第三章 二人だけの間
六月に入っても、光秀の心は晴れなかった。
備中出陣の沙汰は、いまだ正式には下っていなかったが、家中の噂は日を追うごとに確かなものとなっていった。近江坂本に戻った光秀は、出陣の仕度を進めるよう命じられ、家臣たちは慌ただしく兵糧・武具の手配に走り回っていた。だが光秀自身は、その慌ただしさの中にあってなお、心のどこかが、ひどく凪いだまま、動かずにいるような感覚を覚えていた。
そんな折、坂本城に、安土からの使いが訪れた。
「――御方様が、坂本にお立ち寄りになられるとの由にございます」
御方様。帰蝶であった。安土から近江路を経て、いずこかへ赴かれる途次、坂本に一夜、御逗留になるという。突然のことに、光秀は少なからず戸惑った。正室たる帰蝶が、家臣の居城に立ち寄られるというのは、決して珍しいことではない。だが、近頃の光秀には、あらゆる出来事の背後に、何か己を試すような意味を勘繰ってしまう癖がついていた。
――何ゆえ、いま。
そう訝りながらも、光秀は粗相のなきよう、迎えの仕度を整えた。
帰蝶が坂本に着いたのは、夕刻のことであった。饗応の膳を整え、しかるべき礼を尽くした後、思いがけず、帰蝶は光秀に、二人だけで話したいと申し出た。女房衆も遠ざけ、灯明の淡い光だけが、静かな一室を照らしていた。
光秀は、帰蝶と二人だけで向き合うことに、内心、落ち着かぬものを覚えた。幼き日、美濃にあった頃には、共に同じ屋根の下で育った縁もある。だが、それも遠い昔のことである。今の帰蝶は、天下人の正室であり、光秀は、その家臣の一人に過ぎない。
帰蝶は、しばし光秀の顔を見つめてから、静かに口を開いた。
「十兵衛どの。丹波のこと、案じておられましょう」
光秀は、束の間、言葉を失った。それは、慰めの言葉でも、労いの言葉でもなかった。ただ、光秀の胸の内にあるものを、そのまま、静かに言い当てただけの言葉であった。
「――いえ、それは」
光秀は、そう答えかけたが、続く言葉が出てこなかった。
「饗応役の噂のことも、耳にしております。筑前守どのの下へ組み込まれるやもしれぬという話も」
帰蝶の声には、咎める色も、憐れむ色もなかった。ただ、事実を事実として、静かに並べているだけであった。光秀は、その静かさに、かえって胸を突かれる思いがした。これまで、誰にも打ち明けられなかったこと、いや、打ち明けるということすら思いつかなかったことが、目の前で、あまりにたやすく言い当てられている。
「――なぜ、それを」
光秀の声は、我ながら掠れていた。
「安土におれば、自ずと耳に入りまする。それに」
帰蝶は、そこで一度、言葉を切った。
「十兵衛どのの御様子が、近頃、いつもと違うておられることくらい、幼き頃より存じ上げておる者には、分かるものにございます」
その一言に、光秀は、これまで張り詰めていたものが、わずかに緩むのを感じた。同時に、抑えていたはずの疚しさや焦りが、堰を切ったように、胸の奥から込み上げてくるのを覚えた。
「――帰蝶様。それがしは」
光秀は、そこまで言って、口ごもった。何を言おうとしたのか、光秀自身にも、はっきりとは分からなかった。ただ、この機を逃せば、二度とこの重荷を口にすることはないだろう、という予感だけがあった。
「丹波のこと、饗応役のこと、いずれも、それがしの力の及ばぬところにて、かように相成り申した。されど、それを、殿がいかにご覧になっておられるかと思うと……夜も、眠られぬ日が、続いておりまする」
言葉にしてみれば、それは、あまりに些細な、取るに足らぬ愚痴のようにも聞こえた。だが、光秀にとっては、これが、幾月にもわたって胸の内に溜め込んできた、堰き止められた思いの全てであった。
帰蝶は、光秀の言葉を、遮ることなく、静かに聞いていた。光秀が言葉を切ると、しばしの間を置いてから、帰蝶は口を開いた。
「そのように思われるのも、無理からぬことにございましょう」
その一言は、光秀が予期していた、いかなる言葉とも違っていた。慰めでもなく、励ましでもなく、ただ、光秀の思いを、そのまま認める言葉であった。光秀は、これまで、家臣たちの前で、あるいは信長の御前で、幾度となく己の弱さを押し隠してきた。それを、初めて誰かに、咎められることなく、そのまま受け止められたように感じた。
「十兵衛どのは、これまで、丹波のことも、四国のことも、朝廷とのことも、誰よりも心を尽くしてこられたと、わらわは存じております。それが、かように報われぬように見えるのは、さぞかし、お辛いことでございましょう」
光秀は、俯いたまま、何も言えずにいた。喉の奥が、熱くなるのを感じた。武士として、かような姿を人前に晒すことは、これまでの光秀であれば、決して許さなかったであろう。だが、今この一室には、それを咎める者は誰もいなかった。
しばしの沈黙の後、光秀は、ようやく顔を上げた。
「――帰蝶様には、かようなことをお聞かせし、面目次第もございませぬ」
「いえ」
帰蝶は、静かに首を振った。
「十兵衛どの。今宵のところは、何も決めずともよいのです。ただ、そなたの思うところを、わらわが知っておる、それだけで、よろしいのです」
その言葉に、光秀は、束の間、呆然とした。何かを解決してもらったわけではない。丹波の仕置きも、饗応役の噂も、秀吉の麾下に置かれるかもしれぬという不安も、何一つ、この場で取り除かれたわけではなかった。それでもなお、光秀の胸の内には、これまでとは違う、かすかな凪のようなものが、静かに広がっていくのを感じた。
「なぜ、それ?」
光秀は、ふと、疑問を口にした。
「なにゆえ、帰蝶様が、それがしのために、かようなお心を砕かれるのでございましょう」
帰蝶は、その問いに、すぐには答えなかった。ただ、灯明の炎を見つめるように、しばし、視線を落としていた。
「幼き頃の縁、とだけ申しておきましょう」
それ以上のことを、帰蝶は語らなかった。光秀もまた、それ以上を問うことはしなかった。
その夜、光秀は久方ぶりに、深く眠った。丹波のことも、饗応役の噂のことも、秀吉の麾下に置かれるかもしれぬという不安も、消えてなくなったわけではない。だが、それらを一人で抱え込まねばならぬという、あの息の詰まるような重みだけは、わずかに軽くなったように、光秀には感じられた。
翌朝、帰蝶は、坂本を発って安土へと戻っていった。見送りに出た光秀に、帰蝶は、ただ一言だけを残した。
「十兵衛どの。息災であられよ」
光秀は、その後ろ姿を、しばし見送っていた。何が変わったのか、光秀自身にも、まだはっきりとは分からなかった。ただ、これまで一人で堂々巡りしていた「なぜ」という問いが、あの一室で交わした言葉によって、初めて、誰かと分かち合うことのできるものになった――そのことだけは、確かであった。




