15.優しいのは?
「……遅いなぁ」
居間の時計を見る。
窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。
「夕飯までには帰るって言ってたよね」
もう一度時計を見る。
……やっぱり遅い。
おばあちゃんのことだから、どこか寄り道してるだけかもしれない。
でもなぁ。
「……まだ帰ってこない」
なんだか少し心配になってきた。
……いやでもおばあちゃんになんかあるとは思えないけど。
「うーん」
台所を見る。
私が持って帰ってきた籠には、採れたての野菜がいっぱい入っている。
「畑じゃないよね……」
野菜は私に渡したんだもん。
それに、他にも寄るところがあるって言ってた。
「どこ行ったんだろ」
玄関を開ける。
夜の空気が、ひんやりと頬に触れた。
昼間とは違う虫の声が、あちこちから聞こえてくる。
「おばあちゃーん!」
呼んでみる。
その辺から声が返ってこないかな。
……。
返事はない。
「……もしかして、迷子になってないよね?」
家の前で辺りを見回す。
畑じゃないでしょ。
ご近所さんとはもうお話ししたし、海も行った。
そうなると――
家の裏手を見る。
木々の間に、細い山道が続いている。
「……あっちかな」
暗い。
ちょっと怖い。
でも、おばあちゃんが困ってたら大変だし。
「……もうっ。仕方ないなぁ」
小さく息を吐いて、山道へ足を踏み入れた。
山道をしばらく歩く。
昼間にも何度か通った道なのに、夜になると全然違って見えた。
木々に遮られて、月明かりもほとんど届かない。
足元もよく見えなかった。
「おばあちゃーん!」
もう一度呼んでみる。
やっぱり返事はない。
……ほんと、どこ行ったのかな。
少しだけ歩く速度を上げる。
すると――
「……ん?」
少し先。
木々の間に、人影が見えた。
「おばあちゃん?」
思わず駆け寄りかけて、足を止める。
違う。
そこにいたのは、知らない男の人だった。
優しそうな顔をした、お兄さん。
そのすぐ前には――
黒い影が浮いている。
「……お兄さん?」
声を掛けると、お兄さんがゆっくりこちらを向いた。
「こんな時間に一人でどうしたの?」
柔らかい声だった。
「迷子かな?」
「ううん」
首を振る。
「迷子なのはおばあちゃん」
一瞬、お兄さんの目が丸くなる。
それから、くすっと笑った。
「あはは。それは大変だね」
「そうなの。夕飯までには帰るって言ってたのに」
「それは心配だね」
「うん」
そこまで答えて――
ふと、お兄さんの前を見る。
黒い影は、変わらずそこに浮いていた。
……教えてあげる方がいいよね。
「あのね、お兄さん」
「ん?」
「変なこと言うけどね」
お兄さんは少しだけ首を傾げた。
「お兄さんの前にね、おばけがいるの」
「へぇ?」
驚いたような声。
「見えるんだ?お化けって怖いよね?」
「ちがくて。そうじゃなくてっ」
慌てて続ける。
「困ってるだけだから、怖くないからね」
「……そうなんだ」
お兄さんは黒い影へ一度だけ視線を向けた。
それから、また私を見る。
「君の家って、もしかしてすぐ近くなのかな?」
「私の家っていうか、おばあちゃんの家だけどね」
少し考えてから、首を傾げる。
「もしかして、おばあちゃんの知り合い?」
「知り合いではないかな」
お兄さんは穏やかに笑った。
「君のおばあちゃんは有名だからね」
「……そっか」
やっぱりおばあちゃんってすごいんだ。
「ねぇ、お兄さん」
「何かな?」
「おばあちゃん見てない?」
お兄さんは少しだけ考えるように目を伏せた。
「おばあちゃんは見てないけど――」
ゆっくり顔を上げる。
「すぐに来るんじゃないかな?」
「え?」
思わず首を傾げる。
お兄さんは、黒い影の方へ視線を移した。
そして。
「ほら。見てごらん?」
黒い影を見る。
さっきまで、ただそこに浮いていただけだった。
なのに――
「……?」
少しだけ揺れている。
ゆら。
ゆら。
風に揺られているようにも見えた。
でも、何か違う。
「どうしたの?」
思わず声を掛ける。
黒い影が、びくりと震えた。
「……大丈夫?」
一歩近づこうとした、その瞬間。
「ゔ……」
小さな声が聞こえた。
「え?」
「ゔ、ぁ……」
黒い影が身体を丸める。
苦しそうに。
「どうしたの!?」
駆け寄ろうとする。
「そんなに近づくと危ないよ?」
お兄さんの声が後ろから聞こえた。
「でも!」
黒い影を見る。
「困ってるんだよ!?」
お兄さんは少しだけ目を細めた。
「……君は優しいんだね」
「だって、おばあちゃんが言ってたもん」
黒い影へ視線を戻す。
「おばけだって、困ってることがあるって」
そのとき。
「ゔ、あ……ああ……」
声が大きくなる。
黒い影の輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。
「……え?」
腕みたいだったものが伸びる。
反対側は、逆に縮んでいく。
頭のように見えていた部分が、一度大きく膨らんで――
ぐしゃり。
形が崩れた。
「だいじょうぶ……?」
黒い靄が、内側から溢れるように広がっていく。
さっきまで人の形をしていたのに。
もう、何なのか分からない。
「ゔぁ……あああ……」
こわい。
忘れかけていたそんな気持ちが、込み上げてくる。
でも、
苦しそう。
だから――
「待っててね」
震える足を、一歩前へ出す。
「今、帰れるようにするから」
ポケットから小袋を取り出す。
塩をつまもうとした、そのときだった。
「さて」
お兄さんの声が聞こえた。
「そろそろかな」
不思議とよく通る声に振り返る。
お兄さんは私を見ていなかった。
その視線は、山道の奥へ向けられている。
「……?」
私も同じ方を見る。
木々の隙間から、わずかな光が落ちる暗い山道。
目を凝らしてみる。
でも、何も見えない。
「何かいるの?」
振り返ってお兄さんに――
「……って、あれ?」
いない。
さっきまでそこにいたはずのお兄さんが、どこにもいなかった。
きょろきょろと辺りを見回す。
「お兄さん?」
返事はない。
そのとき。
「ヴァぁあああアアァあ!!」
すぐ後ろから声が響いた。
「……っ!」
振り返る。
黒い影が――
迫っていた。
ぐにゃぐにゃと形を歪ませながら。
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