第一章 1話 役なしのアスター
2026年5月10日 加筆修正致しました(__)
アスターには、人が「役割」や「筋書き」に押されている時、黒い文字として見える。
その文字は現実の紙や石に書かれているわけではなく、アスターの目にだけ見える。
未来予知ではない。
真実を見抜く力でもない。
ただ、「このままだとそいつが何をさせられそうか」が分かる。
文字は濃いほど強い。
触れて引き剥がすことができる。
引き剥がした文字は、放置すると戻るか散る。
だからアスターは喰う。
喰うと相手は少し自由になるが、文字の衝動がアスターの中に残る。
大きすぎる文字は、簡単には喰えない。
王都リュミエールでは、誰もが自分の役割を欲しがる。
ここで言う役割とは、ただの仕事や立場のことではない。
靴屋の息子。
酒場の親父。
行商人。
兵士の妻。
貴族の娘。
そういうものは、誰にでもある。生まれた家や、食うための仕事や、誰かとの関係が勝手に名前をつけてくるからだ。
けれど、この国で「役持ち」と呼ばれるのは、もう少し違う。
王家に任じられた騎士。
教会に認められた神官。
ギルドに登録された薬師。
宮廷に仕える魔術師。
選定式を通った騎士見習い。
神託を受けた聖女候補。
そういう、誰かに認められ、記録され、儀式を経て名を与えられた者たちが、役持ちと呼ばれる。
王都に住む人間のうち、役持ちになれるのは多くても五人に一人だ。残りの大半は、ただの人間として白い街の隅に流されていく。
だから、誰もが役割を欲しがる。
役持ちになれば、仕事がある。
信用がある。
親が喜ぶ。
通りの大人が名前を覚える。
昨日まで同じ道を歩いていた少年が、今日から少しだけ高い場所に立つ。
役割は、たいてい祝福として始まる。
けれど俺には、時々、その祝福の裏側が見える。
人が役割へ押し込まれそうになっている時。
感情や噂や誰かの言葉が、その人間を一つの行動へ追い立てている時。
俺の目には、その人間の影や足元に、黒い文字が絡みついて見える。
それは紙に書かれた文字ではない。石畳に刻まれているわけでもない。魔術師が空中に浮かべる光の文字とも違う。
俺の目には、そう見える。
それだけだ。
刺せ。
裏切れ。
泣け。
許せ。
裁け。
死ね。
黒い文字は、いつも命令の形をしている。
未来が分かるわけじゃない。
誰が善人で、誰が悪人かを見抜けるわけでもない。
ただ、その人間が何に押されているのかだけが見える。
刺す方へ。
裏切る方へ。
泣く方へ。
許す方へ。
裁く方へ。
死ぬ方へ。
役割そのものではない。
その役割へ人を運ぼうとする、嫌な筋道だ。
俺はそれを、脚本の断片と呼んでいる。
そして俺は、それが嫌いだった。
「アスター。お前、また妙な仕事を受けたのか」
古びた酒場の親父が、欠けた木杯を布で磨きながら言った。
昼前の酒場は、まだ客が少ない。窓から入る光は薄く、床板には酒と雨水の染みが残っている。カウンターの奥では、豆のスープが弱い火にかけられていた。焦げた豆と薄い塩の匂いがする。
俺はカウンターの端に座り、冷めたスープを木匙でかき混ぜていた。
肉は入っていない。塩も薄い。底には焦げた豆が沈んでいる。
だが、文句を言えるほど俺の財布は重くなかった。
「妙な仕事じゃない」
「じゃあ何だ」
「子どもの喧嘩の仲裁」
「それを普通、妙な仕事って言うんだよ」
親父は鼻で笑った。
俺に決まった職はない。
騎士団に入れるほど腕が立つわけでもない。商人ギルドに出せる保証人もいない。教会の仕事など、こちらから願い下げだ。だから俺は、王都の下町で雑用みたいな仕事を拾って食っている。
失せ物探し。
家出人探し。
酔っ払いの後始末。
借金取りとの口利き。
夜道の付き添い。
子どもの喧嘩の仲裁。
どれも、勇者や騎士がやるような仕事じゃない。
けれど、放っておくと誰かの人生が少しだけ歪むことがある。そういう仕事は、だいたいこの酒場に流れ着く。
親父は俺を便利屋だと思っている。町の連中も似たようなものだろう。
黒い文字のことを、正確に知っている人間はいない。
「あの靴屋の女房からか」
親父が言った。
「よく分かったな」
「お前を探しに来たのが、今朝の早いうちだった。顔色が悪かったからな」
「なら直接言えよ」
「俺が言ったら、お前は逃げるだろ」
「正しい判断だ」
「だからスープを出した」
俺は皿を見た。
「まずい餌だな」
「釣れてるじゃねえか」
親父は平然と言った。
言い返す気も失せて、俺は木匙を置いた。
酒場の壁には、聖譚教会の安い版画が飾られている。光の剣を掲げる勇者。祈る聖女。倒れる魔王。泣きながら許しを乞う悪人。絵は粗いが、何を描きたいのかはひと目で分かる。
誰が正しくて、誰が悪いのか。
誰が救い、誰が救われるのか。
誰が倒されれば、物語が終わるのか。
この国の人間は、ああいう分かりやすい絵が好きだ。
「で、その子どもは何をしたんだ」
親父が聞いた。
「まだ何も」
「まだ?」
「ああ」
俺は外套を羽織った。
「たぶん今夜、親友を刺す」
親父の手が止まった。
磨いていた木杯から、布がずり落ちる。
「なんで分かる」
「見えた」
「また、それか」
俺は答えなかった。
見える、と言っても便利なものじゃない。未来が紙に書かれて見えるわけでも、神の声が聞こえるわけでもない。
黒い文字は、本人の感情に絡みつく。
嫉妬。
怒り。
寂しさ。
惨めさ。
誰にも言えない小さな痛み。
そういうものを餌にして、少しずつ濃くなる。濃くなればなるほど、その人間は文字の方へ歩きやすくなる。
それだけだ。
止められることもある。
止められないこともある。
「今回は濃いのか」
親父が言った。
俺は少しだけ意外に思った。親父は普段、俺の話を半分くらいしか信じない。けれど、完全には笑い飛ばさない。
たぶん、何度か俺が失敗したところを見ているからだ。
「昨日の時点で、もう刃物の匂いがした」
「子どもの喧嘩じゃねえだろ」
「だから行く」
「お前、そういうのやめる気はないのか」
「ある」
俺は酒場の扉に手をかけた。
「やめられたら楽だろうな」
親父は何も言わなかった。
酒場を出ると、王都の空は鉛色に曇っていた。
リュミエールは白い街だ。白い石畳。白い壁。白い尖塔。白い教会。聖譚教会の連中は、この街を「神の脚本が最も美しく読まれる場所」と呼ぶ。
俺には、汚れが目立つ街に見える。
雨の後の泥。馬車の轍。壁際に残った吐瀉物の跡。下水の臭い。
少し近づけば、白いものほどよく汚れている。
通りには、明日の聖譚祭に向けた飾りが吊られていた。赤い布には勇者の剣。青い布には聖女の杯。黒い布には魔王の角。金の布には王冠。
子どもたちは木剣を振り回して、勇者ごっこをしていた。
「俺が勇者だ!」
「じゃあ僕は騎士!」
「お前は魔王な!」
「嫌だよ。魔王は最後に死ぬじゃん」
「じゃあ裏切り者!」
「それも嫌だ!」
子どもの声が路地に跳ねる。
大人たちはそれを見て笑っている。何がおかしいのか、俺にはよく分からない。
この国では、子どもですら知っている。
勇者は勝つ。
聖女は祈る。
魔王は滅びる。
悪人は裁かれる。
裏切り者は、最後に誰からも許されず死ぬ。
ただの遊びなら、それでいい。
だが時々、遊びでは済まなくなる。
誰かが「お前は裏切り者だ」と言う。周囲もそう扱う。本人まで、その言葉から逃げられなくなる。そして事件が起きる。
その瞬間、ただの言葉は役割に変わる。
儀式でも、裁判でも、任命でも、処刑でもいい。
何かが人前で行われ、誰かが名を与え、誰かが記録する。
そうして役割は定着する。
「アスターさん」
細い声がした。
振り返ると、靴屋の女主人が店の前に立っていた。名はマルタ。四十過ぎの女で、手には古い革の染みが染みついている。目元には寝不足の影があった。
店の奥には、修理中の靴がいくつも並んでいる。小さな子ども用の靴。兵士の硬い革靴。貴族が履くような細い靴。どれも持ち主の歩き方に合わせて、少しずつ歪んでいた。
「ルカは?」
俺が聞くと、マルタは唇を噛んだ。
「朝から帰ってきません」
「ニコは?」
「騎士見習いの選定祝いで、南門の方に。町の人たちが集まっていると聞きました」
「なら、そっちだな」
「本当に、あの子がそんなことを?」
マルタの声は震えていた。
ルカは彼女の息子だ。靴屋の跡取り。気が弱く、手先が器用で、喧嘩なんてできるような子どもではない。
少なくとも、昨日までは。
「分からない」
俺は正直に答えた。
「ただ、昨日見た。ルカの足元に、黒い文字が絡んでいた」
「文字……」
「信じなくていい」
「信じます」
即答だった。
マルタは店の奥から小さな革袋を持ってきた。中には銅貨が何枚か入っている。靴屋の一日分にもならない額だろう。それでも彼女にとっては軽い金ではないはずだ。
「少なくてごめんなさい」
「成功報酬にしろ」
「でも」
「止められなかったら、受け取る理由がない」
俺は革袋を押し返し、南門へ歩き出した。
背中に、マルタの祈る声が聞こえた。
「聖女様、どうか」
俺は振り返らなかった。
聖女に祈って子どもが救われるなら、俺の仕事はとっくに消えている。
南門に近づくほど、街は明るくなった。
騎士見習いの選定式が終わったばかりらしい。門の近くには、家族連れや若い兵士たちが集まっていた。屋台も出ている。焼いた腸詰めの匂い。蜂蜜菓子の甘い匂い。安酒の匂い。湿った石畳から立つ水の匂い。
祭り前の熱が、通りの端まで広がっていた。
その中心で、少年が花輪をかけられていた。
ニコ。
靴屋のルカの幼なじみだ。
栗色の髪に、日に焼けた肌。体つきは同年代の子どもより一回り大きい。まだ正式な騎士ではない。だが、肩にかけた短い外套には、見習い用の小さな紋章が縫いつけられていた。
周りの大人たちは口々に祝福する。
「おめでとう、ニコ!」
「ついに役持ちだな!」
「お母さんも喜んでるだろう」
「勇者様の従者になれるかもしれないぞ!」
ニコは照れくさそうに笑っていた。
その笑顔に、嘘はなかった。
だからこそ、面倒だった。
ニコの足元には、黒い文字は見えない。騎士見習いという役割を得たばかりの少年。祝われ、戸惑い、少し誇らしくなっているだけだ。
役割そのものが悪いわけじゃない。
俺が嫌いなのは、その役割の横で、別の誰かが押し潰されることだ。
俺は周囲を見渡した。
ルカの姿はない。
いや。
いた。
南門の脇。荷車の影。人混みから少し離れた場所に、灰色の髪の少年が立っている。
ルカだ。
彼はニコを見ていた。その右手は、上着の中に入っている。顔は青白く、唇だけがかすかに動いていた。何かを呟いているのかもしれない。
そして俺には、彼の足元に黒い文字が見えた。
裏切れ。
親友を刺せ。
選ばれた者を落とせ。
そうすれば、お前の痛みは物語になる。
俺は舌打ちした。
「やっぱり、ろくでもない」
人混みを抜け、ルカの方へ向かう。
途中、聖譚教会の巡礼司祭とすれ違った。白い法衣。銀の鎖。胸元には、二十二の小さな紋章をつないだ輪飾り。司祭は広場の子どもたちに向かって、穏やかな声で説いていた。
「役割とは、神が人に与えた灯です。勇者は勇者として、聖女は聖女として、商人は商人として、母は母として、子は子として。己の役割を果たす時、人は最も美しく輝くのです」
子どもたちは真面目な顔で頷いている。
俺はその横を通り過ぎた。
灯。
便利な言葉だ。
鎖と言うより、ずっと聞こえがいい。
ルカが動いた。
ニコの祝福の輪が解ける。ニコは花輪を外し、屋台の裏手へ歩いていく。おそらく母親に見せに行くのだろう。ルカはその後を追った。
俺も追う。
屋台の裏は、人通りが少ない。積まれた木箱。空樽。捨てられた藁。表の喧騒が、布一枚隔てた向こうのように遠くなる。腸詰めの脂が焼ける匂いだけが、妙にはっきり残っていた。
「ルカ?」
ニコが振り返った。
「来てたのか。なんだよ、声かけろよ」
ルカは答えない。
ニコは困ったように笑った。
「母さんがさ、お前にも見せてこいって。ほら、これ。騎士見習いの外套。まだ正式なやつじゃないけど」
ルカの右手が震えた。
俺には、黒い文字が彼の腕に絡みついていくように見えた。現実の紐ではない。袖が動いたわけでも、誰かが腕を掴んだわけでもない。
けれど俺の目には、はっきり見えた。
刺せ。
今だ。
笑っているうちに。
奪え。
そうすれば、役なしではなくなる。
俺は足を止めた。
まだ間に合う。
だが、早すぎても駄目だ。
ルカはニコが羨ましいのだろう。置いていかれた気がして、寂しくて、惨めで、腹が立っている。それ自体はルカのものだ。俺が喰って消せるものじゃない。消していいものでもない。
俺に見えているのは、その感情の上に絡みついた別のものだ。
「だから刺せ」と決めつける筋道。
その脚本の断片だけを剥がさなければならない。
ルカの口が開いた。
「よかったな」
「ああ。まだ信じられないけど」
「お前は、昔からすごかったもんな」
「そんなことないって」
「あるよ」
ルカは笑った。
ひどく下手な笑い方だった。
「ニコはいつも選ばれる。足も速いし、剣も上手いし、大人にも好かれる。俺は靴を直すくらいしかできない」
「ルカ」
「でもさ」
ルカの手が、上着の中から出てきた。
小さな革切り包丁。
靴屋の道具だ。人を殺すためのものではない。けれど、腹や喉に刺されば、子ども一人くらい簡単に死ぬ。
ニコの顔から血の気が引いた。
「ルカ、お前」
「俺だって」
黒い文字が濃くなった。
俺の目には、ルカの足元から伸びる文字が、彼の腕を通って包丁の刃先まで這い上がっているように見えた。
現実には、ただ少年が包丁を握っているだけだ。
だが俺には、その刃を持ち上げているのがルカだけではないように見えた。
俺だって、物語に残りたい。
ルカの口から漏れた声は、ルカ本人のものに聞こえなかった。
俺は走った。
「そこまでだ」
ルカの手首を掴む。
包丁の切っ先が、ニコの腹の手前で止まった。
ルカがこちらを見る。その目は泣いていた。怒っているのに、泣いている。憎んでいるのに、助けを求めている。子どもの顔だった。
「離せよ」
「嫌だね」
「俺は、俺はただ」
「分かってる」
「分かってない!」
ルカが叫ぶ。
「お前に何が分かるんだよ! 俺は何にも選ばれなかった! ニコは騎士だ! 俺は靴屋だ! みんな言うんだ、ルカは優しいからいい靴屋になるって! でも、それって結局、俺はどこにも行けないってことだろ!」
ニコが息を呑む。
ルカの腕に絡む黒い文字が、さらに濃くなる。
裏切れ。
刺せ。
親友を失えば、お前は悲劇になれる。
悲劇になれば、誰かが覚えてくれる。
「そういう手口か」
俺は呟いた。
ルカが俺を睨む。
「なんだよ」
「お前に言ったんじゃない」
俺は、彼の足元を見た。
黒い文字は、ルカの中から生まれたものだけではない。周りの声が混じっている。役持ちを祝う大人たち。選ばれたニコを見る視線。選ばれなかったルカに向けられた、悪気のない慰め。
お前は優しいから。
お前には靴屋が向いている。
ニコはすごいな。
ルカも頑張れ。
一つ一つは小さな言葉だ。
だが積もれば、人を刺す理由になる。
「ニコ」
俺はルカの腕を掴んだまま言った。
「下がれ」
「でも、ルカが」
「下がれ。友達を信じるのと、刃物の前に立つのは別だ」
ニコは唇を噛み、数歩下がった。
ルカの体が震える。
「嫌だ」
彼は小さく言った。
「俺、こんなことしたくない」
「知ってる」
「でも、手が動く」
「ああ」
「頭の中で、誰かが言うんだ。刺せって。裏切れって。そうすれば俺の名前が残るって」
ルカは泣いていた。
「俺、ニコを嫌いになりたくない」
その言葉で十分だった。
俺は包丁を握るルカの手を押さえ、もう片方の手を彼の影へ伸ばした。
現実には、ただ石畳に落ちた少年の影だ。
だが俺の目には、その影に黒い文字が絡みついている。俺が指を伸ばすと、文字は逃げるように震えた。触れた瞬間、冷たさが指先に走る。
水ではない。
金属でもない。
生き物の皮膚でもない。
それでも、重さがある。
黒い文字を掴み、無理やり引き剥がす。
ルカが悲鳴を上げた。
ニコが叫ぶ。
屋台の向こうで誰かがこちらに気づく。
黒い文字は、俺の手の中で蛇のようにのたうった。
これも現実の蛇じゃない。
俺の手にだけ重さがあり、俺の指にだけ噛みついてくるものだ。誰かが横から見れば、俺が空っぽの手を握りしめているように見えるだろう。
逃がせば、またルカに戻る。
斬れば、細かく散る。
散れば、別の誰かに絡むかもしれない。
だから、喰うしかない。
俺はそれを口元へ運んだ。
「おい、アスター!」
誰かが俺の名を呼んだ気がした。
無視した。
黒い文字に歯を立てる。
紙を噛んだような感触がした。
次に、鉄の味。
最後に、ひどく甘い匂い。
飲み込んだ瞬間、胸の奥に嫌なものが落ちた。
親父を裏切れ。
マルタから金を奪え。
ニコのせいにしろ。
ルカを突き出せ。
そうすれば、お前は楽になる。
「っ……」
俺は膝をついた。
視界が揺れる。腹の底から、自分のものではない感情が湧いてくる。誰かを裏切りたい。自分だけ逃げたい。信じている人間の背中に刃を立てて、その顔が歪むところを見たい。
馬鹿げている。
俺には、信じている人間なんてほとんどいない。
それでも衝動は残る。
喰ったものは、消えるわけではない。
ルカから剥がれた文字は、俺の中に移っただけだ。
ルカを刺そうとした衝動は、ルカから離れた。その代わり、俺の腹の底に残った。しばらくは消えない。何日か、あるいはもっと長く、俺の中で腐った甘さを放ち続ける。
だから俺は、誰かを助けるたびに少しずつ汚れていく。
正しいことをしている気なんて、少しもしない。
「アスターさん?」
ルカの声がした。
さっきまでの濁りは消えていた。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだが、目はちゃんと本人のものに戻っている。
俺は立ち上がり、ルカの手から包丁を奪った。
「これは預かる」
ルカは頷いた。
「俺、ニコを」
「刺してない」
「でも、刺そうとした」
「ああ」
俺は包丁を外套の内側にしまった。
「だから謝れ。許されるかどうかは、あいつが決める」
黒い文字を喰ったからといって、ルカの嫉妬が消えたわけではない。
ニコが騎士見習いに選ばれた事実も、ルカが選ばれなかった事実も変わらない。置いていかれたように感じた傷も、たぶん残る。
ただ、ルカの手はもう包丁へ伸びていなかった。
それで十分だった。
今日のところは。
ルカはニコを見た。
ニコはまだ青い顔をしていた。手は震えている。けれど逃げなかった。
「ニコ」
ルカは泣きながら頭を下げた。
「ごめん。俺、お前が羨ましかった。嫌いになりたくなかったのに、なんか、ずっと、変な声がして」
ニコは何も言わなかった。
当たり前だ。
今すぐ許せるわけがない。
それでもしばらくして、ニコは震える声で言った。
「その包丁、靴屋のやつだろ」
ルカが頷く。
「お前の母さん、怒るぞ」
「うん」
「俺も怒ってる」
「うん」
「でも」
ニコは花輪を握りしめた。
「お前が俺を嫌いじゃないなら、今日はそれでいい」
ルカはまた泣いた。
俺は二人から視線を外した。
こういう場面は苦手だ。
許しだの友情だのは、俺の仕事じゃない。俺がやったのは、刺す前に止めただけだ。その後のことは、こいつらが自分でどうにかするしかない。
屋台の方から大人たちが駆け寄ってくる。
「何があった!」
「ルカ!」
マルタもいた。顔を真っ青にしている。俺は彼女に包丁を見せた。
「間に合った」
マルタは口元を押さえ、その場に崩れそうになった。
俺は彼女が何か言う前に、その横を通り過ぎた。
「アスターさん!」
呼び止められる。
振り返ると、ルカがこちらを見ていた。
「俺、どうすればいい?」
知らない。
そう答えそうになった。
だが、それはたぶん少し違う。
「明日、ニコの靴を直せ」
「え?」
「あいつ、選定式ではしゃぎすぎて、右足の底が剥がれかけてる」
ニコが自分の足元を見た。
「ほんとだ」
「お前にできることだろ」
ルカはしばらく黙って、それから小さく頷いた。
「うん」
俺は今度こそ背を向けた。
南門の喧騒が戻ってくる。屋台の匂い。祭りの歌。祝福の声。聖譚教会の司祭はまだ、子どもたちに役割の尊さを説いていた。
俺は口の中に残った甘い鉄の味を吐き捨てる。
人を裏切りたい衝動は、まだ胸の奥にこびりついていた。
それでも、ルカはニコを刺さなかった。
今日は、それでいい。
酒場に戻る頃には、日が沈みかけていた。
親父はカウンターの内側で、夕食の準備をしていた。今度は豆のスープに薄い肉が一切れ浮いている。窓の外では、聖譚祭の前夜を祝う鐘が鳴っていた。
「生きてるか」
親父が聞いた。
「誰が」
「子ども」
「二人とも」
「なら上出来だ」
親父は皿を一つ、俺の前に置いた。
「マルタから預かった。成功報酬だとよ」
皿の横には、革袋が置かれている。
俺はそれを見て、少しだけ迷った。
持って逃げろ。
胸の奥で、声が囁く。
礼なんて言うな。
相手が忘れているうちに、もっと取れ。
さっき喰ったものの残りだ。
俺は革袋から銅貨を二枚だけ抜き、残りを親父に押し返した。
「多い」
「お前が言うと気味が悪いな」
「気が変わる前にしまえ」
親父は俺の顔を見て、何か言いたげにしたが、結局黙って袋をしまった。
酒場の中は、いつもより騒がしかった。
祭りの前夜だからではない。
客たちが、同じ話をしていた。
「聞いたか。ヴァルクラインの悪女が、また聖女様に毒を盛ったらしい」
「王子殿下も、ついにお怒りだそうだ」
「婚約破棄だけじゃ済まないだろうな」
「悪女は裁かれるべきだ」
匙を持つ手が止まった。
別の席でも、同じ声がした。
「聖女様がお可哀想に」
「あの女は前からおかしかった」
「王子殿下は正しい」
「悪女は裁かれるべきだ」
奥の席でも。
「証拠もあるらしいぞ」
「公爵家だからって許されるものか」
「神の名のもとに裁かれるべきだ」
「悪女は裁かれるべきだ」
俺はゆっくりと顔を上げた。
酒場にいる人間たちは、別々の顔をしている。職人。商人。旅人。兵士崩れ。娼婦。荷運び。
なのに、一瞬だけ、全員が同じ言葉へ向かっているように見えた。
悪女は裁かれるべきだ。
それはまだ黒い文字ではない。
少なくとも、俺が掴めるほど濃くはない。
けれど、言葉は酒場の床を這っていた。客たちの靴の下をすり抜け、テーブルの脚に絡み、誰かの笑い声に混じって、少しずつ濃くなっていく。
俺は皿の中のスープを見下ろした。
肉が一切れ、冷めた汁の上に浮いている。
「親父」
「なんだ」
「ヴァルクラインの令嬢って、どんな女だ」
親父は肩をすくめた。
「さあな。貴族の娘なんざ、俺たちに分かるかよ。ただ、噂じゃ相当な悪女らしい」
「誰が言ってた」
「みんなだ」
「みんな、か」
嫌な言葉だ。
誰が最初に言ったのか分からない言葉ほど、よく人を殺す。
酒場の扉が開いた。
冷たい風と一緒に、教会の鐘の音が入ってくる。
一度。
二度。
三度。
聖譚教会の告知鐘だ。
通りの向こうで、誰かが叫んだ。
「王子殿下が、ヴァルクライン公爵令嬢の公開裁判をお開きになるぞ!」
酒場の客たちが一斉に立ち上がる。
俺だけが座ったままだった。
胸の奥で、さっき喰った裏切りの残りがまだ疼いている。
それとは別の、もっと大きく、もっと面倒な気配が、王都の中心からゆっくり広がっていた。
子どもの影に絡む小さな文字とは違う。
まだ形は薄い。
けれど、酒場にいる全員の声が、少しずつ同じ方へ揃っていく。
悪女は裁かれるべきだ。
俺は冷めたスープを一口飲んだ。
やっぱり、塩が薄い。
「面倒なことになりそうだな」
誰に言うでもなく呟く。
壁の版画の中で、勇者が魔王を刺していた。聖女は祈り、民は笑い、悪人は地面に伏している。
正しい物語。
分かりやすい結末。
誰もが安心して眺められる絵。
俺はそれを見て、少しだけ吐き気がした。
その夜、王都リュミエールのあちこちで、同じ言葉が囁かれた。
悪女は裁かれるべきだ。
そして俺には、その言葉が、まだ見ぬ処刑台へ向かって歩き始めているように見えた。




