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勇者でも魔王でもない俺は、物語に殺される君を救う  作者: ハリオアマツバメは泣いた
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第一章 3話 悪女の顔

2026年5月10日 加筆修正致しましたm(__)m


アスターには、人が「役割」や「筋書き」に押されている時、黒い文字として見える。

その文字は現実の紙や石に書かれているわけではなく、アスターの目にだけ見える。

未来予知ではない。

真実を見抜く力でもない。

ただ、「このままだとそいつが何をさせられそうか」が分かる。

文字は濃いほど強い。

触れて引き剥がすことができる。

引き剥がした文字は、放置すると戻るか散る。

だからアスターは喰う。

喰うと相手は少し自由になるが、文字の衝動がアスターの中に残る。

大きすぎる文字は、簡単には喰えない。

「これより、ヴァルクライン公爵令嬢イリスの公開裁判を始める」


司祭の声が、聖堂前広場に響いた。


広場は歓声に包まれた。喜びにも聞こえたし、怒りにも聞こえた。正しいことが始まるのを待っていた人間たちの声だった。


俺は人混みの中で、裁判台を見上げていた。


白い木材で組まれた台の上には、三つの場所が用意されている。王家の席。教会の席。そして、罪人を立たせるための場所。


椅子ではなかった。


そこに座らせるつもりはないのだろう。


立たせて、顔を晒して、言葉を浴びせるための場所だ。


隣には酒場の親父がいる。黒パンの入った籠を抱えたまま、売るでもなく、ただ黙って裁判台を見ていた。祭りの日は売れると言っていたくせに、今のところ黒パンは一つも減っていない。


「始まったな」


親父が言った。


「ああ」


「帰らなくていいのか」


「帰りたい」


「帰らないのか」


「足がな」


「足?」


「勝手に面倒な方へ向かう」


親父は小さく笑ったが、その顔は硬かった。


台の上では、教会の司祭が巻物を広げている。白い法衣。銀の鎖。胸元には、二十二の紋章をつないだ輪飾り。背筋はまっすぐで、声はよく通る。


神の名を使う人間は、まず人に聞こえる声を持っている。


「本裁判は、聖譚教会および王家の承認のもと、神と民の前にて行われるものである」


記録修道士たちが、一斉に筆を走らせた。


紙の上に、司祭の言葉が残されていく。声は消えても、書かれた文字は残る。残ったものは、あとから事実の顔をする。


俺はその音が嫌いだった。


「罪人イリス・ヴァルクラインは、王国筆頭公爵家の令嬢でありながら、その身分を悪用し、聖女フィリア・エルネスト様に度重なる侮辱と危害を加えた」


民衆がざわめく。


「さらに、第二王子レオナール殿下との婚約関係を盾に王城内で専横を働き、王家の信頼を裏切り、教会の宝物庫にまで不正に立ち入った疑いがある」


ざわめきが怒声に変わっていった。


「悪女め!」


「恥を知れ!」


「聖女様に謝れ!」


まだ本人は出てきていない。


それなのに、広場の怒りはもう十分に温まっていた。肉を焼く前から、火だけが赤く燃えているようだった。


俺には、裁判台の下に薄い黒い文字が見えた。


まだ濃くはない。


昨日ルカに絡んでいたものほど、はっきりとはしていない。ただ、民衆の足元や、記録修道士の筆先や、司祭の袖口から、細い線のようなものが少しずつ台の中央へ集まっている。


悪女は裁かれるべきだ。


それは現実に書かれている文字ではない。


俺の目には、そういう形で見える。


司祭は満足げに民衆を見渡し、それから片手を上げた。


「静粛に」


不思議なほど、声が引いた。


怒号が止まる。

ざわめきが消える。

広場全体が、次の台詞を待つ。


誰かが怒鳴っている方が、まだましだ。


怒りには、持ち主がいる。


だが、この沈黙には持ち主がない。


司祭は続けた。


「まず、王家よりお言葉を賜る」


王家の席から、一人の男が立ち上がった。


レオナール・リュミエール。


第二王子。


遠くから見ても、目立つ男だった。金の髪は朝の光を受けて輝き、白銀の礼装は汚れ一つない。腰には王家の剣。歩き方にも、立ち方にも、迷いがない。


いや、少なくとも民衆には、そう見える。


彼は視線を浴びることに慣れていた。


それどころか、視線を浴びることで完成する人間のように見えた。


「王都の民よ」


レオナールの声は、司祭よりも若く、よく澄んでいた。


「今日、この場を設けたことを、私は残念に思う」


広場の空気が静まる。


「イリス・ヴァルクラインは、かつて私の婚約者だった。幼い頃から共に学び、王国の未来を担う者として育ってきた。私は彼女を信じようとした。何度も、何度もだ」


民衆は息を殺して聞いている。


レオナールは本気で苦しそうな顔をしていた。少なくとも、そう見えた。作った表情かどうかは分からない。俺は人の心を読めるわけじゃない。


けれど、彼が自分を正しい場所に立たせようとしているのは分かった。


「だが、信頼は裏切られた。聖女フィリアへの侮辱。毒物の混入。王城内での虚偽。さらに、王家と教会を欺こうとする振る舞い。これ以上、王国の秩序を乱すことは許されない」


俺には、王子の背後に薄い黒い文字が見えた。


裁け。

迷うな。

正しくあれ。


その文字は、レオナールの背筋の伸び方とよく似ていた。


「私は、彼女を憎みたいわけではない」


広場が少し静かになった。


「ただ、王子として、正義を曲げることはできない」


その瞬間、民衆の空気が変わった。


王子は苦しんでいる。

私情ではなく、正義のために悪女を裁こうとしている。

ならば、これは正しい裁きだ。


言葉にすれば、たぶんそんな流れだった。


民衆の顔が変わっていく。怒りだけではなく、同情が混じる。王子を気の毒がる者さえいる。婚約者を裁かねばならない正しい王子。聖女を守るために、私情を捨てる男。


見事な形だった。


見事すぎて、気持ちが悪い。


親父がぽつりと言った。


「立派な王子様だな」


「ああ」


「気に食わない顔してるぞ」


「立派すぎる人間は信用できない」


「お前はひねくれてるな」


「元からだ」


王子は席に戻った。


続いて、白い馬車から聖女が降りてくる。


広場の空気が、一気にやわらかくなった。怒りに満ちていた人々の顔が、祈るような表情へ変わる。さっきまで悪女を罵っていた口が、今度は小さく聖女の名を呼ぶ。


フィリア・エルネスト。


聖女。


年は十六か、十七くらいだろう。淡い銀の髪が肩に落ち、白い修道服の胸元には蒼い十字晶が光っている。細い。驚くほど細かった。病的というほどではない。けれど、丁寧に作られた人形のような危うさがあった。


彼女が台の上に立つと、民衆のあちこちから声が上がった。


「聖女様……」


「お可哀想に」


「なんてお痩せになって」


フィリアは小さく頭を下げた。


その動作だけで、涙を流す者までいた。


俺は目を細める。


彼女は泣いていなかった。


少なくとも、今は。


ただ、その手が震えている。袖の内側で、指が握られ、開かれ、また握られている。自分の声を逃がさないように、必死で何かを掴んでいるみたいだった。


司祭が優しい声を作った。


「聖女フィリア様。お辛いとは存じますが、民の前で真実をお話しいただけますか」


フィリアは唇を開いた。


けれど、すぐには声が出なかった。


一瞬、彼女の目が王子へ向かう。レオナールは強く頷いた。それは励ましのようにも見えた。早く話せという合図のようにも見えた。


フィリアは目を伏せた。


「……イリス様は」


広場が静まる。


「私に、厳しいお言葉を向けられることがありました」


民衆がざわつく。


「厳しいお言葉?」


「やはり虐げられていたのか」


フィリアは続ける。


「王城の礼法を知らない私に、何度も注意をしてくださいました。立ち方、歩き方、食卓での作法、王子殿下への言葉遣い。私は、何度も叱られました」


「なんてひどい」


誰かが言った。


俺は眉をひそめた。


今の話だけなら、ただの礼儀指導だ。


もちろん、言い方はきつかったのかもしれない。泣くほど怖かったのかもしれない。だが、少なくとも今の言葉だけで「悪女」と決めるには早すぎる。


フィリアの声は小さい。


だが、不思議と広場には届いていた。


「けれど」


その一言で、司祭の表情がわずかに動いた。


フィリアは続けようとした。


「けれど、イリス様は――」


「聖女様」


司祭が遮った。


声は穏やかだった。


穏やかすぎた。


「無理に庇う必要はありません。あなたはお優しい方だ。傷つけられてなお、相手を許そうとしてしまう。その尊さを、我々は知っています」


民衆が頷く。


「聖女様はお優しい」


「悪女を庇おうとしているんだ」


「なんて清らかな方だ」


フィリアの言葉が、彼女のものではない意味へ変えられていく。


本人はまだ何も言い切っていない。


それなのに、周りが勝手に続きを作っていく。


俺には、フィリアの喉元に薄い黒い文字が絡んでいるように見えた。


許せ。

耐えろ。

泣け。

微笑め。


その文字は、彼女の細い首に巻きつく糸のようにも見えた。現実の糸ではない。彼女の肌に跡がついているわけでもない。ただ俺には、彼女の言葉が出る前に、その言葉の行き先を決めようとしているものが見えていた。


フィリアは唇を結んだ。


言葉を探している。


だが、広場はもう彼女の言葉を待っていない。彼女が何を言っても、「聖女の優しさ」として受け取る準備ができている。


司祭が言った。


「聖女様。毒を盛られた夜のことを、お話しいただけますか」


フィリアの顔色が変わった。


「毒……」


「ええ。王城東翼の晩餐の夜です」


「私は」


フィリアは口元を押さえた。


「私は、あの時」


「あなたは倒れられた。杯には毒が入っていた。そしてその杯を用意した侍女は、ヴァルクライン家の者だった」


司祭の声が、少し強くなる。


「そうですね?」


フィリアは答えない。


いや、答えられない。


広場は待っている。


民衆も、司祭も、王子も、記録修道士も。


彼女が「はい」と言うのを待っている。


そうすれば、話は前へ進む。


聖女が被害を認め、王子が怒り、悪女が裁かれる。裁判という儀式は、決まった形を得る。


フィリアの唇が震えた。


「……はい」


広場が爆発した。


「やっぱり!」


「悪女だ!」


「聖女様を殺そうとしたんだ!」


俺はフィリアを見ていた。


彼女は歓声の中で、泣きそうな顔をしていた。


認めたからではない。


認めてしまったからだ。


親父が低く呟く。


「今の、何か変じゃなかったか」


「変だと思えるなら、まだ大丈夫だ」


「俺は大丈夫なのか」


「知らん。俺も自信がない」


俺の胸の奥で、昨夜喰った脚本の断片が笑った気がした。


誰かのせいにしろ。

そうすれば楽になる。


俺は奥歯を噛みしめた。


楽になるための言葉は、だいたい誰かを殺す。


司祭が手を上げ、民衆を静めた。


「では、罪人をここへ」


その言葉で、広場全体が前のめりになった。


王国兵が聖堂の側面扉へ向かう。重い扉が開く。薄暗い通路の奥から、鎖の音が聞こえた。


からん。


からん。


からん。


鉄が石を叩く音。


誰かが息を呑んだ。


「来るぞ」


「悪女だ」


「イリス・ヴァルクラインだ」


俺は裁判台を見つめた。


最初に見えたのは、白い髪だった。


雪のような白ではない。月の光を細く紡いだような、少し冷たい白。次に、黒いドレスの裾。喪服のようにも、礼装のようにも見える。手首には鉄枷。足首にも鎖。


それでも、彼女は背筋を曲げていなかった。


イリス・ヴァルクライン。


噂の悪女。


民衆が憎むために用意された顔。


だが、告示板の似顔絵とはまるで違っていた。


確かに、美しい。


けれど、それ以上に鋭かった。


人に好かれるための顔ではない。愛されるために柔らかく笑う女でもない。まっすぐ見られた者が、自分の内側を測られているような気分になる目をしている。


悪女らしいか、と聞かれれば、たぶんそうなのだろう。


だが少なくとも、怯えた罪人の顔ではなかった。


イリスは裁判台の中央に立った。


群衆から怒号が飛ぶ。


「恥を知れ!」


「聖女様に謝れ!」


「毒婦!」


「悪女!」


石を投げようとした男が、兵士に押さえられる。


イリスは一度だけ、広場を見渡した。


怒るでもなく、怯えるでもなく。


ただ、確認するように。


この国には、これほど自分を憎みたい人間がいるのかと、数えているように見えた。


その視線が、一瞬だけこちらへ向いた。


目が合った。


たぶん偶然だ。


人混みの中の俺を、彼女が知っているはずもない。


だが、その瞬間だけ、広場の音が少し遠ざかった。


イリスの瞳は、青ではなかった。


紫に近い、深い灰色。


そこにあったのは、怒りでも絶望でもない。


疲れだった。


長い間、ずっと同じ台詞を聞かされ続けた者の目だ。


俺は息を止めた。


彼女の足元に、俺には黒い文字が見えた。


昨日のルカのものとは違う。


濃い。

深い。

古い。


人ひとりの感情に絡みついた脚本の断片ではない。噂、記録、聖女の証言、王子の言葉、民衆の怒声。そういうものが積み重なり、一本の太い筋になってイリスの足元へ流れ込んでいる。


悪女。

罪人。

裁かれる者。

落ちる者。


そして、その奥に。


崩れろ。


俺は眉をひそめた。


崩れろ?


誰が。


何が。


司祭が巻物を開く。


「罪人イリス・ヴァルクライン。神と民の前に立つがよい」


イリスはすでに立っている。


それでも、司祭はそう言った。


彼女を立たせたのは自分たちだと、示すために。


「あなたには、聖女フィリア様への侮辱、暴行、毒物混入、王家への虚偽、反逆未遂の罪がかけられている。まず、聖女様への度重なる侮辱について、認めますか」


広場が静まる。


イリスはフィリアを見た。


フィリアは顔を上げられなかった。


それを見て、イリスは小さく息を吐いた。


笑ったようにも見えた。


諦めたようにも見えた。


「認めます」


広場がどよめいた。


親父が小さく声を漏らす。


「認めるのかよ」


司祭の口元がわずかに上がる。


「では、聖女様を侮辱したことは事実なのですね」


「ええ」


イリスの声は澄んでいた。


「王城の廊下で何度も注意しました。足音が大きい、礼が浅い、王族への言葉遣いが甘い、髪飾りが場に合っていない。ほかにも色々と」


民衆が怒り始める。


「なんて傲慢な!」


「聖女様をいじめていたんだ!」


イリスは、その声を遮るように続けた。


「当然でしょう」


広場が静まった。


「フィリア様は聖女である前に、王城に招かれた客人です。作法を知らぬまま人前に出されれば、恥をかくのは彼女自身です。王城の者たちは、彼女に優しく微笑むばかりで、誰一人として必要なことを教えようとしなかった」


フィリアの肩が震えた。


イリスは彼女を見ない。


「ですから、わたくしが言いました。嫌われる役など、わたくしには慣れたものですから」


民衆は戸惑った。


今の言葉を、どう憎めばいいのか分からなかったのだろう。


司祭がすぐに口を挟む。


「つまり、あなたは聖女様に厳しい言葉を浴びせた」


「ええ。必要でしたから」


「聖女様を傷つけた自覚は?」


「あります」


「では、罪を認めるのですね」


「いいえ」


イリスは、はっきりと言った。


「わたくしが認めたのは、彼女に厳しく接したことです。それを罪と呼ぶかどうかは、あなた方の都合でしょう」


広場の空気が揺れた。


俺は思わず、口元を押さえた。


笑いそうになったからだ。


大した女だ。


ここまで追い込まれて、まだ言葉を選んでいる。流されていない。自分の舌で、自分の言葉を話している。


司祭の目が細くなった。


「では、毒物混入については」


「知りません」


「侍女はヴァルクライン家の者です」


「わたくしの家の者が関わった可能性は否定しません。ですが、わたくしが命じた事実はありません」


「証人がいます」


「証人は誰ですか」


司祭は一瞬だけ黙った。


「それは、この場で明かす必要はありません」


「では、わたくしは見えない証人に裁かれるのですね」


「神は見ておられます」


「神が証人なら、神をここへ呼んでくださいませ」


ざわり、と広場が揺れた。


司祭の顔が険しくなる。


王子レオナールが立ち上がった。


「イリス」


その声には、怒りと失望が混じっていた。


「なぜ、まだそのような態度を取る。罪を認め、聖女に謝罪すれば、せめて公爵家の名誉だけは守れるかもしれない」


イリスは王子を見た。


その目が、少しだけ冷たくなる。


「殿下」


「何だ」


「わたくしは、あなたが嫌いでした」


広場が凍った。


レオナールの表情も止まる。


イリスは続けた。


「正確に言えば、あなたの正しさが嫌いでした。あなたはいつも正しい。誰よりも清く、誰よりも王子らしく、誰よりも民の望む言葉を口にする。だから、あなたの隣では、誰も間違えることを許されない」


レオナールの眉が動く。


「何が言いたい」


「あなたは、わたくしを裁きたいのですか。それとも、わたくしを裁くことで、ご自分の正しさを確かめたいのですか」


民衆が怒号を上げる。


「無礼者!」


「殿下に何を言う!」


「悪女め!」


レオナールは剣の柄に手をかけた。


だが、抜かなかった。


その目に、ほんの一瞬だけ迷いが見えた。


本当に一瞬だった。


すぐに消えた。


「私は正義を行う」


王子は言った。


「お前がどれほど言葉を弄しても、罪は消えない」


「そうですか」


イリスは薄く笑った。


「なら、せめて本物の罪で裁いてくださいませ。わたくしは善人ではありません。人を傷つけたことも、嘘をついたことも、誰かを利用したこともあります」


彼女は広場を見渡した。


「けれど、あなた方に都合のいい悪女になった覚えはありません」


その言葉に、民衆の声が一瞬だけ割れた。


完全に静まったわけではない。


だが、揃わなかった。


怒りたい者。

戸惑う者。

聞き流そうとする者。

さらに声を荒げる者。


同じ口ではなくなった。


俺はそれを見た。


裁判台の下に集まっていた黒い文字が、ほんの少しだけ乱れる。


イリスの言葉が、何かに傷をつけた。


司祭が声を張る。


「罪人の詭弁に惑わされてはなりません!」


民衆が再び揺れる。


「悪女だ!」


「裁け!」


「神の名のもとに!」


声が戻っていく。


だが、さっきより少しだけ遅い。


ほんの少しだけ、継ぎ目が見えた。


その時、フィリアが一歩前に出た。


「待ってください」


小さな声だった。


だが、不思議と広場に届いた。


司祭が振り返る。


「聖女様?」


フィリアは両手を胸の前で握っていた。顔は青白い。けれど、目だけはイリスを見ていた。


「イリス様は、私を」


そこまで言って、声が止まる。


俺には、フィリアの喉元に黒い文字が絡みついているように見えた。


黙れ。

泣け。

許せ。

捧げろ。


フィリアは唇を震わせた。


言葉を探している。声を出そうとしている。けれど、広場の空気も、司祭の視線も、民衆の期待も、全部が彼女の喉を押さえつけているように見えた。


イリスの表情が、初めて崩れた。


ほんのわずかに。


心配の色が差した。


「フィリア」


その名を呼んだ瞬間、フィリアの目に涙が浮かんだ。


民衆がどよめく。


「聖女様が泣いた」


「やはり悪女に怯えているんだ」


違う。


たぶん、違う。


フィリアは怯えている。


だが、イリスにではない。


もっと別のものに。


俺は一歩、前に出かけた。


親父が俺の袖を掴む。


「おい」


「何だ」


「今、行くな」


「分かってる」


「本当か?」


「たぶん」


俺は足を止めた。


まだ早い。


ここで飛び込めば、ただの乱入者だ。何も分からないまま、全部を壊すことになる。昨日のルカとは違う。これは一人に絡んだ脚本の断片ではない。


広場全体が、イリスを悪女として定着させようとしている。


裁判。

証言。

王子の言葉。

聖女の涙。

民衆の怒号。

教会の記録。


それらが全部、儀式みたいに積み上がっている。


下手に触れば、誰が壊れるか分からない。


司祭がフィリアへ近づく。


「聖女様。ご無理をなさらず。あなたはただ、真実を」


「私は」


フィリアが言った。


今度は、さっきより少し強かった。


「私は、イリス様を」


その瞬間だった。


地面の下で、低い音が鳴った。


ごん。


鐘ではない。


少なくとも、俺には鐘の音には聞こえなかった。


前列にいた女が肩を震わせ、王国兵の一人が足元を見た。民衆の何人かもざわつく。


けれど、石畳は割れていない。

裁判台も傾いていない。

現実には、ただ低い音が鳴っただけだった。


俺には、それとは別に見えているものがあった。


裁判台の下に集まっていた黒い文字が、一瞬だけ太くなる。


悪女。

罪人。

裁かれる者。

塔より落ちる者。


フィリアの声は、その音にかき消された。


司祭が叫ぶ。


「静粛に! これは神の鐘である!」


民衆は膝をついた。


王子も顔を引き締め、聖堂へ向き直る。


フィリアは唇を噛み、何も言えなくなった。


イリスだけが、裁判台の床を見ていた。


何を考えているのかは分からない。


けれど、彼女の横顔には、諦めにも怒りにも似たものが浮かんでいた。


俺は人混みの中で、拳を握った。


イリスがゆっくりと顔を上げる。


そして、人混みの中の俺を見た。


今度は偶然ではなかった。


そう思った。


彼女は俺を見ていた。


まっすぐに。


助けを求める目ではない。


救いを期待する目でもない。


ただ、確かめている。


お前には、何が見えている。


そう問われた気がした。


俺は答えなかった。


答えられるはずもなかった。


司祭が高らかに宣言する。


「神は裁きを望んでおられる!」


民衆が叫ぶ。


「裁け!」


「悪女を裁け!」


「神の名のもとに!」


その声の下で、裁判台の下に集まる黒い文字が、また少し濃くなった。


まだ誰も刃を抜いていない。

まだ誰も死んでいない。

これは、ただの裁判のはずだった。


なのに俺には、もう首が落ちる音が聞こえた気がした。

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