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勇者でも魔王でもない俺は、物語に殺される君を救う  作者: ハリオアマツバメは泣いた
第一章 役なしは悪女の脚本を喰う
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第一章 5話 処刑までの猶予

アスターには、人が「役割」や「筋書き」に押されている時、黒い文字として見える。

その文字は現実の紙や石に書かれているわけではなく、アスターの目にだけ見える。

未来予知ではない。

真実を見抜く力でもない。

ただ、「このままだとそいつが何をさせられそうか」が分かる。

文字は濃いほど強い。

触れて引き剥がすことができる。

引き剥がした文字は、放置すると戻るか散る。

だからアスターは喰う。

喰うと相手は少し自由になるが、文字の衝動がアスターの中に残る。

大きすぎる文字は、簡単には喰えない。

広場の歓声は、裁判が終わってもすぐには消えなかった。


「処刑だ!」


「悪女が裁かれるぞ!」


「聖譚祭にふさわしい裁きだ!」


人々は口々に叫びながら、裁判台を見上げていた。泣いている者がいる。笑っている者がいる。祈るように両手を組む者もいる。けれど、どの顔も同じ方向を向いていた。


イリス・ヴァルクラインは、王国兵に囲まれて裁判台の中央に立っていた。


手首の鉄枷。足首の鎖。黒いドレスの裾。白い髪。その全部が、民衆の目に晒されている。


イリスは何も言わなかった。


弁明もしない。泣きもしない。王子を睨むこともしない。ただ、顔を上げて、歓声の向こうを見ていた。どこを見ているのかは分からない。


彼女の足元に集まっていた黒い線は、裁判台の上からゆっくり別の方角へ伸び始めていた。


中央広場。


処刑台が組まれる場所だ。


「……もう向かってる」


俺が呟くと、親父が眉をひそめた。


「何が」


「脚本」


「またそれか」


「またそれだ」


親父は籠を抱え直した。中の黒パンは、まだ半分以上残っている。売る気があったのか、なかったのか分からない。


王国兵がイリスへ近づく。


「歩け」


兵士の一人が言った。


イリスは返事をしなかった。ただ、一歩だけ足を出した。足首の鎖が鳴る。


からん。


その音に、民衆がまた沸いた。


「悪女が歩くぞ!」


「顔を見ろ!」


「最後まで高慢だな!」


何人かが前へ押し寄せる。兵士が槍で押し返した。女が罵声を浴びせ、男が唾を吐こうとして隣の者に止められる。子どもが父親の肩に乗せられ、イリスを指差していた。


祭りの見世物みたいだった。


いや、もう見世物なのだろう。


有罪。

婚約破棄。

処刑宣告。


儀式に必要な言葉は、すでに並べられた。あとは、夕刻に首を落とすだけだ。


それで悪女は悪女として完成する。


俺は一歩も動かなかった。


動けなかった、と言えば聞こえはいい。


けれど、本当にそうなのかは分からない。


黒い線の規模が大きすぎる。民衆も、教会も、王家も、証人も、記録も、全部が絡んでいる。今ここで無理に手を突っ込めば、誰が壊れるか分からない。


それは事実だ。


昨日のルカとは違う。あの時は、刃物を握った少年が目の前にいて、その腕に絡んだ脚本の断片を喰えば、少なくとも刺すことだけは止められた。


だが、今イリスを処刑台へ運ぼうとしているのは、一人の人間ではない。


広場だ。


教会だ。


王家だ。


記録だ。


聖女の涙だ。


民衆の怒りだ。


その全部が、一本の線になって彼女の足元へ集まっている。


だから今は動けない。


そう考えた。


考えたかった。


けれど、その理屈のどこかに、自分でも薄く気づいている逃げ道があった。


危ないから動かない。

分からないから動かない。

今ではないから動かない。


そう言いながら、俺はただ面倒から逃げようとしているだけなのかもしれない。


イリスが裁判台を降りる直前、彼女は一度だけ振り返った。


視線が合った。


ほんの一瞬だった。


助けを乞われたわけではない。恨まれたわけでもない。あの女は、俺を特別な誰かとして見たわけじゃないのだろう。


ただ、人混みの中にいる俺を見つけて、すぐに目を逸らした。


それだけだった。


なのに、胸の奥がざらついた。


俺が何を見て、何を理由にして動かなかったのか。


その言い訳ごと、見られた気がした。


イリスは顔を戻し、兵士に連れられて聖堂の側面扉へ消えた。


扉が閉まる。


その音で、ようやく息ができた。


広場の熱が、少しだけ別の形に変わっていく。


裁判は終わった。


処刑は夕刻。


ならば、それまで何をするか。


人々はすぐに動き始めた。露店へ向かう者。中央広場へ急ぐ者。処刑を見やすい場所を取りに行く者。聖女の容体を気にする者。王子の決断を讃える者。


誰もが、次の場面へ進んでいく。


俺はその流れに押されながら、歯を噛みしめた。


「アスター」


親父が呼ぶ。


「お前、今すぐあの令嬢を助け出すとか考えてねえよな」


「考えるだけなら自由だろ」


「やめろ」


「まだ何もしてない」


「何かしそうな顔だ」


「顔で決めつけるな」


「付き合いが長いんだよ」


親父は俺の外套の袖を掴んだまま、広場の端へ引っ張った。俺も逆らわなかった。今のまま人の波の中にいれば、本当に足が勝手に動きそうだったからだ。


広場の端には、空になった樽や木箱が積まれている。さっきまで祝祭の飾りを運んでいたものだろう。人混みから少し外れるだけで、声の輪郭がぼやける。


それでも、聞こえてくる言葉は同じだった。


悪女。

処刑。

聖女様。

王子殿下。

神の裁き。


俺は壁に背を預け、深く息を吐いた。


胸の奥で、昨夜喰った脚本の断片がまだ疼いている。


逃げろ。

見捨てろ。

関係ない。

楽になれ。


それとは別に、広場全体から伸びる黒い線が視界の端で揺れていた。見ようとしなくても見える。目を閉じても、まぶたの裏に残る。


「なあ」


親父が言った。


「本当に、あの娘は悪女じゃないのか」


「知らない」


「知らない?」


「俺は真実を見抜けるわけじゃない」


親父は黙った。


俺は裁判台の方を見た。白い木材の上には、まだ王国兵と教会の者たちが残っている。記録修道士たちは紙を束ね、封蝋を押していた。


あの紙が、今日の裁判を事実にする。


「俺に見えるのは、筋道だけだ」


「筋道?」


「このまま進めば、誰かが何をさせられるか。どこへ押し込まれるか。そういうものが、文字に見える」


「じゃあ、あの娘は」


「悪女として処刑される方へ押されてる」


「実際に悪いかどうかは?」


「別の話だ」


親父は苦い顔をした。


「ややこしいな」


「ああ」


「じゃあ、お前が喰えばいいんじゃねえのか。昨日の子どもみたいに」


俺は首を横に振った。


「昨日のルカは、一人だった。あいつの嫉妬に絡んだ脚本の断片を引き剥がせば、刃物は止まった」


俺は広場を見た。


民衆の足元。裁判台の下。聖堂の扉。記録修道士の紙束。王子が消えた階段。聖女が運び込まれた馬車。


黒い線が、幾重にも重なっている。


「でもこれは、一人じゃない。民衆、教会、王家、証人、聖女、記録、裁判、処刑。全部がつながってる。無理に喰えば、たぶん俺の方が持っていかれる」


「持っていかれるって何だ」


「さあな」


「おい」


「経験したことがない」


「じゃあ余計にやるな」


親父の声は低かった。


俺は返事をしなかった。


やらないと言えれば楽だった。


だが、イリスの視線がまだ胸の奥に残っている。


「……まず、ほどける場所を探す」


「ほどける場所?」


「全部は喰えない。でも、どこかに緩んでる結び目があるはずだ。証人か、物証か、聖女か」


「お前、探偵にでもなったのか」


「雑用屋だ」


「便利な肩書きだな」


「正式じゃないからな」


俺は壁から背を離した。


その時、聖堂の側面扉が開いた。


さっきイリスが連れて行かれた扉ではない。もっと小さな、修道士たちが出入りするための扉だ。そこから二人の修道女が出てきた。支えられているのは、証人の侍女だった。


ミラ。


彼女は歩いているというより、引きずられていた。足元がおぼつかない。顔は白く、唇は震えている。裁判台の上で泣いていた時より、さらにひどい顔をしていた。


ミラの靴の周りには、まだ黒い文字が残っていた。


黙れ。

証言を守れ。

弟を守れ。

振り返るな。


薄い。


けれど、消えてはいない。


俺は親父を見た。


「一つ目だ」


「何が」


「あの侍女」


親父はミラの方を見た。


「お前、まさか」


「話を聞くだけだ」


「お前の“話を聞く”は信用できない」


「安心しろ。俺も信用してない」


俺は人混みの隙間を抜け、ミラたちの後を追った。


聖堂の側面に回ると、広場の喧騒は少し遠くなった。白い壁が高くそびえ、細長い窓から色硝子の光が落ちている。足元の石畳は湿っていた。朝の雨がまだ乾いていないのだろう。


修道女たちは、ミラを裏手の小さな水場へ連れていった。


そこは聖堂の使用人たちが手を洗う場所らしい。石の水盤があり、壁には古びた布がかけられている。周囲には人が少ない。表の祭りとは違い、湿った石と薬草の匂いがした。


ミラは水盤に手をつき、吐いた。


胃の中にはほとんど何もなかったのか、出てきたのは苦い水だけだった。修道女の一人が背をさすり、もう一人が面倒そうに周囲を見回している。


「少し休ませます」


背をさすっていた修道女が言った。


「すぐ戻るように。司祭様がお呼びになるかもしれません」


もう一人はそう言い、足早に離れていった。


残った修道女は、ミラに水を飲ませようとした。だがミラはうまく飲めない。杯を持つ手が震えて、水が顎からこぼれた。


俺は柱の陰から出た。


「少しいいか」


修道女が振り向く。


「誰です」


「雑用屋」


「ここは関係者以外、立ち入り禁止です」


「じゃあすぐ帰る」


俺はミラを見た。


「弟は南区の施療院か」


その一言で、ミラの顔が上がった。


目に浮かんだのは驚きではなかった。


恐怖だった。


「……何の話ですか」


声は掠れていた。


「裁判台で聞こえた。薬代がどうとか、弟がどうとか」


「知りません」


早かった。


早すぎる否定だった。


水盤の縁を握る指が白くなっている。吐いた直後で力など残っていないはずなのに、そこだけ必死に力が入っていた。


「イリスに命じられたのか」


「裁判で、そう言いました」


「本当に?」


「裁判で、そう言いました」


同じ言葉を繰り返している。


自分の声を、自分で信じ込もうとしているみたいだった。


ミラの足元で、黒い文字が濃くなる。


黙れ。

証言を守れ。

弟を守れ。

真実を言えば、弟が死ぬ。


俺は舌打ちした。


「それ、あんたの言葉じゃないだろ」


「何を……」


「少し黙ってろ」


「私はもう黙っています」


「そうじゃない」


俺は膝をつき、ミラの足元へ手を伸ばした。


黒い文字の中から、一本だけ掴む。


黙れ。


指先に冷たい重みが走った。


ミラが息を呑む。


「やめて……」


「やめたら、あんたは一生そのままだ」


俺はその文字を引き剥がした。


ミラの喉から、短い悲鳴が漏れる。修道女が何か叫んだが、俺は構わなかった。


黒い文字を口元へ運ぶ。


苦い。


昨日の裏切りよりも、ずっと乾いた味がした。古い布を噛んでいるような、埃っぽい味。飲み込むと、喉の奥が締めつけられた。


黙れ。

何も言うな。

見なかったことにしろ。

言えば、誰かが死ぬ。


「っ……」


俺は口元を押さえた。


声が出にくい。


喉が、内側から縫い合わされたみたいだった。


修道女が青い顔で俺を見ている。


「今、何を……」


「説明してる暇はない」


俺は無理やり声を出した。


ミラは水盤に手をついたまま、荒く息をしていた。目を見開き、何かを吐き出そうとしているのに、まだ怖くて口が開かない。


黒い文字は消えていない。


証言を守れ。

弟を守れ。

真実を言えば、弟が死ぬ。


むしろ、その二つが強く残っている。


一つだけでは足りないか。


俺は奥歯を噛んだ。


喰いすぎれば、また俺の中が濁る。


けれど、このままではミラは弟の居場所すら口にできない。


「もう一本だけだ」


俺は呟いた。


今度は「証言を守れ」に手を伸ばす。


ミラが首を振った。


「やめてください……もう、やめて……」


「全部は取らない」


弟を守れ。


そこには触れない。


それは脚本の断片だけではない。ミラ自身の感情と、まだ切り離せない。弟を守りたい気持ちまで喰えば、この女はきっと壊れる。


俺は「証言を守れ」だけを掴み、引き剥がした。


今度の重さはさっきより強かった。


指先から肘まで、冷たいものが這い上がってくる。記録修道士の筆の音、民衆の歓声、司祭の声が、耳の奥で一斉に蘇る。


証言は残った。

証言は事実だ。

一度語られた言葉は、戻らない。


うるさい。


俺はその文字を噛んだ。


紙の味。


鉄の味。


封蝋の甘ったるい匂い。


飲み込んだ瞬間、腹の底に重いものが落ちた。


守れ。

嘘でも守れ。

一度言ったなら、それを真実にしろ。


膝が揺れた。


親父がいたら、たぶん怒鳴っていただろう。


俺は水盤の縁に手をつき、どうにか倒れずに踏みとどまった。


「……今言えることだけ言え」


声が掠れる。


「全部じゃなくていい」


ミラの唇が震えた。


彼女は何度も息を吸い、何度も失敗した。


それでも、ようやく声が出た。


「……白鳩」


「何?」


「南区の、白鳩施療院」


ほとんど息だけの声だった。


「弟が、そこにいます」


「誰に脅された」


ミラは首を振った。


まだ言えない。


弟を守れ。


その文字が、彼女の足元で黒く残っている。


「じゃあ特徴だけ」


ミラは涙をこぼした。


「片目の下に……火傷の跡がある司祭様」


「名前は」


「知りません。本当に、知りません」


「毒は」


「私は」


そこで声が詰まる。


彼女は両手で口を押さえた。だが、さっきとは違う。言わないためではなく、言ってしまうことに耐えるための手だった。


「私は、入れていません」


それだけ言うと、ミラは膝から崩れた。


修道女が慌てて支える。


ミラは泣いていた。けれど、その泣き方は裁判台の上とは少し違った。許されるための涙ではない。自分がしたことを、自分で抱え直した人間の涙だった。


俺は荒い息を吐いた。


喉の奥には、まだ「黙れ」の味が残っている。


声を出すたびに痛い。


「イリスは、あんたの弟の薬を止めたことがあるか」


最後に聞いた。


ミラはすぐには答えられなかった。


だが、首を横に振った。


「……ありません」


それだけで十分だった。


これ以上喋らせれば、ミラが持たない。


「分かった」


俺は立ち上がった。


「白鳩施療院。裏口に薬草の干し棚は?」


ミラがかすかに頷く。


「あります」


「行ってくる」


「でも、教会の許可がなければ、薬は」


「許可なら、別のやつに出させる」


「そんなこと」


「できるかどうかは、まだ分からない」


俺は背を向けた。


「ただ、何もしないよりはましだ」


水場を出ると、表の広場からまた歓声が聞こえた。


中央広場へ向かう人の流れが、少しずつ太くなっている。処刑台を見に行くのだろう。早い者は場所取りを始める。露店商は荷車を動かし、子どもたちは走り回っている。


人が死ぬまで、まだ半日もない。


なのに街は、祭りを続けている。


俺は通りへ戻った。


親父が待っていた。


「話は聞けたのか」


「ああ」


「顔色、さっきより悪くなってるぞ」


「喋りすぎた」


「お前が?」


「俺じゃない」


自分でも何を言っているのか分からなかった。


親父は一瞬だけ眉を寄せたが、それ以上聞かなかった。


「で、どうだった」


「証人は弟の薬で縛られてた。南区の白鳩施療院。火傷跡のある司祭が絡んでる」


親父の顔が歪んだ。


「胸糞悪いな」


「いつものことだろ」


「いつものことだから腹が立たねえわけじゃない」


そう言ってから、親父は籠の中の黒パンを見下ろした。


「俺は何をすればいい」


俺は少し驚いた。


「商売じゃないのか」


「売る気が失せた」


「まずいパンだからか」


「お前、本当に一回殴るぞ」


親父は黒パンを一つ俺に投げた。


俺は受け取った。


「食え。顔色が悪い」


「いつもだろ」


「今日は死人みたいだ」


「まだ生きてる」


「なら食え」


俺は黒パンをかじった。


硬い。


相変わらずまずい。


けれど、胃には入った。


「白鳩施療院に行く。そこを押さえれば、ミラはもう一度喋れるかもしれない」


「教会が見張ってるんじゃないのか」


「たぶんな」


「一人で行く気か」


「親父は走れるのか」


「無理だな」


「なら酒場に戻れ」


「戻ってどうする」


俺は少し考えた。


「火傷跡のある司祭を探してくれ。片目の下に古い火傷。銀の輪飾りをつけてる」


「司祭なんて山ほどいるぞ」


「特徴があるだけましだ」


「見つけたら?」


「逃げろ」


「何だそれ」


「親父が捕まっても、俺は助けに行く余裕がない」


「薄情者め」


「知ってるだろ」


親父は呆れた顔をしたが、すぐに頷いた。


「分かった。酒場に戻って、客から探ってみる。祭りの日は口が軽いからな」


「助かる」


「また礼を言ったな」


「だから縁起が悪い」


「本当に悪くなりそうで嫌だな」


親父はそう言い、黒パンの籠を抱えて人混みに戻っていった。


俺は南区へ向かって歩き出した。


王都リュミエールの中心から南へ下るほど、白い街は少しずつ色を失っていく。聖堂前の通りには花や布が飾られていたが、南区へ近づくと飾りはまばらになった。石畳の隙間には泥が残り、壁の白さも薄汚れている。


聖譚祭の歌は遠くなる。


代わりに聞こえるのは、荷車の軋む音、洗濯桶を置く音、誰かが子どもを叱る声、路地裏で犬が吠える声だった。


ここにも役割はある。


母。

子。

職人。

荷運び。

病人。

借金を抱えた男。

今日の飯に困る女。


けれど、誰もそれを祝福とは呼ばない。


役持ちになれるのは、多くても五人に一人。


残りの人間は、こういう場所で、名前のない役を背負って生きている。


白鳩施療院は、南区の外れにあった。


白鳩という名前のわりに、建物は灰色だった。壁の漆喰は剥がれ、扉の上にかかった木の看板だけが新しい。看板には、翼を広げた白い鳥が描かれている。


裏口に回ると、ミラの言った通り、薬草の干し棚があった。


乾いた草の束がいくつも吊るされている。苦い匂いがした。雨に濡れないよう布がかけられているが、端の方は湿っている。


俺は裏口の前で足を止めた。


中から咳の音が聞こえる。


子どもの咳だ。


続いて、男の声。


「今日は薬を出せない」


女の声が震える。


「どうしてですか。昨日までは」


「教会からの配給が止まった」


「そんな、トマはまだ熱が」


トマ。


ミラの弟だ。


俺は裏口の隙間から中を覗いた。


小さな薬室だった。棚には瓶や布包みが並んでいる。中央には、痩せた少年が椅子に座っていた。十歳くらい。顔は赤く、額には汗が浮かんでいる。隣で年配の女が背中をさすっていた。母親ではない。施療院の世話係だろう。


薬師らしい男が、困った顔で棚を閉めている。


その男の前に、白い法衣の司祭が立っていた。


片目の下に、古い火傷の跡がある。


俺は息を止めた。


見つけた。


司祭は静かな声で言った。


「証人ミラの扱いが終わるまで、この子への特別配給は保留です」


薬師が眉を寄せる。


「ですが、この子は」


「教会の判断です」


「このままでは熱が」


「教会の判断です」


同じ言葉を繰り返すだけで、人はずいぶん残酷になれる。


司祭の袖口に、黒い文字が絡んでいた。


黙らせろ。

従わせろ。

秩序を守れ。


その文字は濃い。


だが、ルカやミラのものとは違う。迷いや苦しさに絡んでいるのではない。もっと硬く、乾いている。


自分が正しいと信じている人間の文字だ。


一番まずい種類だった。


俺は黒パンの残りを口に押し込んだ。


硬い。

まずい。

喉に詰まりそうになる。


それでも飲み込んだ。


腹にものが入っていないと、脚本の断片を喰った時に吐く。


俺は裏口を押し開けた。


薬室にいた全員がこちらを見る。


司祭の目が細くなった。


「何者です」


「雑用屋」


「ここは教会管理の施療院です。部外者は」


「薬をもらいに来た」


薬師が困惑する。


「どなたの」


「トマの」


少年が咳き込んだ。


年配の女が目を見開く。


「あなた、ミラの」


「知り合いじゃない」


俺は司祭を見た。


「ただの通りすがりだ」


「なら、去りなさい」


司祭は冷たく言った。


「その子への薬は、教会の判断により保留されています」


「病人に薬を出さないのが、教会の判断か」


「事情があります」


「姉が裁判で都合よく泣くかどうか、だろ」


薬室の空気が止まった。


司祭の目が変わる。


「誰に聞きました」


「誰でもいい」


「それ以上口にすれば、あなたも異端の疑いを受けます」


「便利だな、異端」


俺は一歩近づいた。


「傲慢、詭弁、異端。教会は人を黙らせる言葉に困らない」


司祭の袖口の黒い文字が濃くなる。


黙らせろ。

従わせろ。

秩序を守れ。


俺の腹の奥で、昨夜喰った裏切りの味が疼いた。


今、こいつを殴れば楽になる。


そういう考えが一瞬よぎる。


だが、それは駄目だ。


殴れば、俺はただの乱暴者になる。司祭は被害者になり、トマの薬はもっと遠ざかる。イリスの処刑は止まらない。


喰うべきなのは、そこじゃない。


俺は視線を少し下げた。


司祭の袖口ではなく、薬師の足元を見る。


そこに細い黒い文字が絡んでいた。


従え。

黙れ。

薬棚を閉じろ。

面倒を避けろ。


薬師は悪人ではない。


ただ、逆らえないだけだ。


俺は薬師に言った。


「その子に必要な薬は、どれだ」


薬師は答えない。


司祭が言う。


「答える必要はありません」


「俺は薬師に聞いてる」


「教会の許可なく薬を出すことはできない」


薬師の手が震えている。


足元の文字が濃くなる。


従え。

黙れ。

閉じろ。


俺は薬師へ近づいた。


司祭が止めようとする。


その前に、俺は薬師の足元へ手を伸ばした。


床板に指を伸ばしただけに見えたかもしれない。


けれど、指先が黒い文字に触れると、冷たい重みが走った。


小さい。


ルカのものよりずっと小さい。


迷いと恐怖に絡んだ、薄い脚本の断片だ。


俺はそれを引き剥がした。


薬師が息を呑む。


「何を」


司祭が叫ぶ。


「何をした!」


俺は答えず、黒い文字を口に入れた。


苦い。


紙の味がして、次に薬草の青臭さが広がる。飲み込むと、腹の奥で嫌な声がした。


黙れ。

従え。

面倒を避けろ。


俺は奥歯を噛みしめた。


その程度なら、まだ耐えられる。


薬師が顔を上げた。


手はまだ震えている。


だが、棚へ向かった。


「夜熱草と白苦根です」


司祭が目を見開く。


「やめなさい」


薬師は振り返らなかった。


「この子には、今必要です」


「教会の許可が」


「私は薬師です」


その声は震えていた。


けれど、はっきりしていた。


「病人に薬を出します」


司祭の顔が怒りで歪む。


俺は司祭の前に立った。


「今の、聞いたか」


「あなたは、自分が何をしているのか分かっているのですか」


「薬を出させてる」


「神の秩序に逆らっている」


「子どもの熱より大事な秩序なら、一度熱を出してみろ」


司祭は俺を睨んだ。


その目の奥には、怒りだけではないものがあった。


焦り。


ほんの少しだが、見えた。


薬師は手早く薬を調合し、世話係の女に渡した。女は震える手で受け取り、トマに飲ませる。少年は咳き込みながらも、少しずつ薬を飲んだ。


部屋の空気が、わずかに変わる。


水場で見たミラの黒い文字のうち、遠い端が少しだけ緩んだ気がした。


証言を守れ。

弟を守れ。

黙れ。


そのうちの一つ。


弟を守れ。


それが、少しだけ薄くなった。


結び目が一つ、ほどけた。


司祭は低く言った。


「後悔しますよ」


「もうしてる」


俺は答えた。


「朝飯が黒パンだったことをな」


司祭は俺を睨みつけ、薬室を出ていった。


扉が乱暴に閉まる。


薬室には、しばらく誰も声を出さなかった。


薬師が俺を見る。


「あなたは」


「名乗るほどの者じゃない」


「いえ、そういう意味では」


「なら聞くな」


俺はトマを見た。


少年はまだ苦しそうだが、薬は飲んだ。呼吸は荒い。けれど、さっきより少しだけ目に力が戻っている。


世話係の女が頭を下げた。


「ありがとうございます」


「まだ助かったわけじゃない」


「それでも」


俺は返事をしなかった。


礼を受け取ると、胸の奥の声がまた騒ぐ。


もっと取れ。

恩に着せろ。

利用しろ。


うるさい。


俺は薬室を出た。


外へ出ると、空は少し傾き始めていた。


夕刻までは、もうあまり時間がない。


遠くから、木槌の音が聞こえる。


こん、こん、こん。


中央広場で、処刑台を組んでいる音だろう。


俺は南区の細い路地から、王都の中心を見た。


白い塔が空に伸びている。


その下へ、黒い文字の線が集まっていく。


まだ止められるかは分からない。


でも、結び目は一つほどけた。


俺は拳を握った。


「次は、聖女か」


誰に言うでもなく呟く。


その時、胸の奥で、喰ったばかりの文字が疼いた。


黙れ。

従え。

面倒を避けろ。


俺は息を吐いた。


「悪いな」


俺は歩き出した。


「面倒を避けるのは、もう少し後にする」

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