16.帰れるうちに
黒い影が――
迫ってくる。
「――っ!」
反射的に塩を撒く。
「おことわりっ!!」
これで道ができる。
そしたら、おばけは少しずつ薄くなって、帰っていく。
「……え?」
黒い影は、何も変わらなかった。
むしろ形は変わり続けている。
「ゔぁ……ああ……」
さらに、ぐちゃぐちゃに。
「なんで……?」
塩をつまみ直す。
「大丈夫。ちゃんと帰れるから」
道が分かりにくかったのかもしれない。
今度はさっきより多めに撒く。
「――おことわり!」
…………。
やっぱり。
何も起きない。
いや、道はつながった。
それなのに――
「どうして?」
黒い影が、ぐにゃりと揺れた。
「ヴァァァッ!!」
黒い何かが、こちらへ伸びる。
「っ……!」
咄嗟に後ろへ飛び退く。
「わっ――!」
足が木の根に引っかかった。
「いたっ……」
見ると、ひざに薄く血が滲んでいた。
ほんとは、怖い。
でも。
この子はさっきまで、ただ困っていただけだった。
「今度こそちゃんと――」
震える手で塩を握る。
さっきは何がいけなかった?
道はつながっているはず。
あとは何?
ふと、おばあちゃんの声が頭によぎる。
『――背中を押してあげる気持ちでもう一度いってあげな』
そうか。
気持ちを込めるんだ。
大丈夫。絶対に帰れる。大丈夫だいじょうぶだいじょうぶ。
身体を巡るぽかぽかしたものが、より熱を帯びる。
「……熱っ」
私の気持ちに反応したかのように、ぽかぽかしたものが溢れ出す。
――それよりも。
気持ちを伝えるためには、どうする??
もっと近くなら、届く?
黒い影が再びこちらへ身体を向ける。
次の瞬間、地面を蹴った。
「……っ」
近い方がいいなら――
おいで。
私も近づくから。
「お・こ・と・わ・りー!!」
黒い拳のような何かと、私の手が交差する。
ぼこん!!
大きな音とともに土煙が舞う。
……殴っちゃった。
「ヴぅ……」
腕のようなところが削れたようになっていた。
ごめんっ!
そんなつもりじゃなくてっ。
「ぅう……」
って落ち着いた?
もしかして、殴るってあり??
それが分かったら――
なぐるなぐるなぐる!
拳が触れる度に黒い影は、少しずつ小さく落ち着いていく。
「あと、少しだからっ。だから頑張ってね」
そのとき。
「ヴぅぅうアぁああ!!」
黒い影がさらに形を変え、膨れ上がる。
削った以上に。
大きく、より歪な形へと姿を変える。
「そんなっ……」
そのまま私の方へ向かってきた。
「――っ!」
その瞬間。
ふわっ。
頬を、風が撫でた。
「……え?」
黒い影が止まっている。
私の目の前で。
ぐにゃぐにゃと身体を蠢かせながら、それ以上こっちへ来ない。
「ヴァァァ……!」
黒い影が腕のようなものを伸ばす。
でも、進めない。
「な、なんで……?」
何かにぶつかってるように見えない。
なのに、黒い影はそこから一歩も動けなかった。
「やれやれ」
山道の奥から、静かな、だけどよく通る声がした。
「ちょっと目を離したら、えらいことになってるねぇ」
「……おばあちゃん!」
思わず声が大きくなる。
おばあちゃんは杖をつきながら、いつもと変わらない様子で歩いてくる。
「まったく。寄り道するなって言ったはずだけどねぇ」
そう言いながら、おばあちゃんはチラリと私の足を見た。
「一回家帰ったもん!だけどおばあちゃんが帰ってこないからっ」
「おや。あたしのせいかい」
「そうだよ!」
言い返しながらも、身体から力が抜けていく。
よかった。
おばあちゃんならきっと。
これでもう大丈夫――
「……さてと」
おばあちゃんの表情が少し変わった。
「これは……始まってるねぇ」
おばあちゃんの視線が、私の前で蠢く黒い影へ向く。
「おばあちゃん、この子ね」
慌てて黒い影を指さす。
「帰してあげようとしたんだけど、帰らないの」
「……そうかい」
「だから、殴ってるんだけど」
おばあちゃんの目が少し丸くなる。
「なんでそうなるのさ」
おばあちゃんは黒い影から目を離さない。
「でも、また変な形になって……」
黒い影が、ぐにゃりと大きく揺れた。
「ヴァァァァッ!!」
思わず身体が強張る。
「大丈夫さねぇ」
けれど、黒い影はやっぱりそこから動けない。
見えない何かに押さえつけられているみたいに、身体を歪ませながらもがいている。
「ねぇ、おばあちゃん」
「ん?」
「なんでこの子、動けないの?」
おばあちゃんは私を見ると、少しだけ笑った。
「何でだろうねぇ?」
「えぇ!?」
「くっくっく」
「おばあちゃんがやってるんでしょ!?」
「さてねぇ」
おばあちゃんは楽しそうに笑うと、黒い影へ向き直った。
「まぁ、その話はあとさね」
笑っていた目が、少しだけ細くなる。
「まずは、この子だねぇ」
おばあちゃんが、ゆっくり黒い影へ近づいていく。
「おばあちゃん、危ないよ!」
黒い影が激しく蠢く。
「ヴァァァァッ!!」
それでも、おばあちゃんは足を止めない。
「それにしても――」
おばあちゃんは、にこりと笑った。
「よくもまぁ、かわいい孫娘に怪我させてくれたねぇ」
おばあちゃんが杖の先を、そっと地面へ置く。
「ヴ……」
「まぁ、あんたも好きでこうなったわけじゃないだろうけどねぇ」
黒い影が震えた。
「戻してやるよ」
おばあちゃんが小さく息を吐く。
「――おことわり」
ぐしゃっ。
「……え?」
黒い影が、一気に潰れた。
さっきまで私よりずっと大きく膨れ上がっていた身体なのに。
いっぱいがんばって殴ってもそんなに変わらなかったのに。
一瞬で、見えない何かに押し潰されたみたいに小さくなる。
「ヴ――」
声すら、最後まで聞こえなかった。
そして――
消えた。
「…………」
え。
今、何したの?
何も見えなかった。
あんなに暴れていたおばけが、跡形もなく消えている。
「……おばあちゃん」
「ん?」
「消した……?」
「人聞きの悪いこと言うねぇ」
おばあちゃんは、肩をすくめて言った。
「ちゃんと還したさ」
「…………」
おばあちゃんが、黒い影のいた場所を指さす。
黒い影が消えた場所から、淡い光が浮かび上がった。
ふわり。
光は木々の間を抜けて、夜空へ昇っていく。
「ほらねぇ」
「…………」
おばあちゃん。
何その笑顔。
なんだかこわいよ?
そのとき。
少し離れた木々の奥で――
「ふーん?戻せるんだ」
誰かの声が、夜の山に小さく溶けた。
「…………」
私はまだ、空へ昇っていく光を見ていた。
小さくなって。
もっと小さくなって。
やがて見えなくなる。
「……帰れた?」
「ああ。ちゃんと還ったよ」
「そっか……」
よかった。
そう思った瞬間。
急に身体から力が抜けた。
「……う」
「おや?」
「うぅ……」
目の奥が熱くなる。
ぼろぼろと涙が落ちてきた。
「うわぁぁん!」
「くっくっく。よく我慢してたねぇ」
おばあちゃんが頭を撫でる。
「だってぇ……怖かったぁ……!」
「そうだろうねぇ」
「でも、あの子、困ってたからぁ……!」
しばらく、おばあちゃんは何も言わずに頭を撫でてくれた。
やっと涙が少し止まったころ。
おばあちゃんが黒い影のいた場所を見る。
「結菜」
「……なに?」
「この前、困ってると思ったら怖くなくなったって言ってたねぇ」
「……うん」
「でもね」
おばあちゃんは少しだけしゃがんで、私と目を合わせた。
「困ってるからって、危なくないわけじゃないんだよ」
「……?」
「還れなくて迷ってるうちにね。自分が誰だったのか。何でそこにいたのか。そんなことまで分からなくなることがある」
さっきの黒い影を思い出す。
最初は、ただの黒い靄だった。
でも。
どんどん。
ぐちゃぐちゃになって。
「……あの子も?」
「そうさねぇ」
おばあちゃんは少し考えるように目を細めた。
「ただ……」
「ただ?」
「ずいぶん早かったねぇ」
「早い?」
「いや」
おばあちゃんは首を振る。
「こっちの話さね」
それから私の頭をぽんっと叩いた。
「だからね、結菜」
「うん」
「帰れるうちに、還してやるんだよ」
「……帰れるうちに」
「そうさ」
おばあちゃんは立ち上がる。
「迷ってるなら道を教えてやる。背中を押してやる。それでも駄目なら――」
ちらりと私を見る。
「殴る……?」
「なんでそうなるのさ」
「だってちょっと効いたもん!」
「効いたと還るは別もんだよ」
おばあちゃんは呆れたように息を吐いた。
「まぁ、おいおいかねぇ」
でも、少しだけ笑っていた。
「それよりも、その膝を何とかしないとね」
「あ」
思い出したら急に痛くなってきた。
「いたい」
「さっきまで忘れてたじゃないか」
「思い出したから痛いの!」
「便利な身体だねぇ」
おばあちゃんは、くっくっくと笑う。
「あ!」
痛みだけじゃなくて、もう一つ思い出した。
「おばあちゃん!」
「今度は何さね」
「お兄さん!」
「……お兄さん?」
「ここにいたの!」
私は辺りを見回す。
やっぱりいない。
「優しいお兄さんがいてね。おばけにもあんまり驚いてなくてね」
「……へぇ」
「それに、おばあちゃんのことも知ってたよ!」
おばあちゃんの笑顔が、ほんの少し消えた。
「あたしのことを?」
「うん。すぐ来るって言ってた」
「……そうかい」
おばあちゃんは山道の奥を見る。
木々が風に揺れている。
「どんな人だった?」
「えっとね……」
優しそうで。
よく笑って。
それから――
「かっこいい人!」
「そこが一番に出るのかい」
「大事だよ!」
「誰に似たんだかねぇ」
「お母さん!」
おばあちゃんはまた、くっくっくと笑った。
「まぁいいさ。帰るよ」
「お兄さん探さなくていいの?」
おばあちゃんは、森の奥に目を向ける。
「近くにはいないみたいだからねぇ」
続けて、私のひざを見て言う。
「おぶってやろうかね」
「大丈夫だもん!」
「そうかい。そしたら降りようかね」
おばあちゃんは杖をつき、来た道へ歩き始める。
私もその後を追った。
数歩歩いて――
「いたっ」
「ほら、だから言っただろう」
夜の山に、おばあちゃんの笑い声が響く。
「さぁ、おいで」
ほんとにもう。
勝手にいなくなるし。
ちょっぴり意地悪だし。
だけど――
おばあちゃんと一緒なら。
帰り道は、少しも怖くなかった。
⸻
うん。今思えばなかなかのスパルタだった。
「結菜」
まぁ、おかげさまで夏休み明けには小学校に戻れるようになったんだけど。
「結菜」
おばあちゃんも定期的に様子を見に来てくれるから安心できたんだよね。
そういえば、最近行ってないな。
まとまった休みが取れたら――
「結菜、聞いてるのかい?」
「……え?」
顔を上げると、おばあちゃんが呆れたようにこちらを見ていた。
「さっきから呼んでるんだけどねぇ」
「あ、ごめん。ちょっと考えごとしてた」
「まったく。そろそろ寝るよ」
「はーい」
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