↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
勇者でも魔王でもない俺は、物語に殺される君を救う  作者: ハリオアマツバメは泣いた
第一章 役なしは悪女の脚本を喰う
PR
2/24

第一章 1話 役なしのアスター

2026年5月10日 加筆修正致しました(__)


アスターには、人が「役割」や「筋書き」に押されている時、黒い文字として見える。

その文字は現実の紙や石に書かれているわけではなく、アスターの目にだけ見える。

未来予知ではない。

真実を見抜く力でもない。

ただ、「このままだとそいつが何をさせられそうか」が分かる。

文字は濃いほど強い。

触れて引き剥がすことができる。

引き剥がした文字は、放置すると戻るか散る。

だからアスターは喰う。

喰うと相手は少し自由になるが、文字の衝動がアスターの中に残る。

大きすぎる文字は、簡単には喰えない。

王都リュミエールでは、誰もが自分の役割を欲しがる。


ここで言う役割とは、ただの仕事や立場のことではない。


靴屋の息子。

酒場の親父。

行商人。

兵士の妻。

貴族の娘。


そういうものは、誰にでもある。生まれた家や、食うための仕事や、誰かとの関係が勝手に名前をつけてくるからだ。


けれど、この国で「役持ち」と呼ばれるのは、もう少し違う。


王家に任じられた騎士。

教会に認められた神官。

ギルドに登録された薬師。

宮廷に仕える魔術師。

選定式を通った騎士見習い。

神託を受けた聖女候補。


そういう、誰かに認められ、記録され、儀式を経て名を与えられた者たちが、役持ちと呼ばれる。


王都に住む人間のうち、役持ちになれるのは多くても五人に一人だ。残りの大半は、ただの人間として白い街の隅に流されていく。


だから、誰もが役割を欲しがる。


役持ちになれば、仕事がある。

信用がある。

親が喜ぶ。

通りの大人が名前を覚える。


昨日まで同じ道を歩いていた少年が、今日から少しだけ高い場所に立つ。


役割は、たいてい祝福として始まる。


けれど俺には、時々、その祝福の裏側が見える。


人が役割へ押し込まれそうになっている時。


感情や噂や誰かの言葉が、その人間を一つの行動へ追い立てている時。


俺の目には、その人間の影や足元に、黒い文字が絡みついて見える。


それは紙に書かれた文字ではない。石畳に刻まれているわけでもない。魔術師が空中に浮かべる光の文字とも違う。


俺の目には、そう見える。


それだけだ。


刺せ。

裏切れ。

泣け。

許せ。

裁け。

死ね。


黒い文字は、いつも命令の形をしている。


未来が分かるわけじゃない。

誰が善人で、誰が悪人かを見抜けるわけでもない。


ただ、その人間が何に押されているのかだけが見える。


刺す方へ。

裏切る方へ。

泣く方へ。

許す方へ。

裁く方へ。

死ぬ方へ。


役割そのものではない。


その役割へ人を運ぼうとする、嫌な筋道だ。


俺はそれを、脚本の断片と呼んでいる。


そして俺は、それが嫌いだった。


「アスター。お前、また妙な仕事を受けたのか」


古びた酒場の親父が、欠けた木杯を布で磨きながら言った。


昼前の酒場は、まだ客が少ない。窓から入る光は薄く、床板には酒と雨水の染みが残っている。カウンターの奥では、豆のスープが弱い火にかけられていた。焦げた豆と薄い塩の匂いがする。


俺はカウンターの端に座り、冷めたスープを木匙でかき混ぜていた。


肉は入っていない。塩も薄い。底には焦げた豆が沈んでいる。


だが、文句を言えるほど俺の財布は重くなかった。


「妙な仕事じゃない」


「じゃあ何だ」


「子どもの喧嘩の仲裁」


「それを普通、妙な仕事って言うんだよ」


親父は鼻で笑った。


俺に決まった職はない。


騎士団に入れるほど腕が立つわけでもない。商人ギルドに出せる保証人もいない。教会の仕事など、こちらから願い下げだ。だから俺は、王都の下町で雑用みたいな仕事を拾って食っている。


失せ物探し。

家出人探し。

酔っ払いの後始末。

借金取りとの口利き。

夜道の付き添い。

子どもの喧嘩の仲裁。


どれも、勇者や騎士がやるような仕事じゃない。


けれど、放っておくと誰かの人生が少しだけ歪むことがある。そういう仕事は、だいたいこの酒場に流れ着く。


親父は俺を便利屋だと思っている。町の連中も似たようなものだろう。


黒い文字のことを、正確に知っている人間はいない。


「あの靴屋の女房からか」


親父が言った。


「よく分かったな」


「お前を探しに来たのが、今朝の早いうちだった。顔色が悪かったからな」


「なら直接言えよ」


「俺が言ったら、お前は逃げるだろ」


「正しい判断だ」


「だからスープを出した」


俺は皿を見た。


「まずい餌だな」


「釣れてるじゃねえか」


親父は平然と言った。


言い返す気も失せて、俺は木匙を置いた。


酒場の壁には、聖譚教会の安い版画が飾られている。光の剣を掲げる勇者。祈る聖女。倒れる魔王。泣きながら許しを乞う悪人。絵は粗いが、何を描きたいのかはひと目で分かる。


誰が正しくて、誰が悪いのか。

誰が救い、誰が救われるのか。

誰が倒されれば、物語が終わるのか。


この国の人間は、ああいう分かりやすい絵が好きだ。


「で、その子どもは何をしたんだ」


親父が聞いた。


「まだ何も」


「まだ?」


「ああ」


俺は外套を羽織った。


「たぶん今夜、親友を刺す」


親父の手が止まった。


磨いていた木杯から、布がずり落ちる。


「なんで分かる」


「見えた」


「また、それか」


俺は答えなかった。


見える、と言っても便利なものじゃない。未来が紙に書かれて見えるわけでも、神の声が聞こえるわけでもない。


黒い文字は、本人の感情に絡みつく。


嫉妬。

怒り。

寂しさ。

惨めさ。

誰にも言えない小さな痛み。


そういうものを餌にして、少しずつ濃くなる。濃くなればなるほど、その人間は文字の方へ歩きやすくなる。


それだけだ。


止められることもある。

止められないこともある。


「今回は濃いのか」


親父が言った。


俺は少しだけ意外に思った。親父は普段、俺の話を半分くらいしか信じない。けれど、完全には笑い飛ばさない。


たぶん、何度か俺が失敗したところを見ているからだ。


「昨日の時点で、もう刃物の匂いがした」


「子どもの喧嘩じゃねえだろ」


「だから行く」


「お前、そういうのやめる気はないのか」


「ある」


俺は酒場の扉に手をかけた。


「やめられたら楽だろうな」


親父は何も言わなかった。


酒場を出ると、王都の空は鉛色に曇っていた。


リュミエールは白い街だ。白い石畳。白い壁。白い尖塔。白い教会。聖譚教会の連中は、この街を「神の脚本が最も美しく読まれる場所」と呼ぶ。


俺には、汚れが目立つ街に見える。


雨の後の泥。馬車の轍。壁際に残った吐瀉物の跡。下水の臭い。


少し近づけば、白いものほどよく汚れている。


通りには、明日の聖譚祭に向けた飾りが吊られていた。赤い布には勇者の剣。青い布には聖女の杯。黒い布には魔王の角。金の布には王冠。


子どもたちは木剣を振り回して、勇者ごっこをしていた。


「俺が勇者だ!」


「じゃあ僕は騎士!」


「お前は魔王な!」


「嫌だよ。魔王は最後に死ぬじゃん」


「じゃあ裏切り者!」


「それも嫌だ!」


子どもの声が路地に跳ねる。


大人たちはそれを見て笑っている。何がおかしいのか、俺にはよく分からない。


この国では、子どもですら知っている。


勇者は勝つ。

聖女は祈る。

魔王は滅びる。

悪人は裁かれる。

裏切り者は、最後に誰からも許されず死ぬ。


ただの遊びなら、それでいい。


だが時々、遊びでは済まなくなる。


誰かが「お前は裏切り者だ」と言う。周囲もそう扱う。本人まで、その言葉から逃げられなくなる。そして事件が起きる。


その瞬間、ただの言葉は役割に変わる。


儀式でも、裁判でも、任命でも、処刑でもいい。


何かが人前で行われ、誰かが名を与え、誰かが記録する。


そうして役割は定着する。


「アスターさん」


細い声がした。


振り返ると、靴屋の女主人が店の前に立っていた。名はマルタ。四十過ぎの女で、手には古い革の染みが染みついている。目元には寝不足の影があった。


店の奥には、修理中の靴がいくつも並んでいる。小さな子ども用の靴。兵士の硬い革靴。貴族が履くような細い靴。どれも持ち主の歩き方に合わせて、少しずつ歪んでいた。


「ルカは?」


俺が聞くと、マルタは唇を噛んだ。


「朝から帰ってきません」


「ニコは?」


「騎士見習いの選定祝いで、南門の方に。町の人たちが集まっていると聞きました」


「なら、そっちだな」


「本当に、あの子がそんなことを?」


マルタの声は震えていた。


ルカは彼女の息子だ。靴屋の跡取り。気が弱く、手先が器用で、喧嘩なんてできるような子どもではない。


少なくとも、昨日までは。


「分からない」


俺は正直に答えた。


「ただ、昨日見た。ルカの足元に、黒い文字が絡んでいた」


「文字……」


「信じなくていい」


「信じます」


即答だった。


マルタは店の奥から小さな革袋を持ってきた。中には銅貨が何枚か入っている。靴屋の一日分にもならない額だろう。それでも彼女にとっては軽い金ではないはずだ。


「少なくてごめんなさい」


「成功報酬にしろ」


「でも」


「止められなかったら、受け取る理由がない」


俺は革袋を押し返し、南門へ歩き出した。


背中に、マルタの祈る声が聞こえた。


「聖女様、どうか」


俺は振り返らなかった。


聖女に祈って子どもが救われるなら、俺の仕事はとっくに消えている。


南門に近づくほど、街は明るくなった。


騎士見習いの選定式が終わったばかりらしい。門の近くには、家族連れや若い兵士たちが集まっていた。屋台も出ている。焼いた腸詰めの匂い。蜂蜜菓子の甘い匂い。安酒の匂い。湿った石畳から立つ水の匂い。


祭り前の熱が、通りの端まで広がっていた。


その中心で、少年が花輪をかけられていた。


ニコ。


靴屋のルカの幼なじみだ。


栗色の髪に、日に焼けた肌。体つきは同年代の子どもより一回り大きい。まだ正式な騎士ではない。だが、肩にかけた短い外套には、見習い用の小さな紋章が縫いつけられていた。


周りの大人たちは口々に祝福する。


「おめでとう、ニコ!」


「ついに役持ちだな!」


「お母さんも喜んでるだろう」


「勇者様の従者になれるかもしれないぞ!」


ニコは照れくさそうに笑っていた。


その笑顔に、嘘はなかった。


だからこそ、面倒だった。


ニコの足元には、黒い文字は見えない。騎士見習いという役割を得たばかりの少年。祝われ、戸惑い、少し誇らしくなっているだけだ。


役割そのものが悪いわけじゃない。


俺が嫌いなのは、その役割の横で、別の誰かが押し潰されることだ。


俺は周囲を見渡した。


ルカの姿はない。


いや。


いた。


南門の脇。荷車の影。人混みから少し離れた場所に、灰色の髪の少年が立っている。


ルカだ。


彼はニコを見ていた。その右手は、上着の中に入っている。顔は青白く、唇だけがかすかに動いていた。何かを呟いているのかもしれない。


そして俺には、彼の足元に黒い文字が見えた。


裏切れ。

親友を刺せ。

選ばれた者を落とせ。


そうすれば、お前の痛みは物語になる。


俺は舌打ちした。


「やっぱり、ろくでもない」


人混みを抜け、ルカの方へ向かう。


途中、聖譚教会の巡礼司祭とすれ違った。白い法衣。銀の鎖。胸元には、二十二の小さな紋章をつないだ輪飾り。司祭は広場の子どもたちに向かって、穏やかな声で説いていた。


「役割とは、神が人に与えた灯です。勇者は勇者として、聖女は聖女として、商人は商人として、母は母として、子は子として。己の役割を果たす時、人は最も美しく輝くのです」


子どもたちは真面目な顔で頷いている。


俺はその横を通り過ぎた。


灯。


便利な言葉だ。


鎖と言うより、ずっと聞こえがいい。


ルカが動いた。


ニコの祝福の輪が解ける。ニコは花輪を外し、屋台の裏手へ歩いていく。おそらく母親に見せに行くのだろう。ルカはその後を追った。


俺も追う。


屋台の裏は、人通りが少ない。積まれた木箱。空樽。捨てられた藁。表の喧騒が、布一枚隔てた向こうのように遠くなる。腸詰めの脂が焼ける匂いだけが、妙にはっきり残っていた。


「ルカ?」


ニコが振り返った。


「来てたのか。なんだよ、声かけろよ」


ルカは答えない。


ニコは困ったように笑った。


「母さんがさ、お前にも見せてこいって。ほら、これ。騎士見習いの外套。まだ正式なやつじゃないけど」


ルカの右手が震えた。


俺には、黒い文字が彼の腕に絡みついていくように見えた。現実の紐ではない。袖が動いたわけでも、誰かが腕を掴んだわけでもない。


けれど俺の目には、はっきり見えた。


刺せ。


今だ。


笑っているうちに。


奪え。


そうすれば、役なしではなくなる。


俺は足を止めた。


まだ間に合う。


だが、早すぎても駄目だ。


ルカはニコが羨ましいのだろう。置いていかれた気がして、寂しくて、惨めで、腹が立っている。それ自体はルカのものだ。俺が喰って消せるものじゃない。消していいものでもない。


俺に見えているのは、その感情の上に絡みついた別のものだ。


「だから刺せ」と決めつける筋道。


その脚本の断片だけを剥がさなければならない。


ルカの口が開いた。


「よかったな」


「ああ。まだ信じられないけど」


「お前は、昔からすごかったもんな」


「そんなことないって」


「あるよ」


ルカは笑った。


ひどく下手な笑い方だった。


「ニコはいつも選ばれる。足も速いし、剣も上手いし、大人にも好かれる。俺は靴を直すくらいしかできない」


「ルカ」


「でもさ」


ルカの手が、上着の中から出てきた。


小さな革切り包丁。


靴屋の道具だ。人を殺すためのものではない。けれど、腹や喉に刺されば、子ども一人くらい簡単に死ぬ。


ニコの顔から血の気が引いた。


「ルカ、お前」


「俺だって」


黒い文字が濃くなった。


俺の目には、ルカの足元から伸びる文字が、彼の腕を通って包丁の刃先まで這い上がっているように見えた。


現実には、ただ少年が包丁を握っているだけだ。


だが俺には、その刃を持ち上げているのがルカだけではないように見えた。


俺だって、物語に残りたい。


ルカの口から漏れた声は、ルカ本人のものに聞こえなかった。


俺は走った。


「そこまでだ」


ルカの手首を掴む。


包丁の切っ先が、ニコの腹の手前で止まった。


ルカがこちらを見る。その目は泣いていた。怒っているのに、泣いている。憎んでいるのに、助けを求めている。子どもの顔だった。


「離せよ」


「嫌だね」


「俺は、俺はただ」


「分かってる」


「分かってない!」


ルカが叫ぶ。


「お前に何が分かるんだよ! 俺は何にも選ばれなかった! ニコは騎士だ! 俺は靴屋だ! みんな言うんだ、ルカは優しいからいい靴屋になるって! でも、それって結局、俺はどこにも行けないってことだろ!」


ニコが息を呑む。


ルカの腕に絡む黒い文字が、さらに濃くなる。


裏切れ。

刺せ。

親友を失えば、お前は悲劇になれる。

悲劇になれば、誰かが覚えてくれる。


「そういう手口か」


俺は呟いた。


ルカが俺を睨む。


「なんだよ」


「お前に言ったんじゃない」


俺は、彼の足元を見た。


黒い文字は、ルカの中から生まれたものだけではない。周りの声が混じっている。役持ちを祝う大人たち。選ばれたニコを見る視線。選ばれなかったルカに向けられた、悪気のない慰め。


お前は優しいから。

お前には靴屋が向いている。

ニコはすごいな。

ルカも頑張れ。


一つ一つは小さな言葉だ。


だが積もれば、人を刺す理由になる。


「ニコ」


俺はルカの腕を掴んだまま言った。


「下がれ」


「でも、ルカが」


「下がれ。友達を信じるのと、刃物の前に立つのは別だ」


ニコは唇を噛み、数歩下がった。


ルカの体が震える。


「嫌だ」


彼は小さく言った。


「俺、こんなことしたくない」


「知ってる」


「でも、手が動く」


「ああ」


「頭の中で、誰かが言うんだ。刺せって。裏切れって。そうすれば俺の名前が残るって」


ルカは泣いていた。


「俺、ニコを嫌いになりたくない」


その言葉で十分だった。


俺は包丁を握るルカの手を押さえ、もう片方の手を彼の影へ伸ばした。


現実には、ただ石畳に落ちた少年の影だ。


だが俺の目には、その影に黒い文字が絡みついている。俺が指を伸ばすと、文字は逃げるように震えた。触れた瞬間、冷たさが指先に走る。


水ではない。

金属でもない。

生き物の皮膚でもない。


それでも、重さがある。


黒い文字を掴み、無理やり引き剥がす。


ルカが悲鳴を上げた。

ニコが叫ぶ。

屋台の向こうで誰かがこちらに気づく。


黒い文字は、俺の手の中で蛇のようにのたうった。


これも現実の蛇じゃない。


俺の手にだけ重さがあり、俺の指にだけ噛みついてくるものだ。誰かが横から見れば、俺が空っぽの手を握りしめているように見えるだろう。


逃がせば、またルカに戻る。

斬れば、細かく散る。

散れば、別の誰かに絡むかもしれない。


だから、喰うしかない。


俺はそれを口元へ運んだ。


「おい、アスター!」


誰かが俺の名を呼んだ気がした。


無視した。


黒い文字に歯を立てる。


紙を噛んだような感触がした。


次に、鉄の味。


最後に、ひどく甘い匂い。


飲み込んだ瞬間、胸の奥に嫌なものが落ちた。


親父を裏切れ。


マルタから金を奪え。


ニコのせいにしろ。


ルカを突き出せ。


そうすれば、お前は楽になる。


「っ……」


俺は膝をついた。


視界が揺れる。腹の底から、自分のものではない感情が湧いてくる。誰かを裏切りたい。自分だけ逃げたい。信じている人間の背中に刃を立てて、その顔が歪むところを見たい。


馬鹿げている。


俺には、信じている人間なんてほとんどいない。


それでも衝動は残る。


喰ったものは、消えるわけではない。


ルカから剥がれた文字は、俺の中に移っただけだ。


ルカを刺そうとした衝動は、ルカから離れた。その代わり、俺の腹の底に残った。しばらくは消えない。何日か、あるいはもっと長く、俺の中で腐った甘さを放ち続ける。


だから俺は、誰かを助けるたびに少しずつ汚れていく。


正しいことをしている気なんて、少しもしない。


「アスターさん?」


ルカの声がした。


さっきまでの濁りは消えていた。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだが、目はちゃんと本人のものに戻っている。


俺は立ち上がり、ルカの手から包丁を奪った。


「これは預かる」


ルカは頷いた。


「俺、ニコを」


「刺してない」


「でも、刺そうとした」


「ああ」


俺は包丁を外套の内側にしまった。


「だから謝れ。許されるかどうかは、あいつが決める」


黒い文字を喰ったからといって、ルカの嫉妬が消えたわけではない。


ニコが騎士見習いに選ばれた事実も、ルカが選ばれなかった事実も変わらない。置いていかれたように感じた傷も、たぶん残る。


ただ、ルカの手はもう包丁へ伸びていなかった。


それで十分だった。


今日のところは。


ルカはニコを見た。


ニコはまだ青い顔をしていた。手は震えている。けれど逃げなかった。


「ニコ」


ルカは泣きながら頭を下げた。


「ごめん。俺、お前が羨ましかった。嫌いになりたくなかったのに、なんか、ずっと、変な声がして」


ニコは何も言わなかった。


当たり前だ。


今すぐ許せるわけがない。


それでもしばらくして、ニコは震える声で言った。


「その包丁、靴屋のやつだろ」


ルカが頷く。


「お前の母さん、怒るぞ」


「うん」


「俺も怒ってる」


「うん」


「でも」


ニコは花輪を握りしめた。


「お前が俺を嫌いじゃないなら、今日はそれでいい」


ルカはまた泣いた。


俺は二人から視線を外した。


こういう場面は苦手だ。


許しだの友情だのは、俺の仕事じゃない。俺がやったのは、刺す前に止めただけだ。その後のことは、こいつらが自分でどうにかするしかない。


屋台の方から大人たちが駆け寄ってくる。


「何があった!」


「ルカ!」


マルタもいた。顔を真っ青にしている。俺は彼女に包丁を見せた。


「間に合った」


マルタは口元を押さえ、その場に崩れそうになった。


俺は彼女が何か言う前に、その横を通り過ぎた。


「アスターさん!」


呼び止められる。


振り返ると、ルカがこちらを見ていた。


「俺、どうすればいい?」


知らない。


そう答えそうになった。


だが、それはたぶん少し違う。


「明日、ニコの靴を直せ」


「え?」


「あいつ、選定式ではしゃぎすぎて、右足の底が剥がれかけてる」


ニコが自分の足元を見た。


「ほんとだ」


「お前にできることだろ」


ルカはしばらく黙って、それから小さく頷いた。


「うん」


俺は今度こそ背を向けた。


南門の喧騒が戻ってくる。屋台の匂い。祭りの歌。祝福の声。聖譚教会の司祭はまだ、子どもたちに役割の尊さを説いていた。


俺は口の中に残った甘い鉄の味を吐き捨てる。


人を裏切りたい衝動は、まだ胸の奥にこびりついていた。


それでも、ルカはニコを刺さなかった。


今日は、それでいい。


酒場に戻る頃には、日が沈みかけていた。


親父はカウンターの内側で、夕食の準備をしていた。今度は豆のスープに薄い肉が一切れ浮いている。窓の外では、聖譚祭の前夜を祝う鐘が鳴っていた。


「生きてるか」


親父が聞いた。


「誰が」


「子ども」


「二人とも」


「なら上出来だ」


親父は皿を一つ、俺の前に置いた。


「マルタから預かった。成功報酬だとよ」


皿の横には、革袋が置かれている。


俺はそれを見て、少しだけ迷った。


持って逃げろ。


胸の奥で、声が囁く。


礼なんて言うな。

相手が忘れているうちに、もっと取れ。


さっき喰ったものの残りだ。


俺は革袋から銅貨を二枚だけ抜き、残りを親父に押し返した。


「多い」


「お前が言うと気味が悪いな」


「気が変わる前にしまえ」


親父は俺の顔を見て、何か言いたげにしたが、結局黙って袋をしまった。


酒場の中は、いつもより騒がしかった。


祭りの前夜だからではない。


客たちが、同じ話をしていた。


「聞いたか。ヴァルクラインの悪女が、また聖女様に毒を盛ったらしい」


「王子殿下も、ついにお怒りだそうだ」


「婚約破棄だけじゃ済まないだろうな」


「悪女は裁かれるべきだ」


匙を持つ手が止まった。


別の席でも、同じ声がした。


「聖女様がお可哀想に」


「あの女は前からおかしかった」


「王子殿下は正しい」


「悪女は裁かれるべきだ」


奥の席でも。


「証拠もあるらしいぞ」


「公爵家だからって許されるものか」


「神の名のもとに裁かれるべきだ」


「悪女は裁かれるべきだ」


俺はゆっくりと顔を上げた。


酒場にいる人間たちは、別々の顔をしている。職人。商人。旅人。兵士崩れ。娼婦。荷運び。


なのに、一瞬だけ、全員が同じ言葉へ向かっているように見えた。


悪女は裁かれるべきだ。


それはまだ黒い文字ではない。


少なくとも、俺が掴めるほど濃くはない。


けれど、言葉は酒場の床を這っていた。客たちの靴の下をすり抜け、テーブルの脚に絡み、誰かの笑い声に混じって、少しずつ濃くなっていく。


俺は皿の中のスープを見下ろした。


肉が一切れ、冷めた汁の上に浮いている。


「親父」


「なんだ」


「ヴァルクラインの令嬢って、どんな女だ」


親父は肩をすくめた。


「さあな。貴族の娘なんざ、俺たちに分かるかよ。ただ、噂じゃ相当な悪女らしい」


「誰が言ってた」


「みんなだ」


「みんな、か」


嫌な言葉だ。


誰が最初に言ったのか分からない言葉ほど、よく人を殺す。


酒場の扉が開いた。


冷たい風と一緒に、教会の鐘の音が入ってくる。


一度。


二度。


三度。


聖譚教会の告知鐘だ。


通りの向こうで、誰かが叫んだ。


「王子殿下が、ヴァルクライン公爵令嬢の公開裁判をお開きになるぞ!」


酒場の客たちが一斉に立ち上がる。


俺だけが座ったままだった。


胸の奥で、さっき喰った裏切りの残りがまだ疼いている。


それとは別の、もっと大きく、もっと面倒な気配が、王都の中心からゆっくり広がっていた。


子どもの影に絡む小さな文字とは違う。


まだ形は薄い。


けれど、酒場にいる全員の声が、少しずつ同じ方へ揃っていく。


悪女は裁かれるべきだ。


俺は冷めたスープを一口飲んだ。


やっぱり、塩が薄い。


「面倒なことになりそうだな」


誰に言うでもなく呟く。


壁の版画の中で、勇者が魔王を刺していた。聖女は祈り、民は笑い、悪人は地面に伏している。


正しい物語。


分かりやすい結末。


誰もが安心して眺められる絵。


俺はそれを見て、少しだけ吐き気がした。


その夜、王都リュミエールのあちこちで、同じ言葉が囁かれた。


悪女は裁かれるべきだ。


そして俺には、その言葉が、まだ見ぬ処刑台へ向かって歩き始めているように見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。