表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
勇者でも魔王でもない俺は、物語に殺される君を救う  作者: ハリオアマツバメは泣いた
第一章 役なしは悪女の脚本を喰う
PR
15/24

第一章 14話 イリス・ヴァルクラインⅥ

翌朝、教会本部の北廊下は、いつもより静かだった。


大聖堂の正面では朝の祈りが始まっているはずなのに、資料室のある北側までは、聖歌も鐘の音もほとんど届かない。石壁に沿って置かれた燭台の火が、細い窓から入る白い光に押されて、頼りなく揺れていた。


イリスは、母の馬車を降りてから、ずっと指先の冷たさを意識していた。


寒さのせいだけではない。


今日、確認するものは決まっている。


原簿。

日別控え。

鍵の記録。

荷馬車の台数。

品を動かした日付。

署名。


昨夜、自室で書き出した六つを、イリスは頭の中で繰り返した。


ここで見落とせば、話は小さな箱に戻される。


南区の救済院。

アルノー司祭の不備。

帳簿の行き違い。

現場の混乱。


そういう言葉に入れられて、蓋をされる。


それでは、薬箱がどこへ消えたのか分からない。誰がそれを動かしたのかも分からない。聖女の名で集められたものが、誰の手で別の場所へ流れたのかも。


分からないまま、終わる。


それだけは避けなければならなかった。


資料室の扉の前には、王宮記録局の文官が二人立っていた。昨日もいた男たちだ。一人は痩せていて、筆記板を胸に抱えている。もう一人は年嵩で、目元に疲れがある。


「イリス様」


年嵩の文官が礼をした。


「すでに皆様おそろいです」


「原簿は?」


「ローヴェン会計司祭が、これから資料庫より出すとのことです」


これから。


イリスは、その一言を胸の内で繰り返した。


昨夜のうちに出してはいない。


まだ、資料庫の中にある。


それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。ただ、取り出す瞬間を見る意味はある。どの鍵で開け、どの棚へ向かい、どの紙束を手に取るのか。


紙そのものより先に、人の手が動く。


そこに残るものがある。


「分かりました」


イリスは答え、扉の向こうへ入った。

















資料室に入ると、長机の上にはすでに数冊の台帳が置かれていた。


革表紙のもの。薄い紙束を紐でまとめたもの。教会本部の印が押された受領控え。ヴァルクライン家から提出した発送控えの写し。


それぞれの紙が、きちんと並べられている。


整いすぎていた。


誰かが見せたい順に並べたようにも見える。見せたくないものを、その奥へ退けたあとにも見える。


フィリアは、昨日と同じ淡い青の外套を羽織って座っていた。


隣にはセラがいる。記録板を膝の上に置き、筆を持っている。顔色は悪い。けれど、逃げるように目を伏せてはいなかった。細い指が、記録板の端を強く押さえている。


マティア補佐は、部屋の端に立っていた。


昨日よりさらに痩せて見えた。手には紙束を持っていない。代わりに、袖口のあたりを何度も指で押さえている。何かを隠しているのか、ただ落ち着かないだけなのかは分からない。


ローヴェン会計司祭は、長机の向こう側にいた。


灰色の髪は整えられ、丸い頬にはいつもの柔らかな疲れがある。穏やかな顔。人の声を荒立てない顔。何十年も書類と倉庫の間を往復してきた者の顔。


だが、目の下にだけ、昨夜にはなかった影が落ちていた。


「お待たせいたしました」


ローヴェンは、全員へ向けて静かに礼をした。


「本日は、不要な誤解を解くため、原簿を確認していただきます」


不要な誤解。


その言葉に、マティアの肩がわずかに動いた。


イリスは見た。


ローヴェンも、それを見ていた。


「では、始めましょう」


王宮文官が言った。


長机の上で、紙が一枚ずつ開かれていく。


まずはヴァルクライン家の発送控え。


薬箱、十箱。

毛布、四十枚。

灯油、二壺。

乾燥肉、六樽。


次に、教会本部の受領控え。


同じ数。


ここまでは合っている。


さらに、南区救済院の受領書。


薬箱、六箱。

毛布、三十二枚。

灯油、二壺。

乾燥肉、六樽。


昨日と同じところで、数字がずれた。


王宮文官が顔を上げる。


「残りの薬箱四箱、毛布八枚は、本部倉庫に残ったのですか」


ローヴェンは、手元の紙を開いた。


「本部倉庫において、余剰扱いとなっております」


「余剰とは」


「当初予定数より、現場受け入れ可能数が少なかった場合、教会本部が一時的に保管する品を指します」


「南区救済院は、薬と毛布を受け入れられない状態だったのですか」


「当時の現場判断によります」


「その現場判断をした者は」


ローヴェンは、少しだけ間を置いた。


「当時の管理役、アルノー司祭です」


すでに退いた者の名だった。


責任を置くには、都合がよすぎる。


イリスは口を開きかけた。


その前に、マティアが小さく言った。


「違います」


部屋の視線が、彼に向いた。


マティアは唇を噛んだ。自分でも声が出たことに驚いているようだった。


ローヴェンは、穏やかな顔のまま彼を見る。


「何が違うのですか、マティア」


「南区から、受け入れ不能の報告は出ていません」


「では、君は何を根拠にそう言うのです」


「日別控えです」


マティアの声は震えていた。


「倉庫の日別控えには、南区分として一度仕分けされたあと、本部側で引き戻した記録があります。鍵を開けた者、荷馬車を出した者、移した先が残っています」


王宮文官がすぐに反応した。


「その日別控えはどこにありますか」


マティアは、資料室の奥へ続く扉を見た。


「資料庫です」


ローヴェンが静かに言った。


「日別控えは補助記録です。正式な原簿の確認が先でしょう」


「補助記録でも、実際に品が動いた記録なら確認します」


文官が言った。


「ローヴェン会計司祭。資料庫を開けてください」


ローヴェンは、少しだけ目を伏せた。


拒む顔ではない。


困った顔でもない。


決まっていたことを、予定通り受け入れる顔だった。


「承知しました」


ローヴェンは鍵束を手に取った。


「資料庫は狭く、台帳も古い。同行は最小限でお願いいたします」


「私が同行します」


年嵩の王宮文官が言った。


「私も行きます」


イリスが言うと、教会側の司祭がすぐに眉をひそめた。


「イリス様。資料庫は埃も多く、足場も悪い。公爵家の姫君に入っていただくような場所では」


「昨日から、その資料庫の日別控えが必要だと言われています」


イリスは答えた。


「見るべきものがあるなら、見ます」


本当に資料庫の奥まで入りたいわけではなかった。


必要なのは、ローヴェンの手を見ることだ。


どの鍵を使うのか。

どの棚へ向かうのか。

どの控えを選ぶのか。

その場で何を机へ出すのか。


あとから「これしかなかった」と言われれば、紙だけでは足りない。


紙は、いくらでも並べ替えられる。


人の動きは、その場でしか見られない。


ローヴェンは、初めて少し困ったように笑った。


「入り口までであれば」


「十分です」


フィリアが、小さく息を吸った。


何かを言おうとしたのかもしれない。


けれど、言わなかった。


イリスはフィリアの方を見なかった。


視線が合えば、彼女もこの場に引き込まれる。聖女が何を見て、何を止めようとしたのか。その意味まで、誰かが拾う。


今はまだ、フィリアを前に出してはいけない。

















資料庫は、資料室のさらに奥にあった。


扉は厚い木でできていて、鉄の金具がついている。ローヴェンが鍵を差し込むと、古い金属の噛み合う音がした。扉が開くと、冷えた紙と革の匂いが流れ出てくる。


中は思ったよりも狭かった。


両側の壁いっぱいに棚があり、中央に人が一人通れるだけの通路がある。奥には二階部分のような細い足場があり、そこへ上がるための石段がついていた。階段は急で、手すりはあるが、磨り減っている。


ローヴェンは燭台を持ち、先に入った。


王宮文官が続く。


イリスは入口に立った。


資料庫の奥までは見えない。けれど、石段の上にある棚へ向かうローヴェンの背中は見えた。


「日別控えは北側二段目の棚です」


マティアが資料室側から言った。


声がかすれていた。


ローヴェンは振り返らずに答える。


「分かっています」


その言い方は、初めて少しだけ硬かった。


階段を上る足音がする。


一段。


二段。


三段。


ローヴェンの手に持った燭台の光が、石壁に揺れる。王宮文官は階段の下に残った。足場が狭いのだろう。ローヴェンだけが、上段の棚へ手を伸ばす。


イリスは、鍵束の音を聞いた。


ちり、と小さく鳴る。


それから、紙束が動く音。


「ありましたか」


王宮文官が下から聞いた。


「少々」


ローヴェンの声が返る。


落ち着いていた。


落ち着きすぎていた。


イリスは、扉の枠に手を置いた。


しばらく、紙をめくる音が続いた。


次に聞こえたのは、筆の音だった。


ざり、と紙を擦る音。


一度だけではない。


ざり、ざり、と、何かを塗りつぶす音がした。


王宮文官が顔を上げる。


「ローヴェン司祭?」


返事はなかった。


「何をされていますか」


また、返事はない。


その直後、上段で何かが落ちた。


台帳ではない。


もっと小さいもの。


鍵か、筆か、インク壺か。


王宮文官が一歩踏み出す。


「ローヴェン司祭!」


次の瞬間、鈍い音がした。


石に身体がぶつかる音だった。


一度ではない。


階段の角に当たり、手すりに擦れ、最後に床へ落ちる重い音。


資料室側から、セラの短い悲鳴が聞こえた。


イリスは、走り出しかけた。


だが、足は一歩で止まった。


王宮文官が叫ぶ。


「誰か!」


修道士たちが廊下から駆け込んでくる。教会側の司祭も立ち上がる。フィリアが椅子から立とうとして、セラがそれを支えるように腕を伸ばした。


資料庫の入口の床に、ローヴェン会計司祭が倒れていた。


燭台は消えていない。火は床に転がったまま、細く揺れている。鍵束は階段の途中に落ちていた。上段の棚の扉が、少しだけ開いている。


ローヴェンの片手は、胸の前に曲がっていた。


もう片方の手は開いている。


指先に、黒いインクがべったりとついていた。


血は、すぐには多く見えなかった。


けれど、石段の三段目に濃い染みが残っている。


倒れている位置とは、少し離れていた。


「離れてください」


イリスは言った。


自分でも驚くほど、声が冷たかった。


修道士の一人がローヴェンへ手を伸ばしかけていた。


「手当てを」


「手当ては必要です。ですが、鍵と紙には触れないでください」


「今、それを言うのですか」


教会側の司祭が振り返る。


怒りの混じった声だった。


イリスは、ローヴェンの手元を見た。


指先の黒いインク。


階段の途中に落ちた筆。


上段の棚に置かれたままの紙束。


その紙束の一部だけが、黒く潰れていた。


文字は読めない。


けれど、そこに文字があったことだけは分かる。数行分が、乱暴に黒い線で塗りつぶされていた。紙の端には、まだ乾ききっていないインクが光っている。


日別控え。


マティアが言っていたものだ。


このまま人が駆け寄れば、鍵は蹴られる。筆は拾われる。日別控えは閉じられる。誰かの袖が、まだ乾かないインクに触れる。


何が元からそこにあり、何が倒れたあとに動いたのか、分からなくなる。


ローヴェンを助けられるのなら、迷う余地はない。


けれど、首元に伸びる修道士の手は、もう遅れていた。倒れた身体の重さ。開いたままの手。動かない胸。


イリスには、間に合わないと分かった。


なら、残すしかない。


この人が、死ぬ直前に何をしていたのかを。


「王宮文官に現場を記録させてください」


イリスは言った。


「資料庫の扉、鍵、階段の血、手すり、落ちた筆、ローヴェン司祭の指先、上段の日別控え。すべてです」


「人が倒れています」


「だからです」


言葉が強くなった。


「何を取りに行き、何をしたあとに倒れたのかを残してください」


廊下が静かになった。


フィリアが資料室の扉の前に立っている。


顔が白い。


セラは記録板を抱えたまま、震えていた。


マティアは、壁際で動けなくなっている。唇が白く、今にも倒れそうだった。


教会側の司祭が言った。


「ヴァルクライン家の姫君は、人が死にかけている場でも帳簿の心配をなさるのですな」


その言葉は、資料室にいた全員へ届いた。


イリスは答えなかった。


答えれば、何を言っても冷たい言葉になる。


修道士がローヴェンの首元に手を当てる。


短い沈黙のあと、その顔が強張った。


「……息が」


それ以上は言わなかった。


言わなくても、分かった。


ローヴェン会計司祭は死んでいた。


フィリアが小さく口元を押さえる。


セラの筆が、床へ落ちた。


硬い音がした。


イリスは、その音を聞きながら、上段に置かれた日別控えから目を離さなかった。


そこに何かが残っている。


そして、残っていたはずのものが、今まさに黒く消されている。


それだけは、はっきり分かった。


「記録を」


イリスはもう一度言った。


王宮文官が、顔色を失ったまま頷いた。


「現場を記録します。誰も動かさないでください」


教会側の司祭の目が、イリスへ向いた。


その目を見て、イリスは理解した。


自分は、今、教会の奥にあるものへ手を伸ばした。


もう、南区の救済院の話ではない。


現場の管理役の不備でもない。


教会本部が隠したいものの前に、自分は立っている。


ローヴェンの身体が運ばれたあと、王宮文官は日別控えを下ろさせた。


厚い台帳ではない。日ごとの入出庫をまとめた、紐綴じの控えだった。端は少し擦り切れ、何度も開かれた跡がある。


王宮文官はそれを長机の上に置き、まず自分の筆記板に状態を書きつけた。


日別控え。北側二段目。黒インクにより一部判読不能。


その文字を見ながら、イリスは台帳の該当頁に目を落とした。


黒い。


南区救済院の行と思われる数行が、執拗に塗りつぶされていた。薬箱の数、毛布の数、荷馬車の記録、鍵を開けた者の名。どこまでが何だったのか、もう分からない。


けれど、すべてが消えていたわけではなかった。


欄外に押された朱印の一部だけが、黒いインクから外れて残っていた。


丸い印の端。


欠けた文字。


読めるのは、二文字だけだった。


教理。


イリスは息を止めた。


その印を、どこかで見たことがある。


すぐには思い出せない。だが、朱の線の角度、外枠の細い飾り、文字の配置が、記憶のどこかに引っかかった。


フィリアの聖別の前、母の机に置かれていた認可書類。


聖女候補を正式に聖別へ進めるための書類の端に、似た朱印が押されていた。


教理局。


聖女の聖別、教義上の認可、教会が何を正統と認めるかを扱う部署。


救済院の倉庫記録に、その印がある理由が分からない。


分からない。


けれど、分からないままで済ませていいものではない。


王宮文官も、その印を見ていた。


彼の筆が、一度止まる。


それから、彼は短く書いた。


欄外朱印、一部判読可。


それだけだった。


教理、とは書かなかった。


気づいていないわけではない。


王宮記録局の文官が、教理局の印を知らないはずがない。ただ、その場で名を出せば、ただの事故検分では済まなくなる。教会側の司祭たちの前で、上位部署の名を口にすれば、それは確認ではなく告発になる。


だから、書かないのではない。


今この場では、書けないのだ。


イリスは、そう理解した。


教会側の司祭が近づく。


「その頁は、ローヴェンが混乱の中で汚したものでしょう」


王宮文官は顔を上げなかった。


「状態は記録します」


「事故直前の混乱です。意味のあるものとは限らない」


「状態は記録します」


同じ言葉を、もう一度繰り返した。


それ以上は言わなかった。


イリスも言わなかった。


だが、黒く塗りつぶされた頁の端に残った二文字は、もうイリスの目に残っていた。


教理。


その二文字だけで、見えていたものの奥行きが変わった。


資料室は、さっきまでとは別の部屋のようになっていた。


長机の上には、黒く塗りつぶされた日別控えが置かれている。椅子も、燭台も、書きかけの記録も残っている。けれど、誰も同じ座り方をしていなかった。


教会側の司祭たちは、互いに低い声で話している。


フィリアは椅子に座っていた。両手を膝の上で重ねている。聖女として人前に立つ時と同じ手の置き方だった。指先だけが、わずかに白い。


セラは、その後ろに立っていた。


落とした筆は拾われている。けれど、記録板の上の紙は震えていた。セラの手が震えているからだ。


イリスはマティアを探した。


いない。


さっきまで壁際にいたはずだった。


「マティア補佐はどこですか」


イリスが聞くと、近くにいた修道士が答えた。


「体調を崩されました。別室で休んでおられます」


「誰が付き添っていますか」


修道士は答えに詰まった。


教会側の司祭が口を挟む。


「イリス様。今は、亡くなったローヴェンのことを」


「マティア補佐は、日別控えの場所を知っていました」


「彼は混乱しています」


「混乱している者を、誰がどこへ連れて行ったのですか」


司祭の表情が硬くなる。


「まるで教会が彼を隠したような言い方ですな」


「そう聞こえるなら、連れて行った者の名前を教えてください」


また、部屋が静かになった。


イリスの言葉は間違っていない。


だが、間違っていない言葉ほど、人を刺すことがある。


その時、セラの記録板から、紙の端が少しだけずれた。


イリスはそれを見た。


紙には、先ほどの聞き取り中にセラが書いた文字が残っている。


日別控え。

北側二段目。

本部倉庫。

余剰扱い。

巡礼司祭団。

迎賓費。

ローヴェン司祭、資料庫へ。


セラが書けるのは、そこまでだった。


聞こえた言葉。


机の上に出た品目。


誰が、どこへ向かったか。


それだけだ。


けれど、今はそれだけで十分すぎた。


マティアが日別控えの存在を口にした。


ローヴェンが資料庫へ向かった。


その直後、日別控えは黒く塗りつぶされ、ローヴェンは死んだ。


マティアは別室へ連れて行かれ、戻ってこない。


セラの紙には、その順番が残っている。


教会側から見れば、それは単なる記録ではない。ローヴェンが何を取りに行き、何が消され、誰がその場にいたのかを示す紙になる。


セラが意図して告発したわけではない。


意味も、すべて理解していないだろう。


セラは、自分の紙を見ていなかった。


見ているのは、イリスと、王宮文官と、教会側の司祭だけだった。


つまり、セラだけが分かっていない。


自分が何を持っているのか。


その紙が、誰にとって邪魔なのか。


分かっていない者は、逃げ遅れる。


イリスは、セラの白くなった指先を見た。


このままでは、セラは証人になる。


証人になれば、名前が残る。


名前が残れば、教会はその名前を追う。


下級貴族の娘一人を守るには、フィリアの名は大きすぎる。聖女が庇えば、今度は「聖女が教会本部の不正記録を守った」と書かれる。


イリスが庇っても、同じだ。


庇えば、セラは証人になる。


なら、庇ってはいけない。


奪う。

脅す。

泣かせる。


その方が、まだましだった。


セラが証人ではなく、ただ「公爵令嬢に紙を取り上げられた気の毒な記録係」に見える方が、まだ生き残る道がある。


そう判断した瞬間、イリスは一歩踏み出した。

















「セラ」


呼ばれた少女は、びくりと肩を震わせた。


「はい」


「その紙を渡しなさい」


セラの顔から血の気が引いた。


「え……」


「渡しなさい」


声が強くなった。


フィリアが顔を上げる。


「イリス様。セラは、ただ記録を取っていただけです」


「フィリア様、今は口を挟まないでください」


言った瞬間、自分の中で何かが軋んだ。


フィリアの表情が止まる。


セラも、教会側の司祭も、修道士も、全員がイリスを見た。


強すぎた。


分かっていた。


けれど、ここでフィリアがセラを庇えば、聖女がローヴェンの死の直前の記録を守ろうとしたことになる。教会はその意味を必ず拾う。フィリアの名は、調査の中心に置かれる。


イリスはセラへ手を差し出した。


「早く」


セラの目に涙が浮かんだ。


怖がらせている。


それも分かっていた。


「私は……」


セラの声は細かった。


「私は、聞こえたことを」


「だからです」


イリスは言った。


「聞こえたことを書いたから、危ないのです」


フィリアが立ち上がる。


「なら、なおさら守るべきでしょう」


「守るために、渡させています」


「その言い方では、セラには分かりません」


フィリアの声は震えていた。


聖女の声ではなく、一人の少女の声に戻りかけていた。


イリスはフィリアを見ないようにした。


見れば、言葉が揺れる。


「セラ」


イリスは言った。


「この紙は、私が預かります。あなたは誰に聞かれても、混乱していて覚えていないと答えなさい。記録も、聖女様の発言だけを書いていた。そう言いなさい」


「それは、嘘です」


フィリアが言った。


イリスは、そこで初めてフィリアを見た。


「はい」


短く答えた。


フィリアの目が見開かれる。


「嘘をつかせるのですか」


「今は」


「イリス様」


「本当のことを言えば、セラが証人になります」


イリスの声は低かった。


「下級貴族の娘が、ローヴェン司祭の死の直前の流れを記録した証人になります。その意味を、あなたは分かっていますか」


フィリアの唇が震えた。


分かっていないわけではない。


けれど、受け入れられないのだ。


セラは泣きそうな顔で、記録板から紙を外した。


イリスへ差し出す。


その手は震えていた。


イリスは紙を受け取り、自分の手帳に挟んだ。


「あなたは、何も見ていません」


セラは答えなかった。


ただ、深く頭を下げた。


その礼は、感謝ではなかった。


恐怖でもあり、謝罪でもあり、何かを奪われた者の姿でもあった。


イリスは、そのすべてを見た。


見たうえで、紙を返さなかった。


聞き取りは、そこで終わった。


終わらせられた、と言った方が正しい。


ローヴェン会計司祭は資料庫階段で転落死。


マティア補佐は体調不良により退席。


日別控えの該当箇所は黒インクで判読不能。


欄外朱印は一部判読可。


原簿照合は延期。


セラは「混乱しており、詳細は覚えていない」と答えた。


フィリアは何かを言おうとしたが、教会側の司祭が「聖女様にはお休みいただくべきです」と先に言った。


その言葉に、誰も強く反論しなかった。


聖女を休ませる。


優しい言葉だった。


だが、その優しさは、フィリアの口を閉じるためにも使えた。


イリスは、セラの紙をその場で王宮文官に渡さなかった。


渡せば、筆跡を問われる。


誰が書いたのかを聞かれる。


セラが証人になる。


王宮文官が悪意を持っていなくても、正式な手続きは人の名を求める。誰が見たのか。誰が書いたのか。どの立場でそこにいたのか。記録に必要な問いが、そのままセラを表へ引きずり出す。


だから、今は渡せなかった。


代わりに、イリスは紙を封筒へ入れた。ヴァルクライン家の印で封をし、母を通じて王宮記録局へ提出するためだった。個人の証言ではなく、公爵家が保護した不審記録として扱わせる。


紙の力は弱くなる。


それは分かっていた。


それでも、セラ一人を証言台へ立たせるよりはましだった。


きれいなやり方を選ぶには、すでに一人が死んでいた。


教会本部を出る前、フィリアがイリスを呼び止めた。


北廊下の端だった。


外はまだ昼過ぎなのに、石壁のせいで薄暗い。細い窓から入る光が、フィリアの外套の裾に落ちている。セラは少し離れた場所にいた。修道女に付き添われ、俯いている。


「イリス様」


フィリアの声は静かだった。


整えようとしているのが分かった。


けれど、整えきれていない。


「セラに、あのような言い方をしなくてもよかったのではありませんか」


イリスは答えなかった。


フィリアは続けた。


「彼女は、怖がっていました」


「怖がった方がいい時もあります」


言ってすぐ、ひどい言葉だと思った。


フィリアの目が揺れる。


「本気で仰っていますか」


「本気です」


「イリス様」


「怖がれば、口を閉じます。口を閉じれば、生き残れるかもしれません」


フィリアは黙った。


その意味は届いた。


届いたからこそ、傷ついた顔になった。


「それでも」


フィリアは小さく言った。


「それでも、あの子の声を奪っていい理由にはなりません」


「声を残せば、命ごと奪われます」


「なら、私が守ります」


「聖女様が守ると言えば、教会はその子をもっと見るようになります」


フィリアの顔が白くなった。


「私は、誰かを守ることもできないのですか」


「できます」


イリスは答えた。


「けれど、あなたが誰を守ろうとしたかは、必ず記録されます」


「記録されて、何が悪いのですか」


「聖女が、ローヴェン司祭の死の直前を記録した者を守ったと書かれます」


フィリアは唇を結んだ。


「それが事実なら」


「事実だけで人は守れません」


イリスの声が、少し強くなった。


「事実があっても、ローヴェン司祭は死にました。マティア補佐は消えました。日別控えは黒く潰されました。セラの紙だけを掲げれば、あの子が次になります」


フィリアは目を伏せた。


「分かっています」


小さな声だった。


「分かっています。けれど、あなたはいつも、誰かを守るために、その人の心を後回しにします」


イリスは何も言えなかった。


それは、たぶん正しい。


セラの心は傷ついた。


フィリアも傷ついた。


自分が守ろうとしたものは、いつも相手の外側にある。命。立場。名前。記録。けれど、その内側にある震えを、イリスは後回しにしてしまう。


後回しにしなければ、間に合わないと思っている。


「私は」


フィリアは胸元に手を当てた。


聖印のある場所だった。


「聖女として立つなら、人を信じたいです」


「信じれば、利用されます」


「それでも、信じるところから始めなければ、私は何のためにいるのですか」


イリスは、返す言葉を見つけられなかった。


フィリアの言葉は正しい。


正しくて、危うい。


イリスの言葉も間違ってはいない。


間違っていないのに、冷たい。


二人はしばらく黙っていた。


遠くで、誰かが鍵を閉める音がした。


フィリアは静かに礼をした。


「セラの紙を、どうか無駄にしないでください」


その言葉には、怒りも悲しみも混じっていた。


イリスは頷いた。


「無駄にはしません」


「それだけでは、足りないのです」


フィリアはそう言った。


そして、イリスの返事を待たずに歩き出した。


その礼は、以前よりずっと美しかった。


美しくて、遠かった。

















噂は、その日の夕方には王宮へ届いていた。


ヴァルクラインの令嬢が、人の死んだ資料庫で帳簿を求めた。


聖女様の記録係から紙を取り上げた。


下級貴族の娘を黙らせた。


聖女様にまで、口を挟むなと言った。


翌日には、少し言葉が変わった。


ヴァルクラインの令嬢が、証人を脅した。


教会の資料を奪った。


聖女様の慈悲を踏みにじった。


人が死んでも顔色を変えなかった。


どれも、完全な嘘ではなかった。


イリスは、ローヴェンが倒れた直後に記録を求めた。


セラから紙を取った。


フィリアの発言を遮った。


セラに、覚えていないと言わせた。


事実だけを並べれば、そうなる。


けれど、その間にあったものは抜け落ちる。


黒く塗りつぶされた日別控え。


ローヴェンの指先のインク。


欄外に残った、欠けた朱印。


消えたマティア。


セラが証人にされる危険。


フィリアの名が調査の中心に置かれる危険。


そういうものは、噂には向いていない。


噂に向いているのは、もっと短く、もっと形のはっきりした話だった。


冷たい令嬢。


人を黙らせる姫君。


聖女様を退ける女。


イリスは、その言葉を聞いた。


聞こえないふりをした。


廊下を歩く時、誰も面と向かっては何も言わない。けれど、視線だけが先に動く。扇の陰で口元が隠れる。話していた者たちが、一瞬だけ黙る。


その沈黙が、何より分かりやすかった。


三日後、王宮記録局からヴァルクライン家へ返書が届いた。


母セレナは、その書面を読み終えると、しばらく何も言わなかった。


机の上には、王宮文官の現場記録と、ローヴェン会計司祭の死に関する報告が並んでいる。教会側の第一報では、死因は資料庫階段からの転落とされていた。


だが、王宮側の検分役が添えた追記には、別のことが書かれていた。






ローヴェン会計司祭の死について、転落による外傷のみでは説明しきれない点あり。


口腔内および衣襟の一部より、強い苦味を持つ薬草由来の毒性反応を確認。






イリスは、その二行を読み終えてから、しばらく紙から目を離せなかった。


毒。


その文字は、直接書かれていなかった。


けれど、そう読むほかなかった。


「事故では、なかったのですね」


イリスは言った。


母はすぐには答えなかった。


「少なくとも、ただ足を滑らせただけではありません」


「ローヴェン司祭は、日別控えを塗りつぶしたあとに」


そこまで言って、イリスは言葉を止めた。


その先は、まだ記録にはない。


毒を誰が用意したのか。


ローヴェンが自ら飲んだのか。


誰かに飲まされたのか。


それは分からない。


分からないまま、教会側は転落事故として処理しようとしている。


母は、王宮記録局の返書を折り直した。


「日別控えの該当箇所は、黒インクで判読不能。ローヴェン会計司祭の指先から同じインク。死因には毒性反応。これだけ揃っても、教会は事故だと言うでしょう」


「なぜですか」


「それが、一番都合がいいからです」


母の声は静かだった。


「ローヴェン司祭が不正を隠そうとして混乱し、階段で足を滑らせた。そういう形にすれば、上には届きません」


「欄外の朱印は」


「記録上は、一部判読可。詳細確認中」


「教理、の二文字が見えました」


母の指が、紙の上で止まった。


「あなたが見たのですか」


「はい」


「王宮文官も?」


「見ています。ですが、その場では書きませんでした。欄外朱印、一部判読可、とだけ」


母は目を閉じた。


「賢明です」


「賢明、ですか」


「その場で教理局の名を出せば、教会本部への正式な告発になります。文官一人が資料庫の床で口にしてよい名ではありません」


「では、誰が口にするのですか」


母はすぐには答えなかった。


その沈黙で、イリスは分かった。


誰も、簡単には口にしない。


知っていても。


見えていても。


名を出せば、その瞬間から争いの形が変わるからだ。


「セラの紙は」


母が言った。


「筆記者を伏せた参考資料として扱われました」


「証拠には」


「弱いでしょう」


イリスは黙った。


セラを守るために筆記者を伏せた。


その結果、紙は弱くなった。


正しい選択だったのかどうか、分からない。


母は言った。


「完全には潰されませんでした」


「ですが、完全には届かなかった」


「ええ」


母はイリスを見た。


「そして、あなたの名前は残りました」


返書には、イリスの行動も記されていた。


イリス・ヴァルクラインは、資料庫転落直後、現場記録を求めた。


イリス・ヴァルクラインは、聖女側記録係セラ・リントンの紙片を預かった。


イリス・ヴァルクラインは、聖女フィリアの発言を制止した。


どれも嘘ではない。


嘘ではないから、消せない。


だが、それだけを並べれば、別の話になる。


母は言った。


「教会は、あなたを覚えたでしょう」


「私を?」


「ええ」


「なぜですか。私は、証拠を」


「証拠に触れたからです」


母の声は静かだった。


「彼らが触れられたくないものに、あなたは触れた。今後、あなたの言葉は、ただの言葉として扱われません。あなたの行動も、ただの行動としては扱われない」


「では、何として扱われるのですか」


母はすぐには答えなかった。


窓の外では、冬の残りの風が白薔薇の枝を揺らしている。


「都合のよい形に」


その答えは短かった。


だが、十分だった。


イリスは、胸の奥が少し冷えるのを感じた。


夜、イリスは自室でセラの紙の写しを見ていた。


震えた字が並んでいる。


日別控え。

北側二段目。

本部倉庫。

余剰扱い。

巡礼司祭団。

迎賓費。

ローヴェン司祭、資料庫へ。


その字は、きれいではない。


だが、必死だった。


セラはあの場で、聞いたものを残そうとしていた。恐ろしくても、手を止めなかった。だから、イリスはその紙を奪った。


守るために。


黙らせるために。


その二つは、同じ手つきになった。


イリスは紙を机の上に置いた。


指先に、資料庫の石段で見た光景がよみがえる。


黒く塗りつぶされた日別控え。


欄外に残った、教理の二文字。


ローヴェンの指先についたインク。


転がった鍵束。


消えなかった燭台の火。


開いたままの手。


事故だと言われた死。


そして、後になって届いた毒の報告。


何も言えなくなった者。


何も覚えていないことにされた者。


この先、正しいことをそのまま言えば、誰かが傷つく。


黙れば、別の誰かが傷つく。


優しく言えば、間に合わない。


冷たく言えば、自分の顔になる。


イリスは息を止めた。


そして、ゆっくり吐いた。


それでも、選ぶしかない。


選ばなければ、最初に声の大きい者だけが残る。


グラナートの声が、遠い昔の小書斎から聞こえた気がした。


イリスは紙を封筒に戻し、引き出しの奥へしまった。


その引き出しには、フィリア・エルヴェールと書いた紙も入っている。


リリアの練習帳もある。


誰かの名前。


誰かの字。


誰かが、消えないように残したもの。


イリスは引き出しを閉じた。


その手は、少しだけ震えていた。


けれど、翌朝には震えを止めなければならない。


廊下を歩く時、誰もその手を見ない。


人々が見るのは、背筋を伸ばした公爵令嬢の顔だけだ。


冷たい顔。


人を切る顔。


人を黙らせる顔。


イリスはその夜、初めて思った。


自分で選んだわけではない顔でも、何度もそう見られれば、いつか自分のものにされてしまうのだと。

読んでいただきありがとうございます!!

リアクション、感想、レビュー、お待ちしてます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ