第五章 夜明けの静けさ
丹波に戻ってからの光秀は、以前とは、どこか違って見えた――そう家臣たちが気づくまでには、さして時を要さなかった。
丹波国人の不穏は、依然として燻り続けていた。氷上郡の土豪の訴えも、天田郡の噂も、根本から消え去ったわけではなかった。だが、光秀の対処の仕方は、以前とは明らかに違っていた。ある夜、藤田行政が、年貢の取り立てについて、以前と同じように「今年は日照りが続きましたゆえ」と申し出たことがあった。
「――さようか。ならば、村々の様子を、今一度検めてまいれ」
光秀は、静かにそう答えただけであった。行政は、拍子抜けしたように、しばし光秀の顔を見つめていたが、やがて、安堵したように頭を下げた。
「――畏まりました」
その短いやり取りの中に、以前のような刺々しさは、もはやなかった。光秀自身、そのことに、うっすらと気づいていた。丹波の不穏も、国人衆の腹の内も、依然として測りかねる部分は多い。だが、それを一つ一つ、落ち着いて見極める余裕が、いつのまにか、光秀の中に戻ってきていた。
夜も、以前のようには荒れなかった。丹波のこと、朝廷とのこと、家中の行く末のこと――そうした思案が、光秀の頭を離れることは、依然としてあった。だが、それらは、以前のように、際限なく渦を巻き、光秀を眠れぬまま夜通し苛むことは、もはやなかった。案じ事は案じ事として、しかるべき場所に落ち着き、光秀は、日々の政務をこなした後、静かに眠りにつくことができるようになっていた。
六月の初め、光秀は、久方ぶりに、文机に向かい、連歌の一句を書き記した。かつて愛宕山で詠みかけて、続きの出てこなかった発句であった。あの夜は、言葉が続かず、紙を丸めて捨てた。だが今は、ゆるやかに、次の句が浮かんでは消えていく。出来栄えの良し悪しは、光秀自身にもよく分からなかった。ただ、言葉を紡ぐという行いそのものに、以前のような息苦しさがないことだけは、確かであった。
安土への伺候も、以前とは違う心持ちで臨めるようになっていた。ある日、政務の報告を終えた光秀に、信長は、いつもと変わらぬ、そっけない口調で告げた。
「――丹波の儀、近頃は落ち着いておるようだな」
それは、労いとも取れぬほどの、素っ気ない一言であった。だが、光秀には、その言葉が、以前とは違う響きをもって届いた。以前であれば、こうした一言の裏に、何か己を試すような、あるいは値踏みするような含みを、光秀は勘繰らずにいられなかった。だが今は、その言葉を、そのまま、額面通りに受け取ることができた。
「――ありがたきお言葉にございます。丹波、なお一層、心を尽くしてまいる所存にございます」
光秀がそう答えると、信長は、ただ小さく頷いただけであった。それ以上の会話はなかった。だが、光秀の胸には、これで十分であるという、静かな納得があった。信長という主君との間柄が、劇的に変わったわけではない。それでも、以前のような、刺々しい緊張は、いくらか和らいでいるように、光秀には感じられた。
濃姫や信忠のことを、光秀は、あれ以来、深く語ることはなかった。坂本での一夜、そして信忠の館での対面――それらのことは、光秀の胸の内に、静かに、しかし確かな重みをもって留まっていた。誰かに見られていた、誰かに気にかけられていた――そのことの意味を、光秀は、日々の政務の合間に、ふと思い返すことがあった。だが、それを殊更に誰かに語ることも、感謝の言葉を重ねて伝えることも、光秀はしなかった。ただ、丹波の仕置きに、これまで以上に心を尽くすことでしか、その恩に報いる術を、光秀は知らなかった。
六月一日、光秀は、丹波亀山城にあって、家臣たちと、今後の軍備について評定を重ねていた。中国出陣の沙汰は見合わせとなったものの、いずれ何らかの形で、兵を動かす日が来ることは、光秀にも分かっていた。評定の場では、京へ上る道筋、兵糧の手配、あるいは愛宕山への参詣の日取りなどが、あれこれと話し合われた。
その夜、評定を終えて、独り部屋に下がった光秀は、ふと、灯明の炎を見つめながら、しばし物思いに沈んだ。
――もし、あのまま、あの重苦しさの中にあったなら。
光秀は、そう思わずにいられなかった。丹波の不穏、饗応役の噂、秀吉の麾下に置かれるやもしれぬという不安――あの日々の重なりの中にあってなお、光秀の手元には、兵という、動かせる力があった。もし、あの重苦しさが、あのまま募り続けていたなら、その力を、どこへ向けていたか――光秀には、それを確かめる術はなかった。ただ、あの頃の己の胸の内にあった、あの息の詰まるような衝動を思い返すと、光秀は、背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
だが、今の光秀の胸には、あの衝動は、もはやなかった。手元にある兵は、これまで通り、丹波の仕置きのため、朝廷への忠勤のため、そして、いずれ主君の命があれば、その命に従うために、ある。ただそれだけのことであった。
――案ずるな、か。
光秀は、信忠のあの一言を、静かに思い返した。あの一言がなければ、今の己が、いかにあったか――光秀には、もはや、それを想像することすら、億劫であった。ただ、今この時、丹波の山々を望む静かな夜にあって、光秀の胸には、これまでにない、穏やかな凪だけがあった。
灯明の炎を吹き消し、光秀は、静かに床についた。窓の外では、初夏の夜風が、木々の葉を揺らす音だけが、かすかに響いていた。




