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勇者でも魔王でもない俺は、物語に殺される君を救う  作者: ハリオアマツバメは泣いた
第二章 役なしは星夜節の脚本を喰う
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第二章 3話 白い旗

ノエは、奥の部屋で眠らなかった。


宿の主人が毛布を二枚重ねてくれた。暖炉に近い部屋を空け、干し草を詰めた寝台も用意した。薄いスープを温め直し、硬いパンも添えた。


けれどノエは、寝台の端に腰を下ろしたまま、器に手をつけなかった。


膝の上で両手を握っている。


指先はまだ赤い。泥は拭き取られていたが、爪の間には黒く残っていた。走ってきた時の息の乱れは少し落ち着いたものの、肩は時々、小さく跳ねる。


戻らなければならない。


黒註は喰った。


だが、それで恐怖まで消えるわけではなかった。


アスターは部屋の入口に寄りかかり、ノエを見ていた。


奥の部屋には、宿の主人、ユアン、イリスがいる。オルドは食堂に残り、兵たちに戸口と裏口の見張りを割り振っていた。夜明け前までは動かない。そう決めた以上、今度はこの宿が小さな砦になる。


外では風が鳴っている。


窓の隙間から入り込む冷気で、蝋燭の火がかすかに揺れた。


「食べないのか」


アスターが言うと、ノエはびくりと肩を揺らした。


「あ……」


「毒なんか入ってないだろ。たぶん」


「アスター」


イリスが低く咎める。


「たぶんは余計です」


「実際、俺が作ったわけじゃない」


宿の主人が困ったように笑った。


笑おうとして、うまく笑えていなかった。


「うちのスープに毒なんか入れませんよ。薄いだけで」


自分でそう言って、主人は器をノエの方へ少し押し出した。


「冷めないうちに。走ってきたんだろう」


ノエは器を見た。


しばらく迷ってから、両手でそっと持ち上げる。口をつける前に、イリスの顔を見た。


「……食べても、いいんですか」


イリスは一瞬だけ表情を止めた。


その言葉が、想像していたより深く刺さったのだろう。


「もちろんです」


「でも、これは、使いの分じゃ」


「あなたの分です」


イリスは静かに言った。


「今ここにいるノエの分です」


ノエは、名前を呼ばれてまた少し戸惑った。


それから、器に口をつけた。


一口目は小さかった。


二口目も、まだ遠慮があった。


けれど三口目から、少しだけ速くなった。腹は減っていたのだ。走ってきた子どもが、腹を空かせていないはずがない。


アスターはその様子を見ながら、喉の奥に残る黒註の苦味を飲み下した。


ノエの肩に絡んでいた黒註は消えている。


少なくとも、「戻れ」と命じる文は、もう見えない。


けれど窓の向こうには、まだ黒い線がある。宿場から北へ伸び、途中でいくつにも分かれていた。まるで夜の中に、細いひびが入っているようだった。


星夜の前に、ひとつ灯りが消える。


ひとつ。


ひとつ。


ひとつ。


さっきから、その文字だけが頭に残っている。


「ノエ」


イリスが呼んだ。


器を持つノエの手が止まる。


「聞きたいことがあります。ただし、答えられることだけで構いません。つらければ、首を振ってください」


ノエは何も言わなかった。


器を握ったまま、膝の上に視線を落とす。


「今夜、あなたはなぜここへ来たのですか」


「封書を届けるためです」


「それは誰に言われましたか」


「マルク助祭様です」


その名前を口にする時だけ、ノエの声は少し整った。


何度も唱えさせられた言葉のようだった。


イリスは続ける。


「マルク助祭は、セレナ修道院でどのような役目の方ですか」


ノエは困ったように眉を寄せた。


「偉い方です」


「院長ではなく?」


「院長様は、お祈りと怪我人のところにいます。マルク助祭様は、道とか、荷とか、門とか、子どもの番を決めます」


道。


荷。


門。


子どもの番。


イリスの目がわずかに細くなった。


アスターにも分かった。


この話は、奥へ行く。


「子どもの番って何だ」


アスターが聞くと、ノエは器を強く握った。


スープが少し揺れる。


「……使いの番です」


「他にもいるのか」


ノエは頷いた。


小さな動きだった。


「何人」


「分かりません」


「同じ場所にいるんじゃないのか」


「います。でも、みんな同じじゃないです」


ノエは言葉を探すように、ゆっくり話した。


「台所の子。薬草の子。包帯を干す子。鐘を鳴らす子。荷車について行く子。旗の子。使いの子」


名前ではない。


役目だ。


アスターは口の中で舌打ちしそうになった。


「名前は」


ノエは黙った。


「お前以外の名前だよ。呼び合ったりしないのか」


「中では、呼びます」


「外では?」


「呼ばない方がいいって」


「誰が言った」


「マルク助祭様です。外で名前を呼ぶと、情が移るから。役目が鈍るからって」


宿の主人が、息を呑んだ。


ユアンの拳が握られる音がした。


イリスは表情を崩さなかった。ただ、膝の上で組んでいた指に、少しだけ力が入る。


「役目が鈍る」


彼女は繰り返した。


声は静かだった。


静かすぎて、余計に冷たく聞こえた。


ノエは慌てて首を振った。


「あ、でも、悪い意味じゃないです。マルク助祭様は、みんなが迷わないようにって。名前で呼ぶと、誰が行くのか分からなくなるから。使いは使い、旗は旗、荷は荷って」


「人間じゃなくなるな」


アスターが言った。


ノエは目を瞬かせた。


本当に、その意味が分からない顔だった。


アスターは言い直す気になれなかった。


分からない方がいいのかもしれない。


けれど、もう分からないままではいられない。


「旗の子というのは」


イリスが言った。


「白い旗を持つ子のことですか」


ノエは器を置いた。


その動きが、さっきより慎重になる。


「……はい」


「何のために持つのですか」


「撃たれないように」


短い答えだった。


部屋の中の空気が、重くなる。


ユアンが低い声で言った。


「誰が撃つ」


ノエは答えなかった。


代わりに、首をすくめる。


「どっちもです」


「どっちも?」


「アルヴァンも、グラストも。遠くからだと、荷車か兵隊か分からないから。白い布を先に出せば、救護の荷だって分かるって」


「それを子どもに持たせるのか」


ユアンの声が少し荒くなる。


ノエはびくりとした。


イリスが視線だけでユアンを制した。


ユアンは唇を噛み、黙る。


ノエは小さく続けた。


「大人が持つ時もあります。でも、大人は荷車を押したり、怪我人を運んだりするから。子どもが先に歩く方が、道が見えるって」


「道が見える?」


「穴とか、ぬかるみとか。あと」


そこでノエは言葉を止めた。


部屋の外で、風が戸を鳴らす。


蝋燭の火がまた揺れた。


アスターは、ノエの続きを待った。


急がせれば、たぶん口を閉じる。


この子は、話したくないのではない。話していいことと悪いことの境目を、誰かに決められすぎている。


「あと、何だ」


なるべく低くならないように聞いた。


ノエは唇を舐めた。


「……先に誰かが撃つか、分かるから」


ユアンが息を止めた。


宿の主人は、顔を背けた。


イリスだけが、ノエから目を逸らさなかった。


「子どもを、試しに歩かせているということですか」


ノエは首を振りかけた。


だが、途中で止まる。


否定したかったのだろう。


マルク助祭様はそんなことをしていない。


修道院は救いの場所だ。


自分たちは役に立っているだけだ。


そう言いたかったのかもしれない。


けれど、言葉は出なかった。


代わりに、膝の上で手が震えた。


黒註はもう、ノエの喉を締めていない。


だから、今ノエが黙っているのは、黒註のせいではない。


本人の恐怖だ。


本人の中に残っている、逆らってはいけないという傷だ。


「全部、言わなくていい」


アスターは言った。


ノエが顔を上げる。


「今聞かれたことに全部答えなくても、お前が悪いわけじゃない」


ノエは、困ったように目を揺らした。


そう言われることに慣れていない顔だった。


「でも、戻らないと」


「戻る話は後だ」


「戻らないと、次の子が行きます」


その言葉で、部屋の全員が動きを止めた。


アスターはノエを見る。


「次の子?」


ノエは、自分が余計なことを言ったと気づいたように口を閉じた。


けれど、もう遅い。


イリスが声を荒げずに聞いた。


「あなたが戻らなければ、別の子が使いに出されるということですか」


ノエは黙っていた。


「ノエ」


イリスの声は柔らかい。


だが、逃がす声ではなかった。


「誰かが行くのですね」


ノエは、小さく頷いた。


「誰が」


「……たぶん、リオ」


「リオ」


名前が出た。


初めてだった。


役目ではなく、誰かの名前。


ノエは、その名前を口にした瞬間、ひどく怯えた顔をした。


「リオは、まだ小さいです」


「何歳くらいだ」


アスターが聞く。


「八つ。たぶん」


「たぶん?」


「分からない子もいます。いつ来たかで数えるから」


いつ生まれたかではない。


いつ修道院へ来たか。


それが、その子どもの年齢の代わりになっている。


アスターは喉の奥に、また苦味を感じた。


黒註の味ではない。


もっと普通の、腹の立つ味だった。


「リオは何の役目だ」


「鐘の子です。朝と夕方に鳴らします。でも足が速いから、使いにも出ます」


「戻らなかった使いの代わりに?」


ノエは答えなかった。


答えなかったが、それで十分だった。


ユアンが、壁を殴りかけて止めた。


拳が途中で固まる。


殴ったところで何も変わらないと分かっている顔だった。


イリスは静かに息を吐いた。


「北門で旗を、と先ほど言いましたね」


ノエの肩が跳ねる。


「それは、あなたが戻った後の役目ですか」


「……はい」


「夜明け前に、北門へ行くように言われていた」


「はい」


「何を通すのですか」


ノエはまた黙った。


今度の沈黙は長かった。


蝋燭の芯が小さく弾ける。


食堂の方から、兵士が歩く音が聞こえた。戸口の見張りが交代しているのだろう。


ノエは膝の上の毛布を握りしめた。


「荷車です」


「何の荷ですか」


「救護の荷です」


「中身は見ましたか」


ノエは首を横に振る。


「子どもは、中を見ません」


「誰が積む」


「大人です。修道士様と、助祭様の人たち」


「助祭様の人たち?」


「マルク助祭様の言うことを聞く人です」


修道院の中に、少なくともマルク助祭の指示で動く人間がいる。


院長とは別に。


イリスの目が細くなる。


「荷車は正門ではなく、北門から出るのですね」


「はい」


「なぜですか」


「正門は、怪我人が多いから。祈りに来る人もいるから。北門は、荷の門です」


言い方は整っていた。


これも、教えられた言葉なのだろう。


荷の門。


外へ出すもの、内へ入れるもの。


人目につかないもの。


そういうものを通すための門。


アスターは窓の外を見た。


北へ伸びる黒註の線が、また少し濃くなる。


ノエから直接伸びているわけではない。けれど、彼の言葉が一つ増えるたび、線の先で眠っていた文字が目を覚ましていくようだった。


白き布は、道を開く。


小さき手は、先に立つ。


名は記されず、荷は運ばれる。


「荷は運ばれる、か」


思わず呟いた。


イリスがこちらを見る。


「新しい文字ですか」


「ああ。北の方に出た。白い布は道を開く。小さき手は先に立つ。名は記されず、荷は運ばれる」


イリスの顔から、少しだけ血の気が引いた。


「荷の記録がない可能性があります」


「どういうことだ」


「正式な救護物資なら、教会の受領記録、修道院側の搬入記録、王宮兵や宿場を通るなら通行記録が残ります。ですが、黒註が“名は記されず”と出ているなら」


「誰が運んだかも、何を運んだかも、残らない?」


「可能性です」


イリスは、そう付け加えた。


断定しない。


だが、その声には迷いよりも警戒があった。


裁判で、証拠と証言が人を殺す様を見た女だ。


記録が残ることの怖さも、記録が残らないことの怖さも知っている。


「王宮兵の立場から言えば」


入口にいたオルドが、いつの間にか部屋の前に立っていた。


話を聞いていたらしい。


「夜明け前に北門から出る荷車など、止める理由にしかならん」


ユアンが振り返る。


「隊長」


「だが、現時点では推測だ。子どもの話と、アスターの見ている黒註。それだけで修道院を押さえることはできない」


「では」


イリスが問う。


「夜明けを待つ。予定通り動く」


オルドの声は冷静だった。


「ただし、引き渡しではない。まずは正式に事情を確認する。ヴァルクライン嬢の移送についても、夜明け前の変更には応じない。私はそう判断した」


ユアンが少しだけ安堵した顔をする。


しかし、アスターは北の線を見ていた。


夜明けを待つ。


その言葉に、黒註が微かに揺れる。


夜明け前に、北門へ。


その文字は、まだ残っている。


「待ってる間に、リオって子が走らされるんじゃないのか」


アスターが言うと、部屋の空気がまた止まった。


ノエが膝の上で手を握る。


「……行きます」


小さな声だった。


「たぶん、行きます。僕が戻らなかったら、リオか、ミナが」


「ミナ?」


「薬草の子です。足は速くないけど、道を覚えてます」


名前がまた一つ出た。


リオ。


ミナ。


顔は見えない。


けれど、黒い線の先で枝分かれした細い筋が、その名前に触れた気がした。


「止める方法は」


アスターが聞いた。


誰に聞いたのか、自分でもよく分からなかった。


オルドは答えない。


イリスも、すぐには答えない。


宿の主人が、苦しそうに口を開いた。


「こっちから人を出せば、知らせを届けられるかもしれません。セレナに、ノエは戻せないと。代わりの子を出すなと」


「誰を出す」


オルドが問う。


主人は言葉に詰まる。


夜道は危険だ。


だから子どもを走らせてきた。


大人も危ない。


兵を出せば、宿の守りが薄くなる。


避難民を出すわけにはいかない。


商人は拒む。


全員が、それを分かっていた。


仕方ない。


また、その言葉が床に積もる。


アスターは舌打ちした。


「だったら俺が行く」


「駄目です」


イリスが即座に言った。


速かった。


アスターは眉をひそめる。


「何でだよ」


「あなたが一人で夜道に出れば、黒註の筋道に引き込まれる可能性があります」


「見えてるんだから、避ければいいだろ」


「見えているからこそ、近づくのではありませんか」


返す言葉が一瞬遅れた。


イリスはその隙を逃さなかった。


「あなたは、目の前で誰かが死ぬと見えれば動く。今もそうです。ですが、その動き自体を黒註に使われる可能性があります」


「俺が行くことまで脚本のうちって言いたいのか」


「断定はしません。ただ、否定もできません」


嫌な言い方だった。


だが、間違っているとも言えない。


黒註は、人の恐れや怒りや善意に道をつける。


なら、アスターが黒註を嫌って動くことさえ、どこかの筋道に使われるかもしれない。


それを考えると、腹の底が冷える。


「じゃあ、何もしないのか」


「何もしないとは言っていません」


イリスはノエへ視線を戻した。


「ノエ。修道院から宿場へ向かう道は、一つだけですか」


ノエは首を横に振った。


「正道と、畑の横の道があります。でも夜は、畑の方は使いません。穴があるから」


「修道院から代わりの子が出るなら、どちらを通りますか」


「正道です」


「目印は?」


「白い枝があります。古い井戸のところ。そこを過ぎると、宿場の灯りが見えます」


イリスはオルドを見た。


「宿場から見張れる場所はありますか」


オルドが少し考える。


「北側の物見櫓なら、正道の一部が見える。古井戸までは無理だが、灯りを持って来れば分かる」


「では、こちらから出るのではなく、来る者を待つことはできます。代わりの子が出された場合、宿場へ入る前に保護する」


「修道院への伝言は?」


「王宮兵の正式な返答として、夜明け後に持参すればよいでしょう。夜間の移動は危険なため受け入れられない。ノエは体調不良により保護した、と」


オルドはイリスを見た。


しばらく黙ってから、低く笑った。


「罪人として送られているにしては、ずいぶん指示が具体的だな」


「元公爵令嬢ですので」


イリスは淡々と返した。


「こういう言い訳の整え方は、見慣れています」


その言葉には、自嘲がほんの少しだけ混じっていた。


アスターはイリスを横目で見る。


この女は、こういう場で役に立つ。


王都では、そういう力が彼女を縛ったのかもしれない。記録、手続き、言い方、責任の所在。すべてが人を守るためにも、人を殺すためにも使える。


今は、少なくともノエを戻さないために使っている。


それでいい。


今は。


「ユアン」


オルドが言った。


「北の物見へ上がれ。二人連れていけ。子どもの姿が見えたら、宿場の中へ入れる。追手がいる場合は交戦せず、門を閉じろ」


「はい」


ユアンの返事は早かった。


彼はすぐに部屋を出ようとして、ノエを見た。


言葉を探している顔だった。


結局、何も言わずに一礼だけして出ていった。


不器用だが、それでよかった。


ノエは、言葉を受け取る余裕もなさそうだったから。


宿の主人も立ち上がる。


「私は湯を沸かしてきます。ノエ、足を温めた方がいい」


ノエは小さく頷いた。

















主人が出ていき、部屋にはアスターとイリス、オルド、ノエだけが残る。


蝋燭の火が短くなる。


夜明けまでは、まだある。


けれど、夜はもう真ん中を過ぎていた。


「ノエ」


アスターは言った。


「リオとミナ以外にも、名前を覚えてる子はいるか」


ノエは少し迷った。


「……カイ」


「何の子だ」


「荷の子です。力が強いから。あと、セナ。包帯の子。ルルは、泣くと怒られるから、あんまり泣かないです」


一人ずつ、名前が出てくる。


カイ。


セナ。


ルル。


そのたび、北へ伸びる黒い線の先で、薄い文字が微かに揺れた。


まだ顔も知らない。


声も知らない。


けれど、役目ではない名前が、少しずつ夜の中に浮かび上がっていく。


アスターは息を吐いた。


「結構いるな」


ノエは頷いた。


「でも、外では名前を呼びません」


「何で」


「その方が、迷わないから」


またそれか。


アスターは何か言いかけて、やめた。


怒鳴ったところで、ノエが怯えるだけだ。


「ノエ」


イリスが言った。


「あなたは、名前で呼ばれるのが嫌ですか」


ノエは驚いたように顔を上げた。


考えたこともなかった、という顔だった。


「……分かりません」


「では、今はノエと呼びます。嫌になったら言ってください」


「嫌って言っても、いいんですか」


「はい」


ノエは長く黙った。


それから、本当に小さく頷いた。


「……今は、嫌じゃないです」


その瞬間、窓の外で黒い線がわずかに揺れた。


大きく変わったわけではない。


何かが解決したわけでもない。


ただ、北へ伸びる線のうち、一本だけが少し薄くなった。


アスターはそれを見ていた。


黒註は、人を役目へ押し込む。


なら、名前を呼ぶことは、ほんの少しだけその逆にあるのかもしれない。


そんなふうに考えてしまって、すぐに顔をしかめた。


らしくない。


だが、見えたものは仕方ない。


「アスター」


イリスがこちらを見る。


「何か?」


「いや」


「言ってください」


「名前で呼んだら、線が少し薄くなった」


イリスは黙った。


その沈黙は、考えている沈黙だった。


「名前は、役割から人を引き戻すのかもしれません」


「また面倒な話になりそうだな」


「すでになっています」


「それもそうか」


アスターは壁に背を預けた。


喉の苦味はまだ残っている。


けれど、さっきより少しだけ呼吸がしやすい。


ノエはスープを半分ほど飲み終え、毛布に包まれたまま目を伏せている。眠いのだろう。眠いはずだ。それでも寝るのが怖いのか、時々はっと目を開ける。


「寝ろ」


アスターが言うと、ノエは首を振った。


「寝たら、朝になります」


「なるな」


「朝になったら、戻らないと」


「戻らなくていいって言っただろ」


「でも、朝は来ます」


その言い方が、妙に引っかかった。


朝が来る。


それは普通なら、悪いことではない。


暗い夜が終わる。寒さが少し緩む。人が動き出す。道が見える。


だがノエにとっての朝は、戻る時間だった。


役目が始まる時間だった。


誰かの代わりに走る時間だった。


「朝が来ても」


イリスが言った。


「今日だけは、同じ朝にはしません」


ノエは、イリスを見た。


信じたわけではない。


けれど、ほんの少しだけ、目の奥が揺れた。


その時、廊下を走る足音が聞こえた。


ユアンではない。


もっと軽い足音だ。


入口にいた兵が何かを言い、すぐに扉が開いた。


顔を出したのは、物見に上がっていた兵の一人だった。息が上がっている。


「隊長」


オルドが立つ。


「どうした」


「北の道に灯りが一つ。小さいです。子どもかもしれません」


ノエの顔から血の気が引いた。


「リオ……」


名前が落ちる。


蝋燭の火が揺れる。


アスターの視界で、北へ伸びる黒註が一気に濃くなった。


小さき手は、旗を運ぶ。


名なき子は、夜の道を走る。


星夜の前に、ひとつ灯りが消える。


まだ夜は終わっていない。


ノエ一人を止めても、黒註は次の子どもを選ぶ。


アスターは扉へ向かって歩き出した。


「待て」


オルドの声が飛ぶ。


「勝手に出るな」


「分かってる」


分かっている。


一人で飛び出せば、黒註に使われるかもしれない。


分かっているが、足は止まらない。


イリスも立ち上がった。


「物見へ行きます」


「君はここに残れ」


オルドが言う。


イリスは首を横に振った。


「子どもを見分けられるのはノエです。けれどノエを外へ出すべきではありません。なら、私が聞き取った特徴をユアンに伝えます」


「特徴など」


「八歳前後。鐘の子。足が速い。おそらく、灯りを低く持つ。修道院の子は、胸元に白い布を縫いつけています」


オルドは一瞬だけ黙った。


それから、短く命じる。


「アスター、ヴァルクライン嬢、私と来い。ノエはここに残す。宿の主人を呼べ。扉を閉めろ」


ノエが寝台から立ち上がろうとした。


「僕も」


「駄目だ」


アスターは即座に言った。


ノエが肩を震わせる。


強く言いすぎた。


だが、今は柔らかく言い直す余裕がない。


アスターは少しだけ声を落とした。


「お前が戻ったら、さっき喰った意味がない」


ノエは何か言おうとして、唇を噛んだ。


イリスがそばに膝をつき、ノエの毛布をかけ直す。


「ここで待っていてください。あなたが話してくれたから、私たちは気づけました」


ノエの目に涙が浮かんだ。


今度は、泣くことを我慢しきれなかったらしい。


「リオを」


声が掠れる。


「リオを、戻さないで」


アスターは返事をしなかった。


約束できるほど、確かなものは何もない。


だが、何も言わずに扉へ向かうこともできなかった。


「見つける」


それだけ言った。


助ける、とは言わなかった。


救う、とも言わなかった。


ただ、見つける。


今のアスターに言えるのは、そこまでだった。


部屋を出ると、食堂の空気はまた変わっていた。


兵たちが動いている。宿の主人は青い顔で湯を置き、奥の部屋へ向かっていった。避難民たちは声を潜め、子どもを抱き寄せている。


戸口の星飾りが揺れていた。


まだ灯りの入らない、小さな星。


外へ出ると、夜の冷たさが一気に肺へ刺さった。


空の雲は少しだけ薄くなり、裂け目から星がいくつか見えている。けれど、朝にはまだ遠い。宿場の柵の向こうは黒く、そのさらに奥に、北へ続く道が沈んでいる。


物見櫓の上で、ユアンがこちらを振り返った。


「灯りが、止まりました」


「どこだ」


オルドが問う。


ユアンが北の闇を指す。


「古井戸の手前です。何かに迷っているように見えます」


アスターは目を凝らした。


現実の灯りは、まだ見えにくい。


だが、黒註ははっきり見えた。


細い線が、夜道の途中で震えている。


その先に、小さな影がある。


そして、その影の前に、白い布のようなものが揺れていた。


白い旗。


黒註が、その布の縁に絡みつく。


撃つな。


進め。


先に立て。


名は要らない。


アスターの喉に、苦味が戻ってくる。


まだ遠い。


喰える距離ではない。


今まさに押している文なのに、手が届かない。


「くそ」


思わず声が漏れた。


イリスが隣で息を呑む。


「見えていますか」


「ああ」


「まだ喰えない?」


「遠い」


その事実が、腹立たしかった。


見えている。


分かっている。


けれど届かない。


黒註は、そういう距離で平然と人を動かす。


ユアンが櫓の上から叫んだ。


「こちらへ来ます。ですが、遅い。誰かに追われている様子はありません」


「門を開ける準備をしろ」


オルドが命じる。


兵たちが動く。


アスターは北の闇を睨んだ。


小さな灯りが、少しずつ近づいてくる。


一歩。


また一歩。


白い布が揺れる。


それがリオなのか、別の子なのかはまだ分からない。


だが、一つだけ分かる。


ノエを止めても、夜は終わらなかった。


名なき子は、次の名なき子へ役目を渡される。


その仕組みが、セレナ修道院の中にある。


アスターは、冷えた手を握った。

読んでいただきありがとうございます♪

感想、リアクション等いただけると幸いですm(__)m

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