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勇者でも魔王でもない俺は、物語に殺される君を救う  作者: ハリオアマツバメは泣いた
第一章 役なしは悪女の脚本を喰う
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14/24

第一章 13話 イリス・ヴァルクラインⅤ

イリスが十五歳になる少し前、南区の聖女救済院の件は、終わったことにされていた。


アルノー司祭は管理役を退き、不足していた薬箱と毛布は補填された。王宮の文官が帳簿を預かり、教会は「管理体制の見直し」を約束した。評議の記録には、そう書かれている。


けれど、紙の上で終わったことが、現実でも終わるとは限らない。


救済院へ届くはずだった寄付品は、どこかで数を減らされていた。現場の管理役ひとりが勝手に動かしたのか。それとも、もっと上の誰かが、聖女の名で集まった品を別の場所へ回していたのか。


その答えは、まだ出ていなかった。


そして、答えが出ないまま残る問いは、人の口に乗ると別の形になる。


ヴァルクラインの姫君が、救済院に乗り込んだ。


聖女様の事業に口を出した。


司祭を一人、簡単に退けた。


公爵家の娘は、笑わずに人を切る。


イリスはその噂を聞いても、歩幅を変えなかった。背筋を伸ばし、必要な場に出て、必要な言葉だけを口にした。


それが余計に、噂を本当らしく見せているのだと分かっていた。


分かっていても、ほかの振る舞い方を知らなかった。


笑って否定すれば、余裕があるように見える。泣いて否定すれば、弱さを見せたことになる。怒れば、高慢だと言われる。黙れば、やはり冷たいのだと言われる。


何をしても、誰かが別の言葉を与える。


なら、せめて必要なことだけをする。


イリスは、そう考えるようになっていた。


最初に、南区だけではないと気づいたのは、またリリアだった。


南棟の帳簿室には、冬の冷えがまだ残っていた。春が近いとはいえ、朝方の石床は冷たく、机の脚に触れた靴先からじわりと寒さが上がってくる。暖炉のそばに置かれた湯気の立つ茶も、半刻もしないうちに冷めた。


リリアはその部屋で、寄付品の控えを写していた。


南区の救済院だけではない。ヴァルクライン家は、王都の西門近くにある施療所、北鐘地区の孤児院、教会本部の倉庫を経由する冬季救済にも、少しずつ物資を出している。


薬箱。


毛布。


灯油。


干し肉。


麦粉。


どれも数だけ見れば小さなものだった。けれど、小さな数が、何度も同じ向きにずれていた。


送った数より、受け取った数が少ない。


少ない分は、いつも「本部倉庫預かり」と記されている。


そして、その本部倉庫からどこへ出たのかが、ヴァルクライン家へ戻ってくる書類には書かれていなかった。


リリアは、最初の一枚を見つけた時、すぐにはイリスへ持ってこなかった。自分の見間違いかもしれないと思ったからだ。二枚目を見つけても、まだ黙っていた。三枚目で、帳簿係の古い控えと照らし合わせた。


それでも、ずれていた。


夕刻前、リリアはイリスの部屋を訪ねてきた。


扉を叩く音は、昔より少しだけはっきりしていた。


「入りなさい」


イリスが言うと、リリアは一礼して入ってきた。手には、紐でまとめた紙束を抱えている。


「イリス様。南区の件と、似た控えがございます」


「南区以外にも?」


「はい」


リリアは机に紙を広げた。


文字は整っていた。余白の取り方も、数字の並べ方も、以前よりずっと見やすい。けれど、紙を押さえる指先には力が入っている。


「西門施療所、北鐘孤児院、冬季救済の本部倉庫分です。いずれも、ヴァルクライン家の発送控えと、教会からの受領書は一致しています」


「なら問題はないように見えます」


「はい。ですが、その後の本部倉庫の再配分控えが、こちらには戻ってきていません」


イリスは紙を見た。


ヴァルクライン家が教会本部へ納めた品は、いったん本部倉庫に入る。そこから各救済施設へ配られる場合、教会本部が分配控えを作ることになっている。通常、その写しは寄付元にも返る。少なくとも、大きな貴族家にはそうする。


名誉のためだ。


何をどこへ出したか。


どの施設を支えたか。


王宮や社交界で語る時、数字は祈りより便利な証明になる。


だが、その写しがない。


「単なる遅れでは」


「そう思いました」


リリアは一枚の紙を示した。


「ただ、こちらの受領印の日付は二か月前です。本部倉庫から出ていないなら、まだ薬箱と毛布は本部に残っているはずです。ですが、倉庫残高の写しでは、該当する数がありません」


イリスは紙を見比べた。


発送控え。


受領書。


倉庫残高の写し。


数字は、ひとつひとつは小さい。だが、同じ方向へずれている。


「帳簿係には?」


「まだ話していません」


「理由は」


リリアは少しだけ視線を下げた。


「南区の時と同じです。私の見間違いなら、騒ぎになります。それと……今回は、教会本部の倉庫が関わっています」


現場の救済院ではない。


教会本部。


その言葉の重さは、イリスにも分かった。


南区の管理役を退けるのとは違う。教会本部の倉庫に踏み込むということは、物資を動かす権限を持つ者たちに触れるということだ。


「この写しは、誰が作りましたか」


「帳簿室に届いたものは、教会本部の会計補佐の名でした」


「名前は」


「マティア・オルセン」


リリアはそう答えた。


「ただ、受領印はローヴェン会計司祭のものです」


ローヴェン会計司祭。


イリスは、その名をまだ知らなかった。


だが、リリアの声が少し硬くなったことで、その人物が単なる筆記係ではないことは分かった。


「調べます」


イリスは言った。


リリアが顔を上げる。


「イリス様が、ですか」


「あなたがここまで見つけたのなら、次は私が確認します」


リリアは、少しだけ口を開いた。


何かを言いたそうだった。


けれど、言わなかった。


「お願いいたします」


深く頭を下げる。


その礼は昔より整っていた。


でも、深さだけは少しだけ変わらなかった。

















翌朝、母セレナは一通の封書をイリスに見せた。


差出人は王宮の記録局だった。南区の聖女救済院に関する追加確認のため、関係者を集めて聞き取りを行うという。場所は王宮ではなく、教会本部の資料室。理由は、教会側の原簿をその場で照合するためだと記されていた。


「あなたも同席なさい」


母は言った。


「私が、ですか」


「前回、あなたが処理した件です。最後まで見届けるべきでしょう」


机の上には、リリアが持ってきた写しも置かれていた。母はすでに目を通している。紙の角がきれいに揃えられ、ずれのある数字だけに薄く印がつけられていた。


「リリアの控えも、関係していますか」


「ええ」


母は答えた。


「王宮の記録局にも、似た問い合わせが入ったようです。教会本部の会計補佐が、追加の分配記録を確認したいと申し出ています」


「マティア・オルセンですか」


母は少しだけ目を細めた。


「知っていましたか」


「リリアの控えに、その名がありました」


「そうです」


母は封書を置いた。


「マティア補佐は、教会本部の倉庫記録を写す立場にあります。ただし、決裁権はありません。原簿へ署名できるのは、ローヴェン会計司祭です」


「ローヴェン会計司祭は、どのような人物ですか」


「教会本部の実務家です。寄付品、倉庫、救済施設への分配を長く扱っている。目立つ人物ではありませんが、彼がいなければ多くの書類は動かないでしょう」


目立たない。


けれど、書類は動かせる。


イリスは、その二つを心に留めた。


「フィリア様も呼ばれるのですか」


「呼ばれています」


母は答えた。


「聖女の名で集まった寄付ですから」


イリスは黙った。


フィリア本人が帳簿を書いたわけではない。倉庫を開けたわけでもない。薬箱を動かしたわけでもない。


それでも、門に掲げられていたのは、聖女フィリアの名だった。


「フィリア様は、この件をどこまでご存じなのですか」


「おそらく、表向きの報告だけでしょう」


「それで同席を?」


「聖女の名が使われた以上、本人を外せば、それはそれで憶測を呼びます」


母の声は静かだった。


「ただし、彼女を中心に置きすぎても危うい」


「なぜですか」


「聖女は、慈悲の顔として置かれています。帳簿の責任者ではない。けれど、人々は顔の方を覚えます。帳簿の名前より、白い衣の方が目立つからです」


イリスは、フィリアの白い衣を思い出した。


聖堂の光の中で、聖女らしく微笑んでいた少女。


廊下で、自分の前の名前を覚えていてほしいと頼んだ少女。


その二つは、同じ人間のはずだった。


だが、周囲はいつも、片方だけを見ようとする。


「イリス」


母が言った。


「教会本部では、言葉を選びなさい」


「はい」


「ただし、選びすぎてもいけません。選びすぎた言葉は、何も言っていないのと同じになります」


イリスは母を見た。


「難しいですね」


「ええ」


母は、少しだけ疲れたように笑った。


「だから、皆、帳簿を嫌がるのです」

















教会本部の資料室は、大聖堂の北側にあった。


祈りの場とは違い、そこには華やかさがない。石壁に沿って高い棚が並び、革表紙の台帳や封印された紙束が詰め込まれている。窓は細く、昼でも部屋の隅は暗い。長机の上には燭台が置かれ、古い紙と蝋の匂いが混ざっていた。


イリスが入った時、すでに数人が集まっていた。


王宮の文官が二人。


教会本部の司祭が三人。


南区救済院の現管理役。


そして、聖女フィリア。


フィリアは白い衣ではなく、淡い青を帯びた外套を羽織っていた。儀礼用のものではない。長く座って話を聞くための、少し軽い衣だった。それでも胸元には聖印があり、家の飾りはない。


フィリアはイリスに気づくと、いつものように微笑んだ。


「イリス様」


「フィリア様」


礼を返す。


それだけだった。


以前なら、もう少し言葉があったかもしれない。礼の角度を直したこと。聖堂の脇廊下で話したこと。消えた名前のこと。そういうものが二人の間にはあった。


けれど今は、資料室に教会の司祭がいる。


王宮文官もいる。


聖女と公爵令嬢の会話は、ただの会話としては残らない。


フィリアの隣には、一人の少女が立っていた。


茶色の髪を後ろでまとめ、両手で小さな記録板を抱えている。衣装は修道女のものではない。王宮に出入りする下級貴族の娘が着るような、控えめな灰色の服だった。


少女はイリスと目が合うと、すぐに視線を下げた。


フィリアが言った。


「セラです。最近、私の側で記録を手伝ってくれています」


セラ。


その名を聞いた時、少女の指が記録板の端を少し強く握った。


「セラ・リントンと申します」


小さな声だった。


けれど、礼は整っていた。おそらく何度も練習している。フィリアのそばに立つ者として、恥をかかないように。


イリスは礼を返した。


「イリス・ヴァルクラインです」


セラは顔を上げない。


その仕草を見て、イリスは少しだけ胸の奥が重くなった。


名前を言ったのに、顔を上げない者。


名前を呼ばれることに慣れていない者。


そういう反応を、イリスはもう何度か見ていた。


「本日は、マティア補佐が記録を提出する」


教会本部の司祭が言った。


会計補佐の若い男が、一歩前に出た。


マティアは痩せた男だった。年は二十代半ばほど。黒い髪はきちんと撫でつけられているが、目の下には薄い隈がある。手には封をされた紙束を持っていた。何度も握り直したのか、封の端が少し折れている。


彼は司祭たちを一度見た。


王宮文官を見た。


最後にフィリアを見て、すぐに目を逸らした。


「南区救済院への寄付品に関する、教会本部での分配控えです」


マティアはそう言った。


声は乾いていた。


長机の上に、いくつかの紙が並べられる。


ヴァルクライン家の発送控え。


教会本部の受領控え。


南区救済院の受領書。


本部倉庫の残高記録。


どれも紙の大きさが違う。筆跡も違う。だが、同じ品目が何度も出てくる。薬箱。毛布。灯油。干し肉。


王宮文官が、ひとつずつ確認した。


「ヴァルクライン家から本部倉庫へ、薬箱十箱。これは一致」


「はい」


「本部倉庫から南区救済院へ、六箱。これも受領書と一致」


「はい」


「残り四箱は」


マティアの喉が動いた。


「本部倉庫の別控えでは、余剰扱いとなっています」


「余剰?」


王宮文官が眉を寄せる。


「救済院へ送る前に、余ったと?」


「帳簿上は、そのように」


「病人を抱える南区で、薬箱が余るのですか」


マティアは答えなかった。


答えられなかった。


その沈黙で、部屋の温度が少し下がった気がした。


教会側の司祭が口を挟む。


「記録上の分類です。実際に余ったという意味ではなく、本部で再配分可能な品として扱ったのでしょう」


「再配分先は」


王宮文官が聞く。


司祭はマティアを見た。


マティアは紙束を開きかけた。


その時、資料室の扉が開いた。


「私から説明しましょう」


入ってきたのは、ローヴェン会計司祭だった。


五十歳ほどの男だった。灰色の髪を短く整え、丸みのある体つきをしている。頬は柔らかく、目元には疲れがあった。いかにも長年、書類と倉庫の間を行き来してきた実務家に見えた。


だが、マティアを見る目だけは違った。


一瞬だけ、鋭かった。


「ローヴェン会計司祭」


王宮文官が言う。


「ちょうど確認したいところでした」


「ええ。呼ばれる前に伺いました」


ローヴェンは穏やかに答えた。


「この件で皆様を長くお待たせするのも、聖女様にご心痛をおかけするのも本意ではありませんから」


聖女様。


その一言で、フィリアがわずかに目を伏せた。


ローヴェンはそれを見て、柔らかく頭を下げる。


「ご心配には及びません。帳簿の分類上の問題でございます」


イリスは、ローヴェンの声を聞いていた。


柔らかい。


穏やか。


場を乱さない。


だが、彼の言葉は、ひとつずつ問題を小さくしていく。


不足ではなく、分類。


移動ではなく、再配分。


疑いではなく、心配。


「では、再配分先を示してください」


イリスが言うと、ローヴェンは初めて彼女を見た。


「イリス様」


礼儀正しい声だった。


「前回は、南区の件でご尽力いただいたと伺っております」


「再配分先を」


イリスは繰り返した。


ローヴェンの笑みは崩れない。


「本部倉庫の原簿を確認すれば、分かるでしょう」


「今ここには?」


「写しはあります。ただし、原簿でなければ正式な確認にはなりません」


王宮文官が言う。


「原簿を見せてください」


「もちろんです」


ローヴェンは頷いた。


「ただ、原簿は資料庫に保管しております。古い台帳も多く、取り出しには少し時間がかかる」


「では、今すぐに」


イリスが言うと、教会側の年配司祭が静かに咳払いをした。


「本日の聞き取りは、まず写しの確認まででよろしいのではありませんか。原簿照合は、日を改めても」


「なぜですか」


イリスが聞く。


司祭は微笑んだ。


「資料庫は整備中です。聖女様もお疲れでしょう」


また、フィリアの名が置かれる。


本人が望んだかどうかとは関係なく、会話の中央に置かれる。


イリスはフィリアを見た。


フィリアは黙っている。表情は整っているが、指先が衣の上で小さく動いていた。


この場でフィリアが「私は大丈夫です」と言えば、聖女が教会本部の原簿確認を求めた形になる。


言わなければ、確認は先送りされる。


フィリアは、どちらを選んでも何かを背負う。


「聖女様のお疲れと、原簿の確認は別です」


イリスは言った。


フィリアの指が止まった。


ローヴェンは静かにイリスを見ている。


その視線には、怒りはなかった。


ただ、測っているようだった。


どこまで踏み込むのか。


どこまで見えているのか。


そう問われている気がした。


「本日は、写しの確認まで」


王宮文官の一人が結論を置いた。


「原簿照合は明日、王宮記録局立ち会いのもとで行います。ローヴェン会計司祭、マティア補佐、聖女フィリア様、イリス様にも同席を願います」


明日。


イリスはその言葉を聞いた。


今ここで扉を開けない。


一日置く。


それが何を意味するのか、誰も口にはしなかった。


けれど、マティアの顔色が変わった。


その変化を、イリスは見逃さなかった。

















聞き取りが終わると、資料室の外は夕方の色になっていた。


大聖堂の北側の廊下は冷える。石壁に沿って細い窓が並び、そこから差す光は薄かった。祈りの声は遠く、ここまでは届かない。代わりに、台帳を運ぶ修道士の足音や、鍵束の鳴る音が聞こえた。


イリスは、少し離れたところでフィリアと並んで歩いた。


セラはその後ろにいる。


記録板を抱えたまま、何度も唇を結んでいた。


何かを言いたそうだった。


けれど、言わない。


フィリアが先に口を開いた。


「イリス様」


「はい」


「今日のことは、南区だけの問題ではないのですね」


「おそらく」


「ローヴェン司祭は、分類の問題だと」


「分類で薬は増えません」


フィリアは黙った。


言い方が冷たかった。


分かっていた。


けれど、柔らかく言えば、今度は問題がぼやける。


「フィリア様」


イリスは足を止めた。


「明日の原簿確認で、もし教会本部の不正が出れば、あなたの名前も巻き込まれます」


フィリアは、ゆっくりイリスを見た。


「私の名前で集められたものですから」


「あなたが動かしたわけではありません」


「でも、私の名前でした」


フィリアの声は静かだった。


「門に掲げられていた名前も、受領書に書かれていた名前も、寄付を呼びかけた時に使われた名前も」


イリスは答えられなかった。


その通りだった。


フィリアは自分の責任ではないと言える。実際、その通りだ。けれど、名だけが表に出る制度の中で、それだけでは済まない。


「だからこそ、慎重に」


イリスが言いかけると、フィリアは小さく首を横に振った。


「慎重にしている間に、薬が届かなかったのですよね」


その言葉は、イリスの胸に刺さった。


フィリアは責めているのではない。


たぶん、自分自身にも言っている。


聖女として立つこと。


教会を信じること。


人々に慈悲を示すこと。


そのどれもが正しいはずなのに、どこかで薬箱が減っている。


「明日、私は何を言えばいいのでしょう」


フィリアは言った。


イリスは、すぐには答えなかった。


正しい答えは分からない。


フィリアが強く発言すれば、聖女が教会本部を疑ったことになる。黙れば、何も知らない顔として残る。どちらも傷になる。


「分からない時は、分からないと言うべきです」


イリスは言った。


「聖女が、ですか」


「はい」


「それは、許されるでしょうか」


「許されるかどうかではありません」


イリスは少し言葉を止めた。


以前なら、そのまま言い切っていただろう。


けれど、フィリアの顔を見て、少しだけ言い直した。


「分からないまま、分かっている顔をすると、後であなた自身が苦しくなります」


フィリアは目を伏せた。


「イリス様は、時々、優しいのか冷たいのか分かりません」


「私にも分かりません」


そう答えると、フィリアは少しだけ笑った。


だが、その笑みはすぐに消えた。


後ろで、セラが小さく息を吸った。


イリスは振り向く。


「セラ」


呼ぶと、少女は肩を震わせた。


「何か言いたいことがありますか」


セラは記録板を抱え直した。


「いえ」


嘘だった。


フィリアが優しく言う。


「セラ。大丈夫です。見たことがあるなら、話して」


セラの顔がさらに白くなった。


それを見て、イリスは止めた。


「今は、無理に聞かない方がいいです」


フィリアがイリスを見る。


「なぜですか」


「この廊下には、人が多すぎます」


その言葉に、フィリアも周囲を見た。


少し離れた場所で、修道士が台帳を抱えて歩いている。扉の前には、教会本部の下働きがいる。誰もこちらを見ていないようで、耳だけは向いているかもしれない。


セラは小さく頭を下げた。


「申し訳ございません」


謝らなくていい。


そう言いかけて、イリスは止めた。


ここで言えば、また強く聞こえる。


「明日、記録をお願いします」


代わりにそう言った。


セラは驚いたように顔を上げた。


「私が、ですか」


「あなたは、聞いた言葉を正確に残そうとしていました。明日も、それをしてください」


セラの目が揺れた。


怖いのだろう。


けれど、ほんの少しだけ、背筋が伸びた。


「はい」


その返事は小さかった。


だが、消えなかった。


帰り際、イリスは資料室の近くでマティアに呼び止められた。


彼は廊下の柱の陰に立っていた。手には、先ほどの封書とは別の小さな紙片を持っている。渡そうとしているのか、捨てようとしているのか、分からない持ち方だった。


「イリス様」


声は低かった。


「何ですか」


「明日の原簿確認ですが」


そこまで言って、マティアは周囲を見た。


誰もいない。


だが、それでも彼は声を落とした。


「原簿だけでは、足りません」


「どういう意味ですか」


「原簿は、きれいに書き直せます。けれど、下書きまでは全部消せない。倉庫係が使う日別控えがあります。品をいつ出したか、誰が鍵を開けたか、荷馬車を何台使ったか。そちらを見れば、南区以外の分も分かります」


「その控えはどこに」


「資料庫の奥です」


マティアは唇を噛んだ。


「ローヴェン司祭が鍵を持っています」


「あなたは持っていないのですか」


「会計補佐ですから」


その声には、自分の立場を何度も思い知らされてきた者の響きがあった。


「明日、あなたがそれを言えばいい」


イリスが言うと、マティアは顔を歪めた。


「言えるなら、今日言っています」


「では、なぜ私に」


マティアはすぐには答えなかった。


廊下の奥から、修道士の足音が近づいてくる。マティアは紙片を握りしめたまま、柱の影に半歩下がった。


「私は、聖女様のお名前で集まった薬が、迎賓費に使われるのを見ました」


声はほとんど息だった。


「巡礼司祭団への支給も、全部が嘘とは言いません。必要なものもありました。でも、南区に回すはずだった分まで余剰にして、その上に署名がある」


「誰の署名ですか」


マティアは答えなかった。


答えないまま、顔だけが白くなる。


「ローヴェン会計司祭だけではないのですね」


マティアは、わずかに頷いた。


それで十分だった。


上にいる。


ローヴェンのさらに上。


教会本部の中で、寄付品の行き先を変えられる者。記録を書き直すことを許せる者。聖女の名を看板として扱いながら、その裏で薬箱の数を動かせる者。


イリスの背中に、冷たいものが走った。


「明日、日別控えを確認します」


イリスは言った。


「あなたも、必要な時に発言してください」


マティアは小さく笑った。


笑いというより、諦めに近かった。


「必要な時が来る前に、私は黙るかもしれません」


「なぜ」


「怖いからです」


正直な言葉だった。


イリスは、少し意外に思った。


この男は、正義のために震えているのではない。


怖い。


それでも黙りきれない。


だから中途半端に紙を残し、中途半端に人へ頼り、中途半端に逃げ道を探している。


その方が、人間らしかった。


「怖いなら、紙を残してください」


イリスは言った。


「言葉で言えないなら、紙に」


マティアは、握っていた紙片を見た。


「紙も、消されます」


「なら、複数残してください」


マティアは顔を上げた。


イリスは続けた。


「ひとつを消されても、別の場所に残るように。あなたひとりで抱えれば、あなたごと消されます」


その言葉に、マティアの表情が強張った。


強すぎた。


そう思ったが、訂正はしなかった。


マティアは、しばらくして小さく頷いた。


「明日、日別控えの棚を示します」


それだけ言って、彼は廊下の奥へ消えた。


イリスは、しばらくその背中を見ていた。


足取りは頼りない。


だが、逃げてはいない。


少なくとも、まだ。

















その夜、ヴァルクライン邸に戻ったイリスは、母へ報告した。


セレナは最後まで黙って聞いた。


机の上には、リリアの写し、王宮記録局の封書、教会本部で確認した品目の控えが並んでいる。数字のずれは、南区だけではなくなっていた。西門施療所、北鐘孤児院、冬季救済。本部倉庫を通ったものだけが、少しずつ姿を変えている。


「ローヴェン会計司祭は、原簿を明日出すと言いました」


イリスは言った。


「ですが、マティア補佐によれば、原簿だけでは足りません。日別控えを見る必要があります」


母は目を伏せた。


「日別控え」


「倉庫の鍵を誰が開けたか、どの荷馬車を使ったか、品がいつ出たかが残るそうです」


「それを見れば、教会本部の誰が関わったかに近づく」


「はい」


「近づきすぎるかもしれません」


母の言葉に、イリスは黙った。


近づきすぎる。


それは、危険だという意味だった。


「イリス」


「はい」


「南区の管理役を退けた時点では、あなたは現場の不備を正した令嬢でした」


母は一枚の紙を指で押さえた。


「けれど、教会本部の倉庫へ踏み込めば、そうは見られません」


「不正を正すだけではありませんか」


「教会から見れば、秩序を乱す者です」


「秩序」


「ええ」


母は静かに言った。


「病人のための薬が届くことより、教会の秩序が守られることを大切にする者もいます」


イリスは、マティアの言葉を思い出した。


聖女様のお名前で集まった薬が、迎賓費に使われるのを見ました。


怖いからです。


必要な時が来る前に、私は黙るかもしれません。


「黙れば、また同じことが起きます」


「そうでしょうね」


「なら、確認します」


母は止めなかった。


止めてほしいわけではない。


けれど、止めないことが、イリスには少し怖かった。


「明日、教会本部で何かあれば、あなたの言葉は必ず残ります」


母は言った。


「正しい言葉も、冷たい言葉として残ることがあります。誰かを守るための言葉も、誰かを脅した言葉として残ることがあります」


「では、どうすればいいのですか」


母はすぐには答えなかった。


窓の外では、冬の終わりの風が白薔薇の枝を揺らしている。


「残されても構わない言葉を選びなさい」


「そんな言葉だけで、人は守れますか」


その問いに、母は答えなかった。


答えがないのだと、イリスは思った。


翌日の聞き取りは、朝から行われることになった。


イリスは夜、自室で書類を見直した。


南区救済院。


西門施療所。


北鐘孤児院。


本部倉庫。


同じ品目。同じずれ。同じように曖昧な再配分先。


紙を並べれば、一本の道のように見える。


けれど、その道の先に誰がいるのかは、まだ見えない。


ローヴェン会計司祭。


マティア補佐。


教会本部の司祭たち。


そして、名前の出てこない誰か。


マティアは、ローヴェンだけではないと言った。


では、誰なのか。


イリスは、そこまでは考えないようにした。名前を持たない相手を追いかけると、想像だけが膨らむ。必要なのは想像ではない。明日、何を見るかを決めることだった。


日別控え。


鍵の記録。


荷馬車の台数。


品を動かした日付。


署名。


この五つを見る。


それだけを紙に書き出す。


その隣に、小さく書いた。


セラには無理に話させない。


マティアの紙をその場で奪わない。


フィリアを前に出させない。


書いてから、イリスは手を止めた。


自分で書いた文字が、少し冷たく見えた。


話させない。


奪わない。


出させない。


誰かを守るために考えているはずなのに、文字にすると命令ばかりになる。


イリスは羽根ペンを置いた。


聖女フィリアは、明日もあの場にいる。


セラもいる。


マティアもいる。


ローヴェンもいる。


それぞれが、それぞれの恐れを持っている。


自分だけが正しい顔をしてはいけない。


そう思った。


けれど、正しくない顔で立つ方法も、まだ知らなかった。

















同じ頃、教会本部の資料室には、まだ灯りが残っていた。


昼間に使われた長机の上には、台帳が数冊積まれている。燭台の火は短くなり、蝋が皿の縁で固まりかけていた。窓の外は暗い。大聖堂の祈りの声も、もう聞こえない。


ローヴェン会計司祭は、資料庫の鍵束を机に置いた。


その前に、一通の封書があった。


差出人の名はない。


封蝋にも、紋は押されていない。


けれど、ローヴェンはそれを開けずにしばらく見ていた。


中身を知らない者の顔ではなかった。


やがて、彼は封を切った。


紙は一枚だけだった。


書かれていた文字も、短い。


「身を賭して、秩序を守れ。」


ローヴェンは、その一文を読み終えると、目を閉じた。


疲れたようにも見えた。


諦めたようにも見えた。


怒っているようにも見えた。


しばらくして、彼は紙を燭台の火に近づけた。


端から黒く焦げ、文字が歪み、灰になって皿へ落ちる。


ローヴェンは灰を指で崩した。


それから、資料庫の鍵束を手に取った。


廊下の奥で、鍵の音が小さく鳴った。


翌朝、どの頁が残り、どの頁が消えているのか。


その時点では、まだ誰も知らなかった。

読んでくださりありがとうございますm(__)m

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