第9話 学校では知らなかった顔
交際七日目、日曜日。待ち合わせの十分前に駅前へ着いた俺は、スマートフォンの黒い画面で前髪を確認していた。
朝、彩花姉から送られてきた動画を三回見ながらセットし、完成した写真を送ると、『七十点。触るな。
そのまま行け』と返ってきた。たぶん大きくは失敗していない。
服も昨日買ったものだ。白いシャツに薄手の羽織り、細身のパンツ。
靴まで彩花姉指定なので、今日の俺に俺自身が選んだものは下着くらいしかない。
「……落ち着かない」
学校なら制服で済む。私服で莉奈と会うだけなのに、自分の格好をここまで気にすることになるとは思わなかった。
スマートフォンを見ると十時五十四分。まだ連絡はない。
周囲には日曜日らしく人が多く、待ち合わせらしい男女もいるし、俺と同じくらいの年齢のカップルも何組か見えた。あのくらい普通にしていればいい。
そう思ったところで、少し離れた場所に見覚えのある女子が立ち止まった。淡い色のブラウスに、膝より少し長いスカート。
学校では下ろしている髪も今日は少しだけまとめられていて、いつもの制服姿とは雰囲気が違う。莉奈だった。
向こうも俺を見ているが、なぜか動かない。数秒間、俺たちは少し離れた場所から、お互いを見たまま止まっていた。
先に動いたのは莉奈だった。こちらへ歩いてくる。
「……高瀬?」
「そうだけど」
「本当に?」
「偽物に見える?」
「ちょっと」
ひどい。莉奈は俺の前まで来ると、もう一度上から下まで見る。
視線が髪へ行き、服へ行き、また顔へ戻った。
「何」
「いや……誰?」
「だから俺だって」
「学校の高瀬どこ行ったの?」
「家に置いてきた」
思わずそう答えると、莉奈が吹き出した。
「何それ」
「水瀬こそ」
「私?」
「学校と違う」
今度は莉奈が少しだけ姿勢を正す。
「変?」
「いや。似合ってる」
そこは迷わなかった。言ってから少し恥ずかしくなったが、今さら取り消す方がおかしい。
「……ありがとう」
莉奈は髪の横を触りながら、小さく笑った。
「高瀬も、似合ってる」
「ありがとう」
妙に照れる。学校なら何でもない会話のはずなのに、場所と服装が違うだけで空気まで変わるらしい。
莉奈が俺の顔をじっと見る。
「髪も自分でやったの?」
「一応」
「お姉さんじゃなくて?」
「動画送られてきた」
「やっぱりお姉さんいるんじゃん」
笑われた。
「自力ではあるだろ」
「指導つきね」
「厳しかったんだぞ」
「何点?」
なぜ分かる。
「七十」
莉奈がまた笑った。
「採点されるんだ」
「俺も今日初めて知った」
話しているうちに、少しずついつもの感じが戻ってきた。俺は時計を見てから「行く?
」と聞き、莉奈も「うん」と頷いた。映画館は駅から歩いて十分ほど。
休日なので人は多いが、歩けないほどではない。俺は莉奈の横に並び、自然に人の少ない方へ寄った。
昨日何をしていたとか、見に行く映画の評判とか、学校の宿題が面倒だとか。最初はそんな普通の話をしていたが、しばらく歩いているうちに莉奈がいつもより少し近いことに気づいた。
学校で一緒に登校するときより、肩同士の距離が短い。人が多いからだろう。
そう思っていたら、前から大きな荷物を持った男性が歩いてきた。俺は少し莉奈側へ寄り、同時に莉奈も避ける。
腕が触れた。
「……」
「……」
二人とも何も言わず、すぐ離れる。たったそれだけなのに妙に意識した。
リボンを直したときの方が距離は近かったはずだ。それなのに今の方が何倍も落ち着かない。
彩花姉の言っていた『知識でできることと、自分の気持ちが絡むことは違う』という言葉の意味が、少しだけ分かった。
「高瀬」
「何?」
「今、緊張した?」
「してない」
「したでしょ」
「人にぶつからないようにしただけ」
「私、腕当たっただけなんだけど」
「分かってる」
莉奈が楽しそうに笑う。
「顔ちょっと赤いよ」
「暑いから」
「今日そんな暑くないけど」
逃げ道を潰された。
「水瀬だって黙っただろ」
言い返すと、今度は莉奈が止まった。
「私は別に」
「じゃあ何で?」
「びっくりしただけ」
「俺もそれ」
「真似しないで」
どっちも同じじゃないか。映画館へ着き、事前に決めていた作品のチケットを買う。
上映まで二十分ほどあったので、売店の列に並んだ。
「何飲む?」
「コーラ」
「即答だな」
「映画はコーラでしょ」
「初めて聞いた」
「高瀬は?」
「アイスティーかな」
「映画館で?」
「何が悪いんだよ」
「大人ぶってる」
「飲み物で?」
「初デートだから格好つけてない?」
昨日父さんに言われた『格好つけすぎんなよ』という言葉を思い出した。
「じゃあコーラ」
俺が言うと、莉奈が笑う。
「変えるんだ」
「水瀬がうるさいから」
「私のせい?」
そんなやり取りをしているうちに順番が来た。飲み物とポップコーンを買うと、莉奈が財布を出した。
「半分出す」
「いいよ」
「なんで?」
「誘ったの俺だし」
「映画代も自分で払ったし、ここは出すよ」
「じゃあ飲み物だけ」
「ポップコーンは?」
「俺が食べたいから俺」
莉奈が少し考えたあと、頷いた。
「じゃあそうする」
無理に全部払おうとはしない。そこは美咲姉にも言われている。
相手が払いたいと言っているのに、男だからという理由だけで押し切るな、と。席は中央より少し後ろ。
隣同士に座ると、暗さと距離の近さを急に意識した。学校の机より近い。
二人の間にある肘掛けを、どちらも使わないまま映画が始まった。十分ほど経ったころ、莉奈がポップコーンへ手を伸ばす。
俺も同時に伸ばし、指が触れた。
「……」
まただ。二人とも止まる。
暗いから顔はよく見えない。
「ごめん」
小声で言う。
「ううん」
莉奈が先に手を引き、俺はポップコーンを一つ取った。映画の内容が一瞬頭に入らなくなる。
何をしているんだ、俺は。手が触れただけ、しかも偶然だ。
こんなことでいちいち固まっていたら、キスどころではない。一か月でその唇を奪う。
五日前まで、かなり格好よく決めたつもりだった。今思うと恥ずかしい。
手すらまともに触れられない男が、何を言っていたんだ。隣を見ると、莉奈は普通にスクリーンを見ている。
やっぱり俺だけかと思うと、少し悔しかった。映画が終わり、館内が明るくなる。
莉奈は大きく息を吐いた。
「面白かった」
「うん」
「最後びっくりしたね」
「途中でちょっと分かった」
「え、嘘」
「伏線あっただろ」
「あれ伏線だったの?」
映画の感想を話しながら外へ出る。しばらくすると莉奈が急に言った。
「でも高瀬」
「何?」
「途中から全然ポップコーン食べなかったね」
俺の足が止まりかけた。見られていた。
「お腹いっぱいだった」
「最初十分くらいで?」
「コーラで」
「そんなわけないでしょ」
莉奈が笑う。完全にばれている。
「水瀬は普通だったじゃん」
言うと、莉奈の笑顔が少し止まった。
「何が?」
「手当たったとき」
「……普通じゃないけど」
今度は俺が止まる。
「え?」
「私もびっくりしたよ。暗かったから分からなかっただけ」
莉奈は前を向いたまま歩く。その事実に、なぜか少し安心した。
「何笑ってるの?」
「笑ってない」
「笑ってる」
「気のせい」
「なんかむかつく」
俺の腕を軽く叩く。それくらいはもう普通になっている。
昼食は、昨日調べた三軒の中から莉奈に選んでもらった。少し落ち着いた雰囲気の洋食店で、向かい合って座る。
「高瀬、こういう店も調べたの?」
「一応」
「何軒?」
「三軒」
「そんなに?」
「混んでたとき困るだろ」
莉奈がメニューから顔を上げる。
「ちゃんとしてるね」
「普通じゃない?」
「普通かな」
「姉ちゃんにもそう言われた」
「またお姉さん」
最近、この言葉を何度聞いたか分からない。注文を済ませ、料理を待っていると、莉奈が頬杖をついた。
「ねえ」
「うん」
「学校でもその格好すればいいのに」
「無理」
「制服だから服は無理でしょ。髪」
「面倒」
「もったいない」
「そんな変わる?」
莉奈が少し考える。
「変わる」
「どっちがいい?」
軽い気持ちで聞いたが、莉奈は黙った。視線が俺の髪から顔へ移り、少し長く止まる。
「……今日」
小さく答えた。今度は俺が黙る番だった。
「何その顔」
「いや」
「自分で聞いたんでしょ」
「そうだけど」
「今日の方がいい」
もう一度言われると心臓に悪い。
「じゃあ月曜からこれで行こうかな」
冗談半分で言うと、莉奈の反応が止まった。
「……いいんじゃない?」
声が少しだけ弱くなった。
「嫌なの?」
「何で私が嫌なの」
「今ちょっと嫌そうだった」
「別に」
まただ。昨日までなら、その一言で終わっていただろう。
でも今は少し分かる。何かある。
ただ、莉奈が言いたくなったら言えばいいと思い、それ以上は聞かなかった。しばらくして料理が来て、話題は自然に学校や先生、家族のことへ変わった。
俺の姉妹の話になると、莉奈はやたら食いつく。
「彩花さんってどんな人?」
「今日の服を選んだ人」
「じゃあ会ったらお礼言わないと」
「なんで」
「だって似合ってるし」
また普通に言う。心臓が忙しい。
「美咲さんは?」
「一番上。たぶん一番まとも」
「たぶん?」
「怒ると一番怖い」
「何したら怒られるの?」
「人を雑に扱ったとき」
莉奈の表情が、一瞬だけ止まった。俺は気づいたが、理由までは考えなかった。
「凛ちゃんは?」
「生意気」
「妹に言いつけようかな」
「会ったことないだろ」
「いつか会うかもしれないじゃん」
自然に出た言葉だった。莉奈自身も、言ってから少し驚いた顔をする。
俺も同じだった。いつか。
この交際は一か月で終わる。本来なら、その先はない。
「……そうだな」
それだけ返すと、少しだけ空気が変わった気がした。だが莉奈はすぐに笑う。
「そのとき高瀬の悪口いっぱい聞こ」
「絶対会わせない」
「もう遅い。名前覚えた」
「忘れろ」
「無理」
食事を終えて店を出たあと、特に予定は決めていなかった。莉奈が店を見たいと言うので、雑貨屋や服屋を何軒か回る。
そこで、莉奈は買うかどうかより、見て回ること自体が好きらしいと気づいた。俺は特に急ぐ理由もないので付き合う。
アクセサリーの店で、莉奈が小さなイヤリングを手に取った。鏡の前で耳元に合わせる。
「どう?」
「似合う」
「早っ。ちゃんと見た?」
「見たよ。青より、こっちの方がいいと思う」
隣にあった少し淡い色のものを指さす。
「なんで?」
「今日の服ならそっち」
莉奈はそれを耳元へ合わせ、鏡を見る。それから俺を見る。
「……本当に女子みたいなこと言うね」
「姉ちゃんたちのせい」
「でも、こっちの方がいいかも」
少し嬉しそうだった。結局、莉奈はそのイヤリングを買った。
店を出てしばらく歩いたところで、小さな紙袋を持ちながら聞いてくる。
「高瀬。これ、次つけてきたら気づく?」
「気づくと思う」
「ほんと?」
「たぶん」
莉奈が笑う。
「じゃあ試す」
「何を」
「高瀬が本当に気づくか」
「わざわざテストするの?」
「する」
「面倒だな」
「彼女なんだから頑張って」
最近、それを便利な言葉として使っていないか。夕方、駅前へ戻ってきた。
そろそろ帰る時間だ。
「今日はありがとう」
「こっちこそ」
「楽しかった」
一瞬、その言葉をどう受け取るか迷った。罰ゲームだから、彼女役だから。
そう考えれば簡単だ。でも今日の莉奈は、少なくとも途中から演技をしているようには見えなかった。
「俺も楽しかった」
これは本当だ。莉奈が少し笑う。
「じゃあ成功だね、初デート」
「何が成功?」
「二人とも楽しかったなら成功でしょ」
なるほど。それなら成功だ。
電車の方向が違うので、ここで別れる。
「じゃあ明日」
「うん。また朝?」
「八時?」
「八時。分かった」
莉奈が手を振り、俺も返す。数歩歩いたところで、
「高瀬!」
呼ばれて振り返った。
「何?」
莉奈は少し迷ってから言った。
「明日、その髪で来てよ」
俺は自分の前髪に触れる。
「なんで?」
「今日の方がいいから」
それだけ言うと、莉奈は今度こそ駅の中へ歩いていった。俺はしばらくその場に立っていた。
月曜日、学校へこの髪で行けば、たぶんクラスの女子にも何か言われる。莉奈もそれくらい分かっているはずだ。
なのに、今日の方がいいと言った。昨日なら、そこから色々考えたかもしれない。
でも今は。
「……彼女役だから、か」
結局そこへ戻る。その夜、高瀬家。
玄関を開けた瞬間、嫌な予感がした。リビングのドアを開けると、美咲姉、彩花姉、凛の三人が並んで座っている。
「……何?」
彩花姉が笑顔で言う。
「座って」
「嫌な予感しかしない」
「初デート反省会」
「しない」
凛が隣の空いている椅子を叩く。
「お兄ちゃん、早く」
「なんで家族に報告しないといけないんだよ」
「私たちの指導の成果なんだから当然でしょ」
「成果物みたいに言うな」
逃げようとしたところで、美咲姉が静かに聞いた。
「楽しかった?」
俺は足を止め、ほんの少し考える。
「……うん」
三人の顔が変わった。彩花姉と凛が笑い、美咲姉だけは何も言わず、少しだけ笑う。
その反応が気に入らない。
「何だよ」
「別に」
三人とも同じ答えだった。初デートは終わった。
莉奈を惚れさせるための一日だったはずなのに、家へ帰った俺の頭に残っていたのは、今日の攻略が成功したかどうかではなかった。
私服の莉奈。映画館で触れた指。
『今日の方がいい』という言葉と、別れ際の笑顔。どう考えても。
今日一日、一番相手を意識させられていたのは――俺の方だった。




