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第四章 案ずるな

坂本での一夜から、十日ばかりが過ぎた。

備中出陣の沙汰は、なおも家中に燻り続けていたが、光秀の胸の内には、以前とは違う、かすかな落ち着きが宿っていた。丹波のことも、饗応役の噂のことも、何一つ解決したわけではない。それでも、あの夜、帰蝶に胸の内を明かして以来、光秀は、己一人だけがこの重荷を抱えているのではない、という思いを、かろうじて保つことができていた。

そんな折、安土より、思いがけぬ沙汰が届いた。

「――此度の中国出陣の儀、丹波の仕置き未だ整わざるにより、暫時見合わせとの由にございます」

使者の口上を聞いて、光秀は、束の間、我が耳を疑った。てっきり秀吉の麾下に組み込まれるものと、覚悟を決めかけていたところであった。それが、丹波統治の継続を理由に、出陣そのものが見合わせとなったという。

「――まことか」

光秀は、思わず問い返した。使者は、恭しく頭を下げた。

「はっ。殿より、丹波の仕置きが片付かぬうちは、光秀様には、なお丹波に留まり、これに専念せよとの仰せにございます」

光秀には、にわかには信じがたいことであった。信長という主君は、一度下した方針を、容易には翻さぬ人物である。それが、なにゆえ、これほど急に、思い直したのか。光秀の脳裏には、坂本での一夜のことが、ふと過った。だが、それを確かめる術は、光秀にはなかった。

数日後、光秀は、安土に近い信忠の館へ召された。表向きは、丹波の仕置きについて申し伝えることがある、という名目であった。だが、光秀を出迎えた信忠の様子は、単なる政務の話とは思えぬ、どこか静かな重みを湛えていた。

信忠は、人払いをすると、まず光秀に、労いの言葉をかけた。

「十兵衛。丹波のこと、長きにわたり、大儀であった」

光秀は、深く頭を垂れた。

「――もったいなきお言葉にございます」

「此度の中国出陣の儀、案じておったであろう」

信忠は、光秀の顔を、まっすぐに見た。光秀は、その視線を受け止めながら、何と答えるべきか、束の間、迷った。

「――正直に申し上げますれば」

光秀は、静かに言葉を継いだ。

「丹波の仕置きも、いまだ道半ばにて。筑前守どのの麾下に組み込まれることになれば、これまで積み重ねて参ったものが、いかになるかと、幾夜も眠れぬ思いにございました」

信忠は、光秀の言葉に、黙って耳を傾けていた。光秀が言い終えると、信忠は、ゆっくりと頷いた。

「そのこと、案ずるには及ばぬ」

信忠の声は、決して大仰なものではなかった。だが、その一言には、揺るぎない確かさがあった。

「丹波の儀、そなたに任せるは、これまで通りである。中国のことは、しばらく他の者に当たらせる。そなたは、丹波の仕置きに、なお心を尽くすがよい」

光秀は、その言葉を、すぐには飲み込めなかった。あまりに急な、あまりに明確な、脅威の解消であった。

「――されど、筑前守どのより、後詰めのご要請があったと伺っております。それがしが加わらぬとなれば、殿のご不興を買うのではございませぬか」

「案ずるな」

信忠は、静かに、しかし、はっきりと繰り返した。

「父上には、すでに得心いただいておる。丹波の仕置きが整わぬうちに、そなたを他へ回せば、家中の統治に穴が空く。それは、父上ご自身にも、道理として分かっていただけることであった」

光秀は、なおも半信半疑であった。信長が、かくもたやすく方針を翻すとは、これまでの光秀の見てきた信長の姿からは、にわかに信じがたいことであった。だが、目の前の信忠の言葉に、偽りがあるようには見えなかった。

「十兵衛」

信忠は、なおも続けた。

「そなたが、これまで丹波に注いできた力、朝廷とのことに尽くしてきた誠、それがしは、よう存じておる。それを、いま一度、疑われるようなことがあってはならぬ」

光秀は、その言葉に、胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。これまで、丹波の仕置きも、朝廷との取次も、光秀にとっては、誰かに評されるためのものではなかった。ただ、武士として、なすべきことをなしてきたに過ぎぬ。それでも、こうして正面から、その労苦を認められることに、光秀は、これまで味わったことのない安堵を覚えた。

「――信忠様には、かようなお心遣い、いかにお礼を申し上げればよいか」

光秀がそう言うと、信忠は、わずかに口元を緩めた。

「礼には及ばぬ。それより、十兵衛」

信忠は、そこで、少し声を落とした。

「母上より、聞き及んでおる。そなたの近頃の様子を、案じておられたと」

光秀は、そこで初めて、坂本での一夜のことが、確かに、この場に繋がっていたのだと悟った。

「――帰蝶様が」

「母上は、多くを語られなんだ。ただ、十兵衛には、いま少し、安んじて政務に当たれるよう、道を作ってやってほしいと、それだけを仰せであった」

光秀は、しばし、言葉を失った。あの夜、帰蝶が「わらわが知っておる、それだけでよい」と告げたその言葉の裏に、これほどの動きがあったとは、光秀には思いも寄らぬことであった。誰かに見られていた、誰かに気にかけられていた――そのことの重みが、いまさらながら、光秀の胸に染み渡った。

「委細、承知仕りました」

光秀は、深く頭を下げた。

その日を境に、光秀の胸の内から、あの息の詰まるような重苦しさが、少しずつ和らいでいった。丹波の仕置きは、なお道半ばであった。国人衆の不穏も、一朝一夕に消えるものではなかった。だが、少なくとも、光秀はもはや、独り、闇の中で「なぜ」という問いを、際限なく繰り返す必要はなかった。案ずるな、という一言が、光秀の胸に、確かな重みをもって残っていた。

坂本への帰路、光秀は馬上にあって、久方ぶりに、静かな心持ちで、夕暮れの空を見上げた。丹波の山々が、遠く薄紫に霞んでいた。


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