第一章 2話 聖譚の国
2026年5月10日 加筆修正致しましたm(__)m
アスターには、人が「役割」や「筋書き」に押されている時、黒い文字として見える。
その文字は現実の紙や石に書かれているわけではなく、アスターの目にだけ見える。
未来予知ではない。
真実を見抜く力でもない。
ただ、「このままだとそいつが何をさせられそうか」が分かる。
文字は濃いほど強い。
触れて引き剥がすことができる。
引き剥がした文字は、放置すると戻るか散る。
だからアスターは喰う。
喰うと相手は少し自由になるが、文字の衝動がアスターの中に残る。
大きすぎる文字は、簡単には喰えない。
翌朝、王都リュミエールはいつもより白かった。
夜明け前に雨が降ったらしく、石畳も、壁も、尖塔も、まとめて洗われたみたいに光っている。昨日までの泥も、吐瀉物の跡も、馬糞の染みも、遠目には見えない。
白は便利だ。
汚れが消えた気にさせる。
酒場の窓から差し込む朝の光も、どこか薄く白んでいた。木の卓に残った酒染みも、床板の傷も、カウンターの端に置かれた欠けた皿も、その光の中では少しだけましに見える。
聖譚祭の朝だった。
年に一度、神が人に役割を与えた日を祝う祭り。教会の説教では、だいたいそう語られる。勇者は勇者として剣を取り、聖女は聖女として祈り、王は王として国を治め、民は民として日々を支える。
誰もが己の役割を果たす時、世界は最も正しく回る。
そういう話だ。
俺は、その話があまり好きではない。
「朝からひどい顔だな、アスター」
酒場の親父が、焼きすぎた黒パンを皿に置いた。
「元からだ」
「否定はしないが、今日は特にだ」
「朝飯を出す人間の台詞じゃないな」
「安心しろ。飯もひどい」
「自覚があるなら直せ」
「自覚があるだけ偉いだろ」
親父はそう言って、薄い豆のスープを出した。昨夜より塩は少し濃い。肉は入っていない。代わりに、刻んだ根菜が沈んでいる。
俺は木匙でスープをかき混ぜ、黒パンをちぎった。
噛むたびに、昨夜喰った脚本の断片の味が舌の奥へ戻ってくる。
鉄。
紙。
腐りかけた果実みたいな甘さ。
ルカから引き剥がした黒い文字は、まだ俺の中に残っていた。
裏切れ。
逃げろ。
誰かのせいにしろ。
そうすれば楽になる。
声というほど、はっきりしたものではない。けれど、胸の奥を指でこすられているような嫌な感覚がある。自分の考えではないと分かっていても、完全に無視するには近すぎる。
喰ったものは、すぐには消えない。
だから朝飯くらい、まともなものを食いたかった。
「公開裁判、見に行くのか」
親父が聞いた。
「行かない理由を探してる」
「見つかったか」
「パンがまずい」
「それは毎日のことだ」
「じゃあ今日は休業しろ」
「祭りの日に休む馬鹿がいるか」
親父は鼻で笑った。
酒場の壁には、聖譚祭用の刷り紙が貼られている。粗い木版画だ。中央には勇者。隣に聖女。足元には倒れた魔王。画面の端では、悪人らしい男が泣きながら許しを乞うている。
勇者は剣を掲げている。
聖女は祈っている。
魔王は倒れている。
悪人は許しを乞うている。
それぞれが、決められた場所にきれいに収まっていた。
祭りの日に、悪女の公開裁判。
出来すぎている。
「ヴァルクラインの令嬢について、何か聞いたか」
俺が聞くと、親父は鍋の蓋を閉めた。
「客はその話ばっかりだ。聖女様に毒を盛っただの、王子殿下を裏切っただの、教会の宝物庫に忍び込んだだの」
「増えてるな」
「噂なんてそんなもんだろ」
「誰が最初に言った」
親父は肩をすくめた。
「知らねえよ。気づいたら、みんな知ってた」
みんな。
便利な言葉だ。
誰も責任を取らなくていい。
「それで、親父は信じてるのか」
「何を」
「その令嬢が悪女だって話」
親父は少しだけ黙った。いつもなら、くだらないと鼻で笑うところだ。けれど今日は違った。カウンターの上に残った水滴を指で伸ばしながら、低い声で言った。
「分からん。貴族の娘なんざ、俺たちには遠すぎる。ただな、聖女様が泣いてたって話を聞くと、腹は立つ」
「見たのか」
「何を」
「泣いてるところ」
親父は答えなかった。
見ていないのだろう。
けれど、見たような顔をしている。誰かが言ったから。何人もが同じことを言ったから。聖女は泣いていて、悪女は笑っていて、王子は正しく怒っている。
その方が、たぶん楽なのだ。
俺は残りのスープを飲み干した。塩気が舌に残る。昨日よりはましだが、うまいとは言えない。
「金は?」
親父が聞いた。
「昨日、払っただろ」
「銅貨二枚な」
「十分だ」
「足りねえよ。お前、うちを慈善院だと思ってるのか」
「慈善院はもう少しましなスープを出す」
「口だけは上級役持ちだな」
親父はそう言いながら、皿を片づけた。
この国で「役なし」と呼ばれるのは、必ずしも何の仕事もしていない人間のことではない。教会や王家やギルドに認められた役を持たない者。正式な記録に名前が載らない者。誰かに呼ばれる時、ただの町人として扱われる者。
俺もその一人だ。
雑用屋。
揉め事処理屋。
便利な男。
妙に勘のいい厄介者。
呼び方はいくつかあるが、どれも正式な役割ではない。だから仕事は酒場に流れ着いたものを拾うしかない。金は安い。信用もない。たまに命だけ削られる。
悪くない人生だとは、口が裂けても言えなかった。
「行くのか」
親父がもう一度聞いた。
俺は外套を羽織った。
「行かない理由が、パンのまずさ以外に見つからなかった」
「なら仕方ねえな」
「親父は?」
「俺は商売だ。祭りの日は売れる」
「悪女裁判を見ながら食う黒パンか」
「言い方を選べ」
「売れるといいな。まずいし」
「帰ってくるなよ」
「飯時には戻る」
「やっぱり帰ってくるな」
親父の悪態を背中で聞きながら、俺は酒場を出た。
通りはすでに人で溢れていた。
聖譚祭の日、王都では誰もが少しだけ別人になる。子どもは木剣や紙の冠を身につけ、若い娘は聖女の白い花冠をかぶる。商人は店先に聖句を書いた布を垂らし、兵士はいつもより背筋を伸ばして歩く。
普段は下水の臭いがする路地にも、今日は香草の束が吊るされていた。白い壁には、勇者の剣や聖女の杯を描いた布がかけられている。窓辺には花。店の前には小さな祭壇。露店には、役持ちの紋章を模した菓子や飾りが並んでいた。
昨日と同じ顔なのに、今日は誰もが「それらしい」顔をしている。
それが俺には少し気味悪かった。
大通りの角では、子どもたちの聖譚劇が始まっていた。
木箱を積んだだけの小さな舞台。古布で作った幕。紙で作った王冠。剣は木の枝を削ったものだ。舞台の前には、大人たちが笑いながら集まっている。
木剣を持った少年が叫んだ。
「魔王め! この世界は、必ず俺が救ってみせる!」
客が拍手する。
その向かいで、黒い布をかぶせられた子どもが震えていた。魔王役だ。角に見立てた木切れを頭に結ばれ、顔には炭でひどい模様を描かれている。
「勇者よ、よく来たな」
魔王役の子どもは、教えられた台詞をたどたどしく口にした。声が小さい。観客の大人が笑う。
「もっと悪そうに言え!」
「魔王なんだから怖くしろ!」
子どもは肩を震わせ、もう一度言った。
「勇者よ、よく来たな」
その足元に、俺には薄い黒い文字が見えた。
憎め。
倒れろ。
最後には笑って死ね。
まだ弱い。昨日のルカに絡んでいたものほど濃くはない。子どもの遊びに、街の空気が少し混じっているだけだ。
それでも、気分は悪かった。
勇者役の少年が木剣を振るう。魔王役の子どもは胸を押さえて倒れた。観客が拍手する。聖女役の少女が前に出て、白い花を勇者に差し出す。
「勇者様、世界を救ってくださり、ありがとうございます」
勇者役の少年は誇らしげに笑った。
魔王役の子どもは、舞台の端で膝を抱えている。
誰も見ていない。
俺は舞台の横を通り過ぎた。
だが、数歩進んでから足を止めた。
面倒だ。
本当に面倒だ。
振り返ると、魔王役の子どもが舞台裏で角を外そうとしていた。結び目が固いのか、うまく取れずに泣きそうな顔をしている。
俺は近づき、膝をついた。
「動くな」
子どもはびくっとした。
「ご、ごめんなさい」
「謝るな。角が取れないだけだろ」
結び目は汗で湿って固くなっていた。無理に引っ張れば髪ごと抜ける。俺は木切れと紐の間に指を入れ、少しずつほどいた。
子どもの額には、紐の跡が赤く残っていた。
「痛かったか」
子どもは少し迷ってから、頷いた。
「痛いなら、痛いって言え」
「でも、魔王だから」
「魔王でも痛いものは痛い」
子どもは目を丸くした。
「魔王って、痛いの?」
「知らん」
俺は外した木の角を子どもに返した。
「でも、お前は痛かったんだろ」
子どもはしばらく角を見つめてから、小さく頷いた。
「うん」
「なら、それでいい」
立ち上がると、舞台の係らしい男がこちらを睨んでいた。何か言いたそうだったが、祭りの最中に揉め事を起こしたくはないのだろう。俺も面倒ごとにする気はない。
そのまま人混みに戻る。
背中の方で、子どもの声がした。
「次は、薬屋の役がいい」
周りの大人が笑った。
俺は少しだけ口元を緩めた。
薬屋でも、魔王でも、勇者でもいい。本人がそれを選べるなら、そこまで悪くない。
問題は、選んでいない顔をしているやつが多すぎることだ。
大通りの中央には、聖譚教会の聖列が進んでいた。
白い法衣の司祭たちが、二十二の紋章を掲げて歩いている。紋章は長い竿の先に取りつけられ、朝の光を受けて鈍く光っていた。
剣。
杯。
輪。
冠。
吊られた人影。
崩れる塔。
目を閉じた女。
太陽。
月。
どれも古い意匠で、子どもの頃から何度も見てきたものだ。意味のいくつかは知っている。けれど深く知ろうとは思わなかった。
ああいうものに近づくと、ろくなことにならない。
聖列の先頭に立つ司祭が、よく通る声で言った。
「聖譚二十二座は、神が人に与えた道標である」
声がよく通る人間は苦手だ。
言葉が正しい場所に届きすぎる。
「役割なき者は迷い、迷える者は欲に沈み、欲に沈む者は獣となる。ゆえに人は、自らに与えられた役を愛さねばならない」
民衆が頭を垂れる。
俺は垂れなかった。
隣にいた老婆が、ちらりとこちらを見た。
「若いの、頭を下げなさい。神様が見ていなさるよ」
「見てるだけなら、好きにさせればいい」
老婆はぎょっとした顔をしたが、すぐに目を伏せた。関わらない方がいいと思ったのだろう。
正しい判断だ。
司祭の声は続く。
「勇者は勇者として輝き、聖女は聖女として祈り、王は王として治め、民は民として支える。悪しき者は悪しき結末を受け入れることで、世界の秩序は保たれる」
悪しき者は、悪しき結末を受け入れる。
その言葉だけ、耳の奥に残った。
昨日から、何度も似たようなものを聞いている。言っている人間は違うのに、声の芯が同じだ。
悪女は裁かれるべきだ。
その言葉と、よく似ている。
聖堂前の広場へ近づくにつれて、人の数はさらに増えていった。
石畳の上には露店が並んでいる。焼き菓子。果実水。聖女の白花を模した砂糖菓子。勇者の剣をかたどった細長い焼きパン。魔王の角を真似た黒い菓子。
子どもは菓子に群がり、大人は広場の中央へ視線を向けている。
そこには高い台が組まれていた。
白い木材で作られた裁判台。周囲には王国兵が立ち、槍を持っている。台の正面には王家の席と教会の席が設けられていた。罪人を立たせるための場所もある。
まだ誰も立っていない。
それなのに、そこだけ空気が重かった。
裁判台の周りには、教会の記録修道士たちがいた。彼らは細い筆を持ち、広場に集まった民衆の言葉を書き留めている。
「ヴァルクライン公爵令嬢は、幼い頃から使用人を鞭打っていたそうです」
「聖女様の杯に毒を混ぜたと聞きました」
「王子殿下の前では淑女を装っていたらしいわ」
「悪女は裁かれるべきです」
修道士の筆が、やけに速かった。
「聞いた話です」と女が言ったことが、紙の上ではただの一文になる。誰から聞いたのか。いつ聞いたのか。本当かどうか。そういう面倒なものは、筆先に乗る前に削ぎ落とされていく。
紙に残るのは、きれいに整えられた悪意だけだ。
俺は、その音が嫌いだった。
「そこのあなた」
若い修道士が俺に声をかけた。
「ヴァルクライン公爵令嬢について、何か証言はありますか」
「ない」
「小さな噂でも構いません。民の声は、神の裁きに必要なものです」
「なら、神に聞け」
修道士の眉が動いた。
「あなた、信徒ではありませんね」
「税は払ってる」
「そういう話ではありません」
「俺もそう思う」
面倒になる前に、その場を離れた。背後で修道士が何か言っていたが、聞こえないふりをした。
広場の端には、イリス・ヴァルクラインの罪状を記した告示板が立っていた。
聖女フィリアへの侮辱。
聖女フィリアへの暴行。
聖女フィリアへの毒物混入。
王子レオナールへの虚偽。
王家への反逆未遂。
教会宝物庫への不正侵入。
罪は多い。
多すぎる。
一つくらい嘘が混じっていても、残りが本当に見えるくらいには。
告示板の前で、二人の女が話していた。
「まあ、恐ろしい」
「でも、あの方ならやりそうよね」
「お会いしたことが?」
「ないわ。でも、顔を見れば分かるじゃない。いかにも高慢そうで」
告示板には、イリスの似顔絵も貼られていた。
鋭い目。
吊り上がった唇。
いかにも悪女らしい顔。
たぶん、似ていない。
いや、似ているかどうかは関係ないのだろう。
憎みやすい顔なら、それでいい。
俺はその絵を見上げた。
その時、風が吹いた。
貼り紙の端がめくれ、その下に別の紙が見えた。一瞬だけだった。だが、俺の目には見えた。
古い文字。
黒くはない。朱に近い、乾いた血のような色だった。石や紙に書かれた実際の文字ではない。俺の目には、貼り紙の下に染み出した脚本の断片として見えた。
悪しき女が塔より落ちる時、都は正しき朝を迎える。
俺は手を伸ばしかけた。
だが、その前に兵士が告示板の紙を押さえ直した。朱の文字は隠れ、また悪女の似顔絵だけが残る。
「おい、何をしている」
兵士が俺を見る。
「絵が下手だと思ってな」
「離れろ」
「はいはい」
俺は素直に下がった。
胸の奥で、嫌な音がした。
塔。
その言葉だけが、やけに引っかかった。
王都リュミエールには、塔が多い。教会の尖塔、王城の白塔、魔術師の書庫塔、見張り塔。白い街を白いまま天へ伸ばすように、塔はあちこちに立っている。
だが、告示板の下に見えた「塔」は、建物のことを指しているようには思えなかった。
もっと別のものだ。
たぶん。
分からない。
分からないが、見なかったことにするには、胸の奥がざらつきすぎていた。
「……考えすぎか」
自分に言い聞かせたが、うまくいかなかった。
広場の鐘が鳴る。
一度。
二度。
三度。
正午までは、まだ遠い。これは時を告げる鐘ではない。聖女の到着を知らせる鐘だ。
民衆がざわめいた。
「聖女様だ」
「フィリア様がおいでになった」
「お可哀想に」
「悪女のせいで、あんなにお痩せになって」
俺は人垣の向こうを見た。
白い馬車が、広場へ入ってくる。馬車の側面には、聖譚教会の紋章。窓には白い薄布がかかっていて、中の顔は見えない。
けれど、見えた。
薄布の向こうから、細い指が一瞬だけ窓枠を掴んだ。
その指は震えていた。
民衆は涙を流す聖女を想像している。傷つけられ、苦しめられ、それでも悪女を許そうとする清らかな少女を。
俺には、窓枠を掴んだ指しか見えなかった。
白くなるほど、力が入っている。
あれは祈っている手じゃない。
何かを堪えている手だ。
馬車は広場の奥へ進んでいく。
その後ろから、王家の騎馬隊が続いた。先頭にいるのは、金髪の若い男。遠目にも分かる。王子レオナールだ。白銀の外套をまとい、背筋を伸ばし、群衆の歓声を当然のものとして受けている。
「レオナール殿下!」
「正義の王子!」
「聖女様をお守りください!」
王子は片手を上げて応えた。
その顔は、たしかに美しかった。強く、清く、迷いがない。
王子はまっすぐ前だけを見ていた。
あの目で見られた人間は、たぶん道の端に避けるしかない。踏まれても、王子は気づかないだろう。悪意がなさそうなのが、余計に面倒だった。
王子の騎馬が通り過ぎた後、広場の空気がさらに熱を帯びた。
人々は興奮している。これから正しいことが起こるのだと、本気で信じている顔だった。
俺には、その熱の中に薄い黒い文字が見えた。
まだ掴めるほど濃くはない。個人に絡んでいるというより、広場のあちこちで同じ言葉が小さく芽を出しているように見える。
悪女は裁かれるべきだ。
その言葉は、露店の足元にあり、兵士の靴先にあり、記録修道士の筆先にあり、民衆の口元にあった。
現実の文字ではない。
俺の目にだけ、そういう形で見える。
その文字が、少しずつ裁判台の方へ流れていく。
俺は舌打ちした。
帰るべきだ。
このまま立ち去れば、面倒は避けられる。ヴァルクラインの令嬢が本当に悪女かどうかなんて、俺には関係ない。聖女が泣こうが、王子が怒ろうが、貴族が一人裁かれようが、俺の飯がうまくなるわけではない。
だが、足は動かなかった。
たぶん、もう見てしまったからだ。
薄布の向こうで震えていた聖女の指。
告示板の下に見えた朱の文字。
同じ声を待っている民衆。
裁判台へ流れていく、薄い黒い脚本の断片。
俺は空を見上げた。
白い塔が、曇った空に突き刺さっている。その先端に、黒い鳥が一羽止まっていた。鳥はしばらくこちらを見下ろしていたが、やがて羽ばたきもせずに落ちるように飛び去った。
「アスター」
背後から声がした。
振り返ると、酒場の親父が人混みの端に立っていた。来ないと言っていたくせに、結局来たらしい。手には商売用の籠を持っている。中には黒パンが詰まっていた。
「何してる」
俺が聞くと、親父は気まずそうに咳払いした。
「祭りの日は売れるんだよ」
「悪女裁判を見ながら食う黒パンか」
「言い方を選べ」
親父は俺の横に並び、裁判台を見た。
いつもなら、もっと軽口を叩く。だが今日は、親父の顔も少し硬かった。広場の空気に当てられているのかもしれない。
「なあ、アスター」
「なんだ」
「本当に悪女なら、裁かれるべきなんだろうな」
「かもな」
「けど、もし違ったら?」
俺は親父を見た。
彼は、いつものように茶化さなかった。真面目な顔で、広場を見ている。
「もし違ったら、俺たちは何を見に来たことになるんだ」
答えは浮かんだ。
けれど、言わなかった。
言葉にしたら、親父までここから動けなくなりそうだった。
その時、聖堂の扉が開いた。
白い法衣の司祭が階段の上に立つ。手には巻物。声を張り上げる前から、民衆のざわめきが消えていく。
誰かが息を止めろと命じたみたいに。
司祭が告げた。
「これより、ヴァルクライン公爵令嬢イリスの公開裁判を始める」
広場が沸いた。
俺は人々の声の奥で、別の音を聞いた気がした。
紙をめくる音。
実際に鳴っている音ではない。
俺の頭の中だけで聞こえた、嫌な音だ。
誰かが、まだ見ぬ脚本の次の頁を開いた音だった。
みなさま、初めまして!
ハリオアマツバメは泣いたです。リアクションいただけると嬉しいです!!
アドバイスでもなんでも待ってます!




