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勇者でも魔王でもない俺は、物語に殺される君を救う  作者: ハリオアマツバメは泣いた
第一章 役なしは悪女の脚本を喰う
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第一章 6話 聖女の檻

アスターには、人が「役割」や「筋書き」に押されている時、黒い文字として見える。

その文字は現実の紙や石に書かれているわけではなく、アスターの目にだけ見える。

未来予知ではない。

真実を見抜く力でもない。

ただ、「このままだとそいつが何をさせられそうか」が分かる。

文字は濃いほど強い。

触れて引き剥がすことができる。

引き剥がした文字は、放置すると戻るか散る。

だからアスターは喰う。

喰うと相手は少し自由になるが、文字の衝動がアスターの中に残る。

大きすぎる文字は、簡単には喰えない。

白鳩施療院を出ると、午後の陽は西へ寄り始めていた。


南区の路地には、さっきより長い影が落ちている。白く塗られたはずの壁は、雨と煤でまだらに汚れ、ところどころ漆喰が剥がれて石肌が覗いていた。王都の中心からは、笛や太鼓の音が途切れ途切れに届いている。露店の呼び込み、人混みのざわめき、遠くで鳴る鐘。人が一人、夕刻に死ぬと決まった後でも、街は何も知らない顔で祭りを続けていた。


処刑まで、もう長くはない。


俺は細い路地の途中で足を止め、壁に片手をついた。指先に、湿った砂と古い石のざらつきが残る。走ったわけでもないのに息が重い。南区の薬草臭さも、遠くから流れてくる菓子の甘い匂いも、喉の奥で嫌に絡まった。


いや、絡まっているのは匂いだけじゃない。


ミラから喰ったものが、まだそこに貼りついている。


黙れ。


その一語だけで十分だった。


声を出そうとするたび、喉の内側が細く締まる。薬師から喰った「従え」も、腹の底で鈍く疼いていた。昨日ルカから引き剥がした裏切りの甘さも、まだ完全には消えていない。喰った脚本の断片は、すぐに消えてくれるわけではない。腹の底に沈み、息をするたびに少しずつ浮かび上がってくる。


誰かのせいにしろ。

逃げろ。

見捨てろ。


俺は奥歯を噛んだ。


「うるせえ」


掠れた声が出た。


自分の声なのに、ひどく遠い。


この調子で聖女に会いに行くのか。


笑えない。


だが、フィリアには会わなければならない。


ミラから聞き出せたことは大きい。弟を人質に取られていたこと。片目の下に火傷跡のある司祭に脅されたこと。毒を入れたのは自分ではないこと。けれど、それだけで裁判をひっくり返せるほど、王都の仕組みは甘くない。


ミラはすでに民衆の前で証言してしまった。記録修道士の紙にも残っている。今さら「嘘でした」と言っても、教会はいくらでも潰せる。


証人は罪の重さに耐えかねて錯乱した。

悪女に脅された。

弟を守るために、さらに偽りを重ねた。


そう書けば終わりだ。


だから、もう一つ必要だった。


聖女フィリアの声。


裁判の場で、フィリアは何かを言おうとしていた。イリスが毒を命じたところを見たわけではない。少なくとも、あの場でそう言おうとしていたように見えた。けれど、その声は途中で遮られ、最後には「悪女を庇おうとする聖女の慈悲」として、民衆に都合よく受け取られた。


もしフィリアが、もう一度自分の言葉で語れるなら。少なくとも、処刑台の上で「聖女が悪女を許す」という形は崩せるかもしれない。


問題は、どうやって会うかだった。


聖女はどこにいる。

誰に守られている。

俺のような役なしが、どうやって近づく。


王城の者でも、教会の者でもない下町の雑用屋が、正面から「聖女様に会わせてください」と言って通してもらえるわけがない。


「……親父か」


俺は壁から手を離した。


あの親父なら、何か拾っているかもしれない。祭りの日の酒場には、余計な話が流れ込む。兵士も、修道士も、露店商も、どこかの使用人も、酒とまずい黒パンがあれば余計なことを喋る。


そういう場所で、親父は長く生きている。


南区から大通りへ戻る途中、路地の空気が変わった。


背中に視線を感じる。


足は止めなかった。角を曲がると、石壁に挟まれた細い道へ出る。頭上には洗濯紐が渡され、湿った布から水が落ちていた。滴が石畳に当たり、小さな音を立てる。祭りの日だからだろう、人通りはほとんどない。


背後の足音は二つ。


間隔を保っている。酔っ払いでも物盗りでもない。こちらを追うことに慣れた歩き方だった。


あの火傷跡の司祭が、もう人を寄越したか。


早い。


俺は外套の内側に手を入れ、短剣の柄に指を触れた。抜きはしない。狭い路地で複数人相手に刃物を抜けば、こちらも逃げにくくなる。正面から勝つより、通り抜けることを考えた方がいい。


次の角を曲がったところで、前方にも一人立っていた。


白い法衣ではない。灰色の短い上衣に、硬い革の胸当て。腰には短い棍。胸元には小さな銀の輪飾り。


教会の神官兵だ。


「止まれ」


前の男が言った。


俺は足を止めた。


背後の二人も距離を詰める。


前に一人。後ろに二人。路地の幅は、大人が二人並べば肩が触れる程度。右は雨で黒ずんだ壁、左には空の桶と薪束が積まれている。頭上の洗濯物は邪魔になるが、目隠しくらいには使えるかもしれない。


「迷子か?」


俺が言うと、正面の男は表情を変えなかった。


「聖堂管理区域に無断で入り、施療院で教会の指示を妨害した者だな」


「人違いだ」


「名を」


「人違いに名乗る名前はない」


背後で棍を抜く音がした。


「異端の疑いがある。同行しろ」


「便利だな、異端」


「抵抗すれば拘束する」


「抵抗しなくても拘束するだろ」


正面の男の足元に、黒い一文が浮いた。


異端は声を失え。


俺は小さく息を吐いた。


今日は本当に、喉に縁がある。


正面の神官兵が、短く聖句を唱える。


「輪は乱れを閉じ、声は罪を縛る」


石畳に銀色の輪が浮かび上がった。


これは黒い文字とは違う。神官兵たちにも見えている。銀の光が路地の壁に反射し、洗濯紐から落ちる水滴が一瞬だけ光った。


聖術。


教会の下級拘束術だ。罪人や暴徒を取り押さえるためのもの。まともに踏めば足が重くなる。声も出にくくなる。今の俺には、特に相性が悪い。


俺は輪が閉じる前に半歩下がった。


その瞬間、背後の男が踏み込んでくる。濡れた石畳を革靴が叩く音が近づいた。棍は右手。振りかぶりは浅い。狙いは俺の左肩から首筋にかけて。骨を砕くというより、体勢を崩して膝をつかせる打ち方だった。


足元に黒い文字が浮く。


打て。

崩せ。


俺は膝を抜いて身を沈めた。棍が耳のすぐ上を唸って通り、外套の肩口だけを裂いて壁に当たる。乾いた音が路地に跳ねた。避けた、というより、潰れるように下へ逃げただけだ。体勢は悪い。だが、相手の腹は目の前にある。


俺は一歩だけ踏み込み、肘を革鎧の下、脇腹の柔らかい位置へ叩き込んだ。


硬い。


まともには入らない。


それでも息は詰まる。男が一瞬だけ前に折れた。俺は左手で外套の端を掴み、そのまま男の顔へ跳ね上げる。視界を塞がれた男が反射的に棍を振り回し、後ろにいたもう一人の腕に当てた。


「何をしている!」


「見えなかったんだ!」


二人の距離が乱れた。


その隙に、俺は正面へ向かう。


銀の輪が足元で閉じかけていた。踏み込めば足を取られる。下がれば背後の二人に挟まれる。なら、薄くなったところを抜けるしかない。


正面の神官兵が、もう一度聖句を唱えようとする。


異端は声を失え。


その一文だけが濃い。


本当は喰いたくない。これ以上喉をやられれば、フィリアに会えたところで話せなくなる。だが、ここで捕まれば終わりだ。


俺は正面の男の足元に手を伸ばし、その一文を掴んだ。


引き剥がした瞬間、男の詠唱が乱れる。銀の輪が一瞬だけ薄くなった。


俺はそのまま口に押し込む。


冷たい。


味はほとんどない。ただ、喉の奥がさらに狭くなる。息が通りにくい。声が落ちる。世界が少し遠くなる。


声を失え。

名乗るな。

弁明するな。

異端は黙って裁かれろ。


吐き気をこらえ、俺は短剣の柄を握ったまま相手の顎を打ち上げた。


刃は抜かない。


抜けば殺し合いになる。


柄頭が顎の下に当たり、鈍い音がした。正面の男の膝が落ちる。倒れきる前に襟を掴み、盾にするように背後の二人へ押し出した。


棍を持つ男が慌てて手を止める。


その隙に、俺は左に積まれていた桶を蹴った。


桶が倒れ、中の水が石畳へ広がる。路地の低い方へ流れた水に、神官兵の革靴が滑った。片方が壁に肩をぶつけ、もう片方が体勢を立て直そうと腕を広げる。


今しかない。


俺は走った。


背後で怒声が上がる。


「追え!」


黒い命令が路地の角で跳ねた。


追え。

逃がすな。

捕らえろ。


もう見ない。


見れば喰いたくなる。

喰えば進める。

進めば壊れる。


俺は息を殺して走った。


細い路地を抜け、荷車の陰を通り、干された布の下をくぐる。南区の道は整っていない。白い王都と呼ばれる場所のくせに、下町の路地は曲がり、沈み、ところどころ石が欠けている。足を置く場所を間違えれば簡単に捻るが、子どもの頃からこういう道で逃げ回っている人間には、まっすぐ整えられた大通りよりよほど馴染みがある。


神官兵の足音は、すぐに遠ざかった。


大通りへ戻る頃には、喉が焼けていた。声を出そうとすると咳になる。壁に手をつき、口元を押さえると、唾に黒いものが混じっていた。


血ではない。


喰ったものの残りだ。


「最悪だな」


声は出た。


ひどく掠れていたが、出た。


まだ使える。


なら、急ぐしかない。


酒場に戻ると、親父は店の奥で客の相手をしていた。


祭りの日の酒場は、昼から混んでいる。客は立ったまま黒パンを齧り、薄い酒を飲み、悪女の処刑について好き勝手に喋っていた。祭りの熱と処刑への期待が混ざった空気は、酒の匂いよりも悪酔いしそうだった。


「中央広場はもう場所が埋まり始めてるらしいぞ」


「処刑台も半分できたってよ」


「聖女様も夕刻には祈りを捧げに出てこられるとか」


「王子殿下が直々に立ち会われるんだろう?」


「悪女もこれで終わりだな」


俺は客の間を抜け、カウンターの奥へ入った。


親父が振り返る。


「お前、早……」


そこで言葉が止まった。


「何だその顔」


「美形になったか」


「死人に近づいてる」


「まだ生きてる」


「それはさっき聞いた」


親父は客に酒を渡しながら、俺を裏の物置へ押し込んだ。狭い部屋だった。酒樽、粉袋、乾いた薪、使い古した布。外の喧騒が少しだけ遠くなる。


「何があった」


「追われた」


「教会か」


「ああ」


「だから一人で行くなって言っただろ」


「親父が走れないからだ」


「言い訳する声が死にかけてるぞ」


親父は棚から水差しを取り、俺に渡した。


飲む。


喉が痛む。


それでも少しだけ楽になった。


「火傷跡の司祭は分かったか」


俺が聞くと、親父は顔をしかめた。


「客から聞いた。バルト司祭ってやつらしい。聖譚祭の裁判記録を取り仕切ってる一人だとよ」


バルト。


ようやく名前がついた。


「貴族街に顔が利く。施療院の薬の配給にも関わってる。信心深い連中には評判がいいらしい」


「薬を止めて子どもを殺しかける司祭がか」


「表に出なきゃ、評判なんてそんなもんだ」


親父は低く言った。


「で、聖女は」


「聖女様なら、今は聖堂西翼の祈祷室にいるらしい」


「確かか」


「客の中に、聖堂へ花を納めてる女がいた。裁判の後、倒れた聖女様を西翼に運んだって言ってた。夕刻前には中央広場へ出て、処刑の前に祈りを捧げる段取りらしい」


「近くに誰がいる」


「修道女が数人。王子の近衛が二人。教会側の見張りもいる。あと、バルト司祭が出入りしてるかもしれん」


「面倒だな」


「今さらだろ」


親父は物置の隅から小さな木箱を引っ張り出した。古い布切れや紐、安物の祭具に混じって、灰色の上着が入っている。


「聖堂の雑役が着るやつだ。昔、酔った修道士が置いていった」


「盗品か」


「忘れ物だ」


「便利な言葉だ」


「お前が言うな」


親父は上着を俺に押しつけた。


「それを着ろ。顔を伏せて、荷物を持って歩けば、すぐには止められん」


「荷物は」


親父は黒パンの籠を指した。


「差し入れだ」


「聖女にこれを食わせる気か」


「そんな罰当たりなことするか。聖堂の雑役用だ」


「聖堂の雑役にも人権はあるだろ」


「うるせえ」


親父は籠の底に、短い縄と小さな革袋を忍ばせた。


「革袋には塩と灰。目潰しに使え」


「親父、昔何してた」


「パン屋だ」


「嘘をつくな」


「まずいパン屋だ」


それは本当だった。


俺は灰色の上着を羽織った。外套より軽い。肩のあたりが少しきついが、動けないほどではない。


親父は俺の顔を見た。


「本当に行くのか」


「ここまで来て帰ったら、さすがに寝覚めが悪い」


「お前、寝つきだけはいいだろ」


「今日は悪そうだ」


親父はため息をついた。


「聖女様に会って、どうする」


「声を返す」


「返す?」


「たぶん、あの人も奪われてる」


「何を」


「自分の言葉」


親父は黙った。


外の客が笑う声が聞こえる。悪女の処刑を楽しみにしている声だ。


「アスター」


「何だ」


「死ぬなよ」


「努力はする」


「軽いな」


「重く言うと縁起が悪い」


親父は鼻を鳴らした。


「行け。まずいパンの差し入れだ。胸張って通せ」


「胸張ったら止められるだろ」


「じゃあ猫背で行け」


俺は籠を持ち、酒場の裏口から出た。


聖堂へ戻る道は、さっきよりさらに混んでいた。


中央広場へ向かう人の流れと、聖堂前へ残る人の流れが交わり、大通りは人で詰まっている。処刑までの時間をどう潰すか。人々はそれを楽しんでいるようにも見えた。誰かの死が近づくほど、街は妙に浮き立つ。自分が裁かれる側ではないと確認したいのかもしれない。


俺は顔を伏せ、灰色の上着の襟を引き上げて歩いた。


黒パンの籠を持っていると、不思議と誰も深く見ない。人は役割を見る。雑役の服を着て、雑役の荷物を持っていれば、とりあえず雑役として処理する。


この世界は単純だ。


単純だから、人を殺しやすい。


聖堂西翼へ回ると、人の数は少し減った。


高い壁に沿って、使用人用の小道が続いている。荷車の跡が残り、壁際には空の木箱が積まれている。聖堂の表側が白く磨かれているのに対し、こちら側の壁は雨の跡でくすんでいた。


扉の前には、若い修道士が一人立っている。


眠そうな顔だ。祭りで人手が足りず、見張りに回されたのだろう。腰には短杖。胸元には小さな銀の輪飾り。


俺は籠を少し持ち上げた。


「差し入れだ」


修道士は俺を見た。


「どこの」


声を出すと喉が痛む。


だが、出さなければ怪しまれる。


「西通りの酒場。雑役用の黒パン」


修道士は籠の中を覗き込んだ。


「黒パン?」


「まずい方の」


「まずい?」


「食えば分かる」


修道士は顔をしかめたが、深く追及しなかった。祭りの日の雑務に疲れているのだろう。食い物が来た、くらいの認識で十分らしい。


「中へ。騒ぐなよ。聖女様がお休みだ」


「分かってる」


俺は扉をくぐった。


西翼の廊下は、外の喧騒が嘘みたいに静かだった。石の床に敷かれた細い布。壁に刻まれた古い聖句。小さな窓から入る青い光。薬草と香油の匂いが混ざっている。ここだけ時間の進み方が違うようだった。外では処刑台が組まれ、民衆が場所取りをしているというのに、廊下の空気は祈りの形をして冷えている。


奥から、女の声が聞こえた。


「聖女様、少しでもお休みください」


別の声が続く。


「夕刻には中央広場で祈りを捧げていただかねばなりません」


俺は歩く速度を落とした。


祈祷室は廊下の突き当たりらしい。扉の前には、王子の近衛らしい兵士が二人立っている。白銀の胸当て。腰には剣。神官兵よりずっと姿勢がいい。あれは正面からどうにかできる相手ではない。


俺は近くの小部屋へ入った。物置だった。燭台、花瓶、古い布、清掃用の水桶。窓は細いが、少し開いている。


外へ出られるほどではない。


だが、隣室の声は聞こえた。


「……私は、大丈夫です」


フィリアの声だった。


弱い。


けれど、確かに彼女の声だ。


「大丈夫ではありません。お顔の色が」


「少し、一人にしてください」


「ですが」


「お願いします」


沈黙のあと、扉が開く音がした。修道女が二人、外へ出ていく。


近衛兵の足音は残っている。


俺は物置の中で息を殺した。


祈祷室の正面には近衛が二人。廊下には修道女。外には見張り。大声を出せば終わりだ。だが、時間はない。


窓の外から、中央広場の木槌の音がかすかに響く。


こん、こん、こん。


処刑台はまだ組まれている。


その音を聞いた瞬間、俺は動いていた。


物置の壁に、古い通気口があった。人が通れる大きさではない。だが、壁の下部にある板は緩んでいる。聖堂の古い建物にはよくある。修理されない場所ほど、抜け道になる。


俺は短剣の先で板をこじ開けた。


音は小さく抑えた。


隙間から隣の祈祷室の床が見える。狭いが、身体を横にすれば通れないことはない。灰色の上着を脱ぎ、籠を置き、肩から先に身体をねじ込む。


肩が引っかかった。


喉が痛む。


腹の奥で「従え」が囁く。


やめろ。

戻れ。

面倒を避けろ。


無視した。


息を吐いて身体を細くし、板の角で腕を擦りながら隙間を抜ける。最後に腰が引っかかり、少し強引に押し込んだせいで、祈祷室の床に転がり出た。


床板が鳴る。


まずい。


「誰ですか」


フィリアの声が震えた。


俺はすぐに手を上げた。


「叫ばないでくれ」


声は掠れている。


説得力はない。


フィリアは椅子から立ち上がっていた。白い修道服のまま、肩に薄い布をかけている。顔色は悪く、目元は赤い。だが、裁判台の上で見た時よりも、少しだけ人間らしい顔をしていた。


祈祷室は小さかった。


中央に祈り台。壁には聖女と勇者の古い絵。窓は細く、光は青い。香油の匂いが強い。外の歓声は、厚い壁に遮られて遠い。


フィリアは俺を見る。


怯えている。


当然だ。


床の隙間から変な男が出てきたのだから。


「あなたは……」


「雑用屋」


「え?」


「今はそれでいい」


俺は立ち上がろうとして、少しよろけた。喰ったもののせいで、身体の芯が重い。


フィリアが一歩下がる。


その喉元に、黒い文が浮かんでいた。


泣け。

許せ。

祈れ。

微笑め。

何も見なかったことにしろ。


裁判台で見た時より、ずっと濃い。


祈祷室の静けさの中で、それだけが嫌に鮮明だった。


「やっぱりか」


「何の話ですか」


「裁判で、言いたいことがあっただろ」


フィリアの目が揺れた。


「私は」


喉元の文が動く。


微笑め。

許せ。

苦しみを受け入れろ。


フィリアは口を閉じた。


その仕草だけで分かった。


この人は何度もこうやって飲み込んできたのだ。


「イリスを助けたいか」


俺が聞くと、フィリアの顔が歪んだ。


「私は、イリス様を」


そこまで言って、止まる。


まただ。


言葉が途中で曲げられる。


彼女の足元にも、細い黒い線が絡んでいる。イリスへ向かう線とは別のものだ。聖女という役割に彼女を縛る線。


「私は……」


フィリアは両手で胸元を握った。


「私は、何を言っても、違う意味になります」


声が震えていた。


「違うと言っても、優しいと言われます。見ていないと言っても、庇っていると言われます。怒っても、悲しんでいると言われます。怖いと言っても、清らかだと言われます」


涙がこぼれた。


「私の声は、もう私のものではありません」


俺は黙った。


その言葉は、思ったより重かった。


裁判台の上で見た違和感が、ようやく形になった気がした。


フィリアは聖女として大切にされている。守られている。祈られている。その全部で、声を奪われている。


「なら、少し返す」


俺は言った。


フィリアが顔を上げる。


「何を」


「声を」


「あなたに、そんなことが」


「できるかは分からない」


俺は一歩近づいた。


フィリアは逃げなかった。


怖がってはいる。


だが、逃げなかった。


「全部は無理だ。あんたに絡んでるものは、ミラの比じゃない。聖女という役割そのものに近い」


「……何を言っているのか、分かりません」


「俺も、全部は分かってない」


「それで人を助けようとしているんですか」


「だいたいそうだ」


フィリアは一瞬だけ、泣きながら笑った。


小さな笑いだった。


すぐに消えた。


俺は彼女の喉元に浮く文を見る。


泣け。

許せ。

祈れ。

微笑め。

何も見なかったことにしろ。


喰うなら、どれだ。


「泣け」は違う。


フィリアの涙まで奪う気はない。


「許せ」も危うい。


許したい気持ちまで消せば、この人の芯に触れすぎる。


「祈れ」も大きい。


聖女としての力に絡んでいる可能性がある。


なら。


俺は手を伸ばした。


何も見なかったことにしろ。


そこだけを掴む。


フィリアが息を呑んだ。


「痛いかもしれない」


「もう痛いです」


その答えで、俺は引き剥がした。


黒い文が裂ける。


フィリアの身体が震えた。声にならない悲鳴が喉で止まる。俺の指先には、重い布を剥がすような抵抗があった。


今まで喰ったものより、ずっと濃い。


聖女という役割に絡んだ脚本の断片。


俺はそれを口元へ運び、噛んだ。


味がない。


そう思った次の瞬間、光のような苦みが口の中に広がった。


苦いのに、眩しい。


祈りの匂い。

香油の匂い。

乾いた花の匂い。

誰かが泣きながら差し出した願いの匂い。


飲み込む。


胸の奥が白く焼けた。


見なかったことにしろ。

痛みを清らかなものに変えろ。

傷を祝福に変えろ。

怒りを祈りに変えろ。

お前は聖女なのだから。


膝が落ちそうになった。


これはまずい。


ルカやミラのものとは違う。人ひとりの感情だけではない。聖堂の説教。民衆の期待。王子の庇護。教会の記録。フィリア自身が耐えてきた時間。


喰った瞬間、それらが胸の内側で白く燃えた。


汚れたものを、綺麗なものとして受け入れろ。


そんな衝動が、腹の底から湧く。


気持ち悪い。


俺は奥歯を噛みしめた。


「……これが、聖女かよ」


吐き捨てた声は、自分でも驚くほど掠れていた。


フィリアは祈り台に手をついていた。肩で息をしている。喉元の文はまだ残っている。けれど、「何も見なかったことにしろ」だけは薄くなっていた。


フィリアはゆっくり顔を上げた。


目の焦点が、さっきより少しだけ合っている。


「私は」


声が出た。


細い。


だが、今度は途中で消えなかった。


「私は、イリス様が毒を命じたところを見ていません」


俺は息を止めた。


フィリアは続ける。


「杯に毒が入っていたことは、本当です。私は倒れました。苦しかった。怖かった。それは本当です」


彼女の手が震える。


「でも、イリス様がやったとは、私は言っていません」


扉の外で、近衛兵の足音が動いた。


声が聞こえたのだろう。


俺は扉の方を見る。


時間がない。


「それを処刑台で言えるか」


フィリアの顔が青くなる。


喉元の黒い文がまた濃くなる。


泣け。

許せ。

祈れ。

聖女は裁きを乱すな。


彼女は胸元を握りしめた。


「分かりません」


正直な答えだった。


「怖いか」


「怖いです」


「イリスが?」


フィリアは首を横に振った。


「違います」


その一言は、はっきりしていた。


「なら、誰が怖い」


扉の外で、男の声がする。


「聖女様? 何かございましたか」


近衛兵だ。


フィリアは口を開いた。


だが、言葉が出る前に、黒い文が喉へ絡む。


黙れ。

微笑め。

何もないと言え。


俺は手を伸ばしかけた。


だが、もう喰えない。


今これ以上喰えば、たぶん俺が倒れる。


フィリアは喉を押さえた。


それでも、さっきよりほんの少しだけ強い声で言った。


「……何も、ありません」


外の足音が止まる。


「本当に?」


「少し、祈っていただけです」


「承知しました」


足音が離れる。


フィリアはその場に座り込んだ。


「ごめんなさい」


「謝るな。今ので十分だ」


「十分ではありません」


「十分じゃないから、次をやる」


俺は息を整えた。


頭が重い。


喉が痛い。


胸の奥で、白い祈りの残りが燃えている。


見なかったことにしろ。

痛みを祝福に変えろ。


うるさい。


痛みは痛みだ。


祝福なんかにしてたまるか。


「夕刻、中央広場に出るんだな」


俺が聞くと、フィリアは頷いた。


「処刑の前に、祈りを捧げるよう言われています」


「その時、言え」


「何を」


「見ていないことを。命じたところを見ていないことを。イリスが毒を入れたとは言っていないことを」


「でも、私が言っても」


「意味を変えられるかもしれない」


フィリアは目を伏せる。


「はい」


「なら、意味を変えられる前に、もう一人に言わせる」


「もう一人?」


「ミラだ」


フィリアの目が開く。


「ミラさんは」


「弟を人質に取られてた。薬を止められてる」


フィリアの顔が、今度こそはっきりと歪んだ。


怒りだった。


聖女らしくない。


いい顔だった。


「そんな」


「弟には薬を飲ませた。まだ助かったわけじゃないが、少なくとも今すぐ死ぬ状態ではない」


「あなたが?」


「薬師が出した。俺は少し邪魔をしただけだ」


フィリアは両手を握りしめた。


「私は、何も知らなかった」


「知らないようにされてたんだろ」


その言葉に、フィリアは俯いた。


たぶん、優しい慰めには聞こえなかったはずだ。


でも、俺は慰めに来たわけではない。


「処刑台で、あんたとミラが同じことを言えれば、少なくとも脚本は揺れる」


「脚本……」


「悪女が裁かれるための筋道だ」


フィリアはその言葉を繰り返すように、小さく唇を動かした。


悪女が裁かれるための筋道。


「それでも、王子殿下は」


「レオナールが最後に斬るかどうかは、まだ分からない」


「殿下は、正しい方です」


「だから危ない」


フィリアは顔を上げた。


俺は言った。


「正しい人間は、自分が間違ってると思ってない」


フィリアは何も言わなかった。


扉の外から、遠く鐘の音が聞こえた。


一度。


二度。


三度。


夕刻が近い。


フィリアの顔が強張る。


「準備の鐘です」


「処刑の?」


「はい」


思ったより時間がない。


俺は祈祷室の壁の隙間へ向かった。


「もう行く」


「どこへ」


「ミラを連れ出す。あんたは中央広場で祈りの場に立て」


「私は、言えるでしょうか」


「知らない」


俺は正直に答えた。


「でも、言えなかったらイリスは死ぬ」


フィリアの唇が震えた。


残酷な言い方だった。


だが、たぶん必要だった。


聖女として守られる言葉ではなく、一人の人間として背負う言葉が。


フィリアは深く息を吸った。


「私は」


まだ震えている。


けれど、声は消えなかった。


「私は、見たことと、見ていないことを言います」


それで十分だった。


少なくとも、今は。


俺は壁の隙間に身体をねじ込む。


その直前、フィリアが呼んだ。


「あなたの名前は」


俺は少し迷った。


名乗るな。

黙れ。

声を失え。


喉の奥で、喰ったものがざわつく。


俺はそれを噛み潰すように、声を出した。


「アスター」


フィリアはその名を繰り返した。


「アスターさん」


「さんはいらない」


「では、アスター」


聖女はまだ青い顔のまま、それでも俺を見た。


「イリス様を、助けてください」


初めてだった。


誰かが、はっきりそう言ったのは。


俺は答えなかった。


答えれば、たぶん何かを約束してしまう。


約束は重い。


重いものは、だいたい人を役割にする。


だから俺は何も言わず、物置側へ戻った。


狭い隙間を抜け、床に転がる。立ち上がると、足元がふらついた。喉は痛く、胸は白く焼けている。


それでも、少しだけ線は揺れた。


王都の中心へ向かう黒い筋。


悪女を処刑台へ運ぶ脚本。


その中に、細いほつれが生まれている。


ミラ。


フィリア。


二つの声。


まだ弱い。


けれど、ゼロではない。


俺は灰色の上着を拾い直し、黒パンの籠を持った。


物置の扉を開ける。


廊下には誰もいない。


遠くで、近衛兵の声がする。


「聖女様、そろそろご準備を」


フィリアの声が答えた。


「はい」


震えていた。


けれど、聞こえた。


俺は廊下を逆方向へ歩き出す。


中央広場から、木槌の音がまた響いた。


こん。


こん。


こん。


処刑台が、完成に近づいている。

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