第一章 14話 イリス・ヴァルクラインⅥ
翌朝、教会本部の北廊下は、いつもより静かだった。
大聖堂の正面では朝の祈りが始まっているはずなのに、資料室のある北側までは、聖歌も鐘の音もほとんど届かない。石壁に沿って置かれた燭台の火が、細い窓から入る白い光に押されて、頼りなく揺れていた。
イリスは、母の馬車を降りてから、ずっと指先の冷たさを意識していた。
寒さのせいだけではない。
今日、確認するものは決まっている。
原簿。
日別控え。
鍵の記録。
荷馬車の台数。
品を動かした日付。
署名。
昨夜、自室で書き出した六つを、イリスは頭の中で繰り返した。
ここで見落とせば、話は小さな箱に戻される。
南区の救済院。
アルノー司祭の不備。
帳簿の行き違い。
現場の混乱。
そういう言葉に入れられて、蓋をされる。
それでは、薬箱がどこへ消えたのか分からない。誰がそれを動かしたのかも分からない。聖女の名で集められたものが、誰の手で別の場所へ流れたのかも。
分からないまま、終わる。
それだけは避けなければならなかった。
資料室の扉の前には、王宮記録局の文官が二人立っていた。昨日もいた男たちだ。一人は痩せていて、筆記板を胸に抱えている。もう一人は年嵩で、目元に疲れがある。
「イリス様」
年嵩の文官が礼をした。
「すでに皆様おそろいです」
「原簿は?」
「ローヴェン会計司祭が、これから資料庫より出すとのことです」
これから。
イリスは、その一言を胸の内で繰り返した。
昨夜のうちに出してはいない。
まだ、資料庫の中にある。
それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。ただ、取り出す瞬間を見る意味はある。どの鍵で開け、どの棚へ向かい、どの紙束を手に取るのか。
紙そのものより先に、人の手が動く。
そこに残るものがある。
「分かりました」
イリスは答え、扉の向こうへ入った。
資料室に入ると、長机の上にはすでに数冊の台帳が置かれていた。
革表紙のもの。薄い紙束を紐でまとめたもの。教会本部の印が押された受領控え。ヴァルクライン家から提出した発送控えの写し。
それぞれの紙が、きちんと並べられている。
整いすぎていた。
誰かが見せたい順に並べたようにも見える。見せたくないものを、その奥へ退けたあとにも見える。
フィリアは、昨日と同じ淡い青の外套を羽織って座っていた。
隣にはセラがいる。記録板を膝の上に置き、筆を持っている。顔色は悪い。けれど、逃げるように目を伏せてはいなかった。細い指が、記録板の端を強く押さえている。
マティア補佐は、部屋の端に立っていた。
昨日よりさらに痩せて見えた。手には紙束を持っていない。代わりに、袖口のあたりを何度も指で押さえている。何かを隠しているのか、ただ落ち着かないだけなのかは分からない。
ローヴェン会計司祭は、長机の向こう側にいた。
灰色の髪は整えられ、丸い頬にはいつもの柔らかな疲れがある。穏やかな顔。人の声を荒立てない顔。何十年も書類と倉庫の間を往復してきた者の顔。
だが、目の下にだけ、昨夜にはなかった影が落ちていた。
「お待たせいたしました」
ローヴェンは、全員へ向けて静かに礼をした。
「本日は、不要な誤解を解くため、原簿を確認していただきます」
不要な誤解。
その言葉に、マティアの肩がわずかに動いた。
イリスは見た。
ローヴェンも、それを見ていた。
「では、始めましょう」
王宮文官が言った。
長机の上で、紙が一枚ずつ開かれていく。
まずはヴァルクライン家の発送控え。
薬箱、十箱。
毛布、四十枚。
灯油、二壺。
乾燥肉、六樽。
次に、教会本部の受領控え。
同じ数。
ここまでは合っている。
さらに、南区救済院の受領書。
薬箱、六箱。
毛布、三十二枚。
灯油、二壺。
乾燥肉、六樽。
昨日と同じところで、数字がずれた。
王宮文官が顔を上げる。
「残りの薬箱四箱、毛布八枚は、本部倉庫に残ったのですか」
ローヴェンは、手元の紙を開いた。
「本部倉庫において、余剰扱いとなっております」
「余剰とは」
「当初予定数より、現場受け入れ可能数が少なかった場合、教会本部が一時的に保管する品を指します」
「南区救済院は、薬と毛布を受け入れられない状態だったのですか」
「当時の現場判断によります」
「その現場判断をした者は」
ローヴェンは、少しだけ間を置いた。
「当時の管理役、アルノー司祭です」
すでに退いた者の名だった。
責任を置くには、都合がよすぎる。
イリスは口を開きかけた。
その前に、マティアが小さく言った。
「違います」
部屋の視線が、彼に向いた。
マティアは唇を噛んだ。自分でも声が出たことに驚いているようだった。
ローヴェンは、穏やかな顔のまま彼を見る。
「何が違うのですか、マティア」
「南区から、受け入れ不能の報告は出ていません」
「では、君は何を根拠にそう言うのです」
「日別控えです」
マティアの声は震えていた。
「倉庫の日別控えには、南区分として一度仕分けされたあと、本部側で引き戻した記録があります。鍵を開けた者、荷馬車を出した者、移した先が残っています」
王宮文官がすぐに反応した。
「その日別控えはどこにありますか」
マティアは、資料室の奥へ続く扉を見た。
「資料庫です」
ローヴェンが静かに言った。
「日別控えは補助記録です。正式な原簿の確認が先でしょう」
「補助記録でも、実際に品が動いた記録なら確認します」
文官が言った。
「ローヴェン会計司祭。資料庫を開けてください」
ローヴェンは、少しだけ目を伏せた。
拒む顔ではない。
困った顔でもない。
決まっていたことを、予定通り受け入れる顔だった。
「承知しました」
ローヴェンは鍵束を手に取った。
「資料庫は狭く、台帳も古い。同行は最小限でお願いいたします」
「私が同行します」
年嵩の王宮文官が言った。
「私も行きます」
イリスが言うと、教会側の司祭がすぐに眉をひそめた。
「イリス様。資料庫は埃も多く、足場も悪い。公爵家の姫君に入っていただくような場所では」
「昨日から、その資料庫の日別控えが必要だと言われています」
イリスは答えた。
「見るべきものがあるなら、見ます」
本当に資料庫の奥まで入りたいわけではなかった。
必要なのは、ローヴェンの手を見ることだ。
どの鍵を使うのか。
どの棚へ向かうのか。
どの控えを選ぶのか。
その場で何を机へ出すのか。
あとから「これしかなかった」と言われれば、紙だけでは足りない。
紙は、いくらでも並べ替えられる。
人の動きは、その場でしか見られない。
ローヴェンは、初めて少し困ったように笑った。
「入り口までであれば」
「十分です」
フィリアが、小さく息を吸った。
何かを言おうとしたのかもしれない。
けれど、言わなかった。
イリスはフィリアの方を見なかった。
視線が合えば、彼女もこの場に引き込まれる。聖女が何を見て、何を止めようとしたのか。その意味まで、誰かが拾う。
今はまだ、フィリアを前に出してはいけない。
資料庫は、資料室のさらに奥にあった。
扉は厚い木でできていて、鉄の金具がついている。ローヴェンが鍵を差し込むと、古い金属の噛み合う音がした。扉が開くと、冷えた紙と革の匂いが流れ出てくる。
中は思ったよりも狭かった。
両側の壁いっぱいに棚があり、中央に人が一人通れるだけの通路がある。奥には二階部分のような細い足場があり、そこへ上がるための石段がついていた。階段は急で、手すりはあるが、磨り減っている。
ローヴェンは燭台を持ち、先に入った。
王宮文官が続く。
イリスは入口に立った。
資料庫の奥までは見えない。けれど、石段の上にある棚へ向かうローヴェンの背中は見えた。
「日別控えは北側二段目の棚です」
マティアが資料室側から言った。
声がかすれていた。
ローヴェンは振り返らずに答える。
「分かっています」
その言い方は、初めて少しだけ硬かった。
階段を上る足音がする。
一段。
二段。
三段。
ローヴェンの手に持った燭台の光が、石壁に揺れる。王宮文官は階段の下に残った。足場が狭いのだろう。ローヴェンだけが、上段の棚へ手を伸ばす。
イリスは、鍵束の音を聞いた。
ちり、と小さく鳴る。
それから、紙束が動く音。
「ありましたか」
王宮文官が下から聞いた。
「少々」
ローヴェンの声が返る。
落ち着いていた。
落ち着きすぎていた。
イリスは、扉の枠に手を置いた。
しばらく、紙をめくる音が続いた。
次に聞こえたのは、筆の音だった。
ざり、と紙を擦る音。
一度だけではない。
ざり、ざり、と、何かを塗りつぶす音がした。
王宮文官が顔を上げる。
「ローヴェン司祭?」
返事はなかった。
「何をされていますか」
また、返事はない。
その直後、上段で何かが落ちた。
台帳ではない。
もっと小さいもの。
鍵か、筆か、インク壺か。
王宮文官が一歩踏み出す。
「ローヴェン司祭!」
次の瞬間、鈍い音がした。
石に身体がぶつかる音だった。
一度ではない。
階段の角に当たり、手すりに擦れ、最後に床へ落ちる重い音。
資料室側から、セラの短い悲鳴が聞こえた。
イリスは、走り出しかけた。
だが、足は一歩で止まった。
王宮文官が叫ぶ。
「誰か!」
修道士たちが廊下から駆け込んでくる。教会側の司祭も立ち上がる。フィリアが椅子から立とうとして、セラがそれを支えるように腕を伸ばした。
資料庫の入口の床に、ローヴェン会計司祭が倒れていた。
燭台は消えていない。火は床に転がったまま、細く揺れている。鍵束は階段の途中に落ちていた。上段の棚の扉が、少しだけ開いている。
ローヴェンの片手は、胸の前に曲がっていた。
もう片方の手は開いている。
指先に、黒いインクがべったりとついていた。
血は、すぐには多く見えなかった。
けれど、石段の三段目に濃い染みが残っている。
倒れている位置とは、少し離れていた。
「離れてください」
イリスは言った。
自分でも驚くほど、声が冷たかった。
修道士の一人がローヴェンへ手を伸ばしかけていた。
「手当てを」
「手当ては必要です。ですが、鍵と紙には触れないでください」
「今、それを言うのですか」
教会側の司祭が振り返る。
怒りの混じった声だった。
イリスは、ローヴェンの手元を見た。
指先の黒いインク。
階段の途中に落ちた筆。
上段の棚に置かれたままの紙束。
その紙束の一部だけが、黒く潰れていた。
文字は読めない。
けれど、そこに文字があったことだけは分かる。数行分が、乱暴に黒い線で塗りつぶされていた。紙の端には、まだ乾ききっていないインクが光っている。
日別控え。
マティアが言っていたものだ。
このまま人が駆け寄れば、鍵は蹴られる。筆は拾われる。日別控えは閉じられる。誰かの袖が、まだ乾かないインクに触れる。
何が元からそこにあり、何が倒れたあとに動いたのか、分からなくなる。
ローヴェンを助けられるのなら、迷う余地はない。
けれど、首元に伸びる修道士の手は、もう遅れていた。倒れた身体の重さ。開いたままの手。動かない胸。
イリスには、間に合わないと分かった。
なら、残すしかない。
この人が、死ぬ直前に何をしていたのかを。
「王宮文官に現場を記録させてください」
イリスは言った。
「資料庫の扉、鍵、階段の血、手すり、落ちた筆、ローヴェン司祭の指先、上段の日別控え。すべてです」
「人が倒れています」
「だからです」
言葉が強くなった。
「何を取りに行き、何をしたあとに倒れたのかを残してください」
廊下が静かになった。
フィリアが資料室の扉の前に立っている。
顔が白い。
セラは記録板を抱えたまま、震えていた。
マティアは、壁際で動けなくなっている。唇が白く、今にも倒れそうだった。
教会側の司祭が言った。
「ヴァルクライン家の姫君は、人が死にかけている場でも帳簿の心配をなさるのですな」
その言葉は、資料室にいた全員へ届いた。
イリスは答えなかった。
答えれば、何を言っても冷たい言葉になる。
修道士がローヴェンの首元に手を当てる。
短い沈黙のあと、その顔が強張った。
「……息が」
それ以上は言わなかった。
言わなくても、分かった。
ローヴェン会計司祭は死んでいた。
フィリアが小さく口元を押さえる。
セラの筆が、床へ落ちた。
硬い音がした。
イリスは、その音を聞きながら、上段に置かれた日別控えから目を離さなかった。
そこに何かが残っている。
そして、残っていたはずのものが、今まさに黒く消されている。
それだけは、はっきり分かった。
「記録を」
イリスはもう一度言った。
王宮文官が、顔色を失ったまま頷いた。
「現場を記録します。誰も動かさないでください」
教会側の司祭の目が、イリスへ向いた。
その目を見て、イリスは理解した。
自分は、今、教会の奥にあるものへ手を伸ばした。
もう、南区の救済院の話ではない。
現場の管理役の不備でもない。
教会本部が隠したいものの前に、自分は立っている。
ローヴェンの身体が運ばれたあと、王宮文官は日別控えを下ろさせた。
厚い台帳ではない。日ごとの入出庫をまとめた、紐綴じの控えだった。端は少し擦り切れ、何度も開かれた跡がある。
王宮文官はそれを長机の上に置き、まず自分の筆記板に状態を書きつけた。
日別控え。北側二段目。黒インクにより一部判読不能。
その文字を見ながら、イリスは台帳の該当頁に目を落とした。
黒い。
南区救済院の行と思われる数行が、執拗に塗りつぶされていた。薬箱の数、毛布の数、荷馬車の記録、鍵を開けた者の名。どこまでが何だったのか、もう分からない。
けれど、すべてが消えていたわけではなかった。
欄外に押された朱印の一部だけが、黒いインクから外れて残っていた。
丸い印の端。
欠けた文字。
読めるのは、二文字だけだった。
教理。
イリスは息を止めた。
その印を、どこかで見たことがある。
すぐには思い出せない。だが、朱の線の角度、外枠の細い飾り、文字の配置が、記憶のどこかに引っかかった。
フィリアの聖別の前、母の机に置かれていた認可書類。
聖女候補を正式に聖別へ進めるための書類の端に、似た朱印が押されていた。
教理局。
聖女の聖別、教義上の認可、教会が何を正統と認めるかを扱う部署。
救済院の倉庫記録に、その印がある理由が分からない。
分からない。
けれど、分からないままで済ませていいものではない。
王宮文官も、その印を見ていた。
彼の筆が、一度止まる。
それから、彼は短く書いた。
欄外朱印、一部判読可。
それだけだった。
教理、とは書かなかった。
気づいていないわけではない。
王宮記録局の文官が、教理局の印を知らないはずがない。ただ、その場で名を出せば、ただの事故検分では済まなくなる。教会側の司祭たちの前で、上位部署の名を口にすれば、それは確認ではなく告発になる。
だから、書かないのではない。
今この場では、書けないのだ。
イリスは、そう理解した。
教会側の司祭が近づく。
「その頁は、ローヴェンが混乱の中で汚したものでしょう」
王宮文官は顔を上げなかった。
「状態は記録します」
「事故直前の混乱です。意味のあるものとは限らない」
「状態は記録します」
同じ言葉を、もう一度繰り返した。
それ以上は言わなかった。
イリスも言わなかった。
だが、黒く塗りつぶされた頁の端に残った二文字は、もうイリスの目に残っていた。
教理。
その二文字だけで、見えていたものの奥行きが変わった。
資料室は、さっきまでとは別の部屋のようになっていた。
長机の上には、黒く塗りつぶされた日別控えが置かれている。椅子も、燭台も、書きかけの記録も残っている。けれど、誰も同じ座り方をしていなかった。
教会側の司祭たちは、互いに低い声で話している。
フィリアは椅子に座っていた。両手を膝の上で重ねている。聖女として人前に立つ時と同じ手の置き方だった。指先だけが、わずかに白い。
セラは、その後ろに立っていた。
落とした筆は拾われている。けれど、記録板の上の紙は震えていた。セラの手が震えているからだ。
イリスはマティアを探した。
いない。
さっきまで壁際にいたはずだった。
「マティア補佐はどこですか」
イリスが聞くと、近くにいた修道士が答えた。
「体調を崩されました。別室で休んでおられます」
「誰が付き添っていますか」
修道士は答えに詰まった。
教会側の司祭が口を挟む。
「イリス様。今は、亡くなったローヴェンのことを」
「マティア補佐は、日別控えの場所を知っていました」
「彼は混乱しています」
「混乱している者を、誰がどこへ連れて行ったのですか」
司祭の表情が硬くなる。
「まるで教会が彼を隠したような言い方ですな」
「そう聞こえるなら、連れて行った者の名前を教えてください」
また、部屋が静かになった。
イリスの言葉は間違っていない。
だが、間違っていない言葉ほど、人を刺すことがある。
その時、セラの記録板から、紙の端が少しだけずれた。
イリスはそれを見た。
紙には、先ほどの聞き取り中にセラが書いた文字が残っている。
日別控え。
北側二段目。
本部倉庫。
余剰扱い。
巡礼司祭団。
迎賓費。
ローヴェン司祭、資料庫へ。
セラが書けるのは、そこまでだった。
聞こえた言葉。
机の上に出た品目。
誰が、どこへ向かったか。
それだけだ。
けれど、今はそれだけで十分すぎた。
マティアが日別控えの存在を口にした。
ローヴェンが資料庫へ向かった。
その直後、日別控えは黒く塗りつぶされ、ローヴェンは死んだ。
マティアは別室へ連れて行かれ、戻ってこない。
セラの紙には、その順番が残っている。
教会側から見れば、それは単なる記録ではない。ローヴェンが何を取りに行き、何が消され、誰がその場にいたのかを示す紙になる。
セラが意図して告発したわけではない。
意味も、すべて理解していないだろう。
セラは、自分の紙を見ていなかった。
見ているのは、イリスと、王宮文官と、教会側の司祭だけだった。
つまり、セラだけが分かっていない。
自分が何を持っているのか。
その紙が、誰にとって邪魔なのか。
分かっていない者は、逃げ遅れる。
イリスは、セラの白くなった指先を見た。
このままでは、セラは証人になる。
証人になれば、名前が残る。
名前が残れば、教会はその名前を追う。
下級貴族の娘一人を守るには、フィリアの名は大きすぎる。聖女が庇えば、今度は「聖女が教会本部の不正記録を守った」と書かれる。
イリスが庇っても、同じだ。
庇えば、セラは証人になる。
なら、庇ってはいけない。
奪う。
脅す。
泣かせる。
その方が、まだましだった。
セラが証人ではなく、ただ「公爵令嬢に紙を取り上げられた気の毒な記録係」に見える方が、まだ生き残る道がある。
そう判断した瞬間、イリスは一歩踏み出した。
「セラ」
呼ばれた少女は、びくりと肩を震わせた。
「はい」
「その紙を渡しなさい」
セラの顔から血の気が引いた。
「え……」
「渡しなさい」
声が強くなった。
フィリアが顔を上げる。
「イリス様。セラは、ただ記録を取っていただけです」
「フィリア様、今は口を挟まないでください」
言った瞬間、自分の中で何かが軋んだ。
フィリアの表情が止まる。
セラも、教会側の司祭も、修道士も、全員がイリスを見た。
強すぎた。
分かっていた。
けれど、ここでフィリアがセラを庇えば、聖女がローヴェンの死の直前の記録を守ろうとしたことになる。教会はその意味を必ず拾う。フィリアの名は、調査の中心に置かれる。
イリスはセラへ手を差し出した。
「早く」
セラの目に涙が浮かんだ。
怖がらせている。
それも分かっていた。
「私は……」
セラの声は細かった。
「私は、聞こえたことを」
「だからです」
イリスは言った。
「聞こえたことを書いたから、危ないのです」
フィリアが立ち上がる。
「なら、なおさら守るべきでしょう」
「守るために、渡させています」
「その言い方では、セラには分かりません」
フィリアの声は震えていた。
聖女の声ではなく、一人の少女の声に戻りかけていた。
イリスはフィリアを見ないようにした。
見れば、言葉が揺れる。
「セラ」
イリスは言った。
「この紙は、私が預かります。あなたは誰に聞かれても、混乱していて覚えていないと答えなさい。記録も、聖女様の発言だけを書いていた。そう言いなさい」
「それは、嘘です」
フィリアが言った。
イリスは、そこで初めてフィリアを見た。
「はい」
短く答えた。
フィリアの目が見開かれる。
「嘘をつかせるのですか」
「今は」
「イリス様」
「本当のことを言えば、セラが証人になります」
イリスの声は低かった。
「下級貴族の娘が、ローヴェン司祭の死の直前の流れを記録した証人になります。その意味を、あなたは分かっていますか」
フィリアの唇が震えた。
分かっていないわけではない。
けれど、受け入れられないのだ。
セラは泣きそうな顔で、記録板から紙を外した。
イリスへ差し出す。
その手は震えていた。
イリスは紙を受け取り、自分の手帳に挟んだ。
「あなたは、何も見ていません」
セラは答えなかった。
ただ、深く頭を下げた。
その礼は、感謝ではなかった。
恐怖でもあり、謝罪でもあり、何かを奪われた者の姿でもあった。
イリスは、そのすべてを見た。
見たうえで、紙を返さなかった。
聞き取りは、そこで終わった。
終わらせられた、と言った方が正しい。
ローヴェン会計司祭は資料庫階段で転落死。
マティア補佐は体調不良により退席。
日別控えの該当箇所は黒インクで判読不能。
欄外朱印は一部判読可。
原簿照合は延期。
セラは「混乱しており、詳細は覚えていない」と答えた。
フィリアは何かを言おうとしたが、教会側の司祭が「聖女様にはお休みいただくべきです」と先に言った。
その言葉に、誰も強く反論しなかった。
聖女を休ませる。
優しい言葉だった。
だが、その優しさは、フィリアの口を閉じるためにも使えた。
イリスは、セラの紙をその場で王宮文官に渡さなかった。
渡せば、筆跡を問われる。
誰が書いたのかを聞かれる。
セラが証人になる。
王宮文官が悪意を持っていなくても、正式な手続きは人の名を求める。誰が見たのか。誰が書いたのか。どの立場でそこにいたのか。記録に必要な問いが、そのままセラを表へ引きずり出す。
だから、今は渡せなかった。
代わりに、イリスは紙を封筒へ入れた。ヴァルクライン家の印で封をし、母を通じて王宮記録局へ提出するためだった。個人の証言ではなく、公爵家が保護した不審記録として扱わせる。
紙の力は弱くなる。
それは分かっていた。
それでも、セラ一人を証言台へ立たせるよりはましだった。
きれいなやり方を選ぶには、すでに一人が死んでいた。
教会本部を出る前、フィリアがイリスを呼び止めた。
北廊下の端だった。
外はまだ昼過ぎなのに、石壁のせいで薄暗い。細い窓から入る光が、フィリアの外套の裾に落ちている。セラは少し離れた場所にいた。修道女に付き添われ、俯いている。
「イリス様」
フィリアの声は静かだった。
整えようとしているのが分かった。
けれど、整えきれていない。
「セラに、あのような言い方をしなくてもよかったのではありませんか」
イリスは答えなかった。
フィリアは続けた。
「彼女は、怖がっていました」
「怖がった方がいい時もあります」
言ってすぐ、ひどい言葉だと思った。
フィリアの目が揺れる。
「本気で仰っていますか」
「本気です」
「イリス様」
「怖がれば、口を閉じます。口を閉じれば、生き残れるかもしれません」
フィリアは黙った。
その意味は届いた。
届いたからこそ、傷ついた顔になった。
「それでも」
フィリアは小さく言った。
「それでも、あの子の声を奪っていい理由にはなりません」
「声を残せば、命ごと奪われます」
「なら、私が守ります」
「聖女様が守ると言えば、教会はその子をもっと見るようになります」
フィリアの顔が白くなった。
「私は、誰かを守ることもできないのですか」
「できます」
イリスは答えた。
「けれど、あなたが誰を守ろうとしたかは、必ず記録されます」
「記録されて、何が悪いのですか」
「聖女が、ローヴェン司祭の死の直前を記録した者を守ったと書かれます」
フィリアは唇を結んだ。
「それが事実なら」
「事実だけで人は守れません」
イリスの声が、少し強くなった。
「事実があっても、ローヴェン司祭は死にました。マティア補佐は消えました。日別控えは黒く潰されました。セラの紙だけを掲げれば、あの子が次になります」
フィリアは目を伏せた。
「分かっています」
小さな声だった。
「分かっています。けれど、あなたはいつも、誰かを守るために、その人の心を後回しにします」
イリスは何も言えなかった。
それは、たぶん正しい。
セラの心は傷ついた。
フィリアも傷ついた。
自分が守ろうとしたものは、いつも相手の外側にある。命。立場。名前。記録。けれど、その内側にある震えを、イリスは後回しにしてしまう。
後回しにしなければ、間に合わないと思っている。
「私は」
フィリアは胸元に手を当てた。
聖印のある場所だった。
「聖女として立つなら、人を信じたいです」
「信じれば、利用されます」
「それでも、信じるところから始めなければ、私は何のためにいるのですか」
イリスは、返す言葉を見つけられなかった。
フィリアの言葉は正しい。
正しくて、危うい。
イリスの言葉も間違ってはいない。
間違っていないのに、冷たい。
二人はしばらく黙っていた。
遠くで、誰かが鍵を閉める音がした。
フィリアは静かに礼をした。
「セラの紙を、どうか無駄にしないでください」
その言葉には、怒りも悲しみも混じっていた。
イリスは頷いた。
「無駄にはしません」
「それだけでは、足りないのです」
フィリアはそう言った。
そして、イリスの返事を待たずに歩き出した。
その礼は、以前よりずっと美しかった。
美しくて、遠かった。
噂は、その日の夕方には王宮へ届いていた。
ヴァルクラインの令嬢が、人の死んだ資料庫で帳簿を求めた。
聖女様の記録係から紙を取り上げた。
下級貴族の娘を黙らせた。
聖女様にまで、口を挟むなと言った。
翌日には、少し言葉が変わった。
ヴァルクラインの令嬢が、証人を脅した。
教会の資料を奪った。
聖女様の慈悲を踏みにじった。
人が死んでも顔色を変えなかった。
どれも、完全な嘘ではなかった。
イリスは、ローヴェンが倒れた直後に記録を求めた。
セラから紙を取った。
フィリアの発言を遮った。
セラに、覚えていないと言わせた。
事実だけを並べれば、そうなる。
けれど、その間にあったものは抜け落ちる。
黒く塗りつぶされた日別控え。
ローヴェンの指先のインク。
欄外に残った、欠けた朱印。
消えたマティア。
セラが証人にされる危険。
フィリアの名が調査の中心に置かれる危険。
そういうものは、噂には向いていない。
噂に向いているのは、もっと短く、もっと形のはっきりした話だった。
冷たい令嬢。
人を黙らせる姫君。
聖女様を退ける女。
イリスは、その言葉を聞いた。
聞こえないふりをした。
廊下を歩く時、誰も面と向かっては何も言わない。けれど、視線だけが先に動く。扇の陰で口元が隠れる。話していた者たちが、一瞬だけ黙る。
その沈黙が、何より分かりやすかった。
三日後、王宮記録局からヴァルクライン家へ返書が届いた。
母セレナは、その書面を読み終えると、しばらく何も言わなかった。
机の上には、王宮文官の現場記録と、ローヴェン会計司祭の死に関する報告が並んでいる。教会側の第一報では、死因は資料庫階段からの転落とされていた。
だが、王宮側の検分役が添えた追記には、別のことが書かれていた。
ローヴェン会計司祭の死について、転落による外傷のみでは説明しきれない点あり。
口腔内および衣襟の一部より、強い苦味を持つ薬草由来の毒性反応を確認。
イリスは、その二行を読み終えてから、しばらく紙から目を離せなかった。
毒。
その文字は、直接書かれていなかった。
けれど、そう読むほかなかった。
「事故では、なかったのですね」
イリスは言った。
母はすぐには答えなかった。
「少なくとも、ただ足を滑らせただけではありません」
「ローヴェン司祭は、日別控えを塗りつぶしたあとに」
そこまで言って、イリスは言葉を止めた。
その先は、まだ記録にはない。
毒を誰が用意したのか。
ローヴェンが自ら飲んだのか。
誰かに飲まされたのか。
それは分からない。
分からないまま、教会側は転落事故として処理しようとしている。
母は、王宮記録局の返書を折り直した。
「日別控えの該当箇所は、黒インクで判読不能。ローヴェン会計司祭の指先から同じインク。死因には毒性反応。これだけ揃っても、教会は事故だと言うでしょう」
「なぜですか」
「それが、一番都合がいいからです」
母の声は静かだった。
「ローヴェン司祭が不正を隠そうとして混乱し、階段で足を滑らせた。そういう形にすれば、上には届きません」
「欄外の朱印は」
「記録上は、一部判読可。詳細確認中」
「教理、の二文字が見えました」
母の指が、紙の上で止まった。
「あなたが見たのですか」
「はい」
「王宮文官も?」
「見ています。ですが、その場では書きませんでした。欄外朱印、一部判読可、とだけ」
母は目を閉じた。
「賢明です」
「賢明、ですか」
「その場で教理局の名を出せば、教会本部への正式な告発になります。文官一人が資料庫の床で口にしてよい名ではありません」
「では、誰が口にするのですか」
母はすぐには答えなかった。
その沈黙で、イリスは分かった。
誰も、簡単には口にしない。
知っていても。
見えていても。
名を出せば、その瞬間から争いの形が変わるからだ。
「セラの紙は」
母が言った。
「筆記者を伏せた参考資料として扱われました」
「証拠には」
「弱いでしょう」
イリスは黙った。
セラを守るために筆記者を伏せた。
その結果、紙は弱くなった。
正しい選択だったのかどうか、分からない。
母は言った。
「完全には潰されませんでした」
「ですが、完全には届かなかった」
「ええ」
母はイリスを見た。
「そして、あなたの名前は残りました」
返書には、イリスの行動も記されていた。
イリス・ヴァルクラインは、資料庫転落直後、現場記録を求めた。
イリス・ヴァルクラインは、聖女側記録係セラ・リントンの紙片を預かった。
イリス・ヴァルクラインは、聖女フィリアの発言を制止した。
どれも嘘ではない。
嘘ではないから、消せない。
だが、それだけを並べれば、別の話になる。
母は言った。
「教会は、あなたを覚えたでしょう」
「私を?」
「ええ」
「なぜですか。私は、証拠を」
「証拠に触れたからです」
母の声は静かだった。
「彼らが触れられたくないものに、あなたは触れた。今後、あなたの言葉は、ただの言葉として扱われません。あなたの行動も、ただの行動としては扱われない」
「では、何として扱われるのですか」
母はすぐには答えなかった。
窓の外では、冬の残りの風が白薔薇の枝を揺らしている。
「都合のよい形に」
その答えは短かった。
だが、十分だった。
イリスは、胸の奥が少し冷えるのを感じた。
夜、イリスは自室でセラの紙の写しを見ていた。
震えた字が並んでいる。
日別控え。
北側二段目。
本部倉庫。
余剰扱い。
巡礼司祭団。
迎賓費。
ローヴェン司祭、資料庫へ。
その字は、きれいではない。
だが、必死だった。
セラはあの場で、聞いたものを残そうとしていた。恐ろしくても、手を止めなかった。だから、イリスはその紙を奪った。
守るために。
黙らせるために。
その二つは、同じ手つきになった。
イリスは紙を机の上に置いた。
指先に、資料庫の石段で見た光景がよみがえる。
黒く塗りつぶされた日別控え。
欄外に残った、教理の二文字。
ローヴェンの指先についたインク。
転がった鍵束。
消えなかった燭台の火。
開いたままの手。
事故だと言われた死。
そして、後になって届いた毒の報告。
何も言えなくなった者。
何も覚えていないことにされた者。
この先、正しいことをそのまま言えば、誰かが傷つく。
黙れば、別の誰かが傷つく。
優しく言えば、間に合わない。
冷たく言えば、自分の顔になる。
イリスは息を止めた。
そして、ゆっくり吐いた。
それでも、選ぶしかない。
選ばなければ、最初に声の大きい者だけが残る。
グラナートの声が、遠い昔の小書斎から聞こえた気がした。
イリスは紙を封筒に戻し、引き出しの奥へしまった。
その引き出しには、フィリア・エルヴェールと書いた紙も入っている。
リリアの練習帳もある。
誰かの名前。
誰かの字。
誰かが、消えないように残したもの。
イリスは引き出しを閉じた。
その手は、少しだけ震えていた。
けれど、翌朝には震えを止めなければならない。
廊下を歩く時、誰もその手を見ない。
人々が見るのは、背筋を伸ばした公爵令嬢の顔だけだ。
冷たい顔。
人を切る顔。
人を黙らせる顔。
イリスはその夜、初めて思った。
自分で選んだわけではない顔でも、何度もそう見られれば、いつか自分のものにされてしまうのだと。
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