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勇者でも魔王でもない俺は、物語に殺される君を救う  作者: ハリオアマツバメは泣いた
第二章 役なしは星夜節の脚本を喰う
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第二章 2話 名なき子

黒註の話を聞く。


そう言ったはいいが、宿場の夜は、話をするには向いていなかった。


壁の薄い食堂には、まだ人が残っている。負傷した補給兵が奥の部屋へ運ばれ、床には乾ききらない泥の跡が続いていた。王宮兵たちは入口近くに集まり、明日の道順と護衛の数を低い声で確かめている。宿の主人は、冷めたスープの器を片づけながら、何度も戸口の方を見た。


風が吹くたび、戸に掛けられた木の星飾りが揺れる。


乾いた木片同士が、こつ、こつ、と小さく触れ合った。


星夜節が近いらしい。


王都の聖譚祭ほど派手ではない。白い布も、金色の飾りも、聖歌隊の行列もない。ただ、宿場の窓辺や戸口に、小さな星が吊るされている。木を削っただけのもの。錆びた銀色のもの。子どもの手で塗ったのか、色がはみ出したもの。


戦場に近い宿場には似合わない。


だから余計に、目についた。


俺は食堂の隅に座り、卓の上のスープを見ていた。豆と塩だけの薄いスープだ。湯気はもう消え、表面に膜が張りかけている。腹は減っているはずなのに、手をつける気になれなかった。


北へ伸びる黒い線が、まだ消えない。


床板の上に描かれているわけじゃない。戸口から外へ続いているわけでもない。現実には何もない。ただ、俺の目には、宿場の空気の奥から、夜の道へ向かって細い黒が引かれているように見えた。


小さき手は、旗を運ぶ。


名なき子は、夜の道を走る。


星夜の前に、ひとつ灯りが消える。


読むたびに、喉の奥が重くなる。


処刑台で見たものと同じだ。けれど、あの時より細い。王都中を巻き込むような太い流れではない。もっと小さく、もっと狭い。誰か一人の足を、決まった場所へ向けるためだけの黒註。


それでも、人ひとりを死なせるには十分なのだろう。


「北の道は、夜のうちは閉じる」


オルドの声がした。


王宮兵たちの中でも、彼の声はよく通る。怒鳴っているわけではないのに、周りが自然に耳を向ける声だった。


「出発は夜明け後だ。セレナ修道院への引き渡しは、予定通り昼前。余計な変更はしない」


「修道院側から使いが来た場合は?」


若い兵士、ユアンが尋ねた。


オルドがわずかに眉を動かす。


「使い?」


口を挟んだのは、宿の主人だった。


「この時期は、来ることがあります。薬が足りない、毛布が足りない、負傷兵を受け入れた、誰それを戻す。そういう知らせを、夜でも寄こすんです」


「誰が来る」


「修道院の子です」


その言葉で、食堂の空気が少しだけ固まった。


俺は顔を上げた。


「子?」


宿の主人は、言わなければよかったという顔をした。だが、一度口に出したものは戻らない。


「教会預かりの子どもです。道を覚えている子が多いので。大人は、負傷兵や避難民の対応で手が離せませんから」


「夜道を子どもに走らせるのか」


俺が聞くと、主人はすぐに答えなかった。


視線だけが、卓の上の器へ落ちる。


「……昔から、そういうことはありました」


「昔から?」


「ここでは、です。王都とは違います。人が足りないんです。誰も彼も、何かを運ばなきゃならない。薬も、包帯も、知らせも、旗も。大人が倒れたら、子どもが走る。そうしなければ、助からない人もいる」


言い訳ではあった。


ただ、嘘ではないのだろう。


宿の主人は悪人には見えなかった。むしろ、見たくないものを何度も見て、そのたびに少しずつ目を伏せるのがうまくなった人間の顔だった。


「小さい方が、撃たれにくい時もあります」


誰かが言った。


王宮兵ではない。壁際に座っていた避難民の男だった。膝に毛布をかけ、両手で器を抱えている。声は乾いていた。


「兵は、子どもなら見逃すことがある。大人が旗を持って歩くより、まだましだと……そう言う者もいます」


食堂の中で、誰もすぐには反論しなかった。


それが、この宿場の怖さだった。


子どもを夜道に走らせることを、誰も良いとは思っていない。


だが、誰もはっきり悪いとも言い切れない。


仕方ない。


その言葉が、暖炉の灰みたいに食堂の床へ薄く積もっている。踏めば舞い上がるが、すぐまた沈む。息をしているだけで、少しずつ肺に入ってくる。


俺は北へ伸びる黒い線を見た。


仕方ない。


その言葉の形をした黒註が、どこかで子どもの足を押しているように見えた。


「アスター」


隣から、イリスの声がした。


彼女は壁際の席に座っていた。目立たない灰色の外套をまとい、髪も簡単にまとめている。それでも、背筋の伸び方だけは隠せない。宿場の暗い食堂では、かえってその静けさが浮いて見えた。


「見えているのですね」


小さな声だった。


兵たちには聞こえない。


「見えてる」


「文字は?」


「さっきと同じだ。小さき手は旗を運ぶ。名なき子は夜の道を走る。星夜の前に、ひとつ灯りが消える」


口にすると、胃の底が冷えた。


イリスは目を伏せた。


「黒註は、役割そのものではありません」


「今、説明する話か」


「今しなければ、間に合わないかもしれません」


その声に、余裕はなかった。


教えるための説明ではない。自分の知っている断片を、急いでこちらへ渡そうとしている声だった。


俺は黙る。


イリスは、言葉を選びながら続けた。


「私がその名を見たのは、教会本部の古い記録です。聖譚の本文ではなく、余白に現れる註。人が役割へ押し込まれる時、その行動を細かく導く文だと書かれていました」


「導く?」


「誰が黙るか。誰が証言するか。誰が門へ向かうか。誰が荷を運ぶか。そういう、小さな筋道です」


処刑台の光景が、頭の奥でよみがえる。


悪女は裁かれるべきだ。


証人は黙るべきだ。


民衆は叫ぶべきだ。


あの黒い文字は、人の心を丸ごと作り替えているようには見えなかった。元からある恐れや怒りや保身に、進むべき道を示していた。


こっちへ行け。


そうすれば、お前は物語の中で正しい役になれる。


そんなふうに。


「じゃあ、喰えるのは」


「その文が、今まさに誰かを押している時だと思います。少なくとも、裁判台ではそうでした」


「思います、か」


「私は、あなたのように見えているわけではありません」


イリスは正直に言った。


「けれど、あなたが何かを喰った後、人の動きが変わった。ミラは黙り続けることをやめ、私は処刑台で死なずに済んだ。役割から完全に自由になったわけではありません。それでも、一歩だけ違う方へ動けるようになった」


一歩だけ。


小さい。


けれど、その一歩で首が落ちるか落ちないかが決まる時もある。


食堂の戸が、風で小さく鳴った。


ユアンが反射的に振り返る。


その直後、扉が叩かれた。


一度ではない。


弱く、短く、何度も。


宿の主人の顔色が変わる。


「……来た」


誰が、とは言わなかった。


言わなくても分かった。


ユアンが戸口へ向かい、閂を外す。冷たい風が一気に入り込み、卓上の火が揺れた。星飾りが大きく揺れ、木片がかちかちと乾いた音を立てる。


戸口に立っていたのは、子どもだった。


背は低い。年は十二か、十三くらい。大人の古着を詰めたような外套を着ているが、肩のあたりが合っていない。裾には泥が跳ね、膝の辺りは濡れて黒くなっていた。


息が荒い。


頬は赤く荒れ、唇は紫に近い。


泣いてはいなかった。


泣く暇がなかったのかもしれない。


胸元には、白い布が縫いつけられている。星と杯を組み合わせた印。セレナ修道院のものだろう。


その手には、封書が握られていた。


「セレナ修道院からです」


かすれた声だった。


宿の主人が慌てて近づこうとしたが、子どもはその場で姿勢を正した。正そうとして、膝が震える。


「王宮兵の方へ。急ぎです」


オルドが前へ出た。


「誰の命令だ」


「マルク助祭様です」


「なぜ子どもを一人で寄こした」


子どもは、答えなかった。


答えられないというより、答えるための言葉を持っていない顔だった。


少しの沈黙のあと、子どもは言った。


「使いですから」


黒註が濃くなった。


俺の視界で、子どもの肩から喉元へ、黒い文字が絡みつく。


名なき子は、夜の道を走る。


伝え終えれば、役目は終わる。


戻れ。


子どもは封書を差し出したまま、唇を噛んでいる。


寒さで震えているだけではない。


戻らなければならない。


そう体に書き込まれているようだった。


オルドが封書を受け取り、蝋を確かめる。


「セレナの封だ」


「開けてください」


イリスが言った。


オルドは一瞬だけ彼女を見た。


罪人として送られている女の言葉だ。従う義理はない。だが、目の前には泥だらけの子どもがいる。封を開ける理由としては、それで十分だった。


オルドが封を切り、文面に目を走らせる。


表情が少しずつ硬くなった。


「ヴァルクライン嬢の受け入れを、夜明け前に早めたいとある」


ユアンが顔を上げた。


「夜明け前?」


「北道の混乱が予想されるため、暗いうちに移動した方が安全。修道院側で別門を開け、王宮兵のみを受け入れる。余分な同行者は宿場で待機」


余分な同行者。


たぶん、俺のことだ。


笑いかけたが、うまく笑えなかった。


イリスの引き渡しを早める。王宮兵だけを入れる。俺は置いていく。そこに、子どもを一人で夜道に走らせる理由がくっついている。


偶然で済ませるには、形が整いすぎていた。


「その子は」


イリスが静かに聞いた。


「返事を持って戻るよう命じられているのですか」


子どもの肩が震えた。


黒註が、喉元で太くなる。


戻れ。


夜明け前に、北門へ。


小さき手は、旗を運ぶ。


俺は立ち上がった。


椅子の脚が床を擦り、食堂中の視線がこちらへ集まる。


ユアンが反射的に手を動かした。腰の剣に触れかける。オルドが目だけで止めた。


「お前」


俺は子どもの前に立った。


近くで見ると、ひどい顔だった。疲れている。寒がっている。怖がっている。けれど、それを顔に出してはいけないと、何度も言われてきた子どもの顔だ。


「名前は」


子どもは、きょとんとした。


質問の意味が分からない、というより、そんなことを聞かれると思っていなかった顔だった。


「名前だよ。呼ばれてるだろ」


「使いです」


「それは役目だ」


俺は言った。


「名前を聞いてる」


子どもは封書を持っていた手を握りしめた。


「修道院の外では、名乗らなくていいと」


「誰に」


「マルク助祭様に。用が済んだら、すぐ戻れって。北門で、旗を」


そこまで言って、子どもははっと口を閉じた。


黒い文字が喉を締めるように巻きつく。


言うな。


戻れ。


名は要らない。


子どもの呼吸が浅くなる。


宿の主人が一歩前に出た。


「もういいでしょう。子どもです。奥で休ませて」


「休ませたら、戻れない」


ユアンが言った。


自分で言ってから、しまったという顔をした。


俺はそちらを見る。


ユアンは悪人ではない。たぶん、この子を本気で心配している。だが同時に、封書と命令の重さも知っている。戻らなければ困る。返事を持たせなければ、明日の道が変わる。修道院側との取り決めが崩れる。


そういう考えが、黒註の流れに少しだけ重なっていた。


使いは戻るべきだ。


伝令は役目を終えるべきだ。


子どもでも、旗は運べる。


文字は、食堂のあちこちに薄く滲みかけている。


俺は舌打ちした。


「イリス」


「はい」


「今、こいつを押してる文なら喰えるんだな」


イリスは迷わなかった。


「可能性はあります」


「失敗したら」


「分かりません」


「便利な答えだな」


「正確な答えです」


こんな時まで律儀に言い返す。


少しだけ、息がしやすくなった。


俺は子どもへ手を伸ばす。


肩に触れるのではない。


喉元に絡みついている黒い文へ、指をかける。


他の者には、俺が何をしているように見えただろう。たぶん、空を掴もうとしているだけだ。子どもの首元に手を伸ばす、怪しい役なしにしか見えない。


ユアンが一歩出かけた。


「何を」


「待て」


オルドが短く止める。


その声で、食堂の空気が固まった。


俺の指先に、冷たいものが触れた。


紙じゃない。


糸でもない。


けれど、確かに掴める。濡れた煤を指でつまんだような、嫌な感触だった。力を入れると、黒い文字が子どもの喉元から剥がれかける。


子どもが小さく呻いた。


戻れ。


黒註が、抵抗するように濃くなる。


夜明け前に、北門へ。


名は要らない。


俺は奥歯を噛んだ。


処刑台の時より細い。


けれど、しぶとい。


聖女や悪女を動かす大きな筋道ではない。戦争そのものでもない。ただ、一人の子どもを夜道へ戻すためだけの短い文。


それなのに、子どもの足を動かすには十分すぎるほど強い。


「ふざけんな」


声が漏れた。


「子ども一人走らせるのに、いちいちもっともらしい文を書くな」


黒い文字を引き剥がす。


喉の奥に、あの味がせり上がった。


煤。


血。


冷えた鉄。


俺はそれを、噛み潰すように喰った。


一瞬、視界が暗くなる。


腹の底へ重いものが落ち、胃がひっくり返りそうになった。卓に手をつかなければ、そのまま膝をついていたかもしれない。


食堂の誰かが息を呑んだ。


子どもは、糸が切れたようにその場へ座り込んだ。


「戻らなきゃ」


小さく言った。


「戻らなきゃ、いけないのに」


声が震えている。


けれど、さっきとは違った。


体が命令に従おうとしている声ではない。戻らなければ叱られると知っている子どもの声だった。


それなら、まだましだ。


恐怖なら、人のものだ。


黒註ではない。


イリスが膝をついた。


汚れた床に膝を置くことを、少しもためらわなかった。


「戻らなくていい」


子どもと目線を合わせ、彼女は言った。


「少なくとも、今夜は」


子どもはイリスを見た。


公爵令嬢だった女。


罪人として送られている女。


けれど今、その子どもにそんなことは分からないだろう。ただ、怒鳴らない大人が目の前にいる。それだけで、目の奥が揺れた。


「名前を教えてください」


イリスはもう一度言った。


「役目ではなく、あなたの名前を」


子どもは唇を震わせた。


長い沈黙だった。


宿の外で風が鳴る。戸口の星飾りが揺れ、木片が小さく触れ合う。


やがて、消えそうな声が落ちた。


「ノエ」


黒註の一部が、ほどけた。


名なき子。


その文字だけが、薄くなる。


完全に消えたわけではない。北へ伸びる黒い線は残っている。セレナ修道院の方角には、まだ濃いものが沈んでいる。


それでも、今この場で、子どもは名前を取り戻した。


たったそれだけで、黒註の筋道はわずかに歪んだ。


ノエは両手で顔を覆った。


泣き声は出なかった。ただ、肩だけが小さく震えている。


宿の主人が慌てて毛布を持ってきた。さっきまで言い訳をしていた男の手は、今は本当に急いでいた。悪人ではない。見ないふりに慣れすぎていただけだ。


ユアンも、剣の柄から手を離した。


「子どもに旗を運ばせるって」


低い声だった。


「何の旗だ」


ノエは答えない。


答えたくないのではなく、息が整っていない。


代わりに、壁際の避難民の女が口を開いた。膝元にいる幼い子の耳を、片手で塞いでいる。


「白い旗なら、見ました」


ユアンがそちらを向く。


「どこで」


「修道院の方です。荷車の前に、白い布をつけた子が立っていました。兵士は撃たないから、先に歩けって……そういうものかと」


「子どもを先に歩かせたのか」


ユアンの声が震えた。


怒りか、恐怖か、自分でも分かっていない顔だった。


黒註が、また薄く滲む。


小さき手は、旗を運ぶ。


俺はそれを見た。


さっき喰った文と、まだ残っている文。


ノエ一人の足は止めた。


だが、線そのものは消えていない。


セレナ修道院には、名前を呼ばれない子どもが他にもいる。使いとして走る子どもがいる。旗を持たされる子どもがいる。誰かの代わりに前を歩かされる、小さな手がある。


星夜の前に消える灯りは、ノエだけとは限らない。


「夜明け前には動かん」


オルドが言った。


声は低かったが、食堂にいる全員へ届いた。


「子どもはここに置く。返事も出さない。ユアン、戸口を見張れ。宿の主人、奥の部屋を一つ空けろ」


「は、はい」


「外から誰か来ても、私が許可するまで開けるな」


宿の主人が何度もうなずいた。


ノエは毛布に包まれ、主人に支えられて奥へ連れていかれる。歩きながら、一度だけ振り返った。


俺と目が合う。


ノエは何か言おうとした。


けれど、声にはならなかった。


礼ならいらない。


そう言う前に、ノエは奥の部屋へ消えた。


食堂には、冷えた沈黙が残った。


誰も、自分が悪いとは言わない。


誰も、自分は関係ないとも言えない。


宿場という場所は、そうやって成り立っているのだろう。戦っている国の外側で、戦争に触れないふりをしながら、戦争に必要なものを運ぶ。兵士を寝かせ、避難民を詰め込み、子どもを走らせる。


仕方ない。


その言葉が、まだ床に積もっている。


俺は卓に手をついたまま、ゆっくり息を吐いた。


喉が痛い。


口の中に、黒註の苦味が残っている。水を飲んでも消えないだろう。あの味は、体ではなく記憶に残る。


イリスがこちらを見た。


「大丈夫ですか」


「大丈夫に見えるか」


「見えません」


「じゃあ聞くな」


「聞かなくても、答えは変わりませんので」


「面倒な女だな」


「あなたほどではありません」


即答されて、少しだけ顔をしかめた。


けれど、そのやり取りのおかげで、食堂の空気がほんのわずかに動いた。ユアンが小さく息を吐く。宿の主人が奥の扉を閉める音がする。誰かが、冷めたスープをようやく口に運んだ。


終わったわけではない。


ただ、固まっていたものが少しだけ動いた。


俺は食堂の扉の方を見た。


黒い線は、まだ北へ伸びている。


ただ、さっきとは形が違った。


ノエへ絡みついていた線は途切れている。けれど、その先で、細い線がいくつにも枝分かれしていた。夜の道の向こうで、まだ顔も知らない子どもたちの足元を探すように。


小さき手は、旗を運ぶ。


星夜の前に、ひとつ灯りが消える。


その文字は、まだ残っている。


いや。


よく見ると、一つではなかった。


薄い文字が、線の先でいくつも重なっている。


ひとつ。


ひとつ。


ひとつ。


灯りが消える。


俺は奥歯を噛んだ。


一人止めれば終わるほど、親切な話ではないらしい。


「イリス」


「はい」


「黒註ってのは、喰っても喰っても湧くのか」


イリスはすぐには答えなかった。


窓の外では、雲の切れ間に星が一つだけ戻っていた。小さい。今にも消えそうな光だった。


「人が、誰かを名前ではなく役目で呼ぶ限りは」


彼女は静かに言った。


「おそらく」


俺は短く笑った。


「最悪だな」


「ええ」


イリスは否定しなかった。


宿の外で、また風が戸を鳴らす。


星夜節はまだ来ていない。


家々に灯りを置く夜は、もう少し先だ。


だが、その前に消されるはずだった小さな灯りが一つ、今は宿の奥で震えながら息をしている。


それだけでは足りない。


けれど、ゼロではない。


俺は、北へ続く黒い線を見た。


その先に、セレナ修道院がある。

読んでいただきありがとうございます♪

感想、リアクション等いただけると幸いですm(__)m

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