第8話 初デートより怖いもの
交際六日目の土曜日、午前十時。俺は自室のベッドに座り、スマートフォンを見ていた。
画面には昨夜から何度かやり取りしている莉奈とのトークが残っている。明日のデートは駅前。
映画を一本見て、そのあと昼を食べる。時間があれば適当に店を見る予定で、結局かなり普通のプランになった。
美咲姉に相談したら、
『初めてなんだから、それでいいんじゃない』
と一言。凛には、
『映画のジャンル勝手に決めないで、候補送って選んでもらって』
と言われた。そして彩花姉には、
『行き先より先に服』
と切り捨てられた。そんなことを思い返していると、一階にいるはずの彩花姉からLINEが来た。
『十一時に出るから準備して』
同じ家にいるのだから、普通に呼べばいいのに。
『分かった』
返すと、すぐ既読がつく。
『その服で降りてきたら置いてくから』
俺は自分を見る。黒いTシャツにグレーのパンツ。
「……何が悪いんだよ」
休日ならこれで十分だろう。立ち上がってクローゼットを開ける。
似たような服が並んでいた。黒。
紺。グレー。
たまに白。彩花姉が俺のクローゼットを見るたび、『モノクロ写真?
』と言う理由は少し分かる。でも今まで困ったことはない。
学校では制服だし、休日に出かける相手はだいたい拓真だ。拓真相手に服装を頑張る必要は一ミリもない。
問題は明日。莉奈と初デート。
スマートフォンが震えた。今度は莉奈だった。
『明日11時で大丈夫?』
『大丈夫』
『駅前集合ね』
『了解』
少しして、もう一件。
『楽しみにしてる』
俺の指が止まった。この一文は反則だと思う。
嘘告で、罰ゲームで、俺は最初から全部知っている。だからまともに受け取る必要なんてないはずなのに、『俺も』と打つまでに十秒くらいかかった。
送信するとすぐ既読がつき、楽しそうに跳ねているキャラクターのスタンプが返ってくる。ハートですらない。
それだけなのに少し嬉しい。
「……何やってんだろ」
スマートフォンを伏せる。水瀬莉奈を一か月で惚れさせる。
これはそのためのデートだ。目的を忘れるな。
そう自分に言い聞かせて、部屋を出た。リビングへ行くと、彩花姉はすでに外出する格好をしていた。
その横には、なぜか凛までいる。
「なんで凛まで?」
「暇だから」
「来なくていい」
「嫌」
「俺の服買うだけだぞ」
「だから行くんじゃん」
意味が分からない。母さんはソファで雑誌を読んでいる。
「行ってらっしゃい」
軽い。父さんもいる。
「悠斗」
「何?」
「女との初デートにはな」
「聞かない」
「まだ何も言ってないぞ」
「どうせろくでもない」
「失礼だな。父さんは母さんとの初デートで――」
「健司」
母さんが雑誌から顔も上げずに名前を呼ぶ。
「はい」
終了した。彩花姉が鞄を持って立ち上がる。
「行くよ」
「はい」
「財布持った?」
「持った」
「スマホ」
「持った」
「デートで着られる服」
「それを今から買うんだろ」
「分かってるならよし」
なぜ俺が小学生みたいに確認されなければならない。玄関へ向かう途中、美咲姉が自分の部屋から出てきた。
今日は仕事ではないらしい。
「出かけるの?」
「悠斗改造」
彩花姉が即答した。
「改造って言うな」
美咲姉は俺を見る。いつもの黒いTシャツとグレーのパンツを上から下まで確認して、数秒黙った。
「……お願いね、彩花」
「美咲姉まで?」
「明日の相手に失礼にならない程度でいいから」
そこまで酷いのか。
「俺の服装ってそんなダメ?」
「ダメではないよ。ただ、興味がないのが分かりすぎるだけ」
もっと痛かった。凛が靴を履きながら笑う。
「お兄ちゃん、服に人格出てるもん」
「どういう意味だよ」
「何でもいいって感じ」
その評価を受けながら、俺は家を出た。三十分後。
ショッピングモールに着いた時点で、俺はすでに帰りたくなっていた。理由は簡単。
彩花姉が怖い。
「これ」
差し出された服を受け取る。
「試着」
「さっき着た」
「違うやつ」
「何着着るの?」
「決まるまで」
「拷問?」
「デートで黒T一枚の男よりマシ」
反論できない。試着室へ入り、今日だけですでに四着目となる服に着替える。
白系のシャツに薄手の羽織り。黒ではないパンツ。
自分では絶対に選ばない組み合わせだ。カーテンを開けると、彩花姉が腕を組み、凛が横から全身を確認した。
「さっきよりいい」
凛が言う。
「そう?」
「うん。でも靴が死んでる」
「靴は死なない」
「そのスニーカー明日履く気?」
「そのつもり」
彩花姉と凛が同時に首を振った。なんだこの姉妹。
「悠斗」
彩花姉が近づき、シャツの襟を少し直して袖を折る。
「こう」
鏡を見る。確かに、いつもの自分とは少し違って見えた。
「……別人っぽい」
「これくらいで別人にならない」
「学校の俺とは違う」
「学校でもこれくらいやればいいじゃん」
「嫌だ」
「なんで?」
「面倒だから」
彩花姉が呆れたように俺を見る。
「そういうとこ」
何がだ。その横で凛がスマートフォンを取り出した。
「写真撮る」
「やめろ」
「莉奈さんに送れば?」
「絶対やめろ」
「じゃあ私だけで見る」
「それも嫌」
凛が笑う。
「照れてる」
「違う」
「明日、莉奈さんびっくりするかもね」
その言葉で、俺はもう一度鏡を見た。水瀬がこの格好を見たら、どんな反応をするだろう。
驚くのか。笑うのか。
少しだけ楽しみになったところで、彩花姉が俺の顔を覗き込んだ。
「今、莉奈ちゃんの反応想像した?」
「してない」
「したね」
「してない」
凛まで笑う。
「分かりやす」
最近、この家で俺の扱いが悪化している気がする。
「次、靴」
彩花姉が言った。
「まだあるの?」
「当然」
「服だけって言っただろ」
「言ってない」
言っていた気がする。だが抗議しても無駄なのは知っている。
結局、シャツ、パンツ、薄手の羽織り、スニーカーまで一通り買わされた。会計を終えて時計を見ると、午後一時前だった。
「終わった?」
「まだ」
「嘘だろ」
「髪」
「髪?」
彩花姉が当然のように俺を見る。
「明日、自分でできる?」
俺は黙った。彩花姉も黙る。
凛が笑った。
「無理だね」
「動画撮るから」
彩花姉が言う。
「何の?」
「セットの仕方」
「明日やってくれればいいだろ」
「私、朝から予定ある」
「じゃあいつもので行く」
「ダメ」
即答だった。仕方なく、近くのカフェへ入る。
三人分の飲み物を買い、俺はアイスコーヒー、彩花姉はカフェラテ、凛は見るからに甘そうな飲み物を持って席についた。
「で」
凛がストローをくわえながら聞く。
「明日どこ行くの?」
「駅前」
「それは知ってる」
「映画」
「何見る?」
作品名を言うと、凛が少し驚いた。
「恋愛映画じゃないんだ」
「水瀬がこれがいいって」
「ちゃんと聞いたんだ」
「当たり前だろ」
彩花姉が満足そうに頷く。
「そこは合格」
「誰が採点してるんだよ」
「私」
聞くんじゃなかった。
「映画のあと?」
「昼食」
「予約は?」
「してない」
「店は?」
「三つくらい候補調べた」
今度は彩花姉だけでなく、凛まで止まった。
「何?」
「お兄ちゃん、ちゃんと調べたんだ」
「デートなんだから普通だろ」
「前まで休日に出かけるとき『腹減ったらそのへんで食えばいい』だった人が?」
「拓真と水瀬を一緒にするな」
言ってから、二人が静かになった。しまった。
彩花姉の口元が上がり、凛まで同じ顔をする。
「へえ」
「水瀬さんは違うんだ」
「彼女だから」
「はい出た」
「最近それ好きだね、お兄ちゃん」
「好きで言ってるわけじゃない」
本当にそうなのだから仕方がない。彩花姉がカフェラテを飲みながら少し考える。
「まあ、それならいいけど。店は一つに決めすぎない方がいいよ」
「なんで?」
「そのとき食べたいもの変わるかもしれないし、混んでるかもしれないでしょ。候補いくつか持っておいて、その場で莉奈ちゃんに聞けばいい」
なるほど。そこは確かにその方がいい。
「分かった」
すると今度は凛が指を折りながら言い始めた。
「あと、歩く速さ」
「知ってる」
「荷物」
「知ってる」
「スマホばっか見ない」
「知ってる」
「勝手に写真撮らない」
「知ってる」
「人混みで置いてかない」
「知ってる」
「疲れてそうなら――」
「全部知ってる!」
思わず声が大きくなった。周囲の客が少しこちらを見る。
俺はすぐに声を落とした。
「何年間聞かされたと思ってんだよ」
凛が笑う。
「じゃあ実際できる?」
「できる」
「リボン直すだけで緊張したのに?」
俺は止まった。彩花姉がゆっくり凛を見る。
「何それ」
しまった。
「何でもない」
「悠斗」
彩花姉の目が変わる。
「莉奈ちゃんのリボン直したの?」
「曲がってたから」
「どこで?」
「学校」
「どうやって?」
「普通に」
「どの距離で?」
「リボン触れる距離に決まってるだろ」
彩花姉が両手で顔を覆った。
「何で」
「無自覚怖い」
「何がだよ」
凛も隣で笑っている。
「なのに手もつないでないんでしょ?」
「つないでない」
「お兄ちゃん、順番変じゃない?」
「リボンと手をつなぐのは別だろ」
俺には全く理解できない。彩花姉が少し真面目な顔になる。
「いい? 知識でできることと、自分の気持ちが絡むことは違うからね」
また似たような話だ。昨日は拓真にも似たことを言われた。
「分かってる」
「本当に?」
「リボン直すくらい普通にできた」
「緊張したんでしょ?」
凛が余計なことを言う。
「少しだけ」
彩花姉が笑った。
「明日大丈夫かな」
「何が」
「手つなぐ流れになったら」
「ならない」
「なんで分かるの?」
「まだ一週間だぞ」
「付き合ってるんでしょ?」
「そうだけど」
「相手から来るかもしれないじゃん」
その瞬間、水瀬が俺の手を握るところを想像してしまった。一瞬、頭が真っ白になる。
彩花姉がすぐに気づいた。
「ほら」
「何が」
「今想像したでしょ」
「してない」
「顔に出てる」
そんなに分かりやすいのか。嫌になる。
凛が楽しそうに笑った。
「理論上は達人」
彩花姉が続ける。
「実戦は初心者」
「誰が達人だよ」
「私たちの教育の成果」
「勝手に作品みたいに言うな」
二人は笑っている。疲れているのは俺だけだ。
しばらくして、彩花姉が少し真面目な声になった。
「でも、悠斗。一つだけ」
「何?」
「明日、莉奈ちゃんを楽しませなきゃって考えすぎないこと」
意外な言葉だった。
「え?」
「デートは接待じゃないから。悠斗が全部考えて、全部気を遣って、全部合わせたら、最初は楽しいかもしれない。でもそれずっと続けられないでしょ」
俺は黙って聞いた。彩花姉は少し笑う。
「悠斗も楽しんできな」
その言葉には少し困った。俺は莉奈を惚れさせるためにデートする。
だから当然、莉奈を楽しませることは考えていた。でも、自分が楽しむことまでは考えていなかった。
「……分かった」
「よろしい」
凛も横で頷く。
「その方が莉奈さんも楽しいと思うよ」
こういうところだけは妙にまともだ。店を出たあと、次は靴を見ると言われたが、もう買ったはずなので抵抗した。
結果、なぜかベルトまで買わされた。帰宅したのは午後三時過ぎだった。
玄関を開けて「ただいま」と声をかけると、母さんから「おかえり」と返ってくる。リビングへ行くと、美咲姉も父さんもいた。
大量の袋を見た父さんが笑う。
「デート一回で旅行でも行くのか?」
「俺もそう思う」
「悠斗」
美咲姉が俺を見る。
「一回着てみて」
「なんで」
「見たい」
逃げられなかった。十分後。
買ってきた服に着替えてリビングへ戻ると、父さんが口笛を吹いた。
「おお」
「やめて」
母さんもこちらを見る。
「似合うじゃない」
「ありがとう」
美咲姉も全身を確認し、小さく頷いた。
「いいね」
彩花姉が満足そうに腕を組む。
「でしょ?」
その横で凛がスマートフォンを向けてきた。
「写真」
「撮るな」
「莉奈さんに――」
「送るな!」
リビングに笑いが起きる。その中で、父さんが俺の肩を軽く叩いた。
「悠斗」
「何?」
「明日な」
「恋愛講義ならいらない」
「違う」
珍しく父さんが笑わなかった。
「格好つけすぎんなよ」
短い言葉だった。
「え?」
「どうせお前、初デートだからちゃんとしようって考えてるだろ。失敗してもいいんだよ、初デートなんだから」
それだけ言うと、父さんはテレビへ視線を戻した。美咲姉も何も言わない。
母さんもいつものように黙っている。少しだけ、父さんが家族に尊敬されている理由が分かった気がした。
部屋へ戻り、買った服をハンガーにかける。これで明日の準備はほとんど終わった。
スマートフォンを見ると、莉奈からメッセージが来ている。
『明日晴れるみたい』
『よかった』
『何着てくる?』
俺は少し迷ってから、
『秘密』
と返した。すぐに、
『何それ笑』
と返ってくる。
『そっちも秘密だろ』
少し間が空いた。
『じゃあお互い秘密』
続けて、
『明日楽しみ』
まただ。今度はほとんど迷わず、
『楽しみ』
と返した。既読がつき、少ししてもう一件届く。
『寝坊しないでね、彼氏くん』
思わず笑った。
『そっちこそ』
スマートフォンを置き、ベッドへ腰を下ろす。明日は初デート。
水瀬を惚れさせるための大事な一日だ。そのはずなのに、今の俺が一番気になっているのは、水瀬が明日どんな服を着てくるのか。
そして俺を見たとき、どんな顔をするのか。そんなことだった。
同じ頃、莉奈も自分の部屋でクローゼットの前に立っていた。ベッドの上には三着の服が並び、その横には真帆との通話を繋いだスマートフォンが置かれている。
『だから二番目だって』
真帆の声が聞こえる。
「でもちょっと頑張りすぎじゃない?」
『デートなんでしょ?』
「……一応」
『彼氏と?』
「一応」
『じゃあいいじゃん』
莉奈は二番目の服を手に取って眺める。
「でもさ」
『何?』
「別に本当のデートじゃないし」
一瞬、真帆が黙った。
『莉奈』
「何?」
『今日、何時から服選んでる?』
莉奈は時計を見る。四時十二分だった。
「……三時半くらい」
『四十分以上選んでるんだ』
「だから何」
真帆が通話の向こうで笑う。
『別にー』
「その言い方やめて」
『じゃあ何でそんな悩んでんの?』
莉奈は答えなかった。高瀬を騙すため。
彼女らしく見せるため。一か月の罰ゲームを最後まで成立させるため。
理由ならいくつもある。ただ、どれも今の自分が四十分以上も服を選んでいる理由としては、少し弱い気がした。
『莉奈』
「何?」
『楽しみなんでしょ?』
また答えられなかった。明日のデートで高瀬がどこへ連れていくのか。
どんな話をするのか。学校の外ではどんな人なのか。
そして、どんな服で来るのか。気になっている。
かなり。
「……まあ」
莉奈はベッドの上の服を一着持ち上げた。
「つまんなかったら一か月も続かないし」
『はいはい』
「何」
『何でもない』
「その言い方腹立つ」
通話の向こうで真帆が笑い、莉奈も少しだけ笑った。明日は二人にとって初めてのデート。
まだこの時点では、悠斗も莉奈も同じことを考えていた。相手を意識させるのは、自分の方だと。




