第二章 4話 北の灯り
更新遅くなりまして、、、
北門は、王都の城門ほど立派なものではなかった。
太い丸太を組んだ扉が二枚。その左右に、人の背丈を少し越える杭柵が続き、門の脇には木組みの物見台が据えられている。地上に立ったままでは、閉じた門の向こうはほとんど見えない。けれど物見台の階段を数段上がれば、杭柵の上から北の道を見渡せた。
俺は、その中ほどに立っていた。
完全に上まで登ってはいない。上にはユアンともう一人の兵がいて、古井戸の方を見張っている。俺は階段の途中、手すり代わりの横木に指をかけ、冷えた夜気の中へ目を凝らしていた。
北の道に、小さな灯りがある。
古井戸の手前。ユアンがそう言った場所で、火は一度止まり、それからまたわずかに揺れた。子どもの手に持たれているのなら、低すぎる位置だ。地面に近い火が、風に押されて左右に傾くたび、白い布らしきものがその横でかすかに浮かび上がる。
そして俺には、その布に絡みつく黒註が見えていた。
撃つな。
進め。
先に立て。
名は要らない。
黒い文字は、夜風に揺れる布と一緒に震えている。遠い。まだ喰える距離ではない。それでも、あの文字が小さな影を前へ押していることだけは分かる。
手が届かない。
それが、ひどく腹立たしかった。
下では、門のかんぬきに兵の手がかかっていた。
太い木材が少し動いただけで、夜明け前の宿場に低い音が響く。家々はまだ眠っている。戸口に吊るされた星飾りも、火の入っていない蝋燭皿も、暗がりの中で冷えきっていた。そのせいで、門の軋む音だけがやけに大きく聞こえる。
灯りを持つ相手が大人なら、門の音くらいで動じることはない。だが、ノエと同じくらいの子どもなら違う。大きな音ひとつで足がすくむ。あるいは、反射的に逃げ出す。逃げる先が正道ならまだいい。古井戸の脇には、夜目の利かない者が踏み外しそうな畑道がある。
オルドが片手を上げた。
兵たちは、それ以上かんぬきを動かさなかった。
弓を持った兵が、一歩だけ位置を変える。矢は番えない。脅すためではなく、何かあった時に動けるようにするための構えだった。革手袋が弓の握りを鳴らし、すぐに静かになる。
物見台の上で、ユアンが身を乗り出していた。
「こちらへ来ています。ただ、遅いです」
声を張れば、北の道まで届いてしまう。だから報告は自然と低くなる。下にいる兵たちは、誰も顔を上げすぎなかった。目だけで灯りの位置を探り、音を立てないように息を整えている。
オルドは門の隙間ではなく、物見台を見上げた。
「追手は」
「見えません。後ろは暗いです」
それ以上の断定はしなかった。
宿場の兵は、闇を信用しない。見えないものを、いないものとして扱わない。王都の広場なら大声で命令すれば済むことも、ここでは命取りになる。北の道は、ただの道ではない。王国、アルヴァン、グラスト。境目の線が曖昧な土地では、夜の火ひとつにも意味がある。
「半分だけ開ける」
オルドの命令は短かった。
兵が頷き、かんぬきをゆっくり外した。
木が擦れる音がする。細く開いた隙間から、外の冷気が流れ込んできた。宿場の内側には、人の息と馬の匂いと、煮炊きの残り香がまだある。けれど門の向こうは、土と霜と枯れ草の匂いしかしなかった。
俺は物見台の階段を下りた。
足元の板が小さく鳴る。その音に、門のそばにいた兵が一瞬だけこちらを見る。苛立っているわけではない。走るな、という目だった。
分かっている。
分かっているが、体は前へ出たがっていた。
イリスは門の陰に立っていた。
外套の袖口から見える指が白い。だが顔は崩していない。怖さを消した顔、というより、怖さを役に立たない場所へ押し込めた顔だった。
「リオでしょうか」
「分からない」
俺は北の灯りから目を離さずに答えた。
「ノエは、リオならもっと速いって言ってた」
「では、ミナかもしれません」
「薬草の子か」
その言葉だけなら、修道院の中で薬草を分ける子どもに聞こえる。薬棚を整え、乾いた葉を袋に入れ、怪我をした子に布を当てる。そういう、まだ屋根の下にある仕事に聞こえる。
だが、今は違った。
北門。荷車。白い布。古井戸。夜明け前の道。
それらが一つずつ並んでいくたび、胸の奥が冷えていく。
「薬草の子、ね」
俺は奥歯を噛んだ。
「つまり、怪我人が出る場所まで行けってことかよ。子どもに」
イリスは答えなかった。
答えられない沈黙ではなかった。否定できない沈黙だった。
門が開く。
外へ出た瞬間、冷えた空気が肺に刺さった。雲は薄くなり始めているが、朝にはまだ遠い。道の端には霜が残り、踏めば小さく砕ける。古井戸の方へ続く正道は、夜の底に沈んだまま、わずかな灯りだけをこちらへ近づけていた。
オルドが先頭に立った。
その後ろに、兵が二人。少し離れて俺とイリスが続く。イリスはオルドより前へ出ない。そう命じられていたからだ。だが足取りは遅れない。さっきノエの前で膝をついた時と同じように、怖さを押し込めた顔で歩いている。
怖くないわけがない。
それでも、この女は怖がっているだけでは止まらない。
黒註は、そういう人間の足にも道をつけるのだろうか。
ふと考えて、嫌になった。
前を歩くオルドが、ちらりとこちらを見た。
兵士というのは、妙なところを見る。剣を握っているかどうかではなく、足先がどちらを向いているか。視線が相手だけに張りついていないか。踏みしめる土を見ているか。たぶん、そういうところで人の焦りを測る。
俺は足元を見た。
霜の乗った土。凍った轍。古い藁。踏み固められた道の端に、小さな石が転がっている。少し先の畑道は、正道より黒い。土が崩れている場所もある。ノエが言っていた穴というのは、あの辺りかもしれない。
そういうものが見えた。
少しだけ呼吸が戻る。
「足元を見ろって顔だな」
俺が言うと、オルドは前を向いたまま短く返した。
「見えているならいい」
それ以上は言わなかった。
古井戸が近づく。
井戸はもう使われていないのか、石積みの縁がところどころ欠けていた。中から水音はしない。近づくと、湿った石と古い土の匂いが上がってきた。井戸の脇には白く塗られた古い枝が一本、地面に刺さっている。ノエが言っていた目印だろう。
そこを過ぎれば、宿場の灯りが見える。
その手前に、子どもがいた。
小さな灯りを片手に持ち、もう片方の手で白い布のついた棒を握っている。背はノエより少し低い。外套の裾は泥を吸い、片方の靴紐がほどけていた。足首のあたりに泥が固まり、歩くたびに痛むのか、重心が妙に片側へ寄っている。
子どもは、こちらを見ていなかった。
古井戸の横で、白い布を前へ出そうとしている。
地面へ刺すためではない。
自分の体より先に、布を見せるためだ。
オルドが一歩だけ前に出た。
「止まれ」
声は大きくない。けれど、命令に慣れた者の声だった。
子どもの肩が跳ねる。
それでも、足は完全には止まらない。
黒註が背中を押している。
振り向くな。
名を答えるな。
白き布を掲げよ。
荷の前に立て。
俺の指が動いた。
近い。
もう少しで届く。
だが、オルドの手が俺の胸の前に出た。
それだけで分かった。
今、俺が飛び出せば、あの子は畑道へ逃げる。黒註はそれを待っているかもしれない。俺が助けに行くつもりで、一番危ない道へ追い込むこともある。
分かっている。
分かっているのに、手が届く距離まで来た黒註を前にして、体が先に動きそうになる。
イリスが一歩だけ前へ出た。
オルドの前ではない。命じられた線は越えない。そのぎりぎりの場所で、彼女は子どもを見た。
「ミナ」
子どもの足が止まった。
はっきりと。
灯りの火が大きく揺れる。白い布の端が風に鳴り、そこに貼りついていた黒註が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
子どもは振り返らない。けれど、肩が震えている。名前を呼ばれたことに、体が反応している。
「ミナ。こちらを見てください」
イリスはもう一度呼んだ。
子どもは、ゆっくり首だけを動かした。
灯りが顔を照らす。
泥で汚れた頬。寒さで赤くなった鼻先。紫に近い唇。目の下には、涙の跡が乾いて残っている。年はノエより少し下かもしれない。髪は肩のあたりで不揃いに切られていて、風に揺れるたび、濡れた毛先が頬に貼りついた。
胸元には、小さな布片が縫いつけられていた。
名前ではない。
葉の形をした印。
薬草の子。
その印を見た瞬間、黒註が濃く浮かぶ。
薬草の子は道を知る。
道を知る子は戻れる。
戻れる子は、役に立つ。
「……わたしは」
子どもが言った。
声は小さく、夜風にすぐ持っていかれそうだった。
「薬草の子です」
「ミナだろ」
俺が言うと、子どもはびくりと震えた。
まずい。
声が硬かった。
怯えさせるつもりはなかったが、俺の中の苛立ちがそのまま出た。イリスがわずかにこちらを見る。責める目ではない。ただ、今は乱暴に押すなという目だった。
分かってる。
分かってるが、分かっているだけでどうにかなるなら、こんな夜道に子どもは立っていない。
「ミナ」
イリスが、改めて呼ぶ。
「ノエから、あなたの名前を聞きました」
ミナの目が揺れた。
「ノエは」
「宿場にいます」
「戻って、ないんですか」
「戻していません」
ミナは、そこで初めてこちらへ体を向けた。
白い布を持つ手が震えている。灯りの火も震えていた。風のせいだけではない。小さな指は赤くなり、爪の隙間には泥が入り込んでいる。白い布の棒を握りしめすぎて、関節が白く浮いていた。
「ノエが戻らないと」
ミナは言った。
「数が、合いません」
ノエも同じことを言っていた。
数。
名前ではなく、数。
一人ひとりの顔ではなく、役目の空き。
「数が合わないと、どうなる」
俺が聞く。
ミナは答えない。
答えない代わりに、白い布を握り直した。
黒註が手首に絡む。
言うな。
白き布を掲げよ。
欠けた数は、次の子で満たせ。
イリスが泥の上に膝をついた。
ためらいはなかった。
元公爵令嬢という肩書きを持っていた女が、夜明け前の畑道で、子どもの目線に合わせて膝をつく。裾が泥に触れた。たぶん、王都でなら誰かが慌てて止めただろう。けれどここには、それを気にする人間はいない。イリス自身も気にしていなかった。
「ミナ。荷車は、今どこにありますか」
ミナの肩が小さく跳ねた。
白い布を持つ手に、さらに力が入る。
「北門です」
「修道院の北門ですね」
ミナは頷いた。
「あなたは、その荷車より先にここへ来たのですか」
答えない。
だが、ミナの目が古井戸の脇へ動いた。
白く塗られた枝。
そこを過ぎれば、宿場の灯りが見える。
イリスはそこで言葉を切った。
責める必要はない。問い詰める必要もない。答えは、ミナの視線と、白い布を握る手と、ここまで来た足の泥で足りていた。
荷車より先に、子どもが来る。
白い布を持って、道の前に立つ。
道が安全かどうかを、子どもの体で確かめる。
ユアンが低く息を吐いた。
「こんな子に」
「ユアン」
オルドが制した。
怒りを向ける相手を間違えるな、という声だった。
ユアンは唇を噛み、黙る。握った拳が、革手袋の上からでも分かるほど硬くなっていた。
ミナはその声だけで、また怯えた。自分が怒られたと思ったのだろう。背中が丸まり、白い布の棒が胸元へ引き寄せられる。守るためではない。隠れるための動きだった。
イリスが、その視線を遮るように少し体をずらした。
「ミナ。何の荷かは、知っていますか」
「救護の荷です」
すぐに返ってきた。
ノエと同じだった。
同じ速さ。
同じ怖さ。
「中を見たことは?」
ミナは首を横に振る。
「子どもは、中を見ません」
教えられた言葉だった。
その声の整い方が、かえって気味悪かった。
黒註が首筋に浮く。
荷は数えるな。
中は見るな。
「倒れた人だけを見なさいって、言われてます」
イリスの目が、ほんの少し細くなった。
「倒れた人?」
ミナは、自分が余計なことを言ったと気づいた顔をした。
唇を噛む。小さな歯が、寒さで色の悪い唇に沈む。
イリスは急がせなかった。
「倒れた人は、どこにいますか」
ミナは答えない。
ただ、灯りを持つ手が、北の闇へわずかに傾いた。
宿場ではない。
修道院でもない。
その先。
灯りの届かない、もっと北の道。
オルドの顔が変わった。
兵士の顔だった。
「砦へ続く道か」
ミナは答えなかった。
答えなかったが、それだけで十分だった。
「ミナ」
イリスが静かに呼ぶ。
「あなたは、白い布を持って、倒れた人のところへ行ったことがありますか」
ミナは首を振らなかった。
頷きもしなかった。
ただ、胸元の葉の印を片手で握った。
黒註が、そこへ重なる。
白き布があれば、待つ。
小さき手なら、槍は下がる。
薬草の子は、倒れた人だけを見る。
文字が胸の奥に沈んでいくように見えた。
ミナ自身の言葉ではない。
けれど、ミナの中に深く入っている言葉だった。
俺は息を吐いた。
「ミナ」
「……はい」
「その白い布、誰に渡された」
ミナの顔から血の気が引いた。
黒註が喉元へ集まる。
助祭様の名を出すな。
外では言うな。
薬草の子は、聞かれたことに答えるな。
マルク。
その名前は、ノエから聞いている。
マルク助祭。
だが、ミナの口から無理に言わせる必要はなかった。今ここで名前を吐かせたところで、この子の恐怖が薄くなるわけではない。むしろ、言えなかった自分を責めるだけかもしれない。
イリスも同じ判断をしたらしい。
「言わなくて構いません」
そう言った。
ミナは驚いたようにイリスを見た。
言わなくていい。
たったそれだけの言葉に、信じられないという顔をする。
この子たちは、言えと言われたら言わなければならない。言うなと言われたら黙らなければならない。その間に自分の意思を置く場所がない。
「ですが、一つだけ教えてください」
イリスは続けた。
「あなたがここで荷車の前に立てなかったら、誰が代わりに来ますか」
ミナの表情が崩れた。
答えは聞く前から分かっていた。
それでも、聞かなければならなかった。
ミナの目に涙が浮かぶ。
「リオ」
声が震える。
「リオが、走ります」
「リオは鐘の子でしたね」
ミナは頷く。
「リオは朝の鐘を鳴らします。みんなを起こします。足が速いから、使いにも、旗にも出ます。でも、リオは」
そこで言葉が詰まった。
役目の説明ではない、子ども自身の言葉が喉につかえている顔だった。
「リオは?」
俺が促すと、ミナは白い布を握ったまま、小さく言った。
「転ぶと、泣く」
それだけだった。
それだけで、リオは急に役目から剥がれた。
鐘の子ではなくなる。
朝を告げる道具ではなくなる。
走るのは速いが、転ぶと泣く子どもになる。
黒註が揺れた。
リオという名前に反応するように、北の方へ伸びていた線が一瞬だけ細くなる。
名前には力がある。
たぶん、そういう単純な話ではない。名前を呼んだところで、世界が変わるわけじゃない。けれど、役目だけで人を数えようとする黒註にとって、名前は邪魔なのだ。
「ミナ」
俺は手を伸ばした。
今度は、ゆっくり。
「その布、少し持たせろ」
ミナは後ずさりしかけた。
だが、イリスがそばで頷く。
「取られるのが怖いなら、端だけで構いません」
ミナは迷った。
白い布を渡すことは、役目を手放すことだ。この子にとって、それはたぶん、自分の居場所を捨てるくらい怖い。薬草の子でいる限り、まだ数に入っていられる。役に立てる。戻る場所がある。そう思わされている。
それでも、ミナは布の端をこちらへ向けた。
ほんの少しだけ。
俺はその端を掴んだ。
黒註が、指に絡みつく。
白き布を掲げる子は、道を開く。
小さき手は、先に立つ。
荷は進み、子は戻る。
戻れぬ子は、数から外す。
喰った。
舌に広がったのは、青臭い苦味だった。
薬草を噛み潰したような味。湿った布。血の匂い。泥のついた靴。遠くで怒鳴る兵の声。白い布を掲げれば槍が下がる。小さい子なら待ってくれる。役に立てる。役に立てば、明日も名前を覚えていてもらえる。
命令だけではない。
願いが混ざっている。
置いていかれたくないという、小さな願い。
だから全部は喰えなかった。
全部喰えば、ミナが自分を支えてきたものまで噛み砕くことになる気がした。
俺は、文字の端だけを噛み切った。
小さき手は、先に立つ。
その一文だけを喰う。
途端、喉が焼けた。
「っ……」
膝が揺れる。
イリスがこちらを見た。
「アスター」
「平気だ」
平気ではない。
だが、倒れるほどではない。
白い布に絡んでいた黒註が、少しだけ薄くなる。ミナの手から力が抜け、布の端が垂れた。
「……ミナ」
子どもが、自分で言った名前に驚いたように目を見開いた。
それから、すぐに唇を噛む。
「でも、今は、薬草の子です」
救われた声ではなかった。
名前に戻ったのではない。
名前と役目の間で、まだ裂かれている声だった。
イリスは、少しだけ頷いた。
「はい。あなたはミナです」
それから、急がずに続ける。
「そして今、薬草の子としてここに来たのですね」
ミナの目から涙が落ちた。
泣き方すら、声を殺すことに慣れていた。しゃくり上げるのではなく、ただ目から水がこぼれる。泣いていると気づかれないようにしてきた子どもの泣き方だった。
オルドが膝をつき、ミナの足元を見た。
「足を痛めているな」
ミナは反射的に首を振ろうとした。
「痛いなら、痛いと言っていい」
イリスが先に言う。
ミナは固まった。
痛いと言っていい。
それもまた、知らない言葉だったのだろう。
少しして、ミナは小さく頷いた。
「痛いです」
ユアンが顔を歪めた。
怒りを飲み込む顔だった。
「背負う」
「でも」
「俺がそうしたいだけだ。君の役目じゃない」
君の役目じゃない。
その言葉に、ミナはまた戸惑った。
ユアンは不器用に背を向ける。ミナはしばらく迷ってから、恐る恐るその背に手をかけた。背負われ慣れていない。体を預けることそのものが、悪いことだと思っている。
ユアンがミナを背負って立ち上がると、白い布だけが俺の手元に残った。
「それは」
ミナが不安そうに布を見る。
「捨てない」
俺は言った。
「でも、子どもには持たせない」
ミナの顔が青くなる。
「持たないと」
「リオが走るんだろ」
ミナは唇を噛んだ。
「なら、リオが走らなくて済むように使う」
言いながら、自分でも危ういことを言っていると思った。
黒註をずらす。
脚本の筋道を、こちらで使う。
それはたぶん、簡単に言っていいことじゃない。下手にやれば、もっと悪い方へ転がる。俺が何かを変えたつもりで、黒註が別の子を巻き込むかもしれない。
けれど、白い布を捨てるだけでは足りない。
修道院側は別の布を出す。
別の子を出す。
別の道を使う。
一つ潰したら、次の役目へ移る。そういう仕組みなのだと、もう分かってしまった。
オルドが白い布を見た。
「旗は門で使う」
短い判断だった。
宿場の門前なら、櫓からも見える。門を守る兵の目も届く。荷車が白い布を目印に進んできても、そこに立つのは子どもではない。鎧を着た王宮兵が、槍の柄に布を結びつけて待つことになる。
それは救いではない。
ただ、子どもを先に立たせる道を、一つ潰すだけだ。
イリスは、すぐに頷いた。
「門前なら、こちらの監視下に置けます」
「荷車が来れば止める。来なければ、北門側で別の動きがあると見る」
オルドは白い布を受け取りながら言った。
言葉は少ないが、判断は早い。たぶんこの男は、理由が整えばすぐ動く。逆に、理由がなければどれほど腹が立っても踏み込まない。その厄介な線引きが、今は必要だった。
イリスもそこを分かっている。
だから余計な言葉で怒りを足さない。
「子どもが夜道に出され、白布で荷車を誘導しようとしていた。宿場防衛の名目なら、王宮兵は動けます」
オルドは一度だけ頷いた。
「ユアン。ミナを宿へ。足を見ろ。ノエとは、すぐには会わせるな。どちらも落ち着かせてからだ」
「はい」
「残りは門へ戻る。櫓に伝えろ。北門方向の灯り、荷車、鐘の音、どれも見逃すな」
兵たちが動き出す。
ユアンに背負われたミナが、俺の方を見た。
「ノエに」
「何か言うか」
ミナは迷った。
白い布を見て、北の道を見て、それから小さく言った。
「怒られてないなら、よかったって」
「伝える」
「あと」
「あと?」
ミナの声は、ほとんど息だった。
「リオを、朝の鐘へ行かせないで」
意味が分からなかった。
いや、分かりたくなかっただけだ。
リオは鐘の子。
朝になれば鐘を鳴らす。鐘を鳴らせば、みんなが動く。白い布を持たされる。走らされる。道を開く子になる。
だから、朝にしないで。
子どもの願いとしては、あまりにも小さくて、どうしようもなく無理だった。
夜は必ず明ける。
そんなことは分かっている。
それでも、ミナにとって朝は光ではない。役目が始まる合図なのだ。
「できるだけ、遅らせる」
俺はそう言った。
嘘にならない言葉を探した結果、それしか出てこなかった。
ミナは頷かなかった。
けれど、少しだけ目を伏せた。
ユアンがミナを背負って宿場へ戻っていく。小さな体は、兵の背中にほとんど隠れていた。白い布を持って夜道に立っていた時より、その姿はずっと子どもに見えた。
イリスも一度その後ろ姿を見送ったが、すぐに北へ視線を戻した。
空の端が、わずかに薄くなり始めている。
夜明けが近い。
俺は白い布を持ったまま、門の方へ歩いた。
白い布に残っていた黒註が、細かく震えている。
手が違う。
子が違う。
先に立つ者が違う。
荷が迷う。
その文字を見て、少しだけ息がしやすくなった。
黒註が嫌がっている。
なら、少なくとも完全には向こうの望み通りではない。
門の前で、オルドが兵に白い布を渡した。
「掲げろ。だが、門の外へ出すな」
兵が頷き、白い布を槍の柄に結びつける。
夜風が布を鳴らした。
たったそれだけだ。
たったそれだけで、何かを変えた気になるのは危険だ。
けれど、そのたったそれだけを、ノエやミナは選べなかった。
選べないようにされていた。
その時、櫓の上から兵の声が飛んだ。
「北側に動きあり!」
オルドが顔を上げる。
「灯りか」
「いえ――」
兵の声が、夜明け前の冷気を裂いた。
「鐘です! 修道院の方角で、鐘が鳴っています!」
まだ朝ではない。
空は薄くなり始めただけで、太陽は見えない。宿場の屋根も、道端の草も、夜の色を残している。
それなのに、遠くで鐘が鳴った。
一つ。
間を置いて、もう一つ。
ノエが恐れた朝を、誰かが無理やり呼び寄せている。
黒註が、北の先で濃く浮かび上がった。
鐘の子は、朝を告げる。
白き布が迷うなら、鐘を鳴らせ。
俺は門の上で揺れる白い布を見た。
子どもの手からは奪った。
だが、脚本はまだ、別の子を呼ぼうとしている。
「リオが出る」
声が、自分でも驚くほど低くなった。
読んでいただきありがとうございます♪
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