第一章 12話 イリス・ヴァルクラインⅣ
イリス・ヴァルクラインが十四歳になった冬の終わり、聖女の名で集められた薬が、届くべき場所に届いていないことを知った。
王都には、教会が運営する救済院がいくつかある。
病人、孤児、身寄りのない老人、冬を越せない貧しい者。そうした人々を受け入れる施設で、建前としては教会の慈悲によって支えられていた。けれど、実際には教会だけで回るものではない。王宮は認可を与え、貴族は金や物資を出し、商人は輸送を請け負い、修道女たちが現場で人を看る。
その中心に置かれるのが、聖女の名だった。
「聖女フィリアの慈悲による救済」
そう記された札が掲げられるだけで、貴族は寄付をしやすくなる。王宮も支援の名目を立てやすい。教会は民衆へ慈悲を示せる。フィリア本人が、すべての帳簿や倉庫を管理しているわけではない。むしろ、薬箱の数、毛布の保管、輸送の手配、受領書の確認は、司祭や文官たちの仕事だった。
それでも、救済院の門に掲げられるのは聖女の名だ。
人々は、薬や毛布が届けば「聖女様のおかげ」と言う。逆に届かなければ、その影もまた、聖女の名に落ちる。
ヴァルクライン家も、毎月いくつかの救済院へ物資を送っていた。純粋な慈善だけではない。公爵家として教会との関係を保つ意味もある。王宮や社交界では、どの家がどれだけ聖女の事業を支えたかも、信仰心と家格を示す一つの材料になる。
寄付をした家には、教会から受領書が返ってくる。
何を、いくつ受け取ったか。
誰の名で受け取ったか。
どの救済院へ納めたか。
その控えは、各貴族家の帳簿室に保管される。
だから、数が合わなければ分かる。
最初に違和感を見つけたのは、リリアだった。
南棟の帳簿室は、冬になると指先が冷える。石造りの壁が日中の冷気を溜め込み、暖炉の火が入っても、机の下まではなかなか温まらない。リリアはそこで、帳簿係の補佐として紙を写していた。以前より背は伸び、袖も手首に合うようになっていたが、机に向かう時だけは、まだ少し肩をすぼめる癖が残っている。
その日、リリアは夕刻前にイリスの部屋を訪ねてきた。
扉を叩く音は、昔と同じように小さかった。
「入りなさい」
イリスが言うと、リリアは一礼して入ってきた。手には薄い紙束を抱えている。帳簿の写しだった。
「イリス様。確認していただきたいものがございます」
「帳簿ですか」
「はい。南区の聖女救済院への寄付品の控えです」
リリアは机の上に紙を置いた。
整った文字だった。完璧ではない。けれど、もう誰かが形だけをなぞっている字ではなかった。書くべきものを、自分で読んで、自分で並べた字だった。
イリスは紙へ目を落とす。
そこには、ヴァルクライン家から南区の聖女救済院へ送られた品目が記されていた。聖女フィリアの名義で教会へ納め、救済院で使われるものだ。
薬箱、十箱。
乾燥肉、六樽。
冬用の毛布、四十枚。
祈祷用の灯油、二壺。
その隣に、教会側から返ってきた受領書の写しが並んでいた。
薬箱、六箱。
乾燥肉、六樽。
冬用の毛布、三十二枚。
祈祷用の灯油、二壺。
イリスは指を止めた。
「薬箱が四つ足りません。毛布も八枚」
「はい」
リリアの声は小さかった。
けれど、震えてはいなかった。
「運搬の途中で破損したという報告は?」
「ありません」
「別の日に追加で送られた可能性は」
「帳簿上はありません。教会側の受領印は、こちらの日付と同じです」
「書き損じでは」
「最初は、そう思いました」
リリアはもう一枚、紙を差し出した。
「ですが、先月分も同じでした。薬箱が二つ、毛布が五枚、少なく受領されています」
イリスは黙った。
紙の上の数字は静かだった。
けれど、数字が静かなことと、問題が小さいことは同じではない。薬箱四つ。毛布八枚。帳簿の上では、ただの数のずれに見える。けれど、救済院にいる病人や子どもにとっては、熱を下げる薬であり、夜を越すための布だ。
「誰かに話しましたか」
「いいえ」
リリアは首を振った。
「帳簿係にも?」
「まだです」
「なぜ」
リリアは一度だけ目を伏せた。
「私が見間違えているのなら、騒ぎになります。それに……聖女様のお名前が入っていますので」
聖女フィリア。
その名は、いまや王都のあちこちに掲げられている。
貧しい者のための施し。
孤児のための祈り。
病人のための薬。
どれも、実際には教会や貴族たちの寄付で成り立っている。それでも人々は、聖女の慈悲として受け取る。名が掲げられた瞬間、事業はその人の顔を持つ。
イリスは、紙の端を指で押さえた。
「分かりました。私が確認します」
リリアは少しだけ顔を上げた。
「イリス様が、ですか」
「他に誰がいますか」
そう言ってから、イリスは一拍置いた。
強すぎた。
昔なら、そのまま流していたかもしれない。けれど今は、少しだけ言い直せる。
「あなたがここまで確かめたなら、次は私の役目です」
リリアは驚いたように瞬きをした。
それから、深く頭を下げた。
「お願いいたします」
翌日、イリスは母の名代として、南区の聖女救済院へ向かった。
王都の南区に入ると、石畳は王宮周辺より粗くなる。道端には雨水の跡が黒く残り、冬の終わりとはいえ、風はまだ冷たい。馬車の窓から見える家々は低く、壁の漆喰はところどころ剥がれている。洗濯物は乾かず、細い路地では子どもが鼻を赤くして走っていた。
南区の聖女救済院は、教会の分院を改装した建物だった。
門には白い布が掛けられている。
そこには、聖女フィリアの名が刺繍されていた。
聖女フィリアの慈悲による救済。
そう読める文字だった。
イリスは、その布をしばらく見上げた。
白い布は清潔に見える。刺繍も美しい。けれど、布の端は風に煽られ、時々裏返った。裏返ると、刺繍の糸の始末が見える。表からは整っているものも、裏には結び目がある。
馬車を降りると、救済院の管理役が出迎えた。
アルノー司祭という男だった。
年は四十を少し過ぎたくらいだろう。柔らかい顔つきをしていて、声も低く穏やかだった。丸い眼鏡をかけ、袖口はきちんと留められている。いかにも実務に慣れた聖職者に見えた。
「ようこそお越しくださいました、イリス様」
アルノー司祭は深く礼をした。
「このような場所まで、公爵家の姫君自らお運びくださるとは」
「母の名代です」
イリスは答えた。
「寄付品が正しく届いているか、確認に参りました」
アルノー司祭の笑みは崩れなかった。
けれど、眼鏡の奥の目が一度だけ細くなった。
「もちろんでございます。どうぞ中へ」
救済院の中は、薬草と湯気の匂いがした。
入口に近い広間には、簡易の寝台が並んでいる。咳をする老人。熱で顔を赤くした子ども。包帯を巻いた若い男。修道女たちは静かに動いていたが、人手は足りていないようだった。誰かが水を求めると、別の誰かの薬の時間が遅れる。小さな泣き声が聞こえ、すぐに布で抑えるような声が続いた。
イリスは顔を動かさずに見た。
寝台の数。
薬棚の位置。
毛布の厚み。
火の入った炉の数。
壁際に積まれている木箱。
木箱には、ヴァルクライン家の焼き印があった。
六つ。
帳簿と同じだった。
十ではない。
「こちらが、先日いただいた薬でございます」
アルノー司祭が言う。
「大変助かっております。聖女様のお恵みで多くの方が救われております」
聖女様のお恵み。
イリスは、その言葉を聞きながら、木箱の蓋を一つ開けさせた。中には、熱冷ましの薬包と咳止めの瓶が入っている。湿気を避けるための紙も敷かれていた。品は本物だった。
ただ、数が足りない。
「毛布は」
「こちらでございます」
案内された部屋には、毛布が積まれていた。
三十二枚。
やはり帳簿と合う。
「残りは、どこですか」
イリスが聞くと、アルノー司祭は少しだけ首を傾げた。
「残り、と申しますと」
「ヴァルクライン家からは、薬箱十箱、毛布四十枚を送っています。こちらの受領書では、薬箱六箱、毛布三十二枚になっていました。途中で分けた先があるなら、その名を」
広間の空気がわずかに止まった。
近くにいた修道女が手を止める。
寝台の子どもが、こちらを見た。
アルノー司祭は、笑みを薄くした。
「おそらく、記載の行き違いかと」
「行き違いなら、訂正できます。運搬記録を出してください」
「それは、すぐには」
「では、倉庫を」
「イリス様」
アルノー司祭は声を落とした。
穏やかな声だった。
だが、先ほどより少し硬い。
「救済院は、今、多くの病人を抱えております。こうした場で帳簿の細部を追及されますと、修道女たちも不安になります」
「不安にさせているのは、私ではありません」
イリスは言った。
「届くはずの薬が届いていないことです」
アルノー司祭の笑みが消えた。
その瞬間、イリスは自分の言葉が鋭すぎたことを理解した。
だが、戻さなかった。
戻せば、この男はやり過ごす。
「倉庫へ」
イリスは言った。
「案内してください」
倉庫は、礼拝堂の裏手にあった。
鍵はアルノー司祭が持っていた。扉を開ける時、彼の手元が一度だけもたついた。寒さのせいかもしれない。動揺のせいかもしれない。イリスはそのどちらとも決めつけなかった。
中には、食料の樽、古い寝具、予備の薬棚が並んでいる。
ヴァルクライン家の焼き印が入った木箱はなかった。
代わりに、別の紋が押された箱がいくつか置かれていた。王宮の小貴族たちが共同で出した寄付品だろう。中身は乾燥肉や麦粉だった。
イリスは棚の下を見た。
木の床には、箱を引きずった跡が残っている。新しい跡だった。埃がそこだけ薄く削れている。
「ここに置かれていた箱は」
「冬の間、品の出入りが多いもので」
「質問に答えてください」
イリスは、床の跡を指した。
「ここに置かれていた箱は、どこへ」
アルノー司祭は黙った。
その沈黙で、答えの半分は出た。
イリスは倉庫の奥へ進む。棚の端に、紙片が落ちていた。拾い上げると、薬箱に貼られていた札の切れ端だった。ヴァルクライン家の焼き印と、聖女救済院の受領印。その上に、別の筆跡で短く数字が書き足されている。
四。
リリアが見つけた不足分と同じ数だった。
「売りましたか」
イリスが聞くと、アルノー司祭の顔色が変わった。
「お言葉にはお気をつけください」
「では、どこへ移しましたか」
「一部は、別の分院へ回しました」
「分院名を」
「急を要する場所でしたので、正式な控えが」
「分院名を」
アルノー司祭は答えなかった。
外から、咳の音が聞こえた。
倉庫の壁一枚向こうには、薬を待つ者たちがいる。足りない薬の分だけ、誰かが熱を引かせられずに夜を越す。足りない毛布の分だけ、誰かが薄い布にくるまる。
イリスは紙片を握った。
強く握りすぎると破れる。
だから、指先の力を抜いた。
「司祭」
イリスは言った。
「今なら、私がこの場で処理します」
アルノー司祭が顔を上げる。
「この場で?」
「あなたは管理役を降りる。帳簿は私が母へ預けます。足りない分は、今日中に戻してください。戻せないなら、同数の薬と毛布を用意すること。明日の評議では、体調不良を理由に退くと報告します」
「それでは、私が横領したように聞こえる」
「違うのですか」
アルノー司祭は唇を引き結んだ。
「私は、私腹を肥やしたわけではありません」
「では何をしましたか」
「上に回したのです」
「上」
「救済院は金がかかる。教会本部は祈りの場に金を使い、病人の寝台には金を出し渋る。貴族は聖女様の名前には寄付をするが、汚れた包帯や糞尿の処理には興味を持たない。だから、回せるものを回した」
「どこへ」
「必要な場所です」
「誰にとって」
アルノー司祭は答えなかった。
イリスは、今度は追及しなかった。
この男がすべてを自分の懐に入れたわけではないのかもしれない。足りない予算を埋めるために、別の穴へ品を回したのかもしれない。誰かに命じられたのかもしれない。教会本部の名を出せない事情があるのかもしれない。
けれど、だからといって、目の前の病人の薬を減らしていい理由にはならない。
「聖女様の名を使った寄付です」
イリスは言った。
「その名で集めたものを、別の場所へ移すなら、記録に残すべきです」
「記録に残せないこともあります」
「なら、残せないことをした時点で、管理役には向きません」
アルノー司祭の顔が歪んだ。
怒りよりも、疲れに近い表情だった。
「公爵令嬢には、お分かりにならないでしょうな」
「そうでしょうね」
イリスは即座に返した。
「私は、あなたの苦労を分かりません。あなたも、薬を待つ子どもの苦しさを全部は分からない。だから、記録が必要なのです」
アルノー司祭は、しばらく黙っていた。
やがて、かすれた声で言った。
「聖女様には」
「知らせません」
イリスは言った。
「知らせれば、聖女様の責任になります」
「ですが」
「あなたが退けば済みます」
その言葉は、自分でも冷たく聞こえた。
済む。
人一人の立場が失われることを、済むと言った。
けれど、この場で必要なのは、柔らかい言葉ではない。今夜の薬を戻すことだった。
「今日中に」
イリスは言った。
「足りない分を戻してください」
その日の夕方、ヴァルクライン邸へ戻ったイリスは、母の部屋に向かった。
セレナは報告を最後まで黙って聞いた。
机の上には、リリアの写し、救済院の受領書、倉庫で拾った札の切れ端が並んでいる。夕方の光が紙の端にかかり、文字の影を少し濃くしていた。
「あなたは、聖女様に知らせないことを選んだのですね」
母は言った。
「はい」
「なぜ」
「知れば、フィリア様の責任になります」
「知らなければ、あなたの責任になります」
イリスは黙った。
分かっていた。
聖女の名で集められた寄付品が消えた。その管理役を、ヴァルクライン家の娘が退けた。そう見える。
いや、おそらくそう見られる。
フィリアは知らなかった。
修道女たちも知らなかった。
アルノー司祭がどこまで悪いのかも、まだ全部は分からない。
それでも、表に出る時にはもっと簡単な話になる。
イリス・ヴァルクラインが、聖女の救済院の管理役を切った。
そういう話になる。
「それでも、今は薬を戻す方が先です」
母は、ほんのわずかに目を伏せた。
「間違いではありません」
イリスは顔を上げた。
母は続ける。
「けれど、正しければ傷つかないわけではありません」
その言葉は、昔から何度も形を変えて聞かされてきたものだった。
正しいことを言えば、正しく受け取られるとは限らない。
優しさは、そのまま相手に届くとは限らない。
人は、呼ばれる名前に近づけられる。
そして今度は、自分が選んだ処理が、自分の名に貼りつく。
「明日、評議があります」
母は言った。
「教会、王宮、寄付を出した貴族たちが集まります。そこで管理役の交代を決めることになるでしょう」
「私が出ます」
「分かっています」
母は止めなかった。
それが、イリスには少し怖かった。
母はいつも、必要のないことはさせない。止めないということは、出るべき場なのだということだ。
「イリス」
「はい」
「柔らかく言えば、誰も傷つかないわけではありません。けれど、冷たく言えば、あなたの言葉だけが残ります」
「では、どうすればいいのですか」
母はすぐには答えなかった。
窓の外で、冬の終わりの風が枝を揺らしている。
「何を残すかを選びなさい」
イリスは、机の上の札の切れ端を見た。
四。
足りなかった薬箱の数。
その小さな数字だけが、やけにはっきり見えた。
翌日の評議は、王宮の小会議室で開かれた。
そこには、教会の司祭が三人、王宮の文官が二人、寄付を出した貴族家の代表が数名いた。聖女フィリアも呼ばれていた。白い衣ではなく、王宮儀礼用の淡い衣を着ている。胸元には聖印だけがあり、家の飾りはない。
フィリアはイリスを見つけると、小さく頷いた。
イリスも礼を返す。
それだけだった。
アルノー司祭は部屋の端に立っていた。昨日より顔色が悪い。けれど、服装は整っている。自分が崩れれば、かえって疑われると分かっているのだろう。
評議は、最初から静かではなかった。
薬箱と毛布の数が合わない。
受領書の記載が違う。
管理記録が不完全である。
誰の責任か。
どこまで調べるべきか。
聖女の名に傷をつけるべきではない。
救済院の運営を止めるわけにはいかない。
言葉が机の上を行き交った。
どれも正しそうに聞こえる。
けれど、どの言葉も、今夜の薬箱を運ぶ手にはならない。
イリスはしばらく黙っていた。
フィリアは発言を求められても、短く答えるだけだった。
「救済院に必要なものが届くことを望みます」
「管理については、教会と王宮の判断に従います」
「病人の方々が不安にならない形で進めてください」
聖女らしい答えだった。
間違っていない。
だが、誰も責任を負わない答えでもあった。
フィリアが悪いのではない。
聖女という立場が、そう答えることを求めている。
イリスは、息を止めた。
それから、口を開いた。
「アルノー司祭を、救済院の管理役から外すべきです」
部屋が静かになった。
アルノー司祭が、わずかに顔を上げる。
フィリアも、イリスを見た。
「理由は」
王宮の文官が問う。
「寄付品の受領記録と実数が合っていません。管理記録にも空白がある。品が動いた先を示す控えもない。病人を預かる救済院で、この管理は認められません」
「横領だと断じるのですか」
教会側の司祭が言った。
イリスは首を横に振った。
「断じません」
「では、なぜ外す」
「断じられない状態を作ったからです」
その言葉に、部屋の空気が硬くなった。
イリスは続けた。
「善意であったか、命令であったか、怠慢であったか、私腹を肥やすためであったか。それは、今この場では分かりません。ただ、分からない形にした人間に、管理を続けさせるべきではありません」
アルノー司祭の唇が、わずかに震えた。
教会側の司祭が眉をひそめる。
「公爵令嬢は、ずいぶん簡単に人を切る」
その言葉が出た瞬間、フィリアの指が膝の上で動いた。
イリスは、それを見た。
見たうえで、何も言わなかった。
ここで「違います」と言えば、話はイリスの感情になる。アルノー司祭の事情になる。聖女フィリアの顔色になる。
必要なのは、薬と毛布の管理を戻すことだった。
「簡単ではありません」
イリスは言った。
「ですが、遅らせれば救済院の寝台で待つ人々が困ります」
「その言い方では、まるで教会が病人を軽んじているように聞こえる」
「そう聞こえる管理をしたのは、私ではありません」
誰かが息を呑んだ。
アルノー司祭が目を伏せる。
イリスは視線を逸らさなかった。
王宮の文官が、机を指で叩いた。
「では、提案は」
「アルノー司祭を管理役から外し、三日以内に受領記録を再確認すること。薬箱と毛布の不足分は、ヴァルクライン家が一時的に補填します。その後、不足分の行き先が分かり次第、同数を返還させる」
「ヴァルクライン家が補填を?」
「はい」
「なぜそこまで」
「今日、必要だからです」
部屋に沈黙が落ちた。
誰もすぐには反論しなかった。
正しさではない。
慈悲でもない。
ただ、必要。
その言葉は、イリスにとって一番安全な言い方だった。感情を入れずに済む。誰かを庇うようにも見えない。誰かを責めるためだけにも聞こえない。
けれど、たぶん冷たく聞こえた。
評議は、そのまま決まった。
アルノー司祭は管理役を退く。
不足分は一時補填される。
帳簿は王宮文官が預かる。
救済院の運営は止めない。
表向きには、すべて整った。
フィリアは最後まで、ほとんど何も言わなかった。
ただ、退室する時、イリスのそばで一度だけ足を止めた。
「イリス様」
「はい」
フィリアは、何かを言いかけた。
けれど、王宮文官と司祭たちが近くにいた。
聖女フィリアは、そこで言葉を選ばなければならない。
イリスは先に言った。
「聖女様のお名前に、傷が残らない形で済みました」
フィリアの顔が、ほんの少しだけ白くなった。
その言い方が、フィリアを守るためのものだったとしても。
フィリアには、突き放す言葉に聞こえただろう。
「……そう、ですね」
フィリアは小さく答えた。
そして、礼をして去った。
その礼は、少し整いすぎていた。
薬箱と毛布は、その日のうちに救済院へ運ばれた。
ヴァルクライン家の荷馬車が南区へ向かい、夕方には到着したと報告が来た。熱を出していた子どもには薬が渡り、毛布の足りなかった寝台にも新しい布がかかったという。
リリアは、その報告を静かに聞いていた。
「届いたのですね」
「はい」
イリスは答えた。
「あなたが気づいたからです」
リリアは少し驚いた顔をした。
それから、首を横に振る。
「私は、数字を見ただけです」
「数字を見る人がいなければ、届きませんでした」
リリアは黙った。
嬉しそうではあった。
けれど、どこか不安そうでもあった。
「イリス様」
「何ですか」
「王宮で、何か言われませんでしたか」
イリスは一瞬だけ答えを迷った。
簡単に人を切る。
そう言われた。
その言葉は、まだ耳に残っている。
「言われました」
「何と」
「忘れてかまいません」
リリアはそれ以上聞かなかった。
聞かないことで、イリスを守ろうとしているようにも見えた。
イリスは窓の外を見た。
冬の終わりの空は、暗くなるのが早い。硝子越しに見える庭は青く沈み、白薔薇の枝だけが細く浮いていた。
薬は届いた。
毛布も届いた。
それなら、十分なはずだった。
噂は、三日後には王宮の廊下に流れていた。
最初は、小さな声だった。
「ヴァルクラインの姫君が、救済院の管理役を追い落としたらしい」
「聖女様の慈善事業に、口を出したとか」
「下級司祭を一人、あっさり切ったそうだ」
「公爵家は怖いな」
「いや、あれは公爵家というより、あの娘だろう」
「自分の評価を高めるためにこんな強権を使ったんだろう、腹黒娘め」
イリスは、その声を聞いた。
聞こえないふりをした。
廊下を歩く時、使用人たちは以前と同じように頭を下げる。貴族たちは以前と同じように微笑む。けれど、その微笑みの奥に、新しい色が混じるようになった。
警戒。
興味。
恐れ。
そして、ほんの少しの面白がり。
誰も正面からは言わない。
だからこそ、言葉は廊下の角や扉の隙間に残る。
冷たい令嬢。
情の薄い姫君。
評価欲しさに聖女様に近い人間を平気で切る女。
イリスは、歩幅を変えなかった。
背筋も曲げなかった。
顔も伏せなかった。
そうすれば、噂はますます本当らしく見えるのかもしれない。
それは分かっていた。
けれど、今さら廊下の真ん中で泣くことも、笑って否定することもできなかった。
その日の夕方、王宮の庭でフィリアを見かけた。
フィリアは数人の修道女と共に歩いていた。白い衣の裾が、冬枯れの庭に少しだけ明るく見える。誰かに声をかけられ、聖女らしく微笑む。完璧ではない。けれど、もう人々が望む形にかなり近い。
フィリアも、イリスに気づいた。
一瞬だけ目が合った。
フィリアの唇が、何かを言おうと動いた。
けれど、隣の修道女が話しかける。
フィリアはそちらへ顔を向けた。
聖女として。
イリスは立ち止まらなかった。
そのまま廊下へ戻る。
庭の白い姿は、背後に遠ざかっていった。
守れたのかもしれない。
傷つけたのかもしれない。
そのどちらも、たぶん本当だった。
イリスは胸の中でそう思い、また一つ、柔らかい言葉を使わない理由を増やした。
誰かを守るために選んだ冷たさは、やがて自分の顔として覚えられる。
その日、王宮の廊下でイリスを見る目が、少しだけ変わった。
剥がす方法は、まだ知らなかった。
読んでいただきありがとうございますm(__)m




