第二章 1話 北西国境へ
舞台は移って…
王都を出て三日目、白い石畳は泥に負けた。
はじめの半日は、まだ都の匂いが残っていた。磨かれた道、白い塀、祈りの句を刻んだ道標。けれど北へ進むにつれて道は少しずつ荒れ、轍には雨水が溜まり、枯れ草の上を冬の風が低く渡るようになった。
アスターは外套の襟を上げた。
寒い。
王都にいた時より、風の刺さり方が違う。白い石壁に囲まれていた時は気づかなかったが、都の外の冬は、皮膚だけでなく骨の隙間まで探ってくるようだった。
背後には、あの白い都がある。
悪女を裁くために広場へ集まり、悪女が死なないと知ると、今度は何を信じればいいのか分からなくなった都。アスターを英雄とも罪人とも決めきれず、結局、都の外へ押し流した場所。
前には、北西国境へ続く街道がある。
「次の宿場で一泊する」
先頭を歩く王宮兵が言った。
名はオルド。王都を出る時、そう名乗った。年は四十を過ぎているだろう。必要なことしか言わず、歩く時も休む時も、無駄な動きをしない。兵士というより、長く道を歩き慣れた男だった。
「明日の昼には、セレナ修道院のある町に着く。ヴァルクライン嬢の引き渡しはそこで行う」
ヴァルクライン嬢。
その呼び方に、アスターは横目で隣を見た。
イリス・ヴァルクラインは、薄い灰色の外套をまとって歩いていた。髪は目立たないよう後ろでまとめられ、宝石も飾りもない。それでも、彼女は旅人には見えなかった。
背筋が伸びすぎている。
足元の泥を避ける仕草ひとつにも、育ちが出る。王都の広場で処刑されるはずだった女は、今は王宮兵に前後を挟まれ、北西国境近くの修道院へ送られていた。
罪人ではない。
けれど、自由でもない。
「寒くないのか」
アスターが聞くと、イリスは少しだけこちらを見た。
「寒いです」
「そうか」
「ですが、寒いと言ったところで、暖かくなるわけではありません」
「それはそうだな」
会話はそこで切れた。
王都を出てから、二人の間には、こういう沈黙が増えていた。
処刑台の上では、言葉を選んでいる余裕などなかった。黒い文字が、人の死を当たり前の結論みたいに並べていた。この女曰く、黒註、だったか。
名前をつけられたところで、気味の悪さが減るわけではない。けれど、呼び名があるだけ、まだ考える余地はある。
あの時、黒註はイリスの死を示していた。
アスターはそれが気に食わなかった。だから喰った。だから叫んだ。だから手を伸ばした。
それだけだった。
けれど、助けた後のことまでは知らない。
イリスが礼を言えば、アスターは居心地が悪くなる。アスターが何でもない顔をすれば、イリスはそれ以上踏み込まない。そのせいで二人は、必要なことだけを話し、必要でないことを互いに飲み込んで歩いていた。
「アスター」
イリスが声を落とした。
「あなたは、本当に北西国境を越えるつもりなのですか」
「王都へ戻るなって言われてる」
「質問に答えていません」
「国境まで行ってから考える」
「それは、考えていない人の答えです」
「よく分かったな」
アスターが言うと、イリスは呆れたように息を吐いた。
以前なら、公爵令嬢のそういう仕草に腹を立てていたかもしれない。だが今は、不思議と嫌ではなかった。
少なくとも彼女は、アスターを恩人として扱おうとしない。
それが少しだけ楽だった。
「王都へ戻るな」
第二王子レオナールが最後に告げた言葉は、たぶん、都の門をくぐるなというだけの意味ではない。
王都リュミエールを治める今の王家の名を取って、この国は正式にはリュミエール王国と呼ばれているらしい。王朝が変われば、国の正式な呼び名も変わる。古い記録には、別の王家の名を冠した国名も残っていると、道中でイリスが教えてくれた。
けれど、この土地では王政そのものが途切れたことはない。
王家の名が変わっても、王がいて、貴族がいて、教会が白い石の上に立ち続けてきた。だから民も兵も、周辺国の者でさえ、細かな王朝名ではなく、ただ「王国」と呼ぶ。
レオナールがアスターに伝えたかったのは、その王国の中心に戻るな、ということだったのだろう。
王都だけではない。
リュミエールの王家が目を届かせる場所から、しばらく姿を消せ。
そう受け取れば、兵たちがアスターを北西国境まで運んでいる理由も分かる。
王都に置いておくには邪魔だ。
罰するには面倒だ。
褒めるには、もっと面倒だ。
ならば、外へ出す。
それだけの話だった。
「あなたは、もっと怒ってもいい立場です」
イリスが言った。
「誰に」
「王宮に。教会に。私に」
「最後のは何だ」
「私を助けたせいで、あなたは王都に居場所を失いました」
アスターは鼻で笑いかけて、やめた。
イリスの顔が真面目だったからだ。この女は、本気でそう思っている。
「勘違いするなよ」
アスターは前を向いた。
「俺は元から、王都に居場所なんかなかった。たまたま追い出される理由が分かりやすくなっただけだ」
「ですが」
「それに、あの場で何もしなかったら、あんたは死んでた」
イリスは黙った。
「だったら、それでいいだろ」
それで終わりにしたかった。
助けた。
救われた。
借りがある。
返さなければならない。
そういう言葉にすると、処刑台で見たものが途端に薄くなる気がした。
あの時、アスターが見ていたのは、もっと単純なものだった。
黒註が、人の死をもっともらしい筋道に押し込んでいた。
それが、ただ気に食わなかった。
「北西国境というのは、一本の線ではありません」
少し前、休憩の時にイリスがそう言っていた。
アスターはその時、地図の上に引かれた線を見ていた。王宮兵が広げた古い地図だ。雨に濡れた跡があり、端が擦り切れている。
王国の北西には、山と森と古い砦が入り組む土地がある。
そこには、王国だけでなく、アルヴァンとグラストという二つの国の境も重なっている。村によって税を納める相手が違い、道一本を越えただけで旗が変わる。砦は王国のものでも、その先の森はアルヴァンが権利を主張し、川沿いの補給路はグラストの商人が使っている。そういう土地らしい。
今、そこでいがみ合っているのは、主にアルヴァンとグラストだという。
王国が正面から戦っているわけではない。
だが、二国の斥候がぶつかれば、王国の村にも火の粉は落ちる。補給路が荒らされれば、王国の荷も止まる。避難民は南へ流れ、修道院や教会施設は負傷兵と逃げてきた者たちで埋まる。
「戦争じゃないのか」
その時、アスターは聞いた。
イリスは少し考えてから答えた。
「王国の立場では、まだ戦争とは呼びません」
「人は死んでるんだろ」
「ええ」
「じゃあ、十分だ」
イリスはその言葉に返事をしなかった。
地図の上では、線は細かった。
けれど、そこに生きている人間にとっては、そんな線ひとつで何もかも分けられるわけではないのだろう。
誰が先に剣を抜いたとか、どの旗がどこまで正しいとか、どの国が正式に参戦しているとか。
アスターには、その違いがよく分からない。
火の粉が村に落ち、子どもが荷を運ばされ、誰かが死ぬなら、それはもう戦争だろうと思った。
道の先で、荷車が揺れていた。
馬ではない。男が一人で引いている。
車輪は片方が歪んでいて、回るたびに乾いた音を立てた。荷台には鍋、毛布、木箱、割れた椅子の脚が積まれている。女が二人、荷台の横を歩いていた。後ろには子どもが三人。誰も大きな声を出さない。ただ、黙って南へ向かっている。
オルドが手を上げ、隊を止めた。
「どこから来た」
荷車を引いていた男は、王宮兵の鎧を見るなり、慌てて道の端へ寄った。
「リュゼ村です。北の砦の方で火が上がって……兵隊さんが、下がれと」
「どちらの兵だ」
「分かりません。夜でした。鐘が鳴って、外へ出たら倉が燃えていました。アルヴァンだと言う者も、グラストだと言う者もいて……何人死んだのかも、まだ」
男はそこで言葉を切った。
言えないのではない。
数える余裕がなかったのだろう。
子どもの一人が、荷台の陰からアスターを見ていた。
十にもならない少女だった。泥のついた手で、小さな木の飾りを握っている。
星の形をしていた。
五つの角のうち一つが欠けていて、紐も古い。ただの木片と言えば、それまでだ。それでも少女は、鍋や毛布よりも大事そうに、それを手の中へ隠していた。
イリスの視線が、その星飾りに落ちた。
「星夜節の飾りですか」
男はそこで初めて、イリスをまともに見た。
公爵令嬢だと気づいたのかどうかは分からない。ただ、声の調子だけで、粗末に答えてはいけない相手だと思ったようだった。
「はい。もうすぐですから。家を出る時、娘がこれだけは持っていくと」
少女は、星飾りを握る手に力を込めた。
「家に置くものじゃないのか」
アスターが言うと、若い兵が少し驚いた顔をした。
「星夜節を知らないのか」
「名前くらいは知ってる」
「家々に灯りを置く日だろう。家族と、亡くなった先祖に感謝する。二十二聖人が、いつか星の下に戻る夜だとも言われている」
若い兵の名はユアンだった。
王都を出てからずっと、アスターを見る目に困惑が混じっている。異端者なのか、証人なのか、王子が処分を保留した厄介者なのか。彼自身も、まだ決めかねているのだろう。
「それくらい、子どもでも知っている」
「俺は子どもの頃から、そういうのに縁が薄かったんだよ」
ユアンは何か言いかけて、黙った。
アスターは少女の星飾りを見た。
木の角は欠けている。
それでも、捨てられていない。
家を捨てる時、人は全部を持っていけるわけではない。鍋か、毛布か、金か、思い出か。その中で少女は、星を選んだ。
「山向こうの二国でも、星夜節はやるのか」
アスターが聞くと、空気が少し固くなった。
荷車の男は答えなかった。代わりに、ユアンが口を開いた。
「アルヴァンもグラストも、星夜節はある」
声に、棘というより、うんざりした響きが混じっていた。
「どっちも同じ聖人の名を使う。同じ歌も歌う。なのに互いに、相手の祈りは歪んでいると言う」
「同じ歌なら、同じでいいだろ」
「そうならないんだ」
ユアンは吐き捨てるように言った。
「似ているから、余計に許せないらしい」
その言葉の周りに、黒註がにじんだ。
紙に書かれているわけではない。空に浮いているわけでもない。人の声や視線や場の空気にまとわりつき、いつの間にか形を取る。
「隣の祈りは、偽りである」
「同じ星を仰ぐ者ほど、正しさを奪い合え」
「星夜の朝、兵はまた旗の下へ戻る」
アスターは目を細めた。
ユアン自身が、その文を読んでいるわけではない。
だが、彼の言葉はその筋道に沿って出ているように見えた。
胸の奥に、処刑台で嗅いだのと同じ嫌な味が戻ってくる。
悪女は裁かれるべきだ。
聖女は救われるべきだ。
証人は黙るべきだ。
民衆は叫ぶべきだ。
あの時、黒註はそうやって人を押し流していた。
今度は、それが国境の向こうへ向いている。
敵は殺されるべきだ。
似た祈りを持つ者ほど、深く憎むべきだ。
朝が来れば、兵はまた旗の下へ戻るべきだ。
そう読ませるための文だった。
「アスター」
小さく名を呼ばれて、アスターは視線を戻した。
イリスがこちらを見ていた。彼女には、黒註は見えていないはずだ。けれど、アスターの顔が変わったことには気づいたのだろう。
「見えたのですか」
声は、兵たちに聞こえない程度に抑えられていた。
アスターは短く答えた。
「見えた」
「何と?」
「同じ星を仰ぐ者ほど、正しさを奪い合え」
イリスの眉がわずかに動いた。
荷車が通り過ぎていく。少女は最後まで星飾りを握っていた。南へ向かう小さな背中が、道の曲がり角で見えなくなる。
「北西では、珍しい考えではありません」
イリスは静かに言った。
「同じ星夜節を知ってるのにか」
「同じだからこそ、です。アルヴァンもグラストも、教会の教えを受け入れています。二十二聖人への祈りも、星夜節の習わしも、多くは重なっている。けれど、聖人の解釈や、祈りの順序や、どの地を誰が守るべきかという考え方は少しずつ違う」
「似てる相手の方が、違いが目につくってことか」
「ええ。そして、その小さな違いに、国境や税や砦の話が絡みます」
「最悪だな」
「ええ」
イリスは否定しなかった。
「火は、線を選んで燃えてはくれませんから」
その声には、憎しみよりも疲れがあった。
イリスは教会を単純に嫌っているわけではない。アスターには、そう見えた。嫌っているだけなら、もっと楽だったはずだ。けれど彼女は、おそらく知っている。祈りに救われた者も、祈りに縛られた者も、同じ教会の中にいることを。
「公爵家でも、星夜節はやるのか」
「やりました」
「豪華そうだな」
「あなたが想像しているほどではありません。窓辺に灯りを置き、家族と、すでに亡くなった者たちへ感謝を捧げるだけです。幼い頃は、二十二聖人が本当に星から帰ってくるのだと思っていました」
「今は?」
イリスは少しだけ空を見た。
灰色の雲が低く垂れている。
星にはまだ早い。
「今は、帰ってこない方がいいのではないかと思うことがあります」
「罰当たりだな」
「そうですね」
イリスは、ほんのわずかに息を吐いた。
「もし本当に戻ってくるのなら、彼らは自分たちの名がどう使われているかを知ることになります。救済の名で人を裁き、祈りの名で国を分け、聖人の名で敵を作る。それを見て、喜ぶとは思えません」
アスターは返事をしなかった。
二十二聖人。
星夜節。
家族と先祖への感謝。
いつか星の下に戻る者たち。
それだけ聞けば、悪いものには思えない。冬の夜に小さな灯りを置くことが、誰かを傷つけるはずもない。
だが、黒註はもう見えている。
同じ灯りを見ている人間同士に、どちらの灯りが正しいかを決めさせる。
同じ歌を知っている人間同士に、相手の歌を憎ませる。
胸の奥が、ざらりとした。
「面倒だな」
アスターが呟くと、イリスが隣で言った。
「ええ」
その声は、不思議と穏やかだった。
「ですが、あなたはもう、見なかったことにはできないのでしょう」
アスターは答えなかった。
できるなら、とっくにそうしている。
宿場に着いたのは、陽が西へ寄り、道の影が長く伸び始めた頃だった。
街道沿いに、木造の家が十数軒並んでいるだけの小さな宿場だった。井戸の周りには馬の足跡がいくつも残り、広場の端には壊れた荷車の車輪が立てかけられている。王都近くの宿場なら、旅人相手の呼び込みや酒場の笑い声があるものだが、ここにはそういう浮ついた空気がなかった。
代わりに、怪我人がいた。
腕を吊った兵士。
片足を引きずる男。
包帯を頭に巻いた少年。
井戸端で水を汲む女たちの顔にも、疲れが染みついている。
アスターは宿場の奥を見た。
戸口に、小さな星飾りが吊るされている家があった。けれど灯りはまだ入っていない。木で作っただけの星が、冬の風に揺れている。
「前線が近いな」
アスターが言うと、オルドが頷いた。
「ここはまだ後方だ」
「後方でこれか」
「本当に近い場所は、もっと静かだ」
「静か?」
「泣く余裕もない」
オルドはそれ以上言わなかった。
宿の中に入ると、空いている部屋は二つしかなかった。
イリスに一室。
兵たちに一室。
アスターはどうするのかと思っていると、宿の主人が困ったように視線を泳がせた。
「馬小屋なら、藁がありますが」
「十分だ」
アスターが答えると、イリスがこちらを見た。
「あなたはそれでいいのですか」
「王都にいた頃より柔らかいかもしれない」
「冗談を言っている場合ではありません」
「冗談で済むうちは、まだましだろ」
イリスは何か言いたげだったが、結局、口を閉じた。
宿の奥では、兵士や旅人たちが椀を抱えている。
湯気の薄い豆のスープ。
固いパン。
誰かが小声で、星夜節の歌を口ずさんでいた。
すぐに別の男が肘で小突く。
「やめろ。縁起でもない」
「星夜の歌がか?」
「ここで歌うと、帰れなくなる気がする」
冗談のような言い方だった。
だが、笑う者はいなかった。
その沈黙を破るように、宿の扉が勢いよく開いた。
冷たい風が吹き込む。
入ってきたのは、泥だらけの兵士だった。肩で息をし、外套の裾には黒く乾いた血がついている。宿の主人が駆け寄ろうとしたが、兵士は手で制した。
「北の道は使うな」
声が掠れていた。
「アルヴァンの斥候とグラストの先遣がぶつかった。砦から戻る荷が巻き込まれた」
宿の中がざわついた。
オルドがすぐに立ち上がる。ユアンも剣の柄に手をかけた。
「所属は」
「北砦の補給隊です」
泥だらけの兵士は、王宮兵の鎧に気づくと姿勢を正そうとした。だが足元がふらつき、壁に手をつく。
「セレナ修道院へ向かうなら、明朝を待ってください。護衛を増やした方がいい。あそこは今、負傷兵と避難民でいっぱいです」
「修道院が?」
イリスが反応した。
兵士は頷いた。
「救護所になっています。寝台も薬も足りない。教会預かりの子どもたちまで、荷運びに出されています」
その言葉の端に、黒註が滲んだ。
アスターは、息を止めた。
「小さき手は、旗を運ぶ」
「名なき子は、夜の道を走る」
「星夜の前に、ひとつ灯りが消える」
宿の灯りが揺れた。
実際に揺れたのは、卓上の火だけだった。けれどアスターには、部屋の奥から黒い線が伸び、北の方角へ細く引かれていくように見えた。
その先に何があるのかは分からない。
ただ、嫌な予感だけははっきりしていた。
まただ。
誰かが、まだ名前も知らない誰かが、物語の都合で死ぬ場所へ運ばれようとしている。
「アスター」
イリスの声がした。
彼女には黒註も、黒い線も見えていない。けれど、アスターの目が何を追ったのかだけは察したようだった。
「何が見えましたか」
「子どもが死ぬ」
短く言うと、ユアンがこちらを睨んだ。
「何を縁起でもないことを」
「俺だって、言いたくて言ってるわけじゃない」
アスターは宿の外へ視線を向けた。
扉の隙間から、夜の冷気が入り込んでいる。空には、雲の切れ間からいくつか星が見えていた。
もうすぐ星夜節だという。
家族に感謝し、先祖に祈り、二十二聖人がいつか戻ると信じる夜。
そんな夜の前に、名もない子どもの灯りがひとつ消える。
誰かが、そう書いている。
アスターは奥歯を噛んだ。
「イリス」
「はい」
「黒註の話、今夜聞く」
王都を出る前、イリスは一度だけ言った。
あなたが裁判台で見ていたものについて、話さなければならないことがあります、と。
あの時は、王宮の目も教会の耳も多すぎた。名前だけは聞いた。けれど、それが何なのか、なぜアスターに見えるのか、なぜ役割や裁きに絡みついているのかまでは、まだ何も分かっていない。
そして、もう先送りにはできない。
「その前に確認する」
「何でしょう」
アスターは、北へ伸びる黒い線を見たまま言った。
「セレナ修道院ってのは、本当に祈る場所なのか」
イリスはすぐには答えなかった。
宿の中では、泥だらけの兵士が水を受け取り、オルドたちが明日の道を相談し始めている。避難民らしき女が、小さな子どもの耳を塞いでいた。誰もが、自分に関係のある不安だけを抱えている。
イリスは少しだけ目を伏せた。
「祈る場所であろうとしている人たちは、いるはずです」
「じゃあ、そうじゃない奴もいるんだな」
「……それを確かめる必要があります」
外の風が、宿の扉を小さく鳴らした。
アスターは、黒い線の先を見続けた。
王都を出れば、少しはましになると思っていた。
白い都と、裁判台と、悪女を殺せと叫ぶ声から離れれば、黒註も遠ざかるのかもしれないと、どこかで思っていた。
だが違った。
黒註は都にだけあるわけではない。
教会の白い石の上にだけ浮かぶわけでもない。
街道にも、宿場にも、避難民の荷車にも、兵士の祈りにも、子どもの手に握られた星飾りにも絡みついている。
人が誰かを役目の名で呼ぶ限り。
誰かの死を、仕方のないこととして片づけようとする限り。
黒註は、どこにでも現れる。
アスターは息を吐いた。
「面倒だな」
小さく呟くと、イリスが隣で言った。
「ええ」
その声は、さっきより少しだけ硬かった。
「けれど、ここまで来てしまいました」
アスターは答えなかった。
宿の窓の外で、星がひとつ、雲に隠れた。
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