けれど、そう見えるのだと言われた。


「私は、そんなこと思っていません」


「知っています」


「リリアも思っていません」


「そうかもしれません」


「では、どうして」


母は静かに言った。


「人は、本人たちがどう思っているかだけでは動きません」


その言葉は、イリスには難しすぎた。


難しすぎたのに、傷だけは残った。


部屋を出たあと、イリスは北廊下の小部屋へ戻った。


机の上には、リリアの練習帳が残っていた。最後のページには、少し歪んだ文字で「リリア」と何度も書かれている。最初よりはずっと整っていた。最後の一つだけ、線が少し伸びすぎている。


イリスはその文字を指でなぞった。


リリア。


名前を呼んだ時の、少女の遅れて上がる顔を思い出した。


名前を覚えること。

文字を読めること。

困っていると、言えること。


それらは全部、良いことのはずだった。


でも、良いことのはずのものが、誰かの目を通ると別の形になる。本人たちの間にあった小さなものなど、外からの言葉で簡単に塗り替えられてしまう。


イリスは練習帳を閉じた。


リリアに会いに行くこともできた。


けれど、行けばまた誰かが見る。


公爵令嬢が南棟まで使用人に会いに行った。

よほど気に入っているらしい。

今度は何を与えるつもりだろう。


そんな言葉が、まだ聞こえてもいないのに浮かんだ。


イリスは扉の前で立ち止まったまま、結局、動けなかった。


数日後、廊下でリリアとすれ違った。


リリアは腕に帳簿を抱えていた。以前より少しだけ背筋が伸びて見えたのは、持っているものが変わったからかもしれない。あるいは、イリスがそう見たかっただけかもしれない。


イリスを見ると、リリアは立ち止まり、深く頭を下げた。


「イリス様」


「リリア」


イリスは名を呼んだ。


それだけで、胸の奥が痛んだ。


言いたいことはいくつもあった。


南棟はどうですか。

文字は読めていますか。

困っていませんか。

私のせいで、嫌な思いをしましたか。

私は、あなたを自分のものにしたかったわけではありません。


けれど、どれも口にできなかった。


言えば、また何かになる。


イリスは一度だけ息を止めた。


そして、言った。


「帳簿を持つ時は、角を下げすぎない方がいいです。紙が曲がります」


リリアは少し驚き、それから小さく笑った。


「はい。気をつけます」


それだけだった。


それだけで、会話は終わった。


リリアは頭を下げ、南棟の方へ歩いていく。イリスはその背中を見送った。追いかければよかったのかもしれない。もっと優しい言葉をかければよかったのかもしれない。そう思っても、足は動かなかった。


優しい言葉は、もう怖かった。


優しくしたつもりのものが、別の何かに見えるなら。


誰かを助けたいと思ったことまで、その人を縛るものになるなら。


最初から、優しく見えない方がいい。


その日、イリスはそう覚えた。


優しくあることと、優しく見えることは違う。


そして多くの場合、人は見える方を信じる。


八歳のイリスは、そこまでを言葉にはできなかった。


ただ、次に誰かを助けたいと思った時、口から出る言葉が少しだけ冷たくなることを知った。


「大丈夫ですか」とは聞かない。


「次は気をつけなさい」と言う。


「怖かったでしょう」とは言わない。


「同じ失敗をしないことです」と言う。


その方が安全だった。


少なくとも、優しい令嬢として誰かを巻き込むよりは。


リリアの練習帳は、それからも北廊下の小部屋に残った。


イリスは時々それを開いた。歪んだ文字で何度も書かれた名前を見るたびに、胸の奥が少し痛んだ。


リリア。


名前を呼んだことが、良かったのか悪かったのか。


文字を教えたことが、助けになったのか迷惑だったのか。


その答えは、誰も教えてくれなかった。


ただ一つだけ、イリスの中に残ったものがある。


見せたものは、自分のものではなくなる。


それは母の言葉だった。


けれどこの日、イリスはもう一つ覚えた。


見せなかったものも、消えるわけではない。


言えなかった言葉も、選ばなかった優しさも、胸の奥でずっと残り続ける。


イリスは、それを誰にも見せなかった。


見せないまま、背筋を伸ばした。

読んでいただきありがとうございます♩

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