第一章 2話 聖譚の国
翌朝、王都リュミエールはいつもより白かった。
夜明け前に雨が降ったらしく、石畳は薄く濡れている。白い壁も、白い尖塔も、白い教会も、朝の光を受けてやけに眩しかった。
汚れたものを隠すには、白という色は便利だ。
少し遠くから見れば、だいたいのものは清らかに見える。
聖譚祭の朝だった。
年に一度、神が人に物語を与えた日を祝う祭り。教会の連中はそう説明している。勇者は勇者として、聖女は聖女として、王は王として、民は民として生きる。その秩序があるから、人は獣にならずに済むのだと。
俺には、よく分からない。
人間は放っておいても、そこそこ獣だ。
「朝からひどい顔だな、アスター」
酒場の親父が、焼きすぎた黒パンを皿に置いた。
「元からだ」
「否定はしないが、今日は特にだ」
俺は返事の代わりに、硬いパンをかじった。口の中が乾く。昨夜喰ったものの味が、まだ舌の奥に残っていた。
鉄と紙と、腐りかけた果実みたいな甘さ。
嫌な味だ。
胸の奥では、まだ小さな声が囁いている。
逃げろ。
誤魔化せ。
誰かのせいにしろ。
子どもの影に絡んでいた、裏切りの残り香だ。
「公開裁判、見に行くのか」
親父が聞いた。
「行かない理由を探してる」
「見つかったか」
「パンがまずい」
「それは理由にならねえな」
親父は笑った。俺は黒パンをスープに浸しながら、壁に貼られた聖譚祭の刷り紙を見た。
粗い木版画で、勇者と聖女が魔王を打ち倒している。その足元には、涙を流して許しを乞う悪人が小さく描かれていた。
祭りの日に、悪女の公開裁判。
出来すぎている。
「ヴァルクラインの令嬢について、何か聞いたか」
「客はその話ばっかりだ。聖女様に毒を盛っただの、王子殿下を裏切っただの、教会の宝物庫に忍び込んだだの」
「増えてるな」
「噂なんてそんなもんだろ」
「誰が最初に言った」
親父は肩をすくめた。
「知らねえよ。気づいたら、みんな知ってた」
みんな。
また、それだ。
「それで、親父は信じてるのか」
「何を」
「その令嬢が悪女だって話」
親父は少しだけ黙った。いつもなら、くだらないと鼻で笑うところだ。だが今日は違った。
彼はカウンターの上の染みを指でこすりながら、低い声で言った。
「分からん。貴族の娘なんざ、俺たちには遠すぎる。ただな、聖女様が泣いてたって話を聞くと、腹は立つ」
「見たのか」
「何を」
「泣いてるところ」
親父は答えなかった。
答えられないのだろう。
見ていない。けれど、知っている。誰かがそう言ったから。みんながそう言っているから。
聖女は泣いていて、悪女は笑っていて、王子は正しく怒っている。
その方が、分かりやすいから。
俺は残りのスープを飲み干した。塩が薄い。昨日より少しだけ肉が多い。たぶん親父なりの気遣いなのだろうが、礼を言う気にはなれなかった。
言うと、胸の奥の声がまた何か囁きそうだった。
外に出ると、通りはすでに人で溢れていた。
聖譚祭の日、王都では誰もが何かの役を演じる。子どもは勇者や騎士の飾りをつけ、若い娘は聖女の白い花冠をかぶる。商人は神に選ばれた繁栄の担い手を名乗り、兵士は王の剣として胸を張る。
通りの角では、子どもたちの聖譚劇が始まっていた。
小さな舞台の上で、木の剣を持った少年が叫ぶ。
「魔王め! この世界は、必ず俺が救ってみせる!」
客が拍手する。
その向かいで、黒い布をかぶせられた子どもが震えていた。魔王役だ。角に見立てた木切れを頭に結ばれ、顔には炭でひどい模様を描かれている。
「勇者よ、よく来たな」
魔王役の子どもは、教えられた台詞をたどたどしく口にした。声が小さい。観客の大人が笑う。
「もっと悪そうに言え!」
「魔王なんだから怖くしろ!」
子どもは肩を震わせ、もう一度言った。
「勇者よ、よく来たな」
その足元に、薄い黒が見えた。
憎め。
倒れろ。
最後には笑って死ね。
まだ弱い。昨日のルカに絡んでいたものほど濃くはない。子どもの遊びに、街の空気が少し混じっているだけだ。
それでも、気分は悪かった。
勇者役の少年が木剣を振るう。魔王役の子どもは胸を押さえて倒れた。観客が拍手する。聖女役の少女が前に出て、白い花を勇者に差し出す。
「勇者様、世界を救ってくださり、ありがとうございます」
勇者役の少年は誇らしげに笑った。魔王役の子どもは舞台の端で膝を抱えている。
誰も見ていない。
俺は舞台の横を通り過ぎた。
だが、数歩進んでから足を止めた。
面倒だ。
本当に面倒だ。
振り返ると、魔王役の子どもが舞台裏で角を外そうとしていた。結び目が固いのか、うまく取れずに泣きそうな顔をしている。
俺は近づき、膝をついた。
「動くな」
子どもはびくっとした。
「ご、ごめんなさい」
「謝るな。角が取れないだけだろ」
俺は結び目をほどいて、木切れを外してやった。子どもの額には、紐の跡が赤く残っていた。
「痛かったか」
子どもは少し迷ってから、頷いた。
「痛いなら、痛いって言え」
「でも、魔王だから」
「魔王でも痛いものは痛い」
子どもは目を丸くした。
「魔王って、痛いの?」
「知らん」
俺は木の角を返した。
「でも、お前は痛かったんだろ」
子どもはしばらく角を見つめてから、小さく頷いた。
「うん」
「なら、それでいい」
立ち上がると、舞台の係らしい男がこちらを睨んでいた。面倒ごとにする気はない。俺は何も言わず、人混みに戻った。
背中の方で、子どもの声がした。
「次は、薬屋の役がいい」
周りの大人が笑った。
俺は少しだけ口元を緩めた。
薬屋でも、魔王でも、勇者でもいい。本人がそれを選べるなら、たぶんそこまで悪くない。
問題は、選ばせないことだ。
大通りの中央には、聖譚教会の聖列が進んでいた。白い法衣の司祭たちが、二十二の紋章を掲げて歩いている。
剣。
杯。
輪。
冠。
吊られた人影。
崩れる塔。
目を閉じた女。
太陽。
月。
どれも古い意匠で、子どもの頃から何度も見てきたものだ。
名前くらいは知っている。
だが、意味までは知らない。
知ろうとも思わなかった。
ああいうものに近づくと、ろくなことにならない。
「聖譚二十二座は、神が人に与えた道標である」
先頭の司祭が、朗々と声を張り上げていた。
「役割なき者は迷い、迷える者は欲に沈み、欲に沈む者は獣となる。ゆえに人は、自らに与えられた役を愛さねばならない」
民衆が頭を垂れる。
俺は垂れなかった。
隣にいた老婆が、ちらりとこちらを見た。
「若いの、頭を下げなさい。神様が見ていなさるよ」
「見てるだけなら、好きにさせればいい」
老婆はぎょっとした顔をしたが、すぐに目を伏せた。関わらない方がいいと思ったのだろう。
正しい判断だ。
司祭の声は続く。
「勇者は勇者として輝き、聖女は聖女として祈り、王は王として治め、民は民として支える。悪しき者は悪しき結末を受け入れることで、世界の秩序は保たれる」
悪しき者は、悪しき結末を受け入れる。
昨日からずっと、同じ匂いがする。
俺は聖堂前の広場へ向かった。
公開裁判は正午から行われるらしい。まだ時間はある。だが広場には、すでに人が集まり始めていた。露店も出ている。焼き菓子、果実水、聖女の白花を模した砂糖菓子。
裁判というより、祭りの見世物だ。
中央には高い台が組まれていた。処刑台ではない。少なくとも今は、裁判台と呼ばれている。
その周りに、王国兵が立っている。さらにその外側には、教会の記録修道士たちがいた。彼らは細い筆を持ち、民衆の言葉を書き留めている。
「ヴァルクライン公爵令嬢は、幼い頃から使用人を鞭打っていたそうです」
「聖女様の杯に毒を混ぜたと聞きました」
「王子殿下の前では淑女を装っていたらしいわ」
「悪女は裁かれるべきです」
修道士は頷きながら、それらを紙に記していく。
俺はその様子を見て、胸の奥が冷えるのを感じた。
噂が、記録になっていく。
誰が言ったかも分からない言葉が、紙に書かれた瞬間、事実の顔をし始める。
「そこのあなた」
若い修道士が俺に声をかけた。
「ヴァルクライン公爵令嬢について、何か証言はありますか」
「ない」
「小さな噂でも構いません。民の声は、神の裁きに必要なものです」
「なら、神に聞け」
修道士の眉が動いた。
「あなた、信徒ではありませんね」
「税は払ってる」
「そういう話ではありません」
「俺もそう思う」
面倒になる前に、その場を離れた。背後で修道士が何か言っていたが、聞こえないふりをした。
広場の端には、イリス・ヴァルクラインの罪状を記した告示板が立っていた。
聖女フィリアへの侮辱。
聖女フィリアへの暴行。
聖女フィリアへの毒物混入。
王子レオナールへの虚偽。
王家への反逆未遂。
教会宝物庫への不正侵入。
罪は多い。
多すぎる。
人間一人を悪にする時、罪状は多い方がいい。どれか一つが疑わしくても、残りが真実に見えるからだ。
告示板の前で、二人の女が話していた。
「まあ、恐ろしい」
「でも、あの方ならやりそうよね」
「お会いしたことが?」
「ないわ。でも、顔を見れば分かるじゃない。いかにも高慢そうで」
告示板には、イリスの似顔絵も貼られていた。
鋭い目。
吊り上がった唇。
いかにも悪女らしい顔。
本当に本人に似ているのかは分からない。たぶん似ていないのだろう。似顔絵というより、民衆が安心して憎むための顔だった。
俺はその絵を見上げた。
その時、風が吹いた。
貼り紙の端がめくれ、その下に別の紙が見えた。一瞬だけだった。だが、俺の目には見えた。
古い文字。
黒くはない。朱に近い、乾いた血のような色だった。
悪しき女が塔より落ちる時、都は正しき朝を迎える。
俺は手を伸ばしかけた。
だが、その前に兵士が告示板の紙を押さえ直した。朱の文字は隠れ、また悪女の似顔絵だけが残る。
「おい、何をしている」
兵士が俺を見る。
「絵が下手だと思ってな」
「離れろ」
「はいはい」
俺は素直に下がった。
胸の奥で、嫌な音がした。
塔。
その言葉だけが、やけに引っかかった。
王都リュミエールには、塔が多い。教会の尖塔、王城の白塔、魔術師の書庫塔、見張り塔。白い街を白いまま天へ伸ばすように、塔はあちこちに立っている。
だが、告示板の下に隠れていた文字の「塔」は、建物のことを指しているようには見えなかった。
もっと別のもの。
もっと大きなもの。
この街そのものの背骨に刺さっている、見えない杭のような何か。
「……考えすぎか」
自分に言い聞かせたが、うまくいかなかった。
広場の鐘が鳴る。
一度。
二度。
三度。
正午までは、まだ遠い。これは時を告げる鐘ではない。聖女の到着を知らせる鐘だ。
民衆がざわめいた。
「聖女様だ」
「フィリア様がおいでになった」
「お可哀想に」
「悪女のせいで、あんなにお痩せになって」
俺は人垣の向こうを見た。
白い馬車が、広場へ入ってくる。馬車の側面には、聖譚教会の紋章。窓には白い薄布がかかっていて、中の顔は見えない。
けれど、見えた。
薄布の向こうから、細い指が一瞬だけ窓枠を掴んだ。
その指は震えていた。
民衆は涙を流す聖女を想像している。傷つけられ、苦しめられ、それでも悪女を許そうとする清らかな少女を。
だが俺には、その指が助けを求めているように見えた。
馬車は広場の奥へ進んでいく。
その後ろから、王家の騎馬隊が続いた。先頭にいるのは、金髪の若い男。遠目にも分かる。王子レオナールだ。白銀の外套をまとい、背筋を伸ばし、群衆の歓声を当然のものとして受けている。
「レオナール殿下!」
「正義の王子!」
「聖女様をお守りください!」
王子は片手を上げて応えた。
その顔は、たしかに美しかった。強く、清く、迷いがない。
だからこそ、危うい。
迷わない人間は、自分が誰かを踏んでいることにも気づかない。
王子の騎馬が通り過ぎた後、広場の空気がさらに熱を帯びた。人々は興奮している。これから正義が行われるのだと、本気で信じている。
俺はその熱の中に、薄い黒を見た。
まだ文字にはなりきっていない。煙のように揺れ、民衆の足元を這い、告示板の下へ、裁判台の下へ、聖堂の石段の隙間へ染み込んでいく。
街全体が、何かの言葉を待っている。
誰かが台詞を与えれば、一斉に叫ぶ準備をしている。
悪女は裁かれるべきだ。
昨日の夜より、濃い。
俺は舌打ちした。
帰るべきだ。
このまま立ち去れば、面倒は避けられる。ヴァルクラインの令嬢が本当に悪女かどうかなんて、俺には関係ない。聖女が泣こうが、王子が怒ろうが、貴族が一人裁かれようが、俺の飯がうまくなるわけではない。
だが、足は動かなかった。
たぶん、もう見てしまったからだ。
薄布の向こうで震えていた聖女の指。
告示板の下に隠れていた朱の文字。
同じ声で悪女を求める民衆。
そして、この街の底から這い上がる、あの嫌な気配。
俺は空を見上げた。
白い塔が、曇った空に突き刺さっている。
その先端に、黒い鳥が一羽止まっていた。鳥はしばらくこちらを見下ろしていたが、やがて羽ばたきもせずに落ちるように飛び去った。
「アスター」
背後から声がした。
振り返ると、酒場の親父が人混みの端に立っていた。来ないと言っていたくせに、結局来たらしい。手には商売用の籠を持っている。中には黒パンが詰まっていた。
「何してる」
俺が聞くと、親父は気まずそうに咳払いした。
「祭りの日は売れるんだよ」
「悪女裁判を見ながら食う黒パンか」
「言い方を選べ」
親父は俺の横に並び、裁判台を見た。
「なあ、アスター」
「なんだ」
「本当に悪女なら、裁かれるべきなんだろうな」
「かもな」
「けど、もし違ったら?」
俺は親父を見た。
彼は、いつものように茶化さなかった。真面目な顔で、広場を見ている。
「もし違ったら、俺たちは何を見に来たことになるんだ」
答えは分かっていた。
だが、口にはしなかった。
その時、聖堂の扉が開いた。
白い法衣の司祭が階段の上に立つ。手には巻物。声を張り上げる前から、民衆のざわめきが消えていく。
まるで誰かが、沈黙しろと書いたみたいに。
司祭が告げた。
「これより、ヴァルクライン公爵令嬢イリスの公開裁判を始める」
広場が沸いた。
俺は人々の声の奥で、別の音を聞いた。
紙をめくる音。
誰かが、まだ見ぬ脚本の次の頁を開いた音だった。
みなさま、初めまして!
ハリオアマツバメです。リアクションいただけると嬉しいです!!
アドバイスでもなんでも待ってます!




