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第二章 軋み

家康饗応役を命じられたのは、五月に入って間もない頃であった。

甲斐武田氏を滅ぼした功により安土を訪れる徳川家康を、しかるべく持て成せ――信長よりそう命じられたとき、光秀はこれを、栄えある役目と受け止めた。京・堺より、鯛や鮑、あるいは異国渡りの珍味までを取り寄せ、膳の仕度には幾日も心を砕いた。饗応役という大役を、些かの粗相もなく果たし、これにより、近頃どこかぎこちなくなっていた信長との間柄も、また元に戻るのではないか――光秀は、そのような望みを、密かに抱いてもいた。

だが、饗応の当日、信長は膳を一瞥するなり、眉をひそめたという。

「――魚が、いささか古うはないか」

その一言は、光秀自身が直に聞いたものではなかった。饗応の場に居合わせた小姓の口から、また別の家臣の口へと伝わり、幾重にも尾ひれをつけながら、光秀の耳に届いた。ある噂では、信長がその場で烈しく光秀を叱責し、饗応役を解いて丹羽長秀に代えたとまで言われていた。真偽のほどは、光秀にも定かではなかった。だが、噂の真偽そのものよりも、光秀を打ちのめしたのは、家中の誰もがその話を、さしたる驚きもなく、「さもありなん」と受け止めていることであった。

――わしは、いつのまにか、叱られて当然の者と見られておるのか。

長年、朝廷との取次を務め、和漢の教養をもって信長の側近くに仕えてきたという自負が、光秀にはあった。それが今や、膳の仕度一つで、面目を失う立場に落とされている。栄えある役目のはずが、かえって恥辱の種になったことに、光秀は言い知れぬ虚しさを覚えた。

その虚しさを紛らわすように、光秀は五月の末、愛宕山に参籠し、連歌の会を催した。西坊威徳院に、里村紹巴ら連歌師を招き、一夜、詞を連ねる。かねてより、こうした席は、光秀にとって何よりの慰めであった。政務の重さから逃れ、ただ言葉の妙を追う一時こそが、己を保つよすがであった。

だが、その夜の光秀の発句は、いつもの調子を欠いていた。

――時は今、雨が下しる五月哉

そう詠んだきり、光秀はしばし、次の句が継げずにいた。紹巴が、次の句を促すように光秀の顔を窺ったが、光秀の目は、どこか虚空を彷徨っているようであった。かつての光秀であれば、いかに政務に追われていようと、一座に加わったからには、そこにある間だけは、心をその場に置くことができた。それが今宵は、詞を連ねる愉しみの中にすら、光秀の心は落ち着いて留まることができなかった。丹波のこと、饗応役の噂のこと、そして、近頃家中にひそやかに流れ始めた、もう一つの噂のことが、絶えず光秀の胸の奥で疼いていたのである。

――筑前守どのの麾下に加われ、との沙汰が下るらしい。

備中において毛利方との対陣が長引く羽柴秀吉より、信長のもとへ後詰めの要請があったという。これに応じ、信長は近く光秀にも中国出陣を命じるであろう、との噂であった。もしそれが事実であるならば、光秀は、丹波・近江に一円の所領を任され、独立した方面軍の将として遇されてきたこれまでの立場を離れ、秀吉の指揮下に組み込まれることになる。

――なぜ、わしが、筑前守の下に立たねばならぬ。

その理不尽さを、光秀は到底、飲み下すことができなかった。丹波の統治にこれほど心血を注ぎ、朝廷との取次にこれほど意を用いてきた己が、なにゆえ、中国方面の一将にすぎぬ秀吉の風下に立たねばならぬのか。連歌の座にあってもなお、光秀の思案は、その一点へと、際限なく引き戻されていった。

その様子に、真っ先に気づいたのは、僧・行祐であった。連歌の後、二人だけになった折、行祐は静かに光秀へ問うた。

「十兵衛殿、近頃、いささかお痩せになられたのではござらぬか」

「――さようなことは、ござらぬ」

光秀は、そう応じるだけであった。だが、その受け答えの硬さに、行祐はなお、いぶかしげな面持ちを崩さなかった。

京へ戻ってからも、光秀の心は休まらなかった。ある日、朝廷への取次の用向きで参内した折、公家の吉田兼見と、しばし言葉を交わす機会があった。兼見は、光秀とは長年の誼があり、互いに気の置けぬ間柄であった。だが、その日の兼見は、光秀の顔色を窺うように、幾度も言葉を選んでいるように見えた。

「十兵衛殿、何ぞ、案じ事でもおありか」

「――いや、何もござらぬ」

光秀は、そう答えながらも、内心では狼狽していた。かつては、兼見の前でこれほど言葉を取り繕う必要など、なかったはずである。それが今は、己の内側にある焦りや疚しさを、誰かに見透かされることを、光秀は何よりも恐れるようになっていた。

その帰り道、光秀は思いがけぬことを耳にした。供の者が、ふと洩らしたのである。

「――安土の御方様が、殿の御様子を、いたく案じておられるとの由にございます」

御方様――正室・帰蝶のことである。光秀は、その言葉に、束の間、足を止めた。

「案じておられる、とは」

「詳しきことは、それがしにも分かりかねまする。ただ、御方様付きの女房衆が、そのように洩らしておったと」

光秀には、その意味するところが、にわかには測りかねた。帰蝶とは、幼き日よりの浅からぬ縁がある。だが、正室という立場にある帰蝶が、家中の一将にすぎぬ己の様子を、殊更に気にかけるとは、いかなる仔細があってのことか。

――何ゆえ、いま。

光秀の胸には、その問いが、静かに、しかし確かな重みをもって残った。だが、その問いを深く追う余裕も、今の光秀にはなかった。丹波のこと、饗応役の噂のこと、秀吉の麾下に置かれるかもしれぬということ――それらに押し流されるように、帰蝶の一件もまた、光秀の胸の奥深くに、答えの出ぬまま沈んでいった。

その夜もまた、光秀は眠れなかった。闇の中で、光秀はただ一人、幾重にも絡み合う思案の渦に、身を委ねるほかなかった。


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