第一章 7話 証人はまだ黙っている
アスターには、人が「役割」や「筋書き」に押されている時、黒い文字として見える。
その文字は現実の紙や石に書かれているわけではなく、アスターの目にだけ見える。
未来予知ではない。
真実を見抜く力でもない。
ただ、「このままだとそいつが何をさせられそうか」が分かる。
文字は濃いほど強い。
触れて引き剥がすことができる。
引き剥がした文字は、放置すると戻るか散る。
だからアスターは喰う。
喰うと相手は少し自由になるが、文字の衝動がアスターの中に残る。
大きすぎる文字は、簡単には喰えない。
祈祷室を出たあとも、胸の奥に白い熱が残っていた。
痛みを清らかなものに変えろ。
傷を祝福に変えろ。
怒りを祈りに変えろ。
フィリアから喰った脚本の断片は、今までのものと違っていた。ミラの沈黙は喉に絡みつき、薬師の従属は腹の底で鈍く沈んだ。けれど、聖女に絡んでいたものは胸の内側で燃えている。熱いのに、どこか冷たい。苦しいのに、どこか心地よい。許せ、受け入れろ、綺麗なものにしてしまえと、こちらの傷口に白い布をかけてくる。
気持ち悪い。
俺は灰色の上着の襟を引き上げ、黒パンの籠を抱え直した。西翼の廊下は相変わらず静かだった。表の広場から聞こえる歓声も、ここでは壁の向こうに沈んだ波のように遠い。石床を踏む自分の足音だけが、やけに大きく聞こえる。
祈祷室の方から、近衛兵の声がした。
「聖女様、そろそろお支度を」
フィリアの返事は小さかった。
「はい」
震えていた。
けれど、聞こえた。
それだけで、まだ十分だと思うしかなかった。
俺は廊下を逆方向へ進む。来た時と同じように、雑役のふりをして通り抜けるつもりだった。だが、角を曲がろうとしたところで、前方から足音が近づいてきた。
一人ではない。
革靴の硬い音。法衣の裾が床を擦る音。雑役や修道女の歩き方ではなかった。
俺は近くの物陰へ身を寄せた。廊下の脇には、古い聖具をしまった棚が並んでいる。大きな燭台と布で覆われた祭具の隙間に身体を滑り込ませ、籠を胸に抱えたまま息を殺す。
やがて、角の向こうから男たちの声が聞こえた。
「南区で取り逃がした役なしですが、名が分かりました」
神官兵の声だった。
「アスター、と。下町で雑用を請け負う男です。酒場を拠点にしているとの話も」
返事をした男の声には覚えがあった。
白鳩施療院で聞いた、あの冷たい声。
「アスター」
火傷跡の司祭、バルト。
名前を呼ぶだけで、人を記録に閉じ込めるような声だった。
「証人ミラに接触し、白鳩施療院で配給手続きを乱した男です。聖女様の周辺にも近づいた可能性があります」
「可能性、ですか」
「西翼の裏口で、雑役に紛れた不審者の報告が」
少しの沈黙。
俺は喉を鳴らさないように息を止めた。
「殿下には?」
「まだです」
「では、すぐにお耳に入れなさい。証人と聖女の周囲を嗅ぎ回る役なしがいる、と。罪人イリスに通じている可能性がある、とも」
「しかし、証拠は」
「証拠は、これから民の前で明らかになります」
バルトは静かに言った。
「悪女は、最後まで自分の罪から逃れようとするものです。証人を揺さぶり、聖女様の慈悲を利用し、下賤な者の口まで借りて裁きを乱そうとする。そういう形で示せばよろしい」
俺は棚の陰で、籠の取っ手を握る手に力を込めた。
うまい。
自分がミラの弟の薬を止めていたことは伏せる。白鳩施療院で何をしていたかも隠す。そのうえで、俺を「悪女側の不審な役なし」として王子に流す。
先に呼び名を決めた方が、周りの見方を決めてしまう。
悪女。
証人。
聖女。
異端者。
協力者。
この街では、人間はそうやって役割に押し込まれる。
「証人ミラは?」
バルトが聞いた。
「中央広場の証人控えへ移します。処刑前に、もう一度証言させる段取りです」
「よろしい。彼女は弱い。弱い者は、場の空気に従います」
「例の弟は」
「今は放っておきなさい。薬を飲んだところで、証人の立場が変わるわけではありません」
喉の奥で、白い熱がざらついた。
怒りを祈りに変えろ。
ふざけるな。
怒りは怒りだ。
俺は奥歯を噛みしめた。
足音が遠ざかっていく。バルトたちは廊下を奥へ進み、別の扉の向こうへ消えた。しばらく待ってから、俺は棚の陰から出た。
これで分かった。
ミラは中央広場へ移される。
処刑前に、もう一度証人として立たされる。
バルトはそこでミラの弱さを使うつもりだ。ミラが何も言えなければ、証言はそのまま残る。ミラが迷えば、「証人が悪女に揺さぶられた」と言える。ミラが泣けば、「罪の重さに苦しんでいる」と言える。
どちらに転んでも、バルトは都合よく言い換える。
なら、ミラに必要なのは逃げ道ではない。
逃げれば終わりだ。
証人逃亡。
悪女側の工作。
裁きを乱す裏切り。
そう叫ばれて、イリスの首は落ちる。
ミラは逃げてはいけない。
あの場に立って、自分の口で言わなければならない。
俺は西翼の裏口から外へ出た。
外の空気は、廊下の冷たさとは別物だった。祭りの熱、人の汗、焼いた肉の匂い、馬糞と泥の臭い。西日が白い壁を斜めに照らし、建物の影が石畳の上に長く伸びている。時間は確実に夕刻へ近づいていた。
中央広場へ向かう道は、すでに人で埋まり始めていた。
処刑を見ようとする者たちが、少しでもいい場所を取ろうと押し合っている。屋台の主人はここぞとばかりに値を上げ、子どもは肩車され、酔った男が「悪女の最期だ」と笑っていた。誰もが、自分は観客だと思っている。
俺は雑役の上着を着たまま、人混みを縫って進んだ。
中央広場の手前には、処刑関係者が出入りする細い通路があった。普段は市場の荷運びに使われる裏道だ。今日はそこに簡易の柵が立てられ、王国兵と神官兵が並んでいる。柵の向こうには、白い布で覆われた小さな馬車や、教会の者が使う控え天幕がいくつか見えた。
ミラがいるとすれば、あそこだ。
俺は真正面から近づくのをやめ、広場外周を回った。屋台の裏、荷車の隙間、酒樽を積んだ馬車の陰。人が多い場所ほど、誰も一人ひとりの顔など見ない。俺は籠を抱えたまま、雑役の一人のような顔で歩いた。
柵の裏手へ回ると、天幕の影になった狭い空間があった。木箱や水桶、処刑台を組むために使った縄や板材が雑に積まれている。その向こうに、小さな幌馬車が停まっていた。馬車の横には修道女が一人、神官兵が二人。見張りとしては薄い。だが、周囲は開けている。無理に近づけばすぐ見つかる。
幌の隙間から、灰色の服の裾が見えた。
ミラだ。
俺は息を整えた。
声をかけるには遠い。近づけば見つかる。なら、見つかっても不自然ではない理由を作るしかない。
俺は黒パンの籠を持ち上げ、近くにいた雑役の少年へ声をかけた。
「おい。証人控えの差し入れ、どこだ」
少年は俺を見た。十代前半くらいか。汗だくで、両手に水桶を持っている。
「知らないよ。俺、処刑台の方で水運べって言われただけ」
「証人控えにパンを置けって言われたんだが」
「じゃあ、その馬車じゃない? でも神官兵がいるよ」
「だから聞いてんだろ」
俺が不機嫌そうに言うと、少年は面倒くさそうに顎で示した。
「あの修道女に言えば」
「助かる」
俺は籠を抱え直し、修道女の方へ歩いた。
心臓が速い。
だが、足は急がない。
急ぐ雑役は怪しまれる。堂々としすぎても怪しまれる。疲れて、少し苛立っていて、早く荷物を置いて戻りたい。そういう顔を作る。
修道女がこちらを見た。
「何ですか」
「差し入れだ。雑役用と、証人控え用」
「今は必要ありません」
「俺に言われても困る。置いてこいって言われただけだ」
神官兵の一人が籠を覗き込んだ。
「黒パンか」
「まずい方の」
「……なぜ、わざわざまずいと言う」
「食えば分かるから、先に言ってる」
神官兵は一瞬だけ顔をしかめた。
その顔が緩んだ隙に、俺は馬車の幌の方へ視線を滑らせた。
ミラの顔が見えた。
目が合った。
彼女は声を出さなかった。だが、顔から血の気が引いた。見つかった恐怖ではない。俺がここに来てしまったことへの恐怖だった。
俺は籠を修道女に押しつけるふりをして、一歩だけ馬車へ近づいた。
「置くぞ」
「そこではなく、箱の上に」
修道女が言う。
俺は従うふりをし、木箱に籠を置いた。その時、黒パンの下に忍ばせていた短い縄を指で引っかけ、足元へ落とす。わざとらしくない程度の音がした。
神官兵の視線が下がる。
その瞬間、俺は幌の端に手をかけた。
「ミラ」
声はほとんど息だった。
彼女の肩が跳ねる。
「トマは薬を飲んだ」
ミラの目が見開かれた。
「まだ助かったわけじゃない。けど、今すぐ死ぬ状態じゃない」
「……本当に?」
声は震えていた。
「自分で見た」
ミラは唇を噛んだ。泣きそうになって、必死に堪えている顔だった。
「だから、聞け。逃げるな。逃げたら全部終わる」
ミラの足元に、黒い文が浮かんだ。
黙れ。
証言を守れ。
弟を守れ。
前より薄い。
トマに薬が届いたことで、「弟を守れ」は少し弱まっている。だが、消えてはいない。消えていなくていい。それはミラ自身の大事なものでもある。喰うべきはそこじゃない。
ミラの喉元に、細い一文が絡んだ。
言うな。
俺は幌の影に片手を滑り込ませる。
「少しだけ取る」
ミラは小さく首を振った。
「怖いです」
「知ってる」
「また、言えなかったら」
「その時は俺が台無しにする」
「何を」
「処刑を」
言ってから、自分でも雑な約束だと思った。
約束は重い。
だが、もう口にした。
なら、背負うしかない。
俺は「言うな」の一文を掴み、引き剥がした。細い。けれど、針金のように硬い。指先に痛みが走る。ミラの喉が引きつり、声にならない息が漏れた。
俺はそれを口に入れる。
苦い。
短い文のくせに、喉へ刺さる味がした。
言うな。
言えば終わる。
言えば弟が死ぬ。
言えばお前も壊れる。
俺は飲み込んだ。
一瞬、声が完全に消えた。
息だけが喉を通り、音にならない。
まずい。
修道女がこちらを見る。
「何をしているのです」
俺は咳き込むふりをした。喉を押さえ、身を折る。神官兵が不審そうに近づく。
「おい」
声が出ない。
俺は木箱の上の黒パンを一つ掴み、口に押し込んだ。硬い。死ぬほどまずい。喉に詰まりかける。それでも無理やり噛み、飲み込んだ。
痛みで、声が戻る。
「……悪い。喉に詰まった」
「紛らわしいことをするな」
神官兵は吐き捨てた。
俺は頭を下げるふりをして、もう一度だけミラを見た。
「処刑台で聞かれたら、全部言おうとするな」
ミラはかすかに頷いた。
「三つだけだ」
俺は指を三本、幌の陰で立てる。
「毒を入れろとは命じられていない。弟の薬を止めると言われた。杯の位置が変わっていた」
ミラは唇だけで繰り返した。
毒を入れろとは命じられていない。
弟の薬。
杯の位置。
「それだけでいい。余計な説明は、バルトに潰される」
「バルト……」
ミラの目が揺れた。
名前を聞いて、反応した。
やはり、あの司祭で間違いない。
「知ってるのか」
ミラは答えなかった。
だが、手が震えた。
それだけで十分だった。
「おい、もう行け」
神官兵が俺の肩を押した。
その時、幌の奥からミラの声が聞こえた。
「アスターさん」
俺は振り返らない。
振り返れば怪しまれる。
「弟を」
声は細かった。
それでも、消えなかった。
「助けてくれて、ありがとうございます」
俺は一瞬だけ足を止めた。
礼を受け取るな。
胸の奥で、喰ったものが囁く。
恩に着せろ。
利用しろ。
見捨てろ。
うるさい。
俺は返事をしなかった。ただ、片手を軽く上げて、その場を離れた。
柵の外へ戻る途中で、鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
広場のざわめきが大きくなる。
処刑の準備が整いつつある。
中央広場の奥に、処刑台が見えた。
白い木材で組まれた台。中央に置かれた首斬り用の台座。周囲には王国兵が並び、そのさらに外側で民衆が押し寄せている。裁判台よりも低い。だが、ずっと近い。民衆の目線に近く、人の死を見物しやすい高さだった。
その台へ、黒い線が集まっている。
朝から見えていたものより、ずっと太い。
民衆の声。
教会の祈り。
王子の決断。
聖女の沈黙。
証人の涙。
記録修道士の筆。
それらが一本の筋になって、処刑台の中央へ伸びていた。
悪女は死ぬ。
まだ言葉としては見えない。
だが、意味は分かる。
イリスをそこへ運ぶための筋道が、もうほとんど出来上がっている。
俺は人混みに紛れようとした。
その瞬間、背後から声がした。
「探しましたよ」
冷たい声。
振り返る前に、肩を掴まれた。
神官兵が二人。
そして、その奥にバルト司祭が立っていた。片目の下の火傷跡が、西日の中で赤黒く見える。
「下町の雑用屋、アスター」
俺は息を吐いた。
王子に名が届く前に、まず本人に捕まったか。
「人違いだ」
「まだそれを言いますか」
バルトは微笑んだ。
その笑みは、白鳩施療院で見た時よりも穏やかだった。穏やかだからこそ、腹の底が冷えた。
「証人に近づき、聖女様の周辺にも入り込んだ。施療院では教会の指示を妨害し、南区では神官兵に抵抗した。ずいぶん忙しい役なしですね」
「祭りの日だからな」
「ええ。祭りの日です。神の裁きが、民の前で示される日です」
バルトは一歩近づいた。
「その日に、あなたのような者が現れる。実に分かりやすい」
「何が」
「悪女は、最後まで裁きを乱そうとする」
周囲の何人かがこちらを見る。
まずい。
この男は、ここで俺を「悪女の協力者」に仕立てる気だ。
「俺はイリスに命じられてない」
「そうでしょうとも」
バルトは頷いた。
「悪女は、直接命じるとは限りません。人の弱さにつけ込み、怒りや同情を利用し、自分に都合のよい言葉を語らせる。あなたもまた、その一人なのでしょう」
バルトの言い方は、筋が通っているように聞こえた。
だからこそ、たちが悪い。
事実を少しずつずらし、足りない部分をもっともらしい言葉で埋める。そうすれば、聞いている連中は勝手に納得する。
俺はイリスに命じられていない。
だが、証人には近づいた。聖女のそばにも入り込んだ。施療院で教会の指示を妨害し、神官兵から逃げた。
事実だけを並べれば、俺は十分怪しい。
その怪しさを、バルトはイリスへ繋げようとしている。
「民の前で、はっきりさせましょう」
バルトが言った。
「あなたが誰のために動いたのか。何を企んで、証人と聖女様へ近づいたのか」
神官兵の手に力が入る。
俺は抵抗しなかった。
ここで暴れれば、バルトの言葉に形を与えるだけだ。悪女の手先が捕縛を逃れようとした。異端者が暴れた。そう叫ばれて終わる。
それに、処刑台へ近づく方法を探していたのも事実だった。
敵の手で運ばれるのは気に入らない。
だが、悪くない。
バルトは神官兵へ命じた。
「その男を台上へ」
広場のざわめきが、一段大きくなる。
俺は神官兵に両腕を押さえられ、中央広場へ引き出された。
西日は処刑台の白木を照らしていた。
木槌の音は、もう止んでいる。
台は完成していた。




