第一章 11話 イリス・ヴァルクラインⅢ
イリス・ヴァルクラインが次に見たのは、呼ばれ方が変わるだけで、人の立つ場所まで変わってしまう瞬間だった。
イリスが十二歳になった年、王都の大聖堂からヴァルクライン公爵家へ使者が来た。
聖女候補に、宮廷での立ち居振る舞いを教えてほしい。
そういう依頼だった。
正確には、母セレナに対する依頼である。聖女は教会に属する者だが、王宮の儀礼にも立つ。祈りの場だけでなく、王族の前、貴族の前、民衆の前にも姿を見せる。そこで求められるのは、信仰だけではない。立ち方、目線、歩幅、手の重ね方、微笑む角度。人々が「聖女」と見なすための形を、身体に覚えさせなければならない。
母は、手紙を読み終えると、しばらく黙っていた。
窓際の机には、王都の紋が押された封蝋が置かれている。赤い蝋は割れ、白い紙の上で小さく光っていた。母はその封蝋を指先で押さえたまま、文字をもう一度だけ目で追った。
「イリス」
「はい」
「あなたも同席なさい」
「私も、ですか」
「年が近い者がいた方が、あの子も息がしやすいでしょう」
母の声は、いつもと同じだった。
けれど、イリスは少しだけ引っかかった。
息がしやすい。
母は、そういう言い方をあまりしない。礼法、格式、家格、手順。母の言葉はいつも、形を整えるために使われることが多い。誰かの呼吸を気にするような言葉が出るのは、珍しかった。
「どのような方なのですか」
イリスが尋ねると、母は手紙を畳んだ。
「聖女候補フィリア様。まだ正式な聖別は受けていませんが、教会内ではすでに次代の聖女として扱われています」
「家名は」
母の指が、畳み終えた手紙の上で止まった。
ほんの短い間だった。
「今は、まだあります」
その答え方で、イリスはそれ以上聞くのをやめた。
今は、まだ。
その言葉の先には、まだ自分が知らない決まりがあるのだと分かったからだ。
聖女候補がヴァルクライン邸に来たのは、薄い雨の日だった。
傘を差すほどではない。庭の白薔薇に細かな水滴がつき、石畳の色がいつもより少し濃くなる程度の雨だった。玄関前に教会の馬車が止まる。車輪に付いた泥を、使用人が素早く拭う。白い外套を着た修道女が二人、先に降りてきた。
そのあとから、一人の少女が姿を見せた。
淡い金の髪は肩の少し下で揃えられ、雨の湿気で毛先がわずかに跳ねていた。瞳は薄い青。教会から与えられた白い衣は新しいものだったが、まだ身体に馴染んでいない。裾が少し長いのか、少女は馬車を降りる時、布を踏まないように指先でそっと持ち上げていた。
その指先が、少し震えていた。
胸元には、小さな銀の飾りが下がっている。
教会の聖印ではない。もっと細く、もっと私的なものだった。家ごとの紋章を簡略にした飾りだろう。白い衣の上に出ているのに、なぜか目立たなかった。少女が無意識に片手で押さえているせいかもしれない。
隠したいのか。
守りたいのか。
イリスには、まだ分からなかった。
少女は玄関先で足を揃え、深く頭を下げた。
「フィリア・エルヴェールと申します。本日は、ご指導を賜りたく……」
そこまで言って、声が止まった。
隣にいた修道女が、小さく咳払いをする。
ほんの軽い音だった。
けれど、少女の肩ははっきり揺れた。
「あ……」
少女は口元を引き結び、もう一度頭を下げる。
「聖女候補フィリアと申します。本日は、ご指導を賜りたく存じます」
イリスは、その一瞬を見ていた。
フィリア・エルヴェール。
聖女候補フィリア。
言い直しただけだ。
たったそれだけのことだった。
けれど、最初に名乗った時と、二度目に名乗った時では、少女の背中の重さが少し変わったように見えた。
母は何も指摘しなかった。
「ようこそ、フィリア様」
静かに礼を返す。
「本日は長くなります。疲れた時は、遠慮なく申し出なさい」
「はい」
フィリアは答えた。
けれど、その声は「疲れた」と言える者の声ではなかった。
稽古は、東側の小広間で行われた。
小広間には大きな窓があり、雨に濡れた庭が見える。床は磨き込まれ、中央には薄い敷物が一枚置かれていた。壁際には椅子が並び、母と修道女たちが座る。イリスは少し離れた位置で立つように命じられた。
最初は礼だった。
王族へ向ける礼。
高位貴族へ向ける礼。
民衆へ姿を見せる時の会釈。
祈りの前に行う沈黙。
同じように頭を下げる動作でも、それぞれ意味が違う。膝の折り方も、視線の落とし方も、手を重ねる高さも変わる。少し深すぎれば怯えて見える。浅すぎれば尊大に見える。長すぎれば迷いに見え、短すぎれば軽んじているように見える。
母は、それを実際にやって見せた。
怒るわけではない。
声を荒げるわけでもない。
ただ、正しい形を示す。
それがかえって、間違える余地をなくしていく。
フィリアは真剣だった。言われた通りに背を伸ばし、膝を折り、指先を揃える。けれど、どこか不安定だった。身体が覚えるより先に、頭で正しくあろうとしている。だから一つ直すと、別の場所が崩れる。
「視線を落としすぎないように」
「はい」
「祈る時と、許しを乞う時は違います」
「はい」
「聖女は、人の前で小さくなりすぎてはなりません」
フィリアの肩が、わずかに揺れた。
イリスは、その動きに気づいた。
小さくなりすぎてはならない。
母の言葉は正しい。聖女として立つなら、人々の前で萎縮してはいけない。誰かにすがる姿ではなく、誰かを受け止める姿でなければならない。
けれど、フィリアはたぶん、小さくならずに立つ方法をまだ知らない。
白い衣を着せられ、聖女候補と呼ばれ、修道女たちに見守られ、公爵家の広間に立たされている。小さくなるなと言われても、身体は勝手に縮む。
イリスは、それを少しだけ知っていた。
「イリス」
母が呼んだ。
「はい」
「同じ年頃の者を相手にした方が、感覚を掴みやすいでしょう。あなたが相手をしなさい」
「承知しました」
イリスは敷物の前へ出た。
フィリアと向かい合う。
近くで見ると、フィリアの頬にはうっすら赤みが差していた。緊張のせいか、雨の冷たさのせいかは分からない。指先はきれいに揃えられているが、親指だけが落ち着かずに動いている。
「よろしくお願いいたします、イリス様」
「こちらこそ」
イリスは礼を返した。
フィリアの礼は丁寧だった。
丁寧すぎた。
身体を深く折りすぎて、肩がわずかに内側へ入っている。相手を敬っているというより、許してほしいと言っているように見えた。
イリスは少し迷った。
優しく言うべきか。
正しく言うべきか。
迷った末に、正しく言った。
「それでは低すぎます」
フィリアが顔を上げる。
「え?」
「相手に敬意を示す礼と、自分を下に置く礼は違います。今の礼では、あなたが何か悪いことをしたように見えます」
フィリアの頬がさらに赤くなった。
「申し訳ございません」
「謝るところではありません」
言ってから、イリスは少しだけ息を止めた。
また、強く聞こえたかもしれない。
けれどフィリアは、怯えた顔をしなかった。むしろ、きょとんとしていた。怒られたのか、直されたのか、その区別をつけようとしている顔だった。
「謝るところでは、ないのですね」
「はい。直すところです」
「分かりました」
フィリアはもう一度、礼をした。
今度は少しだけ浅い。
まだ肩が入りすぎている。
「肩」
イリスが言うと、フィリアはすぐに肩を引いた。
「引きすぎです」
「はい」
「顎を上げすぎないでください」
「はい」
「でも、下げすぎてもいけません」
「難しいですね」
フィリアが、小さく笑った。
母と修道女のいる前で、ほんの少しだけ少女の顔に戻った笑いだった。
イリスは返す言葉を探した。
そうですね、と言えばよかったのかもしれない。
初めは誰でもそうです、と言えばよかったのかもしれない。
けれど、口から出たのは別の言葉だった。
「難しくても、覚えなければ困るのはあなたです」
フィリアは少し目を丸くした。
それから、また笑った。
「イリス様は、はっきり仰るのですね」
「遠回しに言っても、膝の角度は直りません」
「たしかに」
今度は、笑いをこらえるような顔だった。
イリスは少し困った。
怖がられると思った言葉で、フィリアは笑う。
リリアも、時々そうだった。
イリスの言葉の角ばった部分を、別の角度から受け取る人がいる。そういう人と向かい合う時、イリスはいつも少し遅れる。
何を返せばいいのか。
どこまで近づいていいのか。
まだ、よく分からなかった。
稽古は数日にわたって続いた。
フィリアは毎回、教会の馬車でやってきた。白い衣は少しずつ身体に馴染んでいったが、胸元の銀の飾りは日を追うごとに見えにくくなった。
ある日は、外に出ていた。
次の日は、襟元に半分だけ隠れていた。
さらに次の日には、白い布の内側へしまわれていた。
イリスは、それについて尋ねなかった。
尋ねれば、フィリアは答えなければならない。答えれば、その言葉はまた形を持ってしまう。そう思ったからだ。
それでも、稽古の合間に二人きりになる時間があった。
母が修道女と話している間、フィリアは窓際で小さく息をついた。今日も礼を何度も直されていた。足の運び、視線の位置、手を組む高さ。どれも少しずつよくなっている。けれど、覚えることが増えるたび、フィリアの声は少しずつ小さくなっていた。
「疲れましたか」
イリスが聞くと、フィリアは慌てて首を振った。
「いいえ」
嘘だった。
顔に出ている。
けれど、イリスは追及しなかった。
「疲れた顔を人前で見せると、周りが勝手に理由をつけます」
フィリアは窓の方を向いたまま、少しだけ笑った。
「では、疲れていない顔をします」
「それも、続けると疲れます」
「困りましたね」
フィリアはそう言ってから、そっと胸元に手を当てた。
白い衣の内側。
銀の飾りが隠れている場所だった。
「イリス様」
「はい」
「家の名前を、言いそうになるんです」
イリスは黙った。
フィリアは窓の外を見ている。雨はもう上がっていた。庭の葉に残った水滴が、光を受けて小さく光っている。
「最初に名乗る時も、書類に名前を書く時も、誰かに呼ばれた時も。頭では分かっているんです。もう、聖女候補フィリアと名乗らなければならないって。でも、口が先に覚えているみたいで」
そこでフィリアは、少しだけ言葉を止めた。
「……エルヴェール、と」
その家名は、小さな声で落ちた。
誰かに聞かれれば、すぐに消えてしまいそうな声だった。
イリスは、返事を探した。
家名を名乗ることは、イリスにとって当たり前だった。ヴァルクラインの娘。そう呼ばれることが重くて、苦しくて、逃げ場がないと思ったこともある。
けれど、失うことは考えたことがなかった。
重いものでも、急に手から取り上げられたら、人はどうなるのだろう。
「言いそうになるなら、言う前に息を止めればいいです」
結局、イリスはそう言った。
フィリアが振り向く。
「息を?」
「私はそうしています」
言ってから、少し後悔した。
自分のことを言うつもりはなかった。
フィリアは、じっとイリスを見た。薄い青の瞳に、責める色はない。ただ、何かを受け取ろうとしているような目だった。
「イリス様も、止めるのですか」
「時々です」
「何を言う前に?」
「余計なことを言う前に」
フィリアは、しばらく黙った。
それから、少しだけ笑った。
「では、私も止めてみます」
「家名を忘れるために?」
イリスが聞くと、フィリアは首を横に振った。
「忘れないために」
その答えは、イリスの予想と違っていた。
「言ってはいけないなら、せめて、言わない前に思い出したいので」
フィリアは胸元に手を置いたまま言った。
「そうすれば、消えたわけではない気がします」
イリスは何も返せなかった。
その言葉は、イリスがまだ知らない痛みから出てきたものだった。
聖別の儀は、大聖堂で行われた。
王都の大聖堂は、ヴァルクライン邸とは比べものにならないほど広い。高い天井には聖譚の場面が描かれ、色硝子の窓から入る光が床に赤や青の模様を落としている。香の匂いが濃く、石の壁には祈りの声が染み込んでいるようだった。
イリスは母と共に、貴族席の後方に座った。
本来なら、イリスが前に出る場ではない。けれど、フィリアの礼法指導に同席した者として、母に連れられていた。
聖堂の中央には、白い衣を着たフィリアが立っている。
その周囲を、司祭たちが囲む。
修道女たちが歌を捧げる。
フィリアの両親は、少し離れた席にいた。
父親らしき男は、膝の上で手を強く握っていた。母親らしき女は、何度もハンカチを口元へ当てている。泣いてはいない。けれど、泣かないようにしているのは分かった。
イリスは、その姿を見て、少し息が詰まった。
娘が聖女になる。
本来なら、誇らしいことなのだろう。
皆が祝う。教会が讃える。王都が喜ぶ。
けれど、あの両親の顔には、ただの誇りとは違うものがあった。
司祭の声が聖堂に響く。
「フィリア・エルヴェール」
その名が呼ばれた瞬間、フィリアの肩がかすかに動いた。
久しぶりに聞いた、全部の名前だったのかもしれない。
フィリアは顔を上げた。
「はい」
声は細かった。
だが、消えなかった。
司祭は、厚い記録台帳を開く。そこには多くの名前が並んでいた。古い聖女、亡くなった聖女、遠い時代の聖女。どの名も、家名を持たない。
聖女アリア。
聖女メルシア。
聖女リューネ。
そして、今日そこに新しい名が加わる。
司祭は筆を取った。
最初に、小さく何かを書いた。
イリスの席からは、はっきり見えない。けれど、行のはじめに記された文字の長さで、それが「フィリア・エルヴェール」だと分かった。
次に、司祭はその上へ細い線を引いた。
消すというより、置いていくような線だった。
その下に、新しい名を書く。
聖女フィリア。
イリスは、指先が冷えるのを感じた。
紙の上では、ただ線が引かれただけだ。
誰も叫んでいない。
誰も倒れていない。
血も流れていない。
それでも、何かが切り離された。
司祭は告げる。
「今より、汝は家の娘としてではなく、聖堂に仕える者として立つ」
フィリアの父親が、ほんのわずかに顔を伏せた。
母親はハンカチを強く握った。
「汝の名は、聖女フィリア」
聖堂の中に、その名が広がった。
聖女フィリア。
聖女フィリア。
聖女フィリア。
何度も繰り返されるたび、フィリア・エルヴェールという名が、聖堂の奥へ押し込められていくようだった。
イリスは、膝の上で手を握った。
ヴァルクラインという名は重い。
ずっとそう思っていた。
けれど、家名は鎖であると同時に、自分がどこから来たのかを示す印でもあった。重いからといって、消されれば楽になるわけではない。
フィリアは祭壇の前で膝を折った。
今度の礼は、以前よりずっと美しかった。
母に何度も直された角度。イリスが指摘した肩の位置。視線の高さ。手の組み方。すべて整っている。
その整った姿が、なぜか痛々しく見えた。
綺麗に立てるようになることは、良いことのはずだった。
けれど、綺麗に立てば立つほど、そこにいる少女が「聖女」に近づいていく。
そして、フィリア本人が少し遠くなる。
儀式が終わる頃、色硝子から差す光が、フィリアの白い衣に落ちていた。
その光の中で、フィリアは笑っていた。
人々が望む、聖女の顔で。
儀式のあと、イリスは聖堂の脇廊下でフィリアと会った。
母は司祭と話している。修道女たちは儀式後の手順で慌ただしく動いている。ほんのわずかな時間だけ、脇廊下には二人だけになった。
フィリアは白い衣のまま、壁際に立っていた。
胸元に、もう銀の飾りはなかった。
「イリス様」
フィリアは先に気づき、礼をした。
その礼は、上手くなっていた。
上手くなりすぎていた。
「今の礼は、少し整いすぎています」
イリスは言った。
フィリアが目を丸くする。
「整いすぎ、ですか」
「はい。人に見せるために直した礼です。誰もいない廊下でまで、それをする必要はありません」
フィリアはしばらく黙った。
それから、小さく笑った。
「では、こうでしょうか」
今度は、少しだけ力の抜けた礼をした。
肩が柔らかく下がる。
視線も、ほんの少しだけ揺れる。
その方が、フィリアらしかった。
「そちらの方がましです」
「まし」
フィリアは笑った。
聖堂の中で見せた微笑みとは違った。小さく、弱く、けれど息のある笑いだった。
しばらく、二人は黙っていた。
脇廊下には、香の匂いが薄く残っている。遠くから聖歌隊の片づける声が聞こえた。石壁に触れると冷たそうだったが、フィリアはそこに背を預けなかった。白い衣が汚れるからか、それとも、そうしてはいけないと教えられているからか。
「イリス様」
フィリアは、胸元に手をやった。
そこにはもう何もない。
「私、ちゃんと聖女に見えましたか」
その問いに、イリスはすぐには答えなかった。
見えた。
とてもよく見えた。
見えすぎるほどだった。
けれど、それをそのまま言えば、フィリアは少し傷つく気がした。
「見えました」
イリスは答えた。
フィリアのまつ毛が少し伏せられる。
だから、イリスは付け加えた。
「でも、先ほどの廊下の礼の方が、私は覚えやすいです」
フィリアが顔を上げる。
「覚えやすい?」
「はい」
「何をですか」
イリスは、少しだけ迷った。
聖女ではないあなたを。
そう言えばよかったのかもしれない。
けれど、そこまで柔らかい言葉を選ぶ勇気はなかった。
「あなたが、人間だということを」
フィリアは一瞬、驚いた顔をした。
それから、ゆっくり笑った。
「イリス様は、やっぱり少し怖いです」
「そうでしょうね」
「でも、分かりやすいです」
その言葉は、以前も聞いた。
イリスは目を伏せた。
「分かりやすいなら、よかったです」
フィリアはもう一度、胸元に手を置いた。
何もない場所を、指先が確かめる。
「イリス様」
「はい」
「私の前の名前を、覚えていてくださいますか」
イリスは息を止めた。
フィリア・エルヴェール。
聖堂の台帳では線を引かれた名。
司祭が新しい名を書くために、下へ追いやった名。
その名を、覚えているかと聞かれている。
「覚えておく必要がありますか」
口にした瞬間、冷たく響いたことが分かった。
フィリアの表情が、ほんの少しだけ曇る。
イリスは指先を握った。
違う。
そういう意味ではない。
けれど、違うとすぐに言うのは難しかった。言葉は一度出れば、もう相手に届いてしまう。届いたあとで拾い直すのは、いつも遅い。
それでも、イリスは続けた。
「記録から消えるなら、誰かが覚えていなければ不便です」
フィリアは瞬きをした。
「不便、ですか」
「はい」
「そうですね」
フィリアは、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「それは、とても困ります」
イリスは頷いた。
「だから、覚えています」
その瞬間、フィリアの目元が少しだけ緩んだ。
泣かなかった。
聖女フィリアは、泣かなかった。
けれど、フィリア・エルヴェールは、たぶん少しだけ泣いていた。
イリスには、そう見えた。
ヴァルクライン邸へ戻ったあと、イリスは自室で古い練習帳を開いた。
そこには、かつてリリアが書いた名前が残っている。
少し歪んだ文字。
線の伸びすぎた最後の一画。
その横に、イリスは新しい紙を置いた。
フィリア・エルヴェール。
一度だけ、そう書いた。
それから、少し離して書く。
聖女フィリア。
二つの名前を並べると、同じ人物の名なのに、まるで別のもののように見えた。
片方は家から来た名。
もう片方は、聖堂が与えた名。
どちらが本当なのか。
イリスには分からなかった。
ただ、片方だけが残れば、もう片方はなかったことにされる。
そのことだけは分かった。
イリスは、紙を折らなかった。
捨てもしなかった。
リリアの練習帳に挟むこともしなかった。
ただ、机の引き出しの奥にしまった。
誰かに見せるためではない。
フィリアに返すためでもない。
記録に残すためでもない。
ただ、消えた名前を、自分の中だけで消さないために。
その夜、イリスは寝台に入ってからも、しばらく目を閉じられなかった。
聖堂の台帳。
線を引かれた家名。
白い衣。
何もない胸元に触れるフィリアの指。
聖女の顔で笑う少女。
廊下で少しだけ崩れた礼。
一つひとつが、目の奥に残っていた。
人は、名前を呼ばれる形に近づいていく。
悪女と呼ばれれば、悪女として見られる。
聖女と呼ばれれば、聖女として立たされる。
なら、呼ばれる前の名前は、どこへ行くのだろう。
イリスにはまだ分からなかった。
けれど、その問いは小さな棘のように胸に残った。
痛みは小さい。
けれど、抜けなかった。
そしてその日から、イリスはフィリアの礼を見るたびに、ほんの少しだけ違う場所を見てしまうようになった。
聖女として整えられた姿ではなく。
その下で、息を止めている一人の少女を。
読んでいただきありがとうございます!!




