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勇者でも魔王でもない俺は、物語に殺される君を救う  作者: ハリオアマツバメは泣いた
第一章 役なしは悪女の脚本を喰う
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12/24

第一章 11話 イリス・ヴァルクラインⅢ

イリス・ヴァルクラインが次に見たのは、呼ばれ方が変わるだけで、人の立つ場所まで変わってしまう瞬間だった。


イリスが十二歳になった年、王都の大聖堂からヴァルクライン公爵家へ使者が来た。


聖女候補に、宮廷での立ち居振る舞いを教えてほしい。


そういう依頼だった。


正確には、母セレナに対する依頼である。聖女は教会に属する者だが、王宮の儀礼にも立つ。祈りの場だけでなく、王族の前、貴族の前、民衆の前にも姿を見せる。そこで求められるのは、信仰だけではない。立ち方、目線、歩幅、手の重ね方、微笑む角度。人々が「聖女」と見なすための形を、身体に覚えさせなければならない。


母は、手紙を読み終えると、しばらく黙っていた。


窓際の机には、王都の紋が押された封蝋が置かれている。赤い蝋は割れ、白い紙の上で小さく光っていた。母はその封蝋を指先で押さえたまま、文字をもう一度だけ目で追った。


「イリス」


「はい」


「あなたも同席なさい」


「私も、ですか」


「年が近い者がいた方が、あの子も息がしやすいでしょう」


母の声は、いつもと同じだった。


けれど、イリスは少しだけ引っかかった。


息がしやすい。


母は、そういう言い方をあまりしない。礼法、格式、家格、手順。母の言葉はいつも、形を整えるために使われることが多い。誰かの呼吸を気にするような言葉が出るのは、珍しかった。


「どのような方なのですか」


イリスが尋ねると、母は手紙を畳んだ。


「聖女候補フィリア様。まだ正式な聖別は受けていませんが、教会内ではすでに次代の聖女として扱われています」


「家名は」


母の指が、畳み終えた手紙の上で止まった。


ほんの短い間だった。


「今は、まだあります」


その答え方で、イリスはそれ以上聞くのをやめた。


今は、まだ。


その言葉の先には、まだ自分が知らない決まりがあるのだと分かったからだ。


聖女候補がヴァルクライン邸に来たのは、薄い雨の日だった。


傘を差すほどではない。庭の白薔薇に細かな水滴がつき、石畳の色がいつもより少し濃くなる程度の雨だった。玄関前に教会の馬車が止まる。車輪に付いた泥を、使用人が素早く拭う。白い外套を着た修道女が二人、先に降りてきた。


そのあとから、一人の少女が姿を見せた。


淡い金の髪は肩の少し下で揃えられ、雨の湿気で毛先がわずかに跳ねていた。瞳は薄い青。教会から与えられた白い衣は新しいものだったが、まだ身体に馴染んでいない。裾が少し長いのか、少女は馬車を降りる時、布を踏まないように指先でそっと持ち上げていた。


その指先が、少し震えていた。


胸元には、小さな銀の飾りが下がっている。


教会の聖印ではない。もっと細く、もっと私的なものだった。家ごとの紋章を簡略にした飾りだろう。白い衣の上に出ているのに、なぜか目立たなかった。少女が無意識に片手で押さえているせいかもしれない。


隠したいのか。


守りたいのか。


イリスには、まだ分からなかった。


少女は玄関先で足を揃え、深く頭を下げた。


「フィリア・エルヴェールと申します。本日は、ご指導を賜りたく……」


そこまで言って、声が止まった。


隣にいた修道女が、小さく咳払いをする。


ほんの軽い音だった。


けれど、少女の肩ははっきり揺れた。


「あ……」


少女は口元を引き結び、もう一度頭を下げる。


「聖女候補フィリアと申します。本日は、ご指導を賜りたく存じます」


イリスは、その一瞬を見ていた。


フィリア・エルヴェール。


聖女候補フィリア。


言い直しただけだ。


たったそれだけのことだった。


けれど、最初に名乗った時と、二度目に名乗った時では、少女の背中の重さが少し変わったように見えた。


母は何も指摘しなかった。


「ようこそ、フィリア様」


静かに礼を返す。


「本日は長くなります。疲れた時は、遠慮なく申し出なさい」


「はい」


フィリアは答えた。


けれど、その声は「疲れた」と言える者の声ではなかった。

















稽古は、東側の小広間で行われた。


小広間には大きな窓があり、雨に濡れた庭が見える。床は磨き込まれ、中央には薄い敷物が一枚置かれていた。壁際には椅子が並び、母と修道女たちが座る。イリスは少し離れた位置で立つように命じられた。


最初は礼だった。


王族へ向ける礼。


高位貴族へ向ける礼。


民衆へ姿を見せる時の会釈。


祈りの前に行う沈黙。


同じように頭を下げる動作でも、それぞれ意味が違う。膝の折り方も、視線の落とし方も、手を重ねる高さも変わる。少し深すぎれば怯えて見える。浅すぎれば尊大に見える。長すぎれば迷いに見え、短すぎれば軽んじているように見える。


母は、それを実際にやって見せた。


怒るわけではない。


声を荒げるわけでもない。


ただ、正しい形を示す。


それがかえって、間違える余地をなくしていく。


フィリアは真剣だった。言われた通りに背を伸ばし、膝を折り、指先を揃える。けれど、どこか不安定だった。身体が覚えるより先に、頭で正しくあろうとしている。だから一つ直すと、別の場所が崩れる。


「視線を落としすぎないように」


「はい」


「祈る時と、許しを乞う時は違います」


「はい」


「聖女は、人の前で小さくなりすぎてはなりません」


フィリアの肩が、わずかに揺れた。


イリスは、その動きに気づいた。


小さくなりすぎてはならない。


母の言葉は正しい。聖女として立つなら、人々の前で萎縮してはいけない。誰かにすがる姿ではなく、誰かを受け止める姿でなければならない。


けれど、フィリアはたぶん、小さくならずに立つ方法をまだ知らない。


白い衣を着せられ、聖女候補と呼ばれ、修道女たちに見守られ、公爵家の広間に立たされている。小さくなるなと言われても、身体は勝手に縮む。


イリスは、それを少しだけ知っていた。


「イリス」


母が呼んだ。


「はい」


「同じ年頃の者を相手にした方が、感覚を掴みやすいでしょう。あなたが相手をしなさい」


「承知しました」


イリスは敷物の前へ出た。


フィリアと向かい合う。


近くで見ると、フィリアの頬にはうっすら赤みが差していた。緊張のせいか、雨の冷たさのせいかは分からない。指先はきれいに揃えられているが、親指だけが落ち着かずに動いている。


「よろしくお願いいたします、イリス様」


「こちらこそ」


イリスは礼を返した。


フィリアの礼は丁寧だった。


丁寧すぎた。


身体を深く折りすぎて、肩がわずかに内側へ入っている。相手を敬っているというより、許してほしいと言っているように見えた。


イリスは少し迷った。


優しく言うべきか。


正しく言うべきか。


迷った末に、正しく言った。


「それでは低すぎます」


フィリアが顔を上げる。


「え?」


「相手に敬意を示す礼と、自分を下に置く礼は違います。今の礼では、あなたが何か悪いことをしたように見えます」


フィリアの頬がさらに赤くなった。


「申し訳ございません」


「謝るところではありません」


言ってから、イリスは少しだけ息を止めた。


また、強く聞こえたかもしれない。


けれどフィリアは、怯えた顔をしなかった。むしろ、きょとんとしていた。怒られたのか、直されたのか、その区別をつけようとしている顔だった。


「謝るところでは、ないのですね」


「はい。直すところです」


「分かりました」


フィリアはもう一度、礼をした。


今度は少しだけ浅い。


まだ肩が入りすぎている。


「肩」


イリスが言うと、フィリアはすぐに肩を引いた。


「引きすぎです」


「はい」


「顎を上げすぎないでください」


「はい」


「でも、下げすぎてもいけません」


「難しいですね」


フィリアが、小さく笑った。


母と修道女のいる前で、ほんの少しだけ少女の顔に戻った笑いだった。


イリスは返す言葉を探した。


そうですね、と言えばよかったのかもしれない。


初めは誰でもそうです、と言えばよかったのかもしれない。


けれど、口から出たのは別の言葉だった。


「難しくても、覚えなければ困るのはあなたです」


フィリアは少し目を丸くした。


それから、また笑った。


「イリス様は、はっきり仰るのですね」


「遠回しに言っても、膝の角度は直りません」


「たしかに」


今度は、笑いをこらえるような顔だった。


イリスは少し困った。


怖がられると思った言葉で、フィリアは笑う。


リリアも、時々そうだった。


イリスの言葉の角ばった部分を、別の角度から受け取る人がいる。そういう人と向かい合う時、イリスはいつも少し遅れる。


何を返せばいいのか。


どこまで近づいていいのか。


まだ、よく分からなかった。


稽古は数日にわたって続いた。


フィリアは毎回、教会の馬車でやってきた。白い衣は少しずつ身体に馴染んでいったが、胸元の銀の飾りは日を追うごとに見えにくくなった。


ある日は、外に出ていた。


次の日は、襟元に半分だけ隠れていた。


さらに次の日には、白い布の内側へしまわれていた。


イリスは、それについて尋ねなかった。


尋ねれば、フィリアは答えなければならない。答えれば、その言葉はまた形を持ってしまう。そう思ったからだ。


それでも、稽古の合間に二人きりになる時間があった。


母が修道女と話している間、フィリアは窓際で小さく息をついた。今日も礼を何度も直されていた。足の運び、視線の位置、手を組む高さ。どれも少しずつよくなっている。けれど、覚えることが増えるたび、フィリアの声は少しずつ小さくなっていた。


「疲れましたか」


イリスが聞くと、フィリアは慌てて首を振った。


「いいえ」


嘘だった。


顔に出ている。


けれど、イリスは追及しなかった。


「疲れた顔を人前で見せると、周りが勝手に理由をつけます」


フィリアは窓の方を向いたまま、少しだけ笑った。


「では、疲れていない顔をします」


「それも、続けると疲れます」


「困りましたね」


フィリアはそう言ってから、そっと胸元に手を当てた。


白い衣の内側。


銀の飾りが隠れている場所だった。


「イリス様」


「はい」


「家の名前を、言いそうになるんです」


イリスは黙った。


フィリアは窓の外を見ている。雨はもう上がっていた。庭の葉に残った水滴が、光を受けて小さく光っている。


「最初に名乗る時も、書類に名前を書く時も、誰かに呼ばれた時も。頭では分かっているんです。もう、聖女候補フィリアと名乗らなければならないって。でも、口が先に覚えているみたいで」


そこでフィリアは、少しだけ言葉を止めた。


「……エルヴェール、と」


その家名は、小さな声で落ちた。


誰かに聞かれれば、すぐに消えてしまいそうな声だった。


イリスは、返事を探した。


家名を名乗ることは、イリスにとって当たり前だった。ヴァルクラインの娘。そう呼ばれることが重くて、苦しくて、逃げ場がないと思ったこともある。


けれど、失うことは考えたことがなかった。


重いものでも、急に手から取り上げられたら、人はどうなるのだろう。


「言いそうになるなら、言う前に息を止めればいいです」


結局、イリスはそう言った。


フィリアが振り向く。


「息を?」


「私はそうしています」


言ってから、少し後悔した。


自分のことを言うつもりはなかった。


フィリアは、じっとイリスを見た。薄い青の瞳に、責める色はない。ただ、何かを受け取ろうとしているような目だった。


「イリス様も、止めるのですか」


「時々です」


「何を言う前に?」


「余計なことを言う前に」


フィリアは、しばらく黙った。


それから、少しだけ笑った。


「では、私も止めてみます」


「家名を忘れるために?」


イリスが聞くと、フィリアは首を横に振った。


「忘れないために」


その答えは、イリスの予想と違っていた。


「言ってはいけないなら、せめて、言わない前に思い出したいので」


フィリアは胸元に手を置いたまま言った。


「そうすれば、消えたわけではない気がします」


イリスは何も返せなかった。


その言葉は、イリスがまだ知らない痛みから出てきたものだった。

















聖別の儀は、大聖堂で行われた。


王都の大聖堂は、ヴァルクライン邸とは比べものにならないほど広い。高い天井には聖譚の場面が描かれ、色硝子の窓から入る光が床に赤や青の模様を落としている。香の匂いが濃く、石の壁には祈りの声が染み込んでいるようだった。


イリスは母と共に、貴族席の後方に座った。


本来なら、イリスが前に出る場ではない。けれど、フィリアの礼法指導に同席した者として、母に連れられていた。


聖堂の中央には、白い衣を着たフィリアが立っている。


その周囲を、司祭たちが囲む。


修道女たちが歌を捧げる。


フィリアの両親は、少し離れた席にいた。


父親らしき男は、膝の上で手を強く握っていた。母親らしき女は、何度もハンカチを口元へ当てている。泣いてはいない。けれど、泣かないようにしているのは分かった。


イリスは、その姿を見て、少し息が詰まった。


娘が聖女になる。


本来なら、誇らしいことなのだろう。


皆が祝う。教会が讃える。王都が喜ぶ。


けれど、あの両親の顔には、ただの誇りとは違うものがあった。


司祭の声が聖堂に響く。


「フィリア・エルヴェール」


その名が呼ばれた瞬間、フィリアの肩がかすかに動いた。


久しぶりに聞いた、全部の名前だったのかもしれない。


フィリアは顔を上げた。


「はい」


声は細かった。


だが、消えなかった。


司祭は、厚い記録台帳を開く。そこには多くの名前が並んでいた。古い聖女、亡くなった聖女、遠い時代の聖女。どの名も、家名を持たない。


聖女アリア。


聖女メルシア。


聖女リューネ。


そして、今日そこに新しい名が加わる。


司祭は筆を取った。


最初に、小さく何かを書いた。


イリスの席からは、はっきり見えない。けれど、行のはじめに記された文字の長さで、それが「フィリア・エルヴェール」だと分かった。


次に、司祭はその上へ細い線を引いた。


消すというより、置いていくような線だった。


その下に、新しい名を書く。


聖女フィリア。


イリスは、指先が冷えるのを感じた。


紙の上では、ただ線が引かれただけだ。


誰も叫んでいない。


誰も倒れていない。


血も流れていない。


それでも、何かが切り離された。


司祭は告げる。


「今より、汝は家の娘としてではなく、聖堂に仕える者として立つ」


フィリアの父親が、ほんのわずかに顔を伏せた。


母親はハンカチを強く握った。


「汝の名は、聖女フィリア」


聖堂の中に、その名が広がった。


聖女フィリア。


聖女フィリア。


聖女フィリア。


何度も繰り返されるたび、フィリア・エルヴェールという名が、聖堂の奥へ押し込められていくようだった。


イリスは、膝の上で手を握った。


ヴァルクラインという名は重い。


ずっとそう思っていた。


けれど、家名は鎖であると同時に、自分がどこから来たのかを示す印でもあった。重いからといって、消されれば楽になるわけではない。


フィリアは祭壇の前で膝を折った。


今度の礼は、以前よりずっと美しかった。


母に何度も直された角度。イリスが指摘した肩の位置。視線の高さ。手の組み方。すべて整っている。


その整った姿が、なぜか痛々しく見えた。


綺麗に立てるようになることは、良いことのはずだった。


けれど、綺麗に立てば立つほど、そこにいる少女が「聖女」に近づいていく。


そして、フィリア本人が少し遠くなる。


儀式が終わる頃、色硝子から差す光が、フィリアの白い衣に落ちていた。


その光の中で、フィリアは笑っていた。


人々が望む、聖女の顔で。


儀式のあと、イリスは聖堂の脇廊下でフィリアと会った。


母は司祭と話している。修道女たちは儀式後の手順で慌ただしく動いている。ほんのわずかな時間だけ、脇廊下には二人だけになった。


フィリアは白い衣のまま、壁際に立っていた。


胸元に、もう銀の飾りはなかった。


「イリス様」


フィリアは先に気づき、礼をした。


その礼は、上手くなっていた。


上手くなりすぎていた。


「今の礼は、少し整いすぎています」


イリスは言った。


フィリアが目を丸くする。


「整いすぎ、ですか」


「はい。人に見せるために直した礼です。誰もいない廊下でまで、それをする必要はありません」


フィリアはしばらく黙った。


それから、小さく笑った。


「では、こうでしょうか」


今度は、少しだけ力の抜けた礼をした。


肩が柔らかく下がる。


視線も、ほんの少しだけ揺れる。


その方が、フィリアらしかった。


「そちらの方がましです」


「まし」


フィリアは笑った。


聖堂の中で見せた微笑みとは違った。小さく、弱く、けれど息のある笑いだった。


しばらく、二人は黙っていた。


脇廊下には、香の匂いが薄く残っている。遠くから聖歌隊の片づける声が聞こえた。石壁に触れると冷たそうだったが、フィリアはそこに背を預けなかった。白い衣が汚れるからか、それとも、そうしてはいけないと教えられているからか。


「イリス様」


フィリアは、胸元に手をやった。


そこにはもう何もない。


「私、ちゃんと聖女に見えましたか」


その問いに、イリスはすぐには答えなかった。


見えた。


とてもよく見えた。


見えすぎるほどだった。


けれど、それをそのまま言えば、フィリアは少し傷つく気がした。


「見えました」


イリスは答えた。


フィリアのまつ毛が少し伏せられる。


だから、イリスは付け加えた。


「でも、先ほどの廊下の礼の方が、私は覚えやすいです」


フィリアが顔を上げる。


「覚えやすい?」


「はい」


「何をですか」


イリスは、少しだけ迷った。


聖女ではないあなたを。


そう言えばよかったのかもしれない。


けれど、そこまで柔らかい言葉を選ぶ勇気はなかった。


「あなたが、人間だということを」


フィリアは一瞬、驚いた顔をした。


それから、ゆっくり笑った。


「イリス様は、やっぱり少し怖いです」


「そうでしょうね」


「でも、分かりやすいです」


その言葉は、以前も聞いた。


イリスは目を伏せた。


「分かりやすいなら、よかったです」


フィリアはもう一度、胸元に手を置いた。


何もない場所を、指先が確かめる。


「イリス様」


「はい」


「私の前の名前を、覚えていてくださいますか」


イリスは息を止めた。


フィリア・エルヴェール。


聖堂の台帳では線を引かれた名。


司祭が新しい名を書くために、下へ追いやった名。


その名を、覚えているかと聞かれている。


「覚えておく必要がありますか」


口にした瞬間、冷たく響いたことが分かった。


フィリアの表情が、ほんの少しだけ曇る。


イリスは指先を握った。


違う。


そういう意味ではない。


けれど、違うとすぐに言うのは難しかった。言葉は一度出れば、もう相手に届いてしまう。届いたあとで拾い直すのは、いつも遅い。


それでも、イリスは続けた。


「記録から消えるなら、誰かが覚えていなければ不便です」


フィリアは瞬きをした。


「不便、ですか」


「はい」


「そうですね」


フィリアは、少しだけ泣きそうな顔で笑った。


「それは、とても困ります」


イリスは頷いた。


「だから、覚えています」


その瞬間、フィリアの目元が少しだけ緩んだ。


泣かなかった。


聖女フィリアは、泣かなかった。


けれど、フィリア・エルヴェールは、たぶん少しだけ泣いていた。


イリスには、そう見えた。

















ヴァルクライン邸へ戻ったあと、イリスは自室で古い練習帳を開いた。


そこには、かつてリリアが書いた名前が残っている。


少し歪んだ文字。


線の伸びすぎた最後の一画。


その横に、イリスは新しい紙を置いた。


フィリア・エルヴェール。


一度だけ、そう書いた。


それから、少し離して書く。


聖女フィリア。


二つの名前を並べると、同じ人物の名なのに、まるで別のもののように見えた。


片方は家から来た名。


もう片方は、聖堂が与えた名。


どちらが本当なのか。


イリスには分からなかった。


ただ、片方だけが残れば、もう片方はなかったことにされる。


そのことだけは分かった。


イリスは、紙を折らなかった。


捨てもしなかった。


リリアの練習帳に挟むこともしなかった。


ただ、机の引き出しの奥にしまった。


誰かに見せるためではない。


フィリアに返すためでもない。


記録に残すためでもない。


ただ、消えた名前を、自分の中だけで消さないために。


その夜、イリスは寝台に入ってからも、しばらく目を閉じられなかった。


聖堂の台帳。

線を引かれた家名。

白い衣。

何もない胸元に触れるフィリアの指。

聖女の顔で笑う少女。

廊下で少しだけ崩れた礼。


一つひとつが、目の奥に残っていた。


人は、名前を呼ばれる形に近づいていく。


悪女と呼ばれれば、悪女として見られる。


聖女と呼ばれれば、聖女として立たされる。


なら、呼ばれる前の名前は、どこへ行くのだろう。


イリスにはまだ分からなかった。


けれど、その問いは小さな棘のように胸に残った。


痛みは小さい。


けれど、抜けなかった。


そしてその日から、イリスはフィリアの礼を見るたびに、ほんの少しだけ違う場所を見てしまうようになった。


聖女として整えられた姿ではなく。


その下で、息を止めている一人の少女を。

読んでいただきありがとうございます!!

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