第一章 4話 見えない証人
アスターには、人が「役割」や「筋書き」に押されている時、黒い文字として見える。
その文字は現実の紙や石に書かれているわけではなく、アスターの目にだけ見える。
未来予知ではない。
真実を見抜く力でもない。
ただ、「このままだとそいつが何をさせられそうか」が分かる。
文字は濃いほど強い。
触れて引き剥がすことができる。
引き剥がした文字は、放置すると戻るか散る。
だからアスターは喰う。
喰うと相手は少し自由になるが、文字の衝動がアスターの中に残る。
大きすぎる文字は、簡単には喰えない。
「神は裁きを望んでおられる!」
司祭の声に、広場が揺れた。
「裁け!」
「悪女を裁け!」
「神の名のもとに!」
民衆は膝をついたまま叫んでいる。祈っているのか、怒っているのか、もう分からなかった。額を垂れ、両手を組み、聖堂へ向かって身を低くしているのに、その口から出てくるのは誰かの死を望む声だった。
白い裁判台の上では、イリス・ヴァルクラインが背筋を伸ばして立っている。手首には鉄枷。足首にも鎖。鎖は短く、彼女がほんの少し体重を移すだけで、床板の上を小さく鳴った。
から、と乾いた音がする。
その音だけが、妙にはっきり聞こえた。
俺は裁判台の下を見ていた。
石畳が割れているわけじゃない。裁判台が傾いているわけでもない。現実には、まだ何も壊れていない。王国兵も、司祭も、民衆も、足元を気にしてはいない。
ただ俺には、裁判台の下に黒い線が走っているように見えた。
黒い線は、文字の集まりだった。遠目には一本の筋に見える。けれど目を凝らすと、小さな文字が何百、何千と重なり合っている。
裁け。
落とせ。
黙らせろ。
悪女は悪女らしく死ね。
それは石畳に書かれた文字ではない。触れられるものでもない。インクでも、影でも、魔術の刻印でもない。
俺の目には、そういう形で見える。
そして広場の声は、少しずつ、その文字と同じ方向へ揃っていく。
喉の奥が渇いた。
「アスター」
隣で親父が低く呼んだ。
「お前、今にも飛び出しそうな顔してるぞ」
「してない」
「してる」
「なら、止めろ」
「止めてるだろ。袖を掴んでる」
見れば、親父の手はまだ俺の袖を掴んでいた。強くはない。けれど、離してもいない。あの手がなければ、俺はもう一歩前へ出ていたかもしれない。
「……助かる」
俺が言うと、親父は少しだけ目を丸くした。
「お前が礼を言うと、いよいよ縁起が悪いな」
「俺もそう思う」
裁判台の上では、司祭が両手を広げていた。白い法衣の袖が風を受けて揺れる。胸元では、二十二の紋章をつないだ銀の輪飾りが光っている。
「神の鐘は鳴りました。今この場に、聖譚は示されたのです」
神の鐘。
さっき地面の下から響いた低い音を、司祭はそう呼ぶらしい。
俺には、鐘の音には聞こえなかった。金属が鳴った音ではない。もっと重く、鈍く、地面の奥で大きなものが身じろぎしたような音だった。
だが、民衆は疑わない。
司祭が鐘だと言えば、鐘になる。
神の声だと言えば、神の声になる。
裁判という形。民衆の前。王家の席。教会の記録。神の鐘という名付け。
一つずつ、イリスを悪女として固定するための釘が打たれていく。
「罪人イリス・ヴァルクライン」
司祭はイリスへ向き直った。
「神はすでに、あなたの罪を見ておられます。それでもなお、あなたは己の無実を主張しますか」
イリスは足元から視線を上げた。
彼女は、すぐには答えなかった。広場を見たわけでもない。王子を見たわけでもない。ただ、自分の呼吸を整えるように、ほんの短く息を吸った。
「無実とは申しません」
広場がざわつく。
イリスは続けた。
「わたくしは、善良な娘ではありません。人を傷つけたことも、誰かを利用したこともあります。けれど、身に覚えのない罪まで背負う趣味はございません」
司祭の目が細くなる。
「罪を選り好みするつもりですか」
「罪とは、選り分けるべきものでしょう。何でもかんでも一つの袋に詰めれば、裁きではなく荷造りです」
親父が隣で吹き出しかけた。
俺も少しだけ口元が動いた。
あの状況で、まだ言い返す。民衆に囲まれ、王子に見捨てられ、聖堂の前に立たされて、それでも言葉の刃を鈍らせない。
呆れる。
本当に呆れる。
だが、嫌いではなかった。
「言葉遊びは不要です」
司祭は巻物を閉じた。
「では、証人を呼びましょう」
その言葉で、広場がまた前のめりになった。
証人。
民衆はその言葉が好きらしい。目撃者、証拠、告白。そういうものが出てくると、人は安心する。自分の怒りに、ようやく形が与えられるからだ。
聖堂の側面扉が開いた。
中から、一人の女が連れてこられる。
灰色の髪を布で隠した、痩せた侍女だった。年は二十代半ばくらいか。服は清潔だが、裾を握る手が震えている。顔色は悪く、唇は乾いていた。
両手を前で握り、足元ばかり見ている。
司祭が言った。
「名を」
侍女は震える声で答えた。
「ミラ、と申します」
イリスの眉が、ほんのわずかに動いた。
知っている顔らしい。
「あなたは、ヴァルクライン家に仕えていましたね」
「はい」
「聖女フィリア様が毒に倒れられた夜、あなたは晩餐の支度に関わっていた」
「はい」
「杯を用意したのは、あなたですか」
侍女の肩が震えた。
「……はい」
民衆がざわつく。
司祭は声を落とした。広場の端まで聞こえる、よく作られた低い声だった。
「その杯に毒を入れるよう命じたのは、誰ですか」
広場が静まった。
風が抜ける。白い法衣の裾が揺れる。誰かが息を呑む音まで聞こえた。
ミラは顔を上げない。
指が白くなるほど、両手を握りしめている。
「ミラ」
イリスが呼んだ。
侍女の肩が、びくりと跳ねる。
「顔を上げなさい」
ミラは上げなかった。
「わたくしを見なさい」
イリスの声は厳しかった。だが、怒鳴ってはいない。命じるというより、崩れかけたものを支えようとしている声だった。
それでもミラは震えた。
「申し訳、ございません」
「何を謝っているのです」
「申し訳ございません、イリス様」
司祭が間に入る。
「罪人が証人へ圧をかけることは許されません」
「圧ではありません。わたくしは自分の家の者に、顔を上げろと言っただけです」
「その傲慢さが問題なのです」
「便利な言葉ですわね、傲慢とは」
イリスは司祭を見た。
「わたくしが沈黙すれば罪を認めたことになり、口を開けば傲慢になる。ずいぶん使い勝手がよろしいこと」
民衆が怒る。
「反省していない!」
「悪女め!」
「証人を脅すな!」
その時、俺にはミラの足元にも黒い文字が見えた。
さっき裁判台の下に見えたものより、ずっと細い。ミラの靴の周りに、糸のように絡んでいる。
言え。
泣け。
裏切れ。
そうすれば許される。
俺の舌の奥に、昨夜の味が戻った。
裏切りの文字だ。
ルカに絡んでいたものに似ている。だが、ルカの時より薄い。ミラ一人だけに絡んでいるというより、この広場の空気が彼女の背中を押しているように見えた。
言え。
そうすれば楽になる。
「証人ミラ」
司祭が促す。
「真実を」
ミラの唇が震える。
「私は」
イリスは黙って見ていた。
フィリアは顔を青くしている。王子レオナールは険しい顔で、証人とイリスを見比べていた。記録修道士たちは筆を構え、次の一言を待っている。
「私は、イリス様に……」
ミラは一度、喉を鳴らした。
「杯へ薬を入れるよう、命じられました」
広場が爆発した。
「やっぱりだ!」
「侍女が証言したぞ!」
「悪女め!」
親父の手に力が入る。
「今の、嘘か?」
「分からない」
俺はミラを見ていた。
「ただ、あれは言いたくて言った顔じゃない」
「なら、なんで言う」
「楽になりたいんだろ」
「楽に?」
「ああ」
俺の胸の奥で、声が笑った。
誰かのせいにしろ。
そうすれば楽になる。
ミラは泣き始めていた。本当に泣いている。嘘泣きではない。涙は頬を伝い、顎から落ちて、石の床に小さな染みを作った。
だが、泣いているから本当とは限らない。
泣きながら人を売ることもある。泣きながら嘘をつくこともある。泣きながら、自分だけ助かろうとすることもある。
人間はわりと器用だ。
司祭が満足げに頷いた。
「聞きましたか、民よ。証人は語りました」
記録修道士たちの筆が走る。
その音が、やけに耳についた。
証人ミラ、罪人イリス・ヴァルクラインの命により、聖女の杯へ毒を入れたと証言。
そんなふうに書かれるのだろう。
ミラの震えも、涙も、言葉が喉に引っかかった間も、紙の上では削ぎ落とされる。残るのは、裁判に都合のいい一文だけだ。
イリスはミラを見ていた。
責めているようには見えない。怒っているようにも見えない。ただ、痛そうだった。自分が刺されたというより、相手が刺されるところを見てしまったような顔だった。
「ミラ」
「申し訳ございません……申し訳ございません……」
「誰に、何を言われましたか」
ミラは顔を上げた。
その顔が一瞬で固まる。
「え」
「あなた一人で、その証言を作れるとは思いません」
「わ、私は」
「あなたの弟は?」
ミラの唇が止まった。
司祭の顔色がわずかに変わる。
イリスは続けた。
「たしか、南区の施療院に入っていましたね。薬代は高い。ヴァルクライン家が援助していたはずです。先月までは」
ミラの目から涙が落ちた。
「今も、生きていますか」
「罪人!」
司祭が声を荒らげた。
「証人を脅すことは許されません!」
「脅しているのは誰ですか」
イリスは司祭を見た。
「この場で彼女に嘘を言わせている者ですか。それとも、彼女の弟の薬を止めると囁いた者ですか」
広場がざわついた。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ、民衆の声に迷いが混じった。
ミラはその迷いに耐えられなかったのだろう。膝をついた。白い裁判台の床に額がつきそうなほど、深く頭を下げる。
「申し訳ございません、イリス様……!」
司祭がすぐに叫ぶ。
「証人は罪の重さに耐えかねているのです! 悪女の圧に屈してはなりません!」
記録修道士の筆が止まらない。
今のやり取りを、あいつらはどう書くのだろう。
証人、罪の重さに泣く。
悪女、証人を威圧。
そんなところか。
俺は歯を噛みしめた。
「おい、アスター」
親父が小さく言った。
「今、何かできないのか」
「分からない」
「分からない?」
「今出たら、あの侍女ごと全部潰す」
「どういう意味だ」
「俺にもよく分からん」
本当に分からなかった。
俺には、黒い文字がいくつも見えている。
ミラの足元。
司祭の袖口。
王子の背後。
フィリアの喉元。
イリスの影。
裁判台の下。
それぞれ別の場所に見えるのに、どこかでつながっている。細い糸の束みたいに、全部が引っ張り合っている。
どれか一つを引きちぎれば、別の何かが崩れる気がした。
ルカの時とは違う。
あの時は、一人の少年に絡んだ脚本の断片だった。俺が喰えば、少なくともその刃は止められた。
だが、これは違う。
裁判という形がある。
証人という形がある。
記録という形がある。
民衆という数がある。
王家と教会という名がある。
役割を定着させるための通過点が、いくつも重なっている。
イリスは今、この場で「悪女」にされている。
それが見えるのに、どこから手を入れればいいのか分からなかった。
「次に、物証を示します」
司祭が言った。
聖堂の奥から、銀の盆を持った修道士が現れた。盆の上には、小さな硝子瓶が乗っている。中には、黒ずんだ粉のようなものが入っていた。
陽の光を受けると、粉の表面が鈍く光った。黒というより、濁った灰色に近い。
「聖女フィリア様の杯から検出された毒です」
民衆が息を呑む。
「毒の名は、夜哭草。少量なら意識を奪い、多量なら命を奪う。王都では厳しく取り締まられている禁薬です」
司祭は硝子瓶を掲げた。
「この毒は、ヴァルクライン家の温室より発見されました」
「違います」
イリスが即座に言った。
司祭は笑わなかった。
「何が違うと?」
「夜哭草は、我が家の温室にはありません」
「では、この毒はどこから?」
「夜哭草ではありません」
広場がざわつく。
司祭の眉が動いた。
「何を根拠に」
「色です」
イリスは瓶を見た。
「夜哭草の粉末は乾かすと灰紫になります。黒くはなりません。黒くなるのは、鉄灰花を混ぜた時です。鉄灰花は毒ではありません。苦味と色を誤魔化すために使われるものです」
修道士たちの筆が一瞬だけ遅れた。
イリスは続ける。
「それに、夜哭草は温室では育ちません。乾いた岩場に根を張る草です。ヴァルクライン家の温室で見つかったというなら、それは誰かが持ち込んだものでしょう」
フィリアが顔を上げた。
レオナールも瓶を見た。
司祭は静かに言った。
「罪人が毒に詳しいとは、興味深いですね」
民衆がまた動く。
「やはり毒を扱っていたんだ」
「詳しいから毒を盛れたんだろう」
「悪女め」
俺は額に手を当てたくなった。
何を言っても、そっちへ転ぶ。
違うと言えば怪しい。知っていると言えば怪しい。黙れば認めたことになる。口を開けば悪知恵になる。
イリスはそれを分かっている顔をしていた。
それでも口を閉じない。
「毒に詳しいことが罪なら、王城の薬師は全員処刑されますわ」
「あなたは薬師ではない」
「ええ。ですが、公爵家の娘です。毒を知らずに貴族社会で生きるほど、無邪気には育てられておりません」
レオナールが低く言った。
「その言葉が、すでに危ういと分からないのか」
イリスは王子を見た。
「分かっています」
「なら、なぜ」
「黙れば、誰かがわたくしの代わりにわたくしの罪を決めるからです」
レオナールは何も言わなかった。
フィリアが小さく息を呑む。
俺はイリスを見ていた。
やっぱり、こいつは救われるのを待つ女ではない。
今も、自分で立っている。
鉄枷をつけられ、民衆に憎まれ、王子に睨まれ、教会に追い詰められながら、それでも自分の言葉を手放していない。
だから、まずい。
ああいう人間ほど、折られる時は派手に折られる。
「では」
司祭が言った。
「あなたは、聖女様の杯に毒が入っていたことも、侍女が証言したことも、毒がヴァルクライン家から見つかったことも、すべて偶然だと言うのですか」
「偶然とは申しません」
イリスは答えた。
「仕組まれたものだと申し上げています」
広場が静まった。
その静けさは、さっきまでのものと違った。
民衆が一瞬だけ、続きを待った。
司祭ではなく、イリスの続きを。
イリスは顔を上げた。
「わたくしは、誰かに悪女として用意されました」
その瞬間、地面の下で低い音が鳴った。
ごん。
今度は俺だけではなかった。前列にいた女が肩を震わせ、王国兵の一人が足元を見た。
だが、石畳は割れていない。裁判台も揺れていない。見える形では、何も壊れていなかった。
けれど俺には、裁判台の下にある黒い文字の線が、一瞬だけ太くなったように見えた。
その線は、イリスの足元へ伸びている。
悪女。
罪人。
裁かれる者。
塔より落ちる者。
そして、別の文字が一瞬だけ浮かぶ。
口を閉じよ。
俺は息を止めた。
イリスも、何かに触れたように目を細めた。何を感じたのかは分からない。ただ、彼女の声が一瞬止まった。
司祭の声が低くなる。
「それは、王家と教会があなたを陥れたという意味ですか」
民衆がざわめく。
レオナールが一歩前に出る。
「イリス。言葉を選べ」
「選んでいます」
「ならば撤回しろ」
「できません」
王子の顔が歪んだ。
怒り。悲しみ。失望。その全部が混ざっていた。
俺には、王子の背後に黒い文字が濃く見えた。
裁け。
迷うな。
正しくあれ。
その文字は、レオナールの表情そのものにも見えた。
「お前は」
レオナールは言った。
「そこまで堕ちたのか」
イリスは目を伏せなかった。
「殿下が、そういう形でしかわたくしを見られないのなら」
ほんの少しだけ、彼女の声が疲れた。
「きっと、最初からわたくしたちは同じ場所に立っていなかったのでしょう」
レオナールは剣の柄を握った。
今度は、抜きかけた。
だが、フィリアが動いた。
「殿下」
その声に、王子の手が止まる。
フィリアは震えていた。
「どうか、剣は」
それだけだった。
それだけで、民衆がまたざわついた。
「聖女様が止めた」
「お優しい」
「悪女を庇ってまで」
フィリアの顔が歪んだ。
違う。
そう言いたそうだった。
だが、声にはならない。
司祭がその空気を逃さなかった。
「見なさい、民よ」
彼は高らかに言った。
「聖女様はなおも罪人を憐れんでおられる。傷つけられ、毒を盛られ、裏切られ、それでもなお、剣を止めようとなさった」
フィリアの唇が震える。
「違……」
小さすぎて、ほとんど誰にも届かない。
司祭は続ける。
「これこそ、聖女の慈悲である」
民衆が涙ぐむ。
「聖女様……」
「なんて尊い」
「悪女にはもったいない慈悲だ」
フィリアは両手を握りしめた。
指先が白い。
俺は奥歯を噛んだ。
あの聖女は今、檻の中にいる。
鉄格子はない。縄もない。だが、誰も彼女の声を聞いていない。聞こえた言葉を、全部別の意味に変えられている。
こんなもの、喉を塞がれているのと同じだ。
「アスター」
親父がまた俺を呼んだ。
「落ち着け」
「落ち着いてる」
「嘘つけ。袖が千切れる」
見れば、俺は親父に掴まれている袖とは逆の手で、外套の裾を握り潰していた。
「……悪い」
「俺に謝るより、布に謝れ」
「布に謝ったら、いよいよ終わりだろ」
そんなやり取りをしている間にも、裁判は進んでいく。
司祭は次の巻物を広げた。
「反逆未遂について」
広場が息を呑む。
イリスの目が細くなる。
「王家への反逆など、わたくしには身に覚えがありません」
「王城北塔の記録庫より、あなたの署名が入った書状が見つかっています」
修道士が別の盆を持ってくる。
そこには、一通の封書が乗っていた。赤い封蝋。ヴァルクライン家の紋章。封書の端は少し古びていたが、封蝋だけは妙に新しく見えた。
司祭はそれを掲げる。
「内容は、王都守備隊の配置、王城地下通路の構造、聖女フィリア様の移動予定。これを外部へ流そうとした疑いがある」
民衆の怒りが、また熱を帯びる。
「反逆だ!」
「王家を売ろうとしたのか!」
「処刑だ!」
イリスは封書を見ていた。
今度は、少しだけ表情が変わった。驚きではない。悔しさでもない。もっと深いところを刺されたような顔だった。
「その封書を、どこで」
「王城北塔の記録庫です」
「誰が見つけましたか」
「教会の記録修道士です」
「なぜ、教会の修道士が王城北塔の記録庫へ?」
司祭の顔がこわばった。
レオナールが口を開く。
「イリス。今はそのようなことを問う場ではない」
「問う場です」
イリスの声は少し強かった。
「わたくしの署名がある封書が、王城の記録庫から、教会の修道士によって発見された。ならば、誰が、いつ、どのような許可でそこへ入り、どの棚から見つけたのか。問わずにどう裁くのですか」
広場の一部が黙った。
ほんの一部だけだ。
だが、黙った。
司祭が言う。
「罪人は、手続きの不備を叫ぶことで罪から逃れようとしている」
「手続きのない裁きは、ただの暴力です」
「神の前でそのような」
「神が正しいと言えば、雑な仕事が丁寧になるのですか」
誰かが息を呑んだ。
俺も少しだけ息を呑んだ。
言うなあ。
本当に。
イリスは続ける。
「その書状を見せてください」
司祭は答えない。
「わたくしの署名があるのでしょう。ならば、わたくしが確認します」
「証拠品を罪人に渡すことはできません」
「では、読んでください」
「必要ありません」
「なぜ」
「内容はすでに確認されています」
「誰に」
「教会に」
イリスは薄く笑った。
「なるほど。神の目はずいぶん便利ですのね。証人は見えず、証拠は読めず、確認したのは教会。けれど、信じろと」
民衆が怒りかけた。
だが、さっきより遅い。
言葉が少しずつ引っかかっている。
司祭もそれに気づいたのだろう。顔から余裕が消え始めていた。
レオナールが席を立つ。
「イリス」
「はい」
「お前は、自分が何をしているか分かっているのか」
「裁判を受けています」
「違う。お前は王家と教会の信頼を、民の前で傷つけている」
「信頼とは、傷つけられただけで壊れるものですか」
「詭弁だ」
「では、事実で反論してくださいませ」
レオナールは黙った。
王子の背後の黒が濃くなる。
裁け。
迷うな。
黙らせろ。
その文字が濃くなるほど、レオナールの顔から迷いが消えていくように見えた。
「レオナール殿下」
司祭が静かに言った。
「これ以上、罪人の言葉に民を惑わせるべきではありません」
王子は司祭を見た。
「しかし」
「裁判とは、罪を明らかにする場です。罪人に舞台を与える場ではありません」
舞台。
その言葉に、俺は顔を上げた。
司祭は自分で言った。
舞台。
やはり、そういう目で見ている。
ここにいる連中は、裁判をしているつもりで、芝居を見ている。そして司祭は、芝居を進めている。
いや。
芝居では足りない。
これは、役割を定着させる儀式だ。
悪女を悪女として立たせ、聖女を聖女として泣かせ、王子を王子として決断させる。
その形を、神と民の前で完成させようとしている。
「罪人イリス・ヴァルクライン」
司祭が高く声を上げた。
「あなたは聖女様への侮辱を認めた。毒物混入については証人があり、物証もある。反逆未遂については、あなたの署名が入った書状が発見されている」
イリスは黙っていた。
「これ以上の問答は、民を惑わすだけです」
広場がざわめく。
「そうだ!」
「もう十分だ!」
「裁きを!」
「裁け!」
声がまた揃い始める。
さっきイリスが作った沈黙が、黒い文字に塗り潰されていくように見えた。
「待ってください!」
フィリアが叫んだ。
今度は、確かに聞こえた。
広場が一瞬だけ止まる。
フィリアは息を乱していた。顔は青い。だが、足は前に出ている。修道女が止めようと手を伸ばしたが、彼女はそれを振りほどいた。
「まだ、私の話は終わっていません」
司祭の表情が消えた。
「聖女様」
「私は、イリス様に毒を盛られたとは言っていません」
ざわり、と広場が揺れた。
俺は息を止めた。
イリスもフィリアを見た。
レオナールが目を見開く。
「フィリア?」
フィリアは震えていた。それでも言った。
「私は、杯に毒が入っていたことは知っています。でも、イリス様が命じたところを見たわけではありません。あの侍女が、イリス様の命令を受けたところも、私は見ていません」
民衆がざわめく。
「どういうことだ?」
「聖女様は何を」
「悪女を庇っているのか?」
俺には、フィリアの喉元に黒い文字が絡みついているように見えた。
泣け。
黙れ。
許せ。
捧げろ。
フィリアは唇を震わせた。
言葉を探している。声を出そうとしている。けれど、広場の空気も、司祭の視線も、民衆の期待も、全部が彼女の喉を押さえつけているように見えた。
「それに、イリス様は」
「聖女様!」
司祭が一歩踏み出した。
「それ以上はなりません。あなたは優しすぎる。罪人に情けをかけてはならない」
「違います!」
フィリアの声が少しだけ強くなった。
「情けではありません。私はただ、見たことと、見ていないことを」
その瞬間、地面の下で、また音が鳴った。
ごん。
今度はかなり大きかった。
前の方にいた民衆がざわつき、王国兵の一人が槍を握り直した。足元を見た者もいた。
けれど、広場の石畳は割れていない。
裁判台も崩れていない。
現実には、ただ低い音が鳴っただけだった。
俺には、それとは別に見えているものがあった。
裁判台の下から伸びる黒い線が、一気にフィリアの喉元へ絡みついた。
フィリアは口を開けたまま、声を失ったように固まった。
「フィリア!」
イリスが叫ぶ。
その声だけが、今までで一番人間らしかった。
聖女でも、悪女でも、王子でも、司祭でもない。
ただ、誰かの名を呼ぶ声だった。
俺の足が動いた。
親父の手が袖を掴む。
「アスター!」
「離せ」
「まだか?」
「知らん」
「知らんで飛び込むな!」
正論だった。
腹が立つほど正論だった。
俺は足を止めた。
その時、フィリアは膝をついた。
司祭がすぐに声を張る。
「聖女様は限界です! これ以上、罪人の言葉に晒すことはできません!」
民衆の空気がまた戻る。
「聖女様を休ませろ!」
「もう十分だ!」
「悪女を裁け!」
レオナールがフィリアへ駆け寄る。
「フィリア、大丈夫か」
フィリアは何かを言おうとした。
だが、声は出ない。
ただ、目だけがイリスを見ていた。
イリスは唇を噛んだ。
血が滲みそうなほど強く。
司祭が巻物を高く掲げる。
「神の鐘は三度鳴り、証人は語り、物証は示され、聖女様は苦しみの中に倒れられた!」
民衆が叫ぶ。
「裁け!」
「裁け!」
「裁け!」
今度の声は、ほとんど一つだった。
俺には、民衆の足元から黒い糸のようなものが伸びているように見えた。
それは現実の糸ではない。誰の足にも絡まっていない。石畳の上に落ちているわけでもない。
俺の目にだけ、黒い文字の線として見えているものだ。
民衆から。
司祭から。
王子から。
記録修道士から。
泣き崩れた侍女から。
声を失った聖女から。
それらは全部、裁判台の中央へ向かっていた。
イリス・ヴァルクラインの足元へ。
黒い線は、彼女をこの場から動かそうとしているように見えた。
裁判台から、処刑台へ。
「レオナール殿下」
司祭が王子を見た。
「王家として、ご決断を」
王子はフィリアを抱き起こしていた。
その顔は苦しそうだった。本当に苦しそうだった。
だが、苦しそうだから正しいわけではない。
それくらいは、俺にも分かる。
レオナールはゆっくりと立ち上がった。
フィリアは修道女たちに支えられている。
王子はイリスを見た。
「イリス」
「はい」
「私は、最後まで信じたかった」
イリスは何も言わない。
「だが、お前はあまりにも多くを壊した」
「わたくしが壊したものを、具体的におっしゃってください」
レオナールの顔が歪む。
「まだ、そんなことを」
「はい」
イリスは静かに答えた。
「最後まで、そう申し上げます」
王子は目を閉じた。
広場が静まる。
王子の背後に、黒い文字が濃く見えた。
裁け。
迷うな。
正しくあれ。
愛したものでも、斬れ。
レオナールは目を閉じたまま、しばらく動かなかった。
彼が何を考えているのかは分からない。苦しんでいるようにも見えたし、もう決めているようにも見えた。
やがて、王子は目を開いた。
「イリス・ヴァルクライン」
その声は、よく通った。
「お前との婚約を、ここに破棄する」
民衆が歓声を上げた。
イリスは瞬きもしなかった。
婚約破棄。
それはただの別れ話ではなかった。
王子が民の前で彼女を退けること。王家が彼女を未来から切り離すこと。聖女の隣に立つ王子と、裁かれる悪女という形を、誰の目にも見えるように並べること。
また一つ、釘が打たれた。
「そして、王家と教会の名において、お前を有罪とする」
親父が息を呑んだ。
俺は拳を握った。
王子は続ける。
「刑は、聖譚祭の終わりに執行する」
広場が一瞬だけ静まった。
それから、爆発した。
「処刑だ!」
「悪女の処刑だ!」
「神の裁きだ!」
俺は耳の奥で、別の音を聞いた。
紙がめくられる音。
実際に鳴っている音ではない。俺の頭の中だけで聞こえた、嫌な音だ。
次の頁ではない。
もう、最後の頁に近い。
イリスは裁判台の上で、ただ静かに立っていた。
誰よりも背筋を伸ばして。
誰よりも孤独に。
その足元へ、黒い線が集まっている。
現実には何も起きていない。裁判台は白いままだ。石畳も割れていない。
だが俺には、彼女の立つ場所だけが、黒い文字に飲まれかけているように見えた。
王子は剣の柄から手を離した。
司祭は満足げに目を伏せた。
民衆は悪女の死を祝うように叫んでいた。
フィリアだけが、声もなく泣いていた。
俺は、もう一度イリスを見た。
その時、彼女もこちらを見た。
助けを求めているわけではない。
恨んでいるわけでもない。
ただ、確かめている。
お前は、見えているのか。
お前は、それでも何もしないのか。
そう問われた気がした。
俺は答えられなかった。
まだ動けなかった。
ただ、喉の奥に黒い味が上がってくる。
裏切れ。
逃げろ。
見捨てろ。
楽になれ。
俺は奥歯で、その声を噛み潰した。
裁判台の上で、司祭が最後に告げる。
「罪人イリス・ヴァルクラインは、本日夕刻、中央広場にて斬首に処す」
広場は歓声に包まれた。
その歓声の下で、地面の奥から低い音が鳴った。
ごん。
今度は、広場にいた何人かが足元を見た。
それでも誰も、騒ぎ立てなかった。
司祭が神の鐘だと言ったから。
民衆が裁きを望んだから。
王子が有罪を告げたから。
だから、その音は正しいものとして処理された。
俺には、そんなふうには聞こえなかった。
それは、まだ見ぬ処刑台が目を覚ました音だった。




