第二章 3話 白い旗
ノエは、奥の部屋で眠らなかった。
宿の主人が毛布を二枚重ねてくれた。暖炉に近い部屋を空け、干し草を詰めた寝台も用意した。薄いスープを温め直し、硬いパンも添えた。
けれどノエは、寝台の端に腰を下ろしたまま、器に手をつけなかった。
膝の上で両手を握っている。
指先はまだ赤い。泥は拭き取られていたが、爪の間には黒く残っていた。走ってきた時の息の乱れは少し落ち着いたものの、肩は時々、小さく跳ねる。
戻らなければならない。
黒註は喰った。
だが、それで恐怖まで消えるわけではなかった。
アスターは部屋の入口に寄りかかり、ノエを見ていた。
奥の部屋には、宿の主人、ユアン、イリスがいる。オルドは食堂に残り、兵たちに戸口と裏口の見張りを割り振っていた。夜明け前までは動かない。そう決めた以上、今度はこの宿が小さな砦になる。
外では風が鳴っている。
窓の隙間から入り込む冷気で、蝋燭の火がかすかに揺れた。
「食べないのか」
アスターが言うと、ノエはびくりと肩を揺らした。
「あ……」
「毒なんか入ってないだろ。たぶん」
「アスター」
イリスが低く咎める。
「たぶんは余計です」
「実際、俺が作ったわけじゃない」
宿の主人が困ったように笑った。
笑おうとして、うまく笑えていなかった。
「うちのスープに毒なんか入れませんよ。薄いだけで」
自分でそう言って、主人は器をノエの方へ少し押し出した。
「冷めないうちに。走ってきたんだろう」
ノエは器を見た。
しばらく迷ってから、両手でそっと持ち上げる。口をつける前に、イリスの顔を見た。
「……食べても、いいんですか」
イリスは一瞬だけ表情を止めた。
その言葉が、想像していたより深く刺さったのだろう。
「もちろんです」
「でも、これは、使いの分じゃ」
「あなたの分です」
イリスは静かに言った。
「今ここにいるノエの分です」
ノエは、名前を呼ばれてまた少し戸惑った。
それから、器に口をつけた。
一口目は小さかった。
二口目も、まだ遠慮があった。
けれど三口目から、少しだけ速くなった。腹は減っていたのだ。走ってきた子どもが、腹を空かせていないはずがない。
アスターはその様子を見ながら、喉の奥に残る黒註の苦味を飲み下した。
ノエの肩に絡んでいた黒註は消えている。
少なくとも、「戻れ」と命じる文は、もう見えない。
けれど窓の向こうには、まだ黒い線がある。宿場から北へ伸び、途中でいくつにも分かれていた。まるで夜の中に、細いひびが入っているようだった。
星夜の前に、ひとつ灯りが消える。
ひとつ。
ひとつ。
ひとつ。
さっきから、その文字だけが頭に残っている。
「ノエ」
イリスが呼んだ。
器を持つノエの手が止まる。
「聞きたいことがあります。ただし、答えられることだけで構いません。つらければ、首を振ってください」
ノエは何も言わなかった。
器を握ったまま、膝の上に視線を落とす。
「今夜、あなたはなぜここへ来たのですか」
「封書を届けるためです」
「それは誰に言われましたか」
「マルク助祭様です」
その名前を口にする時だけ、ノエの声は少し整った。
何度も唱えさせられた言葉のようだった。
イリスは続ける。
「マルク助祭は、セレナ修道院でどのような役目の方ですか」
ノエは困ったように眉を寄せた。
「偉い方です」
「院長ではなく?」
「院長様は、お祈りと怪我人のところにいます。マルク助祭様は、道とか、荷とか、門とか、子どもの番を決めます」
道。
荷。
門。
子どもの番。
イリスの目がわずかに細くなった。
アスターにも分かった。
この話は、奥へ行く。
「子どもの番って何だ」
アスターが聞くと、ノエは器を強く握った。
スープが少し揺れる。
「……使いの番です」
「他にもいるのか」
ノエは頷いた。
小さな動きだった。
「何人」
「分かりません」
「同じ場所にいるんじゃないのか」
「います。でも、みんな同じじゃないです」
ノエは言葉を探すように、ゆっくり話した。
「台所の子。薬草の子。包帯を干す子。鐘を鳴らす子。荷車について行く子。旗の子。使いの子」
名前ではない。
役目だ。
アスターは口の中で舌打ちしそうになった。
「名前は」
ノエは黙った。
「お前以外の名前だよ。呼び合ったりしないのか」
「中では、呼びます」
「外では?」
「呼ばない方がいいって」
「誰が言った」
「マルク助祭様です。外で名前を呼ぶと、情が移るから。役目が鈍るからって」
宿の主人が、息を呑んだ。
ユアンの拳が握られる音がした。
イリスは表情を崩さなかった。ただ、膝の上で組んでいた指に、少しだけ力が入る。
「役目が鈍る」
彼女は繰り返した。
声は静かだった。
静かすぎて、余計に冷たく聞こえた。
ノエは慌てて首を振った。
「あ、でも、悪い意味じゃないです。マルク助祭様は、みんなが迷わないようにって。名前で呼ぶと、誰が行くのか分からなくなるから。使いは使い、旗は旗、荷は荷って」
「人間じゃなくなるな」
アスターが言った。
ノエは目を瞬かせた。
本当に、その意味が分からない顔だった。
アスターは言い直す気になれなかった。
分からない方がいいのかもしれない。
けれど、もう分からないままではいられない。
「旗の子というのは」
イリスが言った。
「白い旗を持つ子のことですか」
ノエは器を置いた。
その動きが、さっきより慎重になる。
「……はい」
「何のために持つのですか」
「撃たれないように」
短い答えだった。
部屋の中の空気が、重くなる。
ユアンが低い声で言った。
「誰が撃つ」
ノエは答えなかった。
代わりに、首をすくめる。
「どっちもです」
「どっちも?」
「アルヴァンも、グラストも。遠くからだと、荷車か兵隊か分からないから。白い布を先に出せば、救護の荷だって分かるって」
「それを子どもに持たせるのか」
ユアンの声が少し荒くなる。
ノエはびくりとした。
イリスが視線だけでユアンを制した。
ユアンは唇を噛み、黙る。
ノエは小さく続けた。
「大人が持つ時もあります。でも、大人は荷車を押したり、怪我人を運んだりするから。子どもが先に歩く方が、道が見えるって」
「道が見える?」
「穴とか、ぬかるみとか。あと」
そこでノエは言葉を止めた。
部屋の外で、風が戸を鳴らす。
蝋燭の火がまた揺れた。
アスターは、ノエの続きを待った。
急がせれば、たぶん口を閉じる。
この子は、話したくないのではない。話していいことと悪いことの境目を、誰かに決められすぎている。
「あと、何だ」
なるべく低くならないように聞いた。
ノエは唇を舐めた。
「……先に誰かが撃つか、分かるから」
ユアンが息を止めた。
宿の主人は、顔を背けた。
イリスだけが、ノエから目を逸らさなかった。
「子どもを、試しに歩かせているということですか」
ノエは首を振りかけた。
だが、途中で止まる。
否定したかったのだろう。
マルク助祭様はそんなことをしていない。
修道院は救いの場所だ。
自分たちは役に立っているだけだ。
そう言いたかったのかもしれない。
けれど、言葉は出なかった。
代わりに、膝の上で手が震えた。
黒註はもう、ノエの喉を締めていない。
だから、今ノエが黙っているのは、黒註のせいではない。
本人の恐怖だ。
本人の中に残っている、逆らってはいけないという傷だ。
「全部、言わなくていい」
アスターは言った。
ノエが顔を上げる。
「今聞かれたことに全部答えなくても、お前が悪いわけじゃない」
ノエは、困ったように目を揺らした。
そう言われることに慣れていない顔だった。
「でも、戻らないと」
「戻る話は後だ」
「戻らないと、次の子が行きます」
その言葉で、部屋の全員が動きを止めた。
アスターはノエを見る。
「次の子?」
ノエは、自分が余計なことを言ったと気づいたように口を閉じた。
けれど、もう遅い。
イリスが声を荒げずに聞いた。
「あなたが戻らなければ、別の子が使いに出されるということですか」
ノエは黙っていた。
「ノエ」
イリスの声は柔らかい。
だが、逃がす声ではなかった。
「誰かが行くのですね」
ノエは、小さく頷いた。
「誰が」
「……たぶん、リオ」
「リオ」
名前が出た。
初めてだった。
役目ではなく、誰かの名前。
ノエは、その名前を口にした瞬間、ひどく怯えた顔をした。
「リオは、まだ小さいです」
「何歳くらいだ」
アスターが聞く。
「八つ。たぶん」
「たぶん?」
「分からない子もいます。いつ来たかで数えるから」
いつ生まれたかではない。
いつ修道院へ来たか。
それが、その子どもの年齢の代わりになっている。
アスターは喉の奥に、また苦味を感じた。
黒註の味ではない。
もっと普通の、腹の立つ味だった。
「リオは何の役目だ」
「鐘の子です。朝と夕方に鳴らします。でも足が速いから、使いにも出ます」
「戻らなかった使いの代わりに?」
ノエは答えなかった。
答えなかったが、それで十分だった。
ユアンが、壁を殴りかけて止めた。
拳が途中で固まる。
殴ったところで何も変わらないと分かっている顔だった。
イリスは静かに息を吐いた。
「北門で旗を、と先ほど言いましたね」
ノエの肩が跳ねる。
「それは、あなたが戻った後の役目ですか」
「……はい」
「夜明け前に、北門へ行くように言われていた」
「はい」
「何を通すのですか」
ノエはまた黙った。
今度の沈黙は長かった。
蝋燭の芯が小さく弾ける。
食堂の方から、兵士が歩く音が聞こえた。戸口の見張りが交代しているのだろう。
ノエは膝の上の毛布を握りしめた。
「荷車です」
「何の荷ですか」
「救護の荷です」
「中身は見ましたか」
ノエは首を横に振る。
「子どもは、中を見ません」
「誰が積む」
「大人です。修道士様と、助祭様の人たち」
「助祭様の人たち?」
「マルク助祭様の言うことを聞く人です」
修道院の中に、少なくともマルク助祭の指示で動く人間がいる。
院長とは別に。
イリスの目が細くなる。
「荷車は正門ではなく、北門から出るのですね」
「はい」
「なぜですか」
「正門は、怪我人が多いから。祈りに来る人もいるから。北門は、荷の門です」
言い方は整っていた。
これも、教えられた言葉なのだろう。
荷の門。
外へ出すもの、内へ入れるもの。
人目につかないもの。
そういうものを通すための門。
アスターは窓の外を見た。
北へ伸びる黒註の線が、また少し濃くなる。
ノエから直接伸びているわけではない。けれど、彼の言葉が一つ増えるたび、線の先で眠っていた文字が目を覚ましていくようだった。
白き布は、道を開く。
小さき手は、先に立つ。
名は記されず、荷は運ばれる。
「荷は運ばれる、か」
思わず呟いた。
イリスがこちらを見る。
「新しい文字ですか」
「ああ。北の方に出た。白い布は道を開く。小さき手は先に立つ。名は記されず、荷は運ばれる」
イリスの顔から、少しだけ血の気が引いた。
「荷の記録がない可能性があります」
「どういうことだ」
「正式な救護物資なら、教会の受領記録、修道院側の搬入記録、王宮兵や宿場を通るなら通行記録が残ります。ですが、黒註が“名は記されず”と出ているなら」
「誰が運んだかも、何を運んだかも、残らない?」
「可能性です」
イリスは、そう付け加えた。
断定しない。
だが、その声には迷いよりも警戒があった。
裁判で、証拠と証言が人を殺す様を見た女だ。
記録が残ることの怖さも、記録が残らないことの怖さも知っている。
「王宮兵の立場から言えば」
入口にいたオルドが、いつの間にか部屋の前に立っていた。
話を聞いていたらしい。
「夜明け前に北門から出る荷車など、止める理由にしかならん」
ユアンが振り返る。
「隊長」
「だが、現時点では推測だ。子どもの話と、アスターの見ている黒註。それだけで修道院を押さえることはできない」
「では」
イリスが問う。
「夜明けを待つ。予定通り動く」
オルドの声は冷静だった。
「ただし、引き渡しではない。まずは正式に事情を確認する。ヴァルクライン嬢の移送についても、夜明け前の変更には応じない。私はそう判断した」
ユアンが少しだけ安堵した顔をする。
しかし、アスターは北の線を見ていた。
夜明けを待つ。
その言葉に、黒註が微かに揺れる。
夜明け前に、北門へ。
その文字は、まだ残っている。
「待ってる間に、リオって子が走らされるんじゃないのか」
アスターが言うと、部屋の空気がまた止まった。
ノエが膝の上で手を握る。
「……行きます」
小さな声だった。
「たぶん、行きます。僕が戻らなかったら、リオか、ミナが」
「ミナ?」
「薬草の子です。足は速くないけど、道を覚えてます」
名前がまた一つ出た。
リオ。
ミナ。
顔は見えない。
けれど、黒い線の先で枝分かれした細い筋が、その名前に触れた気がした。
「止める方法は」
アスターが聞いた。
誰に聞いたのか、自分でもよく分からなかった。
オルドは答えない。
イリスも、すぐには答えない。
宿の主人が、苦しそうに口を開いた。
「こっちから人を出せば、知らせを届けられるかもしれません。セレナに、ノエは戻せないと。代わりの子を出すなと」
「誰を出す」
オルドが問う。
主人は言葉に詰まる。
夜道は危険だ。
だから子どもを走らせてきた。
大人も危ない。
兵を出せば、宿の守りが薄くなる。
避難民を出すわけにはいかない。
商人は拒む。
全員が、それを分かっていた。
仕方ない。
また、その言葉が床に積もる。
アスターは舌打ちした。
「だったら俺が行く」
「駄目です」
イリスが即座に言った。
速かった。
アスターは眉をひそめる。
「何でだよ」
「あなたが一人で夜道に出れば、黒註の筋道に引き込まれる可能性があります」
「見えてるんだから、避ければいいだろ」
「見えているからこそ、近づくのではありませんか」
返す言葉が一瞬遅れた。
イリスはその隙を逃さなかった。
「あなたは、目の前で誰かが死ぬと見えれば動く。今もそうです。ですが、その動き自体を黒註に使われる可能性があります」
「俺が行くことまで脚本のうちって言いたいのか」
「断定はしません。ただ、否定もできません」
嫌な言い方だった。
だが、間違っているとも言えない。
黒註は、人の恐れや怒りや善意に道をつける。
なら、アスターが黒註を嫌って動くことさえ、どこかの筋道に使われるかもしれない。
それを考えると、腹の底が冷える。
「じゃあ、何もしないのか」
「何もしないとは言っていません」
イリスはノエへ視線を戻した。
「ノエ。修道院から宿場へ向かう道は、一つだけですか」
ノエは首を横に振った。
「正道と、畑の横の道があります。でも夜は、畑の方は使いません。穴があるから」
「修道院から代わりの子が出るなら、どちらを通りますか」
「正道です」
「目印は?」
「白い枝があります。古い井戸のところ。そこを過ぎると、宿場の灯りが見えます」
イリスはオルドを見た。
「宿場から見張れる場所はありますか」
オルドが少し考える。
「北側の物見櫓なら、正道の一部が見える。古井戸までは無理だが、灯りを持って来れば分かる」
「では、こちらから出るのではなく、来る者を待つことはできます。代わりの子が出された場合、宿場へ入る前に保護する」
「修道院への伝言は?」
「王宮兵の正式な返答として、夜明け後に持参すればよいでしょう。夜間の移動は危険なため受け入れられない。ノエは体調不良により保護した、と」
オルドはイリスを見た。
しばらく黙ってから、低く笑った。
「罪人として送られているにしては、ずいぶん指示が具体的だな」
「元公爵令嬢ですので」
イリスは淡々と返した。
「こういう言い訳の整え方は、見慣れています」
その言葉には、自嘲がほんの少しだけ混じっていた。
アスターはイリスを横目で見る。
この女は、こういう場で役に立つ。
王都では、そういう力が彼女を縛ったのかもしれない。記録、手続き、言い方、責任の所在。すべてが人を守るためにも、人を殺すためにも使える。
今は、少なくともノエを戻さないために使っている。
それでいい。
今は。
「ユアン」
オルドが言った。
「北の物見へ上がれ。二人連れていけ。子どもの姿が見えたら、宿場の中へ入れる。追手がいる場合は交戦せず、門を閉じろ」
「はい」
ユアンの返事は早かった。
彼はすぐに部屋を出ようとして、ノエを見た。
言葉を探している顔だった。
結局、何も言わずに一礼だけして出ていった。
不器用だが、それでよかった。
ノエは、言葉を受け取る余裕もなさそうだったから。
宿の主人も立ち上がる。
「私は湯を沸かしてきます。ノエ、足を温めた方がいい」
ノエは小さく頷いた。
主人が出ていき、部屋にはアスターとイリス、オルド、ノエだけが残る。
蝋燭の火が短くなる。
夜明けまでは、まだある。
けれど、夜はもう真ん中を過ぎていた。
「ノエ」
アスターは言った。
「リオとミナ以外にも、名前を覚えてる子はいるか」
ノエは少し迷った。
「……カイ」
「何の子だ」
「荷の子です。力が強いから。あと、セナ。包帯の子。ルルは、泣くと怒られるから、あんまり泣かないです」
一人ずつ、名前が出てくる。
カイ。
セナ。
ルル。
そのたび、北へ伸びる黒い線の先で、薄い文字が微かに揺れた。
まだ顔も知らない。
声も知らない。
けれど、役目ではない名前が、少しずつ夜の中に浮かび上がっていく。
アスターは息を吐いた。
「結構いるな」
ノエは頷いた。
「でも、外では名前を呼びません」
「何で」
「その方が、迷わないから」
またそれか。
アスターは何か言いかけて、やめた。
怒鳴ったところで、ノエが怯えるだけだ。
「ノエ」
イリスが言った。
「あなたは、名前で呼ばれるのが嫌ですか」
ノエは驚いたように顔を上げた。
考えたこともなかった、という顔だった。
「……分かりません」
「では、今はノエと呼びます。嫌になったら言ってください」
「嫌って言っても、いいんですか」
「はい」
ノエは長く黙った。
それから、本当に小さく頷いた。
「……今は、嫌じゃないです」
その瞬間、窓の外で黒い線がわずかに揺れた。
大きく変わったわけではない。
何かが解決したわけでもない。
ただ、北へ伸びる線のうち、一本だけが少し薄くなった。
アスターはそれを見ていた。
黒註は、人を役目へ押し込む。
なら、名前を呼ぶことは、ほんの少しだけその逆にあるのかもしれない。
そんなふうに考えてしまって、すぐに顔をしかめた。
らしくない。
だが、見えたものは仕方ない。
「アスター」
イリスがこちらを見る。
「何か?」
「いや」
「言ってください」
「名前で呼んだら、線が少し薄くなった」
イリスは黙った。
その沈黙は、考えている沈黙だった。
「名前は、役割から人を引き戻すのかもしれません」
「また面倒な話になりそうだな」
「すでになっています」
「それもそうか」
アスターは壁に背を預けた。
喉の苦味はまだ残っている。
けれど、さっきより少しだけ呼吸がしやすい。
ノエはスープを半分ほど飲み終え、毛布に包まれたまま目を伏せている。眠いのだろう。眠いはずだ。それでも寝るのが怖いのか、時々はっと目を開ける。
「寝ろ」
アスターが言うと、ノエは首を振った。
「寝たら、朝になります」
「なるな」
「朝になったら、戻らないと」
「戻らなくていいって言っただろ」
「でも、朝は来ます」
その言い方が、妙に引っかかった。
朝が来る。
それは普通なら、悪いことではない。
暗い夜が終わる。寒さが少し緩む。人が動き出す。道が見える。
だがノエにとっての朝は、戻る時間だった。
役目が始まる時間だった。
誰かの代わりに走る時間だった。
「朝が来ても」
イリスが言った。
「今日だけは、同じ朝にはしません」
ノエは、イリスを見た。
信じたわけではない。
けれど、ほんの少しだけ、目の奥が揺れた。
その時、廊下を走る足音が聞こえた。
ユアンではない。
もっと軽い足音だ。
入口にいた兵が何かを言い、すぐに扉が開いた。
顔を出したのは、物見に上がっていた兵の一人だった。息が上がっている。
「隊長」
オルドが立つ。
「どうした」
「北の道に灯りが一つ。小さいです。子どもかもしれません」
ノエの顔から血の気が引いた。
「リオ……」
名前が落ちる。
蝋燭の火が揺れる。
アスターの視界で、北へ伸びる黒註が一気に濃くなった。
小さき手は、旗を運ぶ。
名なき子は、夜の道を走る。
星夜の前に、ひとつ灯りが消える。
まだ夜は終わっていない。
ノエ一人を止めても、黒註は次の子どもを選ぶ。
アスターは扉へ向かって歩き出した。
「待て」
オルドの声が飛ぶ。
「勝手に出るな」
「分かってる」
分かっている。
一人で飛び出せば、黒註に使われるかもしれない。
分かっているが、足は止まらない。
イリスも立ち上がった。
「物見へ行きます」
「君はここに残れ」
オルドが言う。
イリスは首を横に振った。
「子どもを見分けられるのはノエです。けれどノエを外へ出すべきではありません。なら、私が聞き取った特徴をユアンに伝えます」
「特徴など」
「八歳前後。鐘の子。足が速い。おそらく、灯りを低く持つ。修道院の子は、胸元に白い布を縫いつけています」
オルドは一瞬だけ黙った。
それから、短く命じる。
「アスター、ヴァルクライン嬢、私と来い。ノエはここに残す。宿の主人を呼べ。扉を閉めろ」
ノエが寝台から立ち上がろうとした。
「僕も」
「駄目だ」
アスターは即座に言った。
ノエが肩を震わせる。
強く言いすぎた。
だが、今は柔らかく言い直す余裕がない。
アスターは少しだけ声を落とした。
「お前が戻ったら、さっき喰った意味がない」
ノエは何か言おうとして、唇を噛んだ。
イリスがそばに膝をつき、ノエの毛布をかけ直す。
「ここで待っていてください。あなたが話してくれたから、私たちは気づけました」
ノエの目に涙が浮かんだ。
今度は、泣くことを我慢しきれなかったらしい。
「リオを」
声が掠れる。
「リオを、戻さないで」
アスターは返事をしなかった。
約束できるほど、確かなものは何もない。
だが、何も言わずに扉へ向かうこともできなかった。
「見つける」
それだけ言った。
助ける、とは言わなかった。
救う、とも言わなかった。
ただ、見つける。
今のアスターに言えるのは、そこまでだった。
部屋を出ると、食堂の空気はまた変わっていた。
兵たちが動いている。宿の主人は青い顔で湯を置き、奥の部屋へ向かっていった。避難民たちは声を潜め、子どもを抱き寄せている。
戸口の星飾りが揺れていた。
まだ灯りの入らない、小さな星。
外へ出ると、夜の冷たさが一気に肺へ刺さった。
空の雲は少しだけ薄くなり、裂け目から星がいくつか見えている。けれど、朝にはまだ遠い。宿場の柵の向こうは黒く、そのさらに奥に、北へ続く道が沈んでいる。
物見櫓の上で、ユアンがこちらを振り返った。
「灯りが、止まりました」
「どこだ」
オルドが問う。
ユアンが北の闇を指す。
「古井戸の手前です。何かに迷っているように見えます」
アスターは目を凝らした。
現実の灯りは、まだ見えにくい。
だが、黒註ははっきり見えた。
細い線が、夜道の途中で震えている。
その先に、小さな影がある。
そして、その影の前に、白い布のようなものが揺れていた。
白い旗。
黒註が、その布の縁に絡みつく。
撃つな。
進め。
先に立て。
名は要らない。
アスターの喉に、苦味が戻ってくる。
まだ遠い。
喰える距離ではない。
今まさに押している文なのに、手が届かない。
「くそ」
思わず声が漏れた。
イリスが隣で息を呑む。
「見えていますか」
「ああ」
「まだ喰えない?」
「遠い」
その事実が、腹立たしかった。
見えている。
分かっている。
けれど届かない。
黒註は、そういう距離で平然と人を動かす。
ユアンが櫓の上から叫んだ。
「こちらへ来ます。ですが、遅い。誰かに追われている様子はありません」
「門を開ける準備をしろ」
オルドが命じる。
兵たちが動く。
アスターは北の闇を睨んだ。
小さな灯りが、少しずつ近づいてくる。
一歩。
また一歩。
白い布が揺れる。
それがリオなのか、別の子なのかはまだ分からない。
だが、一つだけ分かる。
ノエを止めても、夜は終わらなかった。
名なき子は、次の名なき子へ役目を渡される。
その仕組みが、セレナ修道院の中にある。
アスターは、冷えた手を握った。
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