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勇者でも魔王でもない俺は、物語に殺される君を救う  作者: ハリオアマツバメは泣いた
第一章 役なしは悪女の脚本を喰う
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第一章 エピローグ 恣意的な余白

王都リュミエールの鐘が、夜の底で一度だけ鳴った。


それは祝祭の終わりを告げる鐘ではなかった。処刑の失敗を悼む鐘でも、裁判の混乱を鎮める鐘でもない。


王城の北棟からも、教会本部の尖塔からも離れた、古い地下回廊のさらに奥。白い石で築かれた都の下に、光の届かない部屋があった。


壁は古い書架で埋め尽くされている。


皮表紙の書物。糸で綴じられた記録束。金具で封じられた箱。蝋で閉じられた巻物。


どれも、ただの書物には見えなかった。棚に並んでいるはずなのに、紙だけがかすかに呼吸しているように膨らみ、また沈む。開かれていない頁の内側から、時折、細い墨の筋が這い出し、紙縁で震えて消えた。


部屋の中央に置かれた机の上で、一冊の本が開かれていた。


白い表紙の本だった。


表紙には題名がない。留め金もない。けれど、誰かが乱暴に扱えば指先の皮膚ごと持っていかれそうな、薄い冷たさがあった。


開かれた頁には、ひとつの物語が記されている。


公爵令嬢は聖女を妬み、毒を盛る。

証人は悪を告げ、王子は婚約を破棄する。

民衆は罪を叫び、悪女は塔より落ちる。

その死をもって、都は正しき朝を迎える。


文字は整っていた。


あまりにも整いすぎていた。


行の幅も、余白の取り方も、誰がどこで涙を流し、誰がどの言葉で怒り、誰がどの瞬間に沈黙するのかまで、すべてが美しく収まっている。


そのはずだった。


頁の中央から下が、黒く欠けていた。


墨をこぼしたのではない。焼け焦げたのでもない。削り取られたのでもない。


そこだけが、喰われたように失われている。


悪女は塔より落ちる。


その一文の途中から先が、頁ごと歯形を残して消えていた。


机の前に立つ人物は、しばらく黙ってその欠けた頁を見下ろしていた。


燭台の火が揺れる。


顔は、光の外にあった。


年老いているようにも見えたし、若いようにも見えた。男にも女にも見えた。白い手袋をはめた指だけが、机の上に落ちた光を受けている。


その指が、欠けた紙の縁をなぞった。


「……喰われたか」


声は低かった。


怒りはなかった。少なくとも、表には出ていなかった。


ただ、古い書物の頁をめくる時のような、乾いた興味だけがそこにあった。


「悪女の死が外れた。聖女の勝利は濁り、王子の裁きは曇った。民衆の歓喜も、中途で折れた」


指先が、頁の余白に残った名を叩く。


イリス・ヴァルクライン。


名はまだ残っている。


だが、その横にあったはずの役割は薄くなっていた。完全に消えたわけではない。悪女と呼ばれた記録は残る。裁判も、婚約破棄も、処刑台に立たされた事実も消えない。


ただ、その役割の終着点だけが、乱暴に奪われている。


「死なねば完成しなかったものを、生かしたまま持ち去った」


白い手袋の指が、今度は別の行を押さえた。


役なし。


そう記された箇所だけが、紙の上で嫌に黒かった。


役を持たない者。

神話の列に並ばぬ者。

勇者でもなく、魔王でもなく、聖者でも、悪でも、王でも、民でもない者。


物語の外に置かれたはずの名。


その名が、頁の余白を裂いて入り込んでいた。


「アスター」


声が、その名をゆっくりと読んだ。


すると、部屋の書架がかすかに軋んだ。


棚に並ぶ本のいくつかが、閉じたまま震える。どこかの頁で、別の誰かが泣き、別の誰かが剣を抜き、別の誰かが祈っている気配がした。


けれど、机の前の人物は動じなかった。


「役なしに名がある。名があるのに、役がない。いや……役を持たないからこそ、名だけで動く」


わずかな沈黙の後、低い笑いが落ちた。


「厄介だな」


それは、褒め言葉にも聞こえた。


人物は机の端に置かれていた銀の刃を手に取った。刃といっても、剣ではない。紙を裂くための小さな道具だった。先端は薄く、よく磨かれている。


その刃が、欠けた頁の下に差し込まれる。


紙が小さく鳴った。


悲鳴に似ていた。


「しかし、ひとつの死が外れただけだ」


頁がめくられる。


次の頁は、まだ白かった。


いや、白く見えただけだった。


紙の奥に、すでに黒い線が走っている。まだ文字になりきっていない筋が、血管のように細かく枝分かれし、ゆっくりと形を探していた。


机の前の人物は、空いている手で燭台を少し寄せた。


火に照らされ、紙の奥の線が浮かび上がる。


北西国境。


雪。


塹壕。


飢えた兵。


教会の救済院から送られた、名簿外の子どもたち。


命令。


砲声。


泥。


朝まで続くはずのない命。


まだ文章にはなっていない。けれど、断片だけで十分だった。


そこに、休戦の文字はなかった。


歌もない。


火を囲む兵たちもない。


敵同士が名を交わす夜も、パンを半分に割る手も、故郷の話に耳を傾ける沈黙も、どこにも記されていない。


あるのは、戦争だった。


飢えた者が奪い、怯えた者が撃ち、命じられた者が進み、帰る場所のない子どもが泥の中で倒れる。


その流れだけが、紙の奥で黒く脈打っていた。


机の前の人物は、しばらくその頁を見下ろしていた。


「ここには、まだ余白が多い」


指が、白い紙の空いている部分をなぞる。


そこは本来、戦場へ送られた者たちの死で埋まるはずの場所だった。名前のない兵。記録に残らない子ども。戦況を動かすほどではない、小さな死。


誰かが泣いても、頁の端に滲むだけで済む命。


「彼が触れれば、また乱れるか」


白い手袋の指が止まる。


「死ぬはずだった者が息をし、憎むはずだった者が言葉を交わし、撃つはずだった者が銃を下ろす」


そこで初めて、声にわずかな不快が混じった。


「つまらない情を、余白に書き込む」


燭台の火が揺れた。


部屋には窓もない。風など入るはずがない。


それでも火は揺れた。


開かれた本の奥で、まだ存在しない場面が小さく軋む。


机の前の人物は、その揺れを見ていた。


やがて、薄く笑った。


「だが、余白は本文ではない」


指が、頁の中央を押さえる。


北西国境。


そこに走る黒い線は、欠けていない。


王都の裁判で失われた頁とは違う。まだ、筋は残っている。


戦争は終わらない。


命令は届く。


兵は列に戻る。


教会は名簿を閉じる。


王宮は、まだ知らない。


「一夜を変えたところで、朝が来れば大筋へ戻る」


声は静かだった。


「歌わせてもよい。火を分けてもよい。敵の顔を、人の顔として覚えさせてもよい」


白い手袋の指が、紙の上をゆっくり滑る。


「その方が、翌朝よく沈む」


その言葉は、予定ではなかったものを予定へ組み直す声だった。


脚本が最初から休戦を望んでいたわけではない。


ただ、もし役なしが戦場に余白を作るなら、その余白ごと、大きな流れへ呑み込ませればいい。


一度だけ救われた者ほど、二度目に奪われた時、深く絶望する。


机の前の人物は、閉じた笑みを浮かべた。


「役なし。お前が作る余白は、確かに厄介だ」


頁の上で、まだ文字にならない黒い筋が震える。


「だが、余白に何を書くかを、お前だけが決められると思うな」


その時、机の横に置かれた鈴が鳴った。


鳴らした者はいない。


地下の石壁の向こうから、別の気配が応じる。


やがて扉の外に、人の影が立った。


「お呼びでしょうか」


若い声だった。


ひどく丁寧で、ひどく怯えている。


机の前の人物は、振り返らないまま命じた。


「北西国境へ送る名簿を整えなさい。救済院に残っている子どもたちは、冬を越す前に移す」


扉の向こうで、息を呑む音がした。


けれど、返事はすぐに返ってきた。


「……承知いたしました」


「それと」


声が、少しだけ柔らかくなる。


「王都を出た役なしの行方を追わせなさい。殺す必要はない。まだ、殺してはいけない」


扉の向こうの気配が、さらに低く頭を垂れる。


「監視のみ、ということでしょうか」


「いいえ」


白い手袋の指が、開かれた頁の余白を撫でた。


「道を用意するのです」


その言葉の意味を、扉の向こうの者は理解できなかったらしい。


沈黙が落ちる。


机の前の人物は、ようやく少しだけ笑った。


「彼が選んだと思える道を」


それ以上の説明はなかった。


扉の向こうの者は、震えを隠すように一礼し、足音を遠ざけていく。


地下の部屋には、また静けさが戻った。


開かれた頁には、まだ休戦の文字はない。


歌もない。


けれど、白い余白の奥で、細い罅のようなものが走っていた。


それは脚本が用意した筋ではなかった。


まだ誰のものでもない、ほんの小さな空白だった。


机の前の人物は、その空白を見下ろしている。


「来るがいい」


声が、地下の部屋に沈んだ。


「どれだけ余白を作れるか、見せてみろ」


白い本が、ゆっくりと閉じられた。

















その頃、王城の一室では、別の書類が机に置かれていた。


北西国境における救済院出身児童の移送記録について。


蝋の封は、まだ切られていない。


第二王子レオナールは、窓の外に広がる夜の王都を見ていた。


聖譚祭の灯は、ほとんど消えている。昼間、民衆が悪女の死を望んで詰めかけた広場も、今は暗い。石畳に残った足跡も、倒れた柵の跡も、夜の色に沈んで見えなくなっていた。


だが、消えたわけではない。


あの場で何が起きたのか。

誰が何を語り、誰が黙り、誰が死ぬはずだったのか。

それは、王子の中でまだ整理されていなかった。


机の上には、いくつもの報告書が積まれている。


公爵令嬢イリス・ヴァルクラインの処分保留。

聖女フィリアの静養。

証人ミラの保護。

南区白鳩施療院における薬品管理の再調査。

火傷跡を持つ司祭バルトの所在不明。

身元不明の青年アスターに関する監視記録。


どれも、裁判が終わった後に残ったものだった。


裁いたはずなのに、終わっていない。


むしろ、裁こうとしたことで、見えなかったものが一斉に表へ出てきた。


レオナールは、机の端に置かれた一枚の紙を手に取る。


そこには、短い報告だけが記されていた。


アスター。役なし。国境方面へ出立した可能性あり。

同行者あり。詳細確認中。


王子は、その文字をしばらく見つめた。


あの青年は、裁判の場にふさわしい者ではなかった。


貴族でもない。聖職者でもない。兵でもない。民衆の代表でもない。


それなのに、あの場で最も場違いだったはずの男が、最も深いところに手を突っ込んだ。


レオナールは、紙を机へ戻す。


「……何者だ」


答える者はいない。


夜の王城は静かだった。


やがて王子は、未開封の封書へ手を伸ばした。


北西国境における救済院出身児童の移送記録について。


封を切る。


中の紙を広げた瞬間、レオナールの表情から、わずかに血の気が引いた。


そこに記されていたのは、軍の正式な徴用記録ではなかった。


救済院。

教会管理。

身元保証なし。

保護名簿外。

北西国境方面、労務補助として移送。


労務補助。


その言葉の横に、別の筆跡で小さく追記があった。


前線投入の疑いあり。


レオナールは、紙を握る手に力を込めた。


昼間、広場で聞いた低い音が、ふいに耳の奥で蘇る。


鐘ではなかった。


地の底で、何か重いものが身じろぎしたような音。


あの時、石畳は割れなかった。裁判台も崩れなかった。けれど、何かは確かに軋んでいた。


王子は、ゆっくりと息を吐いた。


「まだ、終わっていないのか」


その呟きは、誰にも届かなかった。


窓の外では、白い都が夜に沈んでいる。


王都の灯がひとつ、またひとつと消えていく。


そのさらに遠く、北西国境では、まだ雪が降り始めていた。

読んでくださりありがとうございます♩

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