第一章 1話 役なしのアスター
王都リュミエールでは、誰もが自分の役割を欲しがる。
勇者に選ばれた者は広場に銅像が建ち、聖女に選ばれた者は教会に名を刻まれる。騎士に選ばれた者は王の剣となり、魔術師に選ばれた者は塔の書庫へ迎えられる。商人に選ばれた者は、金貨に愛される。
では、何にも選ばれなかった者はどうなるのか。
答えは簡単だ。
誰にも覚えられない。
「アスター。お前、また妙な仕事を受けたのか」
古びた酒場の親父が、欠けた木杯を布で磨きながら言った。俺はカウンターの端に座り、冷めた豆のスープをかき混ぜていた。肉は入っていない。塩も薄い。底には焦げた豆が沈んでいる。だが、文句を言えるほど俺の財布は重くなかった。
「妙な仕事じゃない」
「じゃあ何だ」
「子どもの喧嘩の仲裁」
「それを普通、妙な仕事って言うんだよ」
親父は鼻で笑った。酒場の壁には、聖譚教会の安い版画が飾られている。光の剣を掲げる勇者。祈る聖女。倒れる魔王。泣きながら許しを乞う悪人。この国の人間は、ああいう絵が好きだ。誰が正しくて、誰が悪いのか。誰が救い、誰が救われるのか。誰が殺されれば、物語が終わるのか。ひと目で分かるからだ。
俺はスープを飲み干し、木匙を皿に置いた。
「で、その子どもは何をしたんだ」
親父が聞いた。
「まだ何も」
「まだ?」
「ああ」
俺は外套を羽織った。
「たぶん今夜、親友を刺す」
親父の手が止まった。
「なんで分かる」
「見えた」
「また、それか」
俺は答えなかった。見える、と言っても便利なものじゃない。未来が分かるわけでも、神の声が聞こえるわけでもない。ただ時々、人の影に黒い文字が絡みついているのが見える。
刺せ。
裏切れ。
泣け。
許せ。
裁け。
死ね。
誰かの声に似ている。でも、誰の声でもない。俺はそれが嫌いだった。
酒場を出ると、王都の空は鉛色に曇っていた。リュミエールは白い街だ。白い石畳。白い壁。白い尖塔。白い教会。聖譚教会の連中は、この街を「神の脚本が最も美しく読まれる場所」と呼ぶ。
俺には、ただ汚れが目立つ街に見えた。
通りには、明日の聖譚祭に向けた飾りが吊られている。赤い布には勇者の剣。青い布には聖女の杯。黒い布には魔王の角。金の布には王冠。子どもたちは木剣を振り回して、勇者ごっこをしていた。
「俺が勇者だ!」
「じゃあ僕は騎士!」
「お前は魔王な!」
「嫌だよ。魔王は最後に死ぬじゃん」
「じゃあ裏切り者!」
「それも嫌だ!」
子どもの声が路地に跳ねる。大人たちはそれを見て笑っている。何がおかしいのか、俺にはよく分からない。この国では、子どもですら知っている。勇者は勝つ。聖女は祈る。魔王は滅びる。悪人は裁かれる。裏切り者は、最後に誰からも許されず死ぬ。
役割とは、祝福の名前をした鎖だ。
「アスターさん」
細い声がした。振り返ると、靴屋の女主人が店の前に立っていた。名はマルタ。年は四十過ぎ。手はひび割れ、目元には寝不足の影がある。
「ルカは?」
俺が聞くと、彼女は唇を噛んだ。
「朝から帰ってきません」
「ニコは?」
「騎士見習いの選定祝いで、南門の方に」
「なら、そっちだな」
「本当に、あの子がそんなことを?」
マルタの声は震えていた。ルカは彼女の息子だ。靴屋の跡取り。気が弱く、手先が器用で、喧嘩なんてできるような子どもではない。少なくとも、昨日までは。
「分からない」
俺は正直に答えた。
「ただ、昨日見た。あいつの影に、嫌な文字が絡んでた」
「文字……」
「信じなくていい」
「信じます」
即答だった。マルタは店の奥から小さな革袋を持ってきた。中には銅貨が何枚か入っている。
「少なくてごめんなさい」
「成功報酬にしろ」
「でも」
「止められなかったら、受け取る理由がない」
俺は革袋を押し返し、南門へ歩き出した。背中に、マルタの祈る声が聞こえた。
「聖女様、どうか」
俺は振り返らなかった。聖女に祈って子どもが救われるなら、俺の仕事はとっくに消えている。
南門に近づくほど、街は明るくなった。騎士見習いの選定式が終わったばかりらしい。門の近くには、家族連れや若い兵士たちが集まっている。屋台も出ていた。焼いた腸詰めの匂い。蜂蜜菓子の甘い匂い。安酒の匂い。人の熱。その中心で、少年が花輪をかけられていた。
ニコ。
靴屋のルカの幼なじみだ。栗色の髪に、日に焼けた肌。体つきは同年代の子どもより一回り大きい。安物だが、騎士見習いの短い外套を肩にかけていた。周りの大人たちは口々に祝福する。
「おめでとう、ニコ!」
「ついに役持ちだな!」
「お母さんも喜んでるだろう」
「勇者様の従者になれるかもしれないぞ!」
ニコは照れくさそうに笑っていた。その笑顔に、嘘はなかった。だからこそ、面倒だった。誰かが祝福される時、その隣で祝福されなかった者が何を思うか。この街の連中は、あまり考えない。
俺は周囲を見渡した。ルカの姿はない。
いや。
いた。
南門の脇。荷車の影。人混みから少し離れた場所に、灰色の髪の少年が立っている。ルカだ。彼はニコを見ていた。その右手は、上着の中に入っている。そして彼の足元から、黒い文字が伸びていた。
裏切れ。
親友を刺せ。
選ばれた者を落とせ。
そうすれば、お前の痛みは物語になる。
俺は舌打ちした。
「やっぱり、ろくでもない」
人混みを抜け、ルカの方へ向かう。途中、聖譚教会の巡礼司祭とすれ違った。白い法衣。銀の鎖。胸元には、二十二の小さな紋章を繋いだ輪飾り。司祭は広場の子どもたちに向かって、穏やかな声で説いていた。
「役割とは、神が人に与えた灯です。勇者は勇者として、聖女は聖女として、商人は商人として、母は母として、子は子として。己の役割を果たす時、人は最も美しく輝くのです」
子どもたちは真面目な顔で頷いている。俺はその横を通り過ぎた。役割が灯だと言うなら、役割を持たない人間は何だ。
影か。
煤か。
それとも、最初からいなかったものか。
ルカが動いた。ニコの祝福の輪が解ける。ニコは花輪を外し、屋台の裏手へ歩いていく。おそらく母親に見せに行くのだろう。ルカはその後を追った。俺も追う。
屋台の裏は、人通りが少ない。積まれた木箱。空樽。捨てられた藁。祭りの喧騒が、布一枚隔てた向こうのように遠くなる。
「ルカ?」
ニコが振り返った。
「来てたのか。なんだよ、声かけろよ」
ルカは答えない。ニコは困ったように笑った。
「母さんがさ、お前にも見せてこいって。ほら、これ。騎士見習いの外套。まだ正式なやつじゃないけど」
ルカの右手が震えた。黒い文字が、彼の腕に絡みついている。
刺せ。
今だ。
笑っているうちに。
奪え。
そうすれば、役なしではなくなる。
俺は足を止めた。まだ間に合う。だが、早すぎても駄目だ。黒い文字は、本人の感情に寄生する。嫉妬。寂しさ。怒り。惨めさ。そういうものを餌にして、勝手に物語を作る。ただ殴って止めても、終わらない。別の日に、別の形でまた出てくる。
ルカの口が開いた。
「よかったな」
「ああ。まだ信じられないけど」
「お前は、昔からすごかったもんな」
「そんなことないって」
「あるよ」
ルカは笑った。ひどく下手な笑い方だった。
「ニコはいつも選ばれる。足も速いし、剣も上手いし、大人にも好かれる。俺は靴を直すくらいしかできない」
「ルカ」
「でもさ」
ルカの手が、上着の中から出てきた。
小さな革切り包丁。
靴屋の道具だ。人を殺すためのものではない。だが、喉や腹に刺されば子ども一人くらい死ぬ。ニコの顔から血の気が引いた。
「ルカ、お前」
「俺だって」
黒い文字が膨れ上がる。その瞬間、ルカの声が二重に聞こえた。
俺だって、物語に残りたい。
ルカ本人の声ではない。誰かが、彼の口を使っている。
俺は走った。
「そこまでだ」
ルカの手首を掴む。包丁の切っ先が、ニコの腹の手前で止まった。ルカがこちらを見る。その目は泣いていた。
「離せよ」
「嫌だね」
「俺は、俺はただ」
「分かってる」
「分かってない!」
ルカが叫ぶ。
「お前に何が分かるんだよ! 俺は何にも選ばれなかった! ニコは騎士だ! 俺は靴屋だ! みんな言うんだ、ルカは優しいからいい靴屋になるって! でも、それって結局、俺はどこにも行けないってことだろ!」
ニコが息を呑む。ルカの腕に絡む文字が、さらに濃くなる。
裏切れ。
刺せ。
親友を失えば、お前は悲劇になれる。
悲劇になれば、誰かが覚えてくれる。
「そういう手口か」
俺は呟いた。
ルカが俺を睨む。
「なんだよ」
「お前に言ったんじゃない」
俺は、彼の影を見た。黒い文字は、ルカの足元からではなく、もっと下から伸びているように見えた。石畳の隙間。街の底。そこから這い上がり、ルカの寂しさに噛みついている。
今まで見たものより、少し深い。
嫌な感じがした。
「ニコ」
俺はルカの腕を掴んだまま言った。
「下がれ」
「でも、ルカが」
「下がれ。友達を信じるのと、刃物の前に立つのは別だ」
ニコは唇を噛み、数歩下がった。ルカの体が震える。
「嫌だ」
彼は小さく言った。
「俺、こんなことしたくない」
「知ってる」
「でも、手が動く」
「ああ」
「頭の中で、誰かが言うんだ。刺せって。裏切れって。そうすれば俺の名前が残るって」
ルカは泣いていた。
「俺、ニコを嫌いになりたくない」
その言葉で十分だった。
俺は包丁を握るルカの手を押さえ、もう片方の手で彼の影に触れた。冷たい。いつもそうだ。黒い文字は生き物みたいに暴れ、俺の指に噛みついてくる。
裏切れ。
奪え。
刺せ。
お前もそうしたいはずだ。
言葉が肌から入り込んでくる。耳ではなく、骨の内側で聞こえる。
俺は顔をしかめた。
「悪いな」
黒い文字を掴み、無理やり引き剥がす。ルカが悲鳴を上げた。ニコが叫ぶ。屋台の向こうで誰かがこちらに気づく。黒い文字は、俺の手の中で蛇のようにのたうった。逃がせばまたルカに戻る。斬れば散る。散れば別の誰かに絡むかもしれない。
だから、喰うしかない。
俺はそれを口元へ運んだ。
「おい、アスター!」
誰かが俺の名を呼んだ気がした。
無視した。
黒い文字に歯を立てる。紙を噛んだような感触がした。次に、鉄の味。最後に、ひどく甘い匂い。飲み込んだ瞬間、胸の奥に嫌なものが落ちた。
親父を裏切れ。
マルタから金を奪え。
ニコのせいにしろ。
ルカを突き出せ。
そうすれば、お前は楽になる。
「っ……」
俺は膝をついた。視界が揺れる。自分のものではない感情が、腹の底から湧いてくる。誰かを裏切りたい。自分だけ逃げたい。信じている人間の背中に刃を立てて、その顔が歪むところを見たい。
馬鹿げている。
俺には、信じている人間なんてほとんどいない。
それでも衝動は残る。
喰ったものは、消えるわけではない。
俺の中に移るだけだ。
「アスターさん?」
ルカの声がした。さっきまでの濁りは消えていた。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだが、目はちゃんと本人のものに戻っている。俺は立ち上がり、ルカの手から包丁を奪った。
「これは預かる」
ルカは頷いた。
「俺、ニコを」
「刺してない」
「でも、刺そうとした」
「ああ」
俺は包丁を外套の内側にしまった。
「だから謝れ。許されるかどうかは、あいつが決める」
ルカはニコを見た。ニコはまだ青い顔をしていた。けれど逃げなかった。
「ニコ」
ルカは泣きながら頭を下げた。
「ごめん。俺、お前が羨ましかった。嫌いになりたくなかったのに、なんか、ずっと、変な声がして」
ニコは何も言わなかった。当たり前だ。今すぐ許せるわけがない。それでもしばらくして、ニコは震える声で言った。
「その包丁、靴屋のやつだろ」
ルカが頷く。
「お前の母さん、怒るぞ」
「うん」
「俺も怒ってる」
「うん」
「でも」
ニコは花輪を握りしめた。
「お前が俺を嫌いじゃないなら、今日はそれでいい」
ルカはまた泣いた。
俺は二人から視線を外した。こういう場面は苦手だ。許しだの友情だのは、俺の仕事じゃない。俺がやったのは、刺す前に止めただけだ。その後のことは、こいつらが自分でどうにかするしかない。
屋台の方から大人たちが駆け寄ってくる。
「何があった!」
「ルカ!」
マルタもいた。顔を真っ青にしている。俺は彼女に包丁を見せた。
「間に合った」
マルタは口元を押さえ、その場に崩れそうになった。俺は彼女が何か言う前に、その横を通り過ぎた。
「アスターさん!」
呼び止められる。振り返ると、ルカがこちらを見ていた。
「俺、どうすればいい?」
知らない。
そう答えそうになった。
だが、それはたぶん少し違う。
「明日、ニコの靴を直せ」
「え?」
「あいつ、選定式ではしゃぎすぎて、右足の底が剥がれかけてる」
ニコが自分の足元を見た。
「ほんとだ」
「お前にできることだろ」
ルカはしばらく黙って、それから小さく頷いた。
「うん」
俺は今度こそ背を向けた。南門の喧騒が戻ってくる。屋台の匂い。祭りの歌。祝福の声。聖譚教会の司祭はまだ、子どもたちに役割の尊さを説いていた。
俺は口の中に残った甘い鉄の味を吐き捨てる。人を裏切りたい衝動は、まだ胸の奥にこびりついていた。たぶん数日は消えない。
それでも、ルカはニコを刺さなかった。
今日はそれでいい。
酒場に戻る頃には、日が沈みかけていた。親父はカウンターの内側で、夕食の準備をしていた。今度は豆のスープに薄い肉が一切れ浮いている。
「生きてるか」
親父が聞いた。
「誰が」
「子ども」
「二人とも」
「なら上出来だ」
親父は皿を一つ、俺の前に置いた。
「マルタから預かった。成功報酬だとよ」
皿の横には、革袋が置かれている。俺はそれを見て、少しだけ迷った。
持って逃げろ。
胸の奥で、声が囁く。
礼なんて言うな。
相手が忘れているうちに、もっと取れ。
さっき喰ったものの残りだ。
俺は革袋から銅貨を二枚だけ抜き、残りを親父に押し返した。
「多い」
「お前が言うと気味が悪いな」
「気が変わる前にしまえ」
親父は俺の顔を見て、何か言いたげにしたが、結局黙って袋をしまった。
酒場の中は、いつもより騒がしかった。祭りの前夜だからではない。客たちが、同じ話をしていた。
「聞いたか。ヴァルクラインの悪女が、また聖女様に毒を盛ったらしい」
「王子殿下も、ついにお怒りだそうだ」
「婚約破棄だけじゃ済まないだろうな」
「悪女は裁かれるべきだ」
匙を持つ手が止まった。
別の席でも、同じ声がした。
「聖女様がお可哀想に」
「あの女は前からおかしかった」
「王子殿下は正しい」
「悪女は裁かれるべきだ」
奥の席でも。
「証拠もあるらしいぞ」
「公爵家だからって許されるものか」
「神の名のもとに裁かれるべきだ」
「悪女は裁かれるべきだ」
俺はゆっくりと顔を上げた。酒場にいる人間たちは、別々の顔をしていた。職人。商人。旅人。兵士崩れ。娼婦。荷運び。
なのに、一瞬だけ、全員が同じ口で喋っているように見えた。
悪女は裁かれるべきだ。
その言葉が、酒場の床を這っていた。
黒い文字ではない。
まだ薄い。
煙のように淡く、指で触れれば消えそうなほど頼りない。
だが、確かにあった。
俺は皿の中のスープを見下ろした。肉が一切れ、冷めた汁の上に浮いている。
「親父」
「なんだ」
「ヴァルクラインの令嬢って、どんな女だ」
親父は肩をすくめた。
「さあな。貴族の娘なんざ、俺たちに分かるかよ。ただ、噂じゃ相当な悪女らしい」
「誰が言ってた」
「みんなだ」
「みんな、か」
嫌な言葉だ。
誰が最初に言ったのか分からない言葉ほど、よく人を殺す。
酒場の扉が開いた。冷たい風と一緒に、教会の鐘の音が入ってくる。
一度。
二度。
三度。
聖譚教会の告知鐘だ。
通りの向こうで、誰かが叫んだ。
「王子殿下が、ヴァルクライン公爵令嬢の公開裁判をお開きになるぞ!」
酒場の客たちが一斉に立ち上がる。俺だけが座ったままだった。胸の奥で、さっき喰った裏切りの残滓がまだ疼いている。それとは別の、もっと大きく、もっと古い気配が、王都の中心からゆっくり広がっていた。
子どもの影に絡む小さな文字とは違う。
街全体が、何かの台詞を覚え始めている。
俺は冷めたスープを一口飲んだ。
やっぱり、塩が薄い。
「面倒なことになりそうだな」
誰に言うでもなく呟く。
壁の版画の中で、勇者が魔王を刺していた。聖女は祈り、民は笑い、悪人は地面に伏している。
正しい物語。
分かりやすい結末。
誰もが安心して眺められる絵。
俺はそれを見て、少しだけ吐き気がした。
その夜、王都リュミエールのあちこちで、同じ言葉が囁かれた。
悪女は裁かれるべきだ。
そしてその言葉は、まだ誰も知らない処刑台へ向かって、静かに歩き始めていた。




