プロローグ 物語に殺される君へ
昔、勇者は魔王を殺した。
聖剣は黒い心臓を貫き、空を覆っていた瘴気は晴れ、世界には朝が戻った。
人々は泣いて喜び、教会は鐘を鳴らし、王は勇者に金の冠を授けた。
広場では子どもたちが歌った。
勇者は光。
聖女は祈り。
魔王は闇。
悪しき者は滅び、正しき者は報われる。
誰もがその物語を愛した。
分かりやすくて。
美しくて。
安心できるからだ。
悪がいる。
正義がいる。
救われる者がいる。
救う者がいる。
最後には剣が振り下ろされ、すべてが正しい形に収まる。
めでたし、めでたし。
そう語れば、世界は美しい。
けれど俺は知っている。
勇者は、魔王を殺すために生まれた村を焼いた。
村人たちが魔王軍に操られていたからだ。
時間をかけて探せば、救う方法は、あったのかもしれない。
けれど脚本は、勇者に立ち止まることを許さなかった。
勝て。
進め。
迷うな。
世界を救え。
そう囁かれ続けた少年は、泣きながら剣を振った。
自分を育てた老婆も。
幼なじみも。
昨日まで一緒に食卓を囲んでいた隣人も。
すべて斬った。
そして人々は言った。
さすが勇者だ、と。
聖女は、勇者を救うために自分の心を殺した。
痛いと言えば、民が不安になる。
怖いと言えば、兵が迷う。
逃げたいと言えば、世界が終わる。
だから彼女は微笑んだ。
何度傷ついても。
何度裏切られても。
何度祈りが届かなくても。
聖女は、聖女らしく微笑んだ。
最後に彼女が何を願ったのか、誰も知らない。
教会の記録には、こう残っているだけだ。
聖女は尊き犠牲となり、世界に祝福をもたらした。
魔王は、最初から世界を憎んでいたわけではなかった。
彼にも名があった。
愛した人がいた。
守りたい場所があった。
けれど世界は、彼を魔王と呼んだ。
角が生えたから。
黒い魔力を持っていたから。
古い予言に、そう書かれていたから。
人々は彼を恐れた。
石を投げた。
家を焼いた。
愛した人の名前を奪った。
そして彼が本当に世界を憎んだ時、人々は言った。
やはり魔王だったのだ、と。
悪役も同じだ。
誰かが正しくあるために、悪であることを押しつけられた者たちがいる。
王子が正義であるために、悪女にされた令嬢。
民衆が被害者であるために、罪人にされた商人。
英雄譚が美しく終わるために、裏切り者にされた友。
聖女の涙を輝かせるために、醜く描かれた誰か。
彼らの声は、物語には残らない。
残るのは、都合のいい役割だけだ。
勇者。
聖女。
魔王。
悪役。
裏切り者。
罪人。
救われるべき民。
裁かれるべき悪。
この国では、人は生まれた時から物語を与えられる。
役割を果たせば褒められる。
役割に従えば愛される。
役割のまま死ねば、美談になる。
ならば、役割から外れた人間はどうなるのか。
答えは簡単だ。
いなかったことにされる。
俺は勇者ではない。
魔王でもない。
聖女に祈られたこともない。
王に選ばれたこともない。
神に名を呼ばれたこともない。
剣を握れば半端だった。
祈りを捧げれば笑われた。
魔術を学べば落ちこぼれた。
正義を語れば嘘くさく、悪になるには優しすぎた。
何者にもなれなかった。
何の役にも選ばれなかった。
だからこそ、見えてしまった。
人が物語に殺される瞬間だけが。
それは音もなくやってくる。
誰かの影に、黒い文字が絡みつく。
誰かの口から、本人のものではない台詞がこぼれる。
誰かの足が、自分で選んだわけでもない結末へ向かって歩き出す。
刺せ。
裏切れ。
泣け。
許せ。
裁け。
捧げろ。
救え。
憎め。
死ね。
声はいつも優しい。
お前はそういう役だから。
お前がそうすれば、みんなが救われるから。
お前が悪になれば、誰かが正義でいられるから。
お前が死ねば、この物語は美しく終わるから。
ふざけるなと思った。
誰かが勝手に書いた筋書きで、人が笑い、人が泣き、人が殺される。
それを美しいと呼ぶ世界が、俺にはどうしても気持ち悪かった。
俺にできることは多くない。
黒い文字を斬る。
掴む。
噛み砕く。
飲み込む。
そうすれば、ほんの少しだけ結末がずれる。
勇者は剣を下ろせる。
聖女は泣き言を言える。
魔王は憎まないままでいられる。
悪役は、悪役ではない名前を取り戻せる。
けれど、喰った物語は消えない。
俺の中に残る。
勇者を喰えば、誰かを救わなければならない気がする。
聖女を喰えば、自分を差し出したくなる。
魔王を喰えば、世界を憎む声が胸の奥で響く。
悪役を喰えば、すべてを壊したくなる。
救えば救うほど、俺の中は俺ではないもので埋まっていく。
それでも。
それでも、だ。
君が本当に悪なら、俺は止めない。
君が自分の意志で剣を取るなら、俺は止めない。
君が選んで憎み、選んで壊し、選んで罪を背負うのなら。
その結末まで、君のものだ。
だが、
誰かが君を悪役にしているのなら、
誰かが君に泣けと命じているのなら、
誰かが君を勇者に、聖女に、魔王に、裏切り者に、罪人にして、その役割のまま殺そうとしているのなら。。。
俺は、その物語を許さない。
これは、世界を救う話ではない。
たぶん、英雄譚にもならない。
俺の名が聖典に残ることもない。
広場に銅像が建つこともない。
誰かが歌にしてくれることもない。
それでいい。
俺は勇者でも魔王でもない。
ただ、誰かが勝手に書いた結末で君が死ぬというのなら。
俺はその物語を、噛み砕いてでも止める。




