第一章 13話 イリス・ヴァルクラインⅤ
イリスが十五歳になる少し前、南区の聖女救済院の件は、終わったことにされていた。
アルノー司祭は管理役を退き、不足していた薬箱と毛布は補填された。王宮の文官が帳簿を預かり、教会は「管理体制の見直し」を約束した。評議の記録には、そう書かれている。
けれど、紙の上で終わったことが、現実でも終わるとは限らない。
救済院へ届くはずだった寄付品は、どこかで数を減らされていた。現場の管理役ひとりが勝手に動かしたのか。それとも、もっと上の誰かが、聖女の名で集まった品を別の場所へ回していたのか。
その答えは、まだ出ていなかった。
そして、答えが出ないまま残る問いは、人の口に乗ると別の形になる。
ヴァルクラインの姫君が、救済院に乗り込んだ。
聖女様の事業に口を出した。
司祭を一人、簡単に退けた。
公爵家の娘は、笑わずに人を切る。
イリスはその噂を聞いても、歩幅を変えなかった。背筋を伸ばし、必要な場に出て、必要な言葉だけを口にした。
それが余計に、噂を本当らしく見せているのだと分かっていた。
分かっていても、ほかの振る舞い方を知らなかった。
笑って否定すれば、余裕があるように見える。泣いて否定すれば、弱さを見せたことになる。怒れば、高慢だと言われる。黙れば、やはり冷たいのだと言われる。
何をしても、誰かが別の言葉を与える。
なら、せめて必要なことだけをする。
イリスは、そう考えるようになっていた。
最初に、南区だけではないと気づいたのは、またリリアだった。
南棟の帳簿室には、冬の冷えがまだ残っていた。春が近いとはいえ、朝方の石床は冷たく、机の脚に触れた靴先からじわりと寒さが上がってくる。暖炉のそばに置かれた湯気の立つ茶も、半刻もしないうちに冷めた。
リリアはその部屋で、寄付品の控えを写していた。
南区の救済院だけではない。ヴァルクライン家は、王都の西門近くにある施療所、北鐘地区の孤児院、教会本部の倉庫を経由する冬季救済にも、少しずつ物資を出している。
薬箱。
毛布。
灯油。
干し肉。
麦粉。
どれも数だけ見れば小さなものだった。けれど、小さな数が、何度も同じ向きにずれていた。
送った数より、受け取った数が少ない。
少ない分は、いつも「本部倉庫預かり」と記されている。
そして、その本部倉庫からどこへ出たのかが、ヴァルクライン家へ戻ってくる書類には書かれていなかった。
リリアは、最初の一枚を見つけた時、すぐにはイリスへ持ってこなかった。自分の見間違いかもしれないと思ったからだ。二枚目を見つけても、まだ黙っていた。三枚目で、帳簿係の古い控えと照らし合わせた。
それでも、ずれていた。
夕刻前、リリアはイリスの部屋を訪ねてきた。
扉を叩く音は、昔より少しだけはっきりしていた。
「入りなさい」
イリスが言うと、リリアは一礼して入ってきた。手には、紐でまとめた紙束を抱えている。
「イリス様。南区の件と、似た控えがございます」
「南区以外にも?」
「はい」
リリアは机に紙を広げた。
文字は整っていた。余白の取り方も、数字の並べ方も、以前よりずっと見やすい。けれど、紙を押さえる指先には力が入っている。
「西門施療所、北鐘孤児院、冬季救済の本部倉庫分です。いずれも、ヴァルクライン家の発送控えと、教会からの受領書は一致しています」
「なら問題はないように見えます」
「はい。ですが、その後の本部倉庫の再配分控えが、こちらには戻ってきていません」
イリスは紙を見た。
ヴァルクライン家が教会本部へ納めた品は、いったん本部倉庫に入る。そこから各救済施設へ配られる場合、教会本部が分配控えを作ることになっている。通常、その写しは寄付元にも返る。少なくとも、大きな貴族家にはそうする。
名誉のためだ。
何をどこへ出したか。
どの施設を支えたか。
王宮や社交界で語る時、数字は祈りより便利な証明になる。
だが、その写しがない。
「単なる遅れでは」
「そう思いました」
リリアは一枚の紙を示した。
「ただ、こちらの受領印の日付は二か月前です。本部倉庫から出ていないなら、まだ薬箱と毛布は本部に残っているはずです。ですが、倉庫残高の写しでは、該当する数がありません」
イリスは紙を見比べた。
発送控え。
受領書。
倉庫残高の写し。
数字は、ひとつひとつは小さい。だが、同じ方向へずれている。
「帳簿係には?」
「まだ話していません」
「理由は」
リリアは少しだけ視線を下げた。
「南区の時と同じです。私の見間違いなら、騒ぎになります。それと……今回は、教会本部の倉庫が関わっています」
現場の救済院ではない。
教会本部。
その言葉の重さは、イリスにも分かった。
南区の管理役を退けるのとは違う。教会本部の倉庫に踏み込むということは、物資を動かす権限を持つ者たちに触れるということだ。
「この写しは、誰が作りましたか」
「帳簿室に届いたものは、教会本部の会計補佐の名でした」
「名前は」
「マティア・オルセン」
リリアはそう答えた。
「ただ、受領印はローヴェン会計司祭のものです」
ローヴェン会計司祭。
イリスは、その名をまだ知らなかった。
だが、リリアの声が少し硬くなったことで、その人物が単なる筆記係ではないことは分かった。
「調べます」
イリスは言った。
リリアが顔を上げる。
「イリス様が、ですか」
「あなたがここまで見つけたのなら、次は私が確認します」
リリアは、少しだけ口を開いた。
何かを言いたそうだった。
けれど、言わなかった。
「お願いいたします」
深く頭を下げる。
その礼は昔より整っていた。
でも、深さだけは少しだけ変わらなかった。
翌朝、母セレナは一通の封書をイリスに見せた。
差出人は王宮の記録局だった。南区の聖女救済院に関する追加確認のため、関係者を集めて聞き取りを行うという。場所は王宮ではなく、教会本部の資料室。理由は、教会側の原簿をその場で照合するためだと記されていた。
「あなたも同席なさい」
母は言った。
「私が、ですか」
「前回、あなたが処理した件です。最後まで見届けるべきでしょう」
机の上には、リリアが持ってきた写しも置かれていた。母はすでに目を通している。紙の角がきれいに揃えられ、ずれのある数字だけに薄く印がつけられていた。
「リリアの控えも、関係していますか」
「ええ」
母は答えた。
「王宮の記録局にも、似た問い合わせが入ったようです。教会本部の会計補佐が、追加の分配記録を確認したいと申し出ています」
「マティア・オルセンですか」
母は少しだけ目を細めた。
「知っていましたか」
「リリアの控えに、その名がありました」
「そうです」
母は封書を置いた。
「マティア補佐は、教会本部の倉庫記録を写す立場にあります。ただし、決裁権はありません。原簿へ署名できるのは、ローヴェン会計司祭です」
「ローヴェン会計司祭は、どのような人物ですか」
「教会本部の実務家です。寄付品、倉庫、救済施設への分配を長く扱っている。目立つ人物ではありませんが、彼がいなければ多くの書類は動かないでしょう」
目立たない。
けれど、書類は動かせる。
イリスは、その二つを心に留めた。
「フィリア様も呼ばれるのですか」
「呼ばれています」
母は答えた。
「聖女の名で集まった寄付ですから」
イリスは黙った。
フィリア本人が帳簿を書いたわけではない。倉庫を開けたわけでもない。薬箱を動かしたわけでもない。
それでも、門に掲げられていたのは、聖女フィリアの名だった。
「フィリア様は、この件をどこまでご存じなのですか」
「おそらく、表向きの報告だけでしょう」
「それで同席を?」
「聖女の名が使われた以上、本人を外せば、それはそれで憶測を呼びます」
母の声は静かだった。
「ただし、彼女を中心に置きすぎても危うい」
「なぜですか」
「聖女は、慈悲の顔として置かれています。帳簿の責任者ではない。けれど、人々は顔の方を覚えます。帳簿の名前より、白い衣の方が目立つからです」
イリスは、フィリアの白い衣を思い出した。
聖堂の光の中で、聖女らしく微笑んでいた少女。
廊下で、自分の前の名前を覚えていてほしいと頼んだ少女。
その二つは、同じ人間のはずだった。
だが、周囲はいつも、片方だけを見ようとする。
「イリス」
母が言った。
「教会本部では、言葉を選びなさい」
「はい」
「ただし、選びすぎてもいけません。選びすぎた言葉は、何も言っていないのと同じになります」
イリスは母を見た。
「難しいですね」
「ええ」
母は、少しだけ疲れたように笑った。
「だから、皆、帳簿を嫌がるのです」
教会本部の資料室は、大聖堂の北側にあった。
祈りの場とは違い、そこには華やかさがない。石壁に沿って高い棚が並び、革表紙の台帳や封印された紙束が詰め込まれている。窓は細く、昼でも部屋の隅は暗い。長机の上には燭台が置かれ、古い紙と蝋の匂いが混ざっていた。
イリスが入った時、すでに数人が集まっていた。
王宮の文官が二人。
教会本部の司祭が三人。
南区救済院の現管理役。
そして、聖女フィリア。
フィリアは白い衣ではなく、淡い青を帯びた外套を羽織っていた。儀礼用のものではない。長く座って話を聞くための、少し軽い衣だった。それでも胸元には聖印があり、家の飾りはない。
フィリアはイリスに気づくと、いつものように微笑んだ。
「イリス様」
「フィリア様」
礼を返す。
それだけだった。
以前なら、もう少し言葉があったかもしれない。礼の角度を直したこと。聖堂の脇廊下で話したこと。消えた名前のこと。そういうものが二人の間にはあった。
けれど今は、資料室に教会の司祭がいる。
王宮文官もいる。
聖女と公爵令嬢の会話は、ただの会話としては残らない。
フィリアの隣には、一人の少女が立っていた。
茶色の髪を後ろでまとめ、両手で小さな記録板を抱えている。衣装は修道女のものではない。王宮に出入りする下級貴族の娘が着るような、控えめな灰色の服だった。
少女はイリスと目が合うと、すぐに視線を下げた。
フィリアが言った。
「セラです。最近、私の側で記録を手伝ってくれています」
セラ。
その名を聞いた時、少女の指が記録板の端を少し強く握った。
「セラ・リントンと申します」
小さな声だった。
けれど、礼は整っていた。おそらく何度も練習している。フィリアのそばに立つ者として、恥をかかないように。
イリスは礼を返した。
「イリス・ヴァルクラインです」
セラは顔を上げない。
その仕草を見て、イリスは少しだけ胸の奥が重くなった。
名前を言ったのに、顔を上げない者。
名前を呼ばれることに慣れていない者。
そういう反応を、イリスはもう何度か見ていた。
「本日は、マティア補佐が記録を提出する」
教会本部の司祭が言った。
会計補佐の若い男が、一歩前に出た。
マティアは痩せた男だった。年は二十代半ばほど。黒い髪はきちんと撫でつけられているが、目の下には薄い隈がある。手には封をされた紙束を持っていた。何度も握り直したのか、封の端が少し折れている。
彼は司祭たちを一度見た。
王宮文官を見た。
最後にフィリアを見て、すぐに目を逸らした。
「南区救済院への寄付品に関する、教会本部での分配控えです」
マティアはそう言った。
声は乾いていた。
長机の上に、いくつかの紙が並べられる。
ヴァルクライン家の発送控え。
教会本部の受領控え。
南区救済院の受領書。
本部倉庫の残高記録。
どれも紙の大きさが違う。筆跡も違う。だが、同じ品目が何度も出てくる。薬箱。毛布。灯油。干し肉。
王宮文官が、ひとつずつ確認した。
「ヴァルクライン家から本部倉庫へ、薬箱十箱。これは一致」
「はい」
「本部倉庫から南区救済院へ、六箱。これも受領書と一致」
「はい」
「残り四箱は」
マティアの喉が動いた。
「本部倉庫の別控えでは、余剰扱いとなっています」
「余剰?」
王宮文官が眉を寄せる。
「救済院へ送る前に、余ったと?」
「帳簿上は、そのように」
「病人を抱える南区で、薬箱が余るのですか」
マティアは答えなかった。
答えられなかった。
その沈黙で、部屋の温度が少し下がった気がした。
教会側の司祭が口を挟む。
「記録上の分類です。実際に余ったという意味ではなく、本部で再配分可能な品として扱ったのでしょう」
「再配分先は」
王宮文官が聞く。
司祭はマティアを見た。
マティアは紙束を開きかけた。
その時、資料室の扉が開いた。
「私から説明しましょう」
入ってきたのは、ローヴェン会計司祭だった。
五十歳ほどの男だった。灰色の髪を短く整え、丸みのある体つきをしている。頬は柔らかく、目元には疲れがあった。いかにも長年、書類と倉庫の間を行き来してきた実務家に見えた。
だが、マティアを見る目だけは違った。
一瞬だけ、鋭かった。
「ローヴェン会計司祭」
王宮文官が言う。
「ちょうど確認したいところでした」
「ええ。呼ばれる前に伺いました」
ローヴェンは穏やかに答えた。
「この件で皆様を長くお待たせするのも、聖女様にご心痛をおかけするのも本意ではありませんから」
聖女様。
その一言で、フィリアがわずかに目を伏せた。
ローヴェンはそれを見て、柔らかく頭を下げる。
「ご心配には及びません。帳簿の分類上の問題でございます」
イリスは、ローヴェンの声を聞いていた。
柔らかい。
穏やか。
場を乱さない。
だが、彼の言葉は、ひとつずつ問題を小さくしていく。
不足ではなく、分類。
移動ではなく、再配分。
疑いではなく、心配。
「では、再配分先を示してください」
イリスが言うと、ローヴェンは初めて彼女を見た。
「イリス様」
礼儀正しい声だった。
「前回は、南区の件でご尽力いただいたと伺っております」
「再配分先を」
イリスは繰り返した。
ローヴェンの笑みは崩れない。
「本部倉庫の原簿を確認すれば、分かるでしょう」
「今ここには?」
「写しはあります。ただし、原簿でなければ正式な確認にはなりません」
王宮文官が言う。
「原簿を見せてください」
「もちろんです」
ローヴェンは頷いた。
「ただ、原簿は資料庫に保管しております。古い台帳も多く、取り出しには少し時間がかかる」
「では、今すぐに」
イリスが言うと、教会側の年配司祭が静かに咳払いをした。
「本日の聞き取りは、まず写しの確認まででよろしいのではありませんか。原簿照合は、日を改めても」
「なぜですか」
イリスが聞く。
司祭は微笑んだ。
「資料庫は整備中です。聖女様もお疲れでしょう」
また、フィリアの名が置かれる。
本人が望んだかどうかとは関係なく、会話の中央に置かれる。
イリスはフィリアを見た。
フィリアは黙っている。表情は整っているが、指先が衣の上で小さく動いていた。
この場でフィリアが「私は大丈夫です」と言えば、聖女が教会本部の原簿確認を求めた形になる。
言わなければ、確認は先送りされる。
フィリアは、どちらを選んでも何かを背負う。
「聖女様のお疲れと、原簿の確認は別です」
イリスは言った。
フィリアの指が止まった。
ローヴェンは静かにイリスを見ている。
その視線には、怒りはなかった。
ただ、測っているようだった。
どこまで踏み込むのか。
どこまで見えているのか。
そう問われている気がした。
「本日は、写しの確認まで」
王宮文官の一人が結論を置いた。
「原簿照合は明日、王宮記録局立ち会いのもとで行います。ローヴェン会計司祭、マティア補佐、聖女フィリア様、イリス様にも同席を願います」
明日。
イリスはその言葉を聞いた。
今ここで扉を開けない。
一日置く。
それが何を意味するのか、誰も口にはしなかった。
けれど、マティアの顔色が変わった。
その変化を、イリスは見逃さなかった。
聞き取りが終わると、資料室の外は夕方の色になっていた。
大聖堂の北側の廊下は冷える。石壁に沿って細い窓が並び、そこから差す光は薄かった。祈りの声は遠く、ここまでは届かない。代わりに、台帳を運ぶ修道士の足音や、鍵束の鳴る音が聞こえた。
イリスは、少し離れたところでフィリアと並んで歩いた。
セラはその後ろにいる。
記録板を抱えたまま、何度も唇を結んでいた。
何かを言いたそうだった。
けれど、言わない。
フィリアが先に口を開いた。
「イリス様」
「はい」
「今日のことは、南区だけの問題ではないのですね」
「おそらく」
「ローヴェン司祭は、分類の問題だと」
「分類で薬は増えません」
フィリアは黙った。
言い方が冷たかった。
分かっていた。
けれど、柔らかく言えば、今度は問題がぼやける。
「フィリア様」
イリスは足を止めた。
「明日の原簿確認で、もし教会本部の不正が出れば、あなたの名前も巻き込まれます」
フィリアは、ゆっくりイリスを見た。
「私の名前で集められたものですから」
「あなたが動かしたわけではありません」
「でも、私の名前でした」
フィリアの声は静かだった。
「門に掲げられていた名前も、受領書に書かれていた名前も、寄付を呼びかけた時に使われた名前も」
イリスは答えられなかった。
その通りだった。
フィリアは自分の責任ではないと言える。実際、その通りだ。けれど、名だけが表に出る制度の中で、それだけでは済まない。
「だからこそ、慎重に」
イリスが言いかけると、フィリアは小さく首を横に振った。
「慎重にしている間に、薬が届かなかったのですよね」
その言葉は、イリスの胸に刺さった。
フィリアは責めているのではない。
たぶん、自分自身にも言っている。
聖女として立つこと。
教会を信じること。
人々に慈悲を示すこと。
そのどれもが正しいはずなのに、どこかで薬箱が減っている。
「明日、私は何を言えばいいのでしょう」
フィリアは言った。
イリスは、すぐには答えなかった。
正しい答えは分からない。
フィリアが強く発言すれば、聖女が教会本部を疑ったことになる。黙れば、何も知らない顔として残る。どちらも傷になる。
「分からない時は、分からないと言うべきです」
イリスは言った。
「聖女が、ですか」
「はい」
「それは、許されるでしょうか」
「許されるかどうかではありません」
イリスは少し言葉を止めた。
以前なら、そのまま言い切っていただろう。
けれど、フィリアの顔を見て、少しだけ言い直した。
「分からないまま、分かっている顔をすると、後であなた自身が苦しくなります」
フィリアは目を伏せた。
「イリス様は、時々、優しいのか冷たいのか分かりません」
「私にも分かりません」
そう答えると、フィリアは少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐに消えた。
後ろで、セラが小さく息を吸った。
イリスは振り向く。
「セラ」
呼ぶと、少女は肩を震わせた。
「何か言いたいことがありますか」
セラは記録板を抱え直した。
「いえ」
嘘だった。
フィリアが優しく言う。
「セラ。大丈夫です。見たことがあるなら、話して」
セラの顔がさらに白くなった。
それを見て、イリスは止めた。
「今は、無理に聞かない方がいいです」
フィリアがイリスを見る。
「なぜですか」
「この廊下には、人が多すぎます」
その言葉に、フィリアも周囲を見た。
少し離れた場所で、修道士が台帳を抱えて歩いている。扉の前には、教会本部の下働きがいる。誰もこちらを見ていないようで、耳だけは向いているかもしれない。
セラは小さく頭を下げた。
「申し訳ございません」
謝らなくていい。
そう言いかけて、イリスは止めた。
ここで言えば、また強く聞こえる。
「明日、記録をお願いします」
代わりにそう言った。
セラは驚いたように顔を上げた。
「私が、ですか」
「あなたは、聞いた言葉を正確に残そうとしていました。明日も、それをしてください」
セラの目が揺れた。
怖いのだろう。
けれど、ほんの少しだけ、背筋が伸びた。
「はい」
その返事は小さかった。
だが、消えなかった。
帰り際、イリスは資料室の近くでマティアに呼び止められた。
彼は廊下の柱の陰に立っていた。手には、先ほどの封書とは別の小さな紙片を持っている。渡そうとしているのか、捨てようとしているのか、分からない持ち方だった。
「イリス様」
声は低かった。
「何ですか」
「明日の原簿確認ですが」
そこまで言って、マティアは周囲を見た。
誰もいない。
だが、それでも彼は声を落とした。
「原簿だけでは、足りません」
「どういう意味ですか」
「原簿は、きれいに書き直せます。けれど、下書きまでは全部消せない。倉庫係が使う日別控えがあります。品をいつ出したか、誰が鍵を開けたか、荷馬車を何台使ったか。そちらを見れば、南区以外の分も分かります」
「その控えはどこに」
「資料庫の奥です」
マティアは唇を噛んだ。
「ローヴェン司祭が鍵を持っています」
「あなたは持っていないのですか」
「会計補佐ですから」
その声には、自分の立場を何度も思い知らされてきた者の響きがあった。
「明日、あなたがそれを言えばいい」
イリスが言うと、マティアは顔を歪めた。
「言えるなら、今日言っています」
「では、なぜ私に」
マティアはすぐには答えなかった。
廊下の奥から、修道士の足音が近づいてくる。マティアは紙片を握りしめたまま、柱の影に半歩下がった。
「私は、聖女様のお名前で集まった薬が、迎賓費に使われるのを見ました」
声はほとんど息だった。
「巡礼司祭団への支給も、全部が嘘とは言いません。必要なものもありました。でも、南区に回すはずだった分まで余剰にして、その上に署名がある」
「誰の署名ですか」
マティアは答えなかった。
答えないまま、顔だけが白くなる。
「ローヴェン会計司祭だけではないのですね」
マティアは、わずかに頷いた。
それで十分だった。
上にいる。
ローヴェンのさらに上。
教会本部の中で、寄付品の行き先を変えられる者。記録を書き直すことを許せる者。聖女の名を看板として扱いながら、その裏で薬箱の数を動かせる者。
イリスの背中に、冷たいものが走った。
「明日、日別控えを確認します」
イリスは言った。
「あなたも、必要な時に発言してください」
マティアは小さく笑った。
笑いというより、諦めに近かった。
「必要な時が来る前に、私は黙るかもしれません」
「なぜ」
「怖いからです」
正直な言葉だった。
イリスは、少し意外に思った。
この男は、正義のために震えているのではない。
怖い。
それでも黙りきれない。
だから中途半端に紙を残し、中途半端に人へ頼り、中途半端に逃げ道を探している。
その方が、人間らしかった。
「怖いなら、紙を残してください」
イリスは言った。
「言葉で言えないなら、紙に」
マティアは、握っていた紙片を見た。
「紙も、消されます」
「なら、複数残してください」
マティアは顔を上げた。
イリスは続けた。
「ひとつを消されても、別の場所に残るように。あなたひとりで抱えれば、あなたごと消されます」
その言葉に、マティアの表情が強張った。
強すぎた。
そう思ったが、訂正はしなかった。
マティアは、しばらくして小さく頷いた。
「明日、日別控えの棚を示します」
それだけ言って、彼は廊下の奥へ消えた。
イリスは、しばらくその背中を見ていた。
足取りは頼りない。
だが、逃げてはいない。
少なくとも、まだ。
その夜、ヴァルクライン邸に戻ったイリスは、母へ報告した。
セレナは最後まで黙って聞いた。
机の上には、リリアの写し、王宮記録局の封書、教会本部で確認した品目の控えが並んでいる。数字のずれは、南区だけではなくなっていた。西門施療所、北鐘孤児院、冬季救済。本部倉庫を通ったものだけが、少しずつ姿を変えている。
「ローヴェン会計司祭は、原簿を明日出すと言いました」
イリスは言った。
「ですが、マティア補佐によれば、原簿だけでは足りません。日別控えを見る必要があります」
母は目を伏せた。
「日別控え」
「倉庫の鍵を誰が開けたか、どの荷馬車を使ったか、品がいつ出たかが残るそうです」
「それを見れば、教会本部の誰が関わったかに近づく」
「はい」
「近づきすぎるかもしれません」
母の言葉に、イリスは黙った。
近づきすぎる。
それは、危険だという意味だった。
「イリス」
「はい」
「南区の管理役を退けた時点では、あなたは現場の不備を正した令嬢でした」
母は一枚の紙を指で押さえた。
「けれど、教会本部の倉庫へ踏み込めば、そうは見られません」
「不正を正すだけではありませんか」
「教会から見れば、秩序を乱す者です」
「秩序」
「ええ」
母は静かに言った。
「病人のための薬が届くことより、教会の秩序が守られることを大切にする者もいます」
イリスは、マティアの言葉を思い出した。
聖女様のお名前で集まった薬が、迎賓費に使われるのを見ました。
怖いからです。
必要な時が来る前に、私は黙るかもしれません。
「黙れば、また同じことが起きます」
「そうでしょうね」
「なら、確認します」
母は止めなかった。
止めてほしいわけではない。
けれど、止めないことが、イリスには少し怖かった。
「明日、教会本部で何かあれば、あなたの言葉は必ず残ります」
母は言った。
「正しい言葉も、冷たい言葉として残ることがあります。誰かを守るための言葉も、誰かを脅した言葉として残ることがあります」
「では、どうすればいいのですか」
母はすぐには答えなかった。
窓の外では、冬の終わりの風が白薔薇の枝を揺らしている。
「残されても構わない言葉を選びなさい」
「そんな言葉だけで、人は守れますか」
その問いに、母は答えなかった。
答えがないのだと、イリスは思った。
翌日の聞き取りは、朝から行われることになった。
イリスは夜、自室で書類を見直した。
南区救済院。
西門施療所。
北鐘孤児院。
本部倉庫。
同じ品目。同じずれ。同じように曖昧な再配分先。
紙を並べれば、一本の道のように見える。
けれど、その道の先に誰がいるのかは、まだ見えない。
ローヴェン会計司祭。
マティア補佐。
教会本部の司祭たち。
そして、名前の出てこない誰か。
マティアは、ローヴェンだけではないと言った。
では、誰なのか。
イリスは、そこまでは考えないようにした。名前を持たない相手を追いかけると、想像だけが膨らむ。必要なのは想像ではない。明日、何を見るかを決めることだった。
日別控え。
鍵の記録。
荷馬車の台数。
品を動かした日付。
署名。
この五つを見る。
それだけを紙に書き出す。
その隣に、小さく書いた。
セラには無理に話させない。
マティアの紙をその場で奪わない。
フィリアを前に出させない。
書いてから、イリスは手を止めた。
自分で書いた文字が、少し冷たく見えた。
話させない。
奪わない。
出させない。
誰かを守るために考えているはずなのに、文字にすると命令ばかりになる。
イリスは羽根ペンを置いた。
聖女フィリアは、明日もあの場にいる。
セラもいる。
マティアもいる。
ローヴェンもいる。
それぞれが、それぞれの恐れを持っている。
自分だけが正しい顔をしてはいけない。
そう思った。
けれど、正しくない顔で立つ方法も、まだ知らなかった。
同じ頃、教会本部の資料室には、まだ灯りが残っていた。
昼間に使われた長机の上には、台帳が数冊積まれている。燭台の火は短くなり、蝋が皿の縁で固まりかけていた。窓の外は暗い。大聖堂の祈りの声も、もう聞こえない。
ローヴェン会計司祭は、資料庫の鍵束を机に置いた。
その前に、一通の封書があった。
差出人の名はない。
封蝋にも、紋は押されていない。
けれど、ローヴェンはそれを開けずにしばらく見ていた。
中身を知らない者の顔ではなかった。
やがて、彼は封を切った。
紙は一枚だけだった。
書かれていた文字も、短い。
「身を賭して、秩序を守れ。」
ローヴェンは、その一文を読み終えると、目を閉じた。
疲れたようにも見えた。
諦めたようにも見えた。
怒っているようにも見えた。
しばらくして、彼は紙を燭台の火に近づけた。
端から黒く焦げ、文字が歪み、灰になって皿へ落ちる。
ローヴェンは灰を指で崩した。
それから、資料庫の鍵束を手に取った。
廊下の奥で、鍵の音が小さく鳴った。
翌朝、どの頁が残り、どの頁が消えているのか。
その時点では、まだ誰も知らなかった。
読んでくださりありがとうございますm(__)m




