第6話 それ、私だけじゃないの?
交際四日目。朝。
いつもの場所へ着くと、水瀬はもう来ていた。
「おはよ」
「早いな」
「今日は私が先」
少し得意そうに笑っている。時刻は七時五十三分。
俺より一分早い。
「競争してたの?」
「してないけど」
「じゃあ何で嬉しそうなんだよ」
「昨日まで高瀬が先だったから」
そう言いながら、水瀬が俺の髪を見る。そして。
「今日も違う」
「何が」
「髪」
また気づいた。昨日とは少しだけ分け方が違う。
今朝も彩花姉に捕まった。
『毎日同じじゃつまんないでしょ』
と言われた。俺としては毎日同じでいい。
むしろその方が楽だ。
「今日もお姉さん?」
「うん」
「すごいね」
「何が」
「弟の髪を毎朝やる二十一歳」
「本人が一番楽しんでる」
「いいお姉さんじゃん」
俺は答えなかった。いい姉なのは間違いない。
ただ、弟の恋愛に介入しすぎる。
「水瀬」
「ん?」
「それ」
俺が指さす。水瀬が自分を見る。
「何?」
「リボン曲がってる」
制服の胸元。結び目が少しだけ右にずれている。
水瀬が慌てて下を見る。
「ほんと?」
「少し」
自分で直そうとする。だが見えにくいらしく、余計にずれた。
「これでどう?」
「逆」
「え」
もう一度直す。
「今度は?」
「さっきよりひどい」
「うそ」
「ほんと」
水瀬が困ったように俺を見る。
「高瀬、できる?」
「え?」
「直すの」
一瞬。俺の頭が止まった。
知識としては簡単だ。リボンの形を整えるだけ。
だが。目の前にいるのは彼女。
しかも胸元。
「自分でやった方がいいんじゃない?」
「できないから聞いてるんだけど」
「鏡使えば?」
「高瀬、できるんでしょ?」
できる。力加減も位置も分かる。
美咲姉に何度もやらされた。でも問題はそこじゃない。
水瀬が首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや」
近い。触らないようにすれば問題ない。
リボンだけ整えればいい。美咲姉ならたぶんそう言う。
変に意識する方が失礼だ。
「動くなよ」
「うん」
俺はリボンの端をつまんだ。結び目を中央へ寄せる。
左右を少し整える。ほんの数秒。
ただそれだけ。なのに。
なぜこんなに緊張する。
「はい」
すぐ手を離す。
「できた?」
「たぶん」
水瀬がスマートフォンのインカメラで確認する。
「あ、ほんとだ」
嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
「うん」
「高瀬って、こういうのもできるんだ」
「姉ちゃんたちがいるから」
「またお姉さん」
最近、何かあるたびにそれで説明している気がする。水瀬が少し笑う。
「便利だね、女きょうだい」
「便利って言うな」
「でも彼氏としては便利」
その言葉で。今度は俺の方が止まった。
「何?」
「いや」
「また緊張した?」
「してない」
「ほんと?」
「早く行くぞ」
「はいはい」
水瀬が笑いながら隣に並んだ。完全にからかわれている。
昨日までなら、俺が水瀬を戸惑わせる側だったはずなのに。少しずつ立場が逆転している気がする。
教室へ入ると、まだ人は少なかった。俺は席へ向かう。
その途中。
「高瀬くん」
女子に呼び止められた。同じクラスの中村。
普段ほとんど話したことがない。
「何?」
「昨日の英語のプリントって、今日提出だっけ?」
「今日じゃないよ。来週の月曜」
「あ、ほんと?」
「うん」
「よかった。ありがとう」
それだけの会話。俺は席へ戻ろうとした。
そのとき。中村の筆箱が机から落ちた。
ペンが床へ散らばる。
「あ」
一番近かった俺がしゃがんだ。一緒に拾う。
「ごめん、ありがとう」
「これも」
最後の一本を渡す。そこで気づく。
中村の左手の人差し指に小さな絆創膏が貼られている。昨日はなかった。
「指、大丈夫?」
言ってから。しまったと思った。
中村が少し驚く。
「え?」
「怪我してるから」
「あ、これ?」
指を上げる。
「昨日、料理しててちょっと切っただけ」
「ならいいけど」
「高瀬くん、よく気づいたね」
「見えたから」
俺はそれだけ答えて席へ戻った。普通の会話。
本当にそれだけ。なのだが。
席へ着いた瞬間。拓真が俺を見る。
「お前」
「何」
「今の、前なら絶対言わなかったよな」
分かっている。自分でも思った。
今までなら、絆創膏に気づいても何も言わなかった。
「つい」
「つい?」
「最近ちょっと気が緩んでる」
拓真が笑う。
「封印解けてんじゃん」
「全部じゃない」
「時間の問題だな」
「うるさい」
そのとき。妙な視線を感じた。
見る。水瀬だった。
こちらを見ている。目が合った瞬間、視線を逸らされた。
何だ?朝のホームルームが始まるまで、水瀬はこちらへ来なかった。
一時間目。二時間目。
特に何もない。だが。
休み時間になっても、水瀬は真帆たちと話している。昨日までは一度くらい俺の席へ来ていた。
偶然だろう。三時間目。
移動教室。廊下へ出る。
俺は拓真と歩いていた。少し前に、水瀬たちのグループがいる。
真帆。由依。
陸。蓮。
そして水瀬。何か話している。
「悠斗」
拓真が声を落とす。
「何?」
「水瀬、なんか機嫌悪くない?」
「そう?」
「朝から」
「分からない」
「女心の達人じゃないの?」
「誰がだよ」
「高瀬家認定」
「そんな認定ない」
だが。言われてみれば。
少しだけ違う。話しているし、笑ってもいる。
ただ、いつもより反応が少し短い。
「何かした?」
拓真が聞く。
「してない」
「ほんと?」
「朝、リボン直したくらい」
拓真が足を止めた。
「は?」
「何」
「リボン?」
「曲がってたから」
「お前が?」
「頼まれたから」
拓真が俺をじっと見る。
「朝から何やってんだよ」
「普通だろ」
「それ普通なの?」
「姉ちゃんたちなら普通」
「基準がおかしい」
意味が分からない。そんな話をしている間に教室へ着いた。
昼休み。今日もいつものメンバーで机を囲む。
俺もそこに入る。交際四日目にして、これが自然になってきた。
「高瀬」
陸が弁当を開けながら聞く。
「お前、中村と仲いいの?」
突然だった。
「中村?」
「朝、なんか話してたじゃん」
「あれだけだよ」
「指の怪我まで気づいてたよな」
「見えただけ」
陸が笑う。
「お前、意外と女子見てんだな」
その瞬間。俺の隣から、
「へえ」
声がした。水瀬。
低い。
「何?」
俺が見る。水瀬は弁当の唐揚げを食べている。
「別に」
「なんだよ」
「何でもない」
明らかに何でもなくない。真帆が一瞬、水瀬を見る。
由依も見た。陸だけは何も気づかない。
「俺なんて女子が髪切っても多分分かんねえわ」
「それは気づけよ」
蓮が笑う。
「莉奈も結構変えてるぞ」
「そうなの?」
陸が水瀬を見る。
「分かってないの?」
水瀬が呆れる。
「ほら」
蓮が前髪を指す。
「この前ちょっと切っただろ」
「……切ったけど」
「俺は分かった」
蓮が笑う。なるほど。
前から莉奈を好きなだけある。よく見ている。
その瞬間。少しだけ胸の奥がざらついた。
何だろう。この感じ。
「高瀬は?」
真帆が突然振ってきた。
「何が?」
「莉奈が前髪切ったの、気づいてた?」
俺は水瀬を見る。水瀬もこちらを見る。
答えは。
「気づいてた」
水瀬の目が少し大きくなる。
「いつ?」
「先週」
「付き合う前じゃん」
「そうだな」
真帆がにっと笑う。
「言わなかったの?」
「言わないよ」
「なんで?」
答えようとして。止まる。
本当の理由は。姉ちゃんたちから止められていたから。
でも、それをそのまま言うのは変だ。
「別に言う関係じゃなかったから」
そう答えた。水瀬が箸を止めた。
「じゃあ今なら言う?」
「まあ」
「なんで?」
今度は俺が止まる。
「彼女だから」
昨日からこの答えばかりだ。でも事実だ。
水瀬は黙った。ほんの少し。
公式の場。そして。
「ふーん」
それだけ。真帆が水瀬を見る。
由依も。蓮も一瞬だけ俺を見る。
空気が少し変わった。陸だけは唐揚げを食べながら、
「彼氏って大変だな」
と呑気に言った。
「何が?」
「前髪までチェックすんの?」
「チェックしてるわけじゃない」
「じゃあ何」
「目に入るだけ」
「それが分かんねえ」
俺も説明できない。小さな変化は昔から気づく。
気づいても言わない。それが習慣だった。
でも今は。水瀬になら言っていい。
むしろ言った方がいい。彼女なのだから。
昼休みが終わる。机を戻していると、水瀬が俺を呼んだ。
「高瀬」
「何?」
「ちょっといい?」
「うん」
廊下へ出る。人が少ない場所まで歩く。
水瀬が止まった。
「朝の中村さん」
「中村?」
「指」
「ああ」
何だろう。
「前からああいうこと言ってた?」
「何が?」
「怪我に気づいたり」
俺は少し考える。
「気づいてたけど、言ってなかった」
「なんで今日は言ったの?」
「……つい?」
「つい」
「うん」
水瀬が黙る。何かがおかしい。
「怒ってる?」
「怒ってない」
即答。以前とは逆だ。
今度は俺が聞く側になっている。
「じゃあ何」
「別に」
「絶対なんかあるだろ」
「ないって」
水瀬が前を向く。俺も隣に立つ。
少し待つ。こういうとき。
すぐ答えを求めない。美咲姉に何度も言われてきた。
『話したくないときに問い詰めない。話せるまで待ちなさい』
だから黙った。数秒。
水瀬がこちらを見る。
「……何で何も聞かないの?」
「聞いたらないって言ったから」
「それで終わり?」
「水瀬が言いたくなったら言えばいい」
また黙る。今度は少し長かった。
指先を少し動かしている。そして。
「高瀬ってさ」
「うん」
「女の子みんなにそうなの?」
意味が分からない。
「そうって?」
「そういうの」
「何?」
「気づいたり、気遣ったり」
ようやく分かった。でも。
なぜそんなことを聞く?
「今までは言わなかったよ」
「今は?」
「今は……」
少し考える。最近、確かに気が緩んでいる。
でも水瀬にやっていることとは違う。朝一緒に行く。
帰りも一緒。LINE。
昼食。髪や服の変化。
彼女だから意識していることは多い。
「水瀬には特別だよ」
言ってから。あ。
またやった。水瀬が止まる。
俺も止まる。廊下の空気が妙に静かになった。
「……特別?」
「彼女だから」
すぐ付け足す。水瀬がこちらをじっと見る。
「そればっかりだね」
「何が」
「彼女だからって」
「事実だろ」
「そうだけど」
ほんの少し。水瀬の口元が緩んだ。
さっきまでの不機嫌そうな顔が消える。
「じゃあ、中村さんは?」
「クラスメイト」
「真帆は?」
「水瀬の友達」
「由依は?」
「同じ」
「私は?」
「だから彼女」
「そっか」
満足そうに言う。何なんだ。
「戻る?」
「うん」
二人で教室へ向かう。その途中。
俺はようやく気づいた。もしかして。
さっきのは。嫉嫉?
いや。そんなわけない。
水瀬にとって俺は罰ゲームの相手だ。まだ四日目。
好きになるには早すぎる。彼女役をやっているから、俺が他の女子に同じようなことをすると都合が悪いだけだろう。
たぶん。そういうことだ。
一方。教室へ戻った莉奈は、自分の席へ座った。
真帆がすぐ近づいてくる。
「何話してたの?」
「別に」
「また別に?」
「本当に大したことじゃない」
由依もこちらを見る。
「朝のこと?」
莉奈が一瞬止まった。
「……なんで分かるの?」
真帆が笑う。
「やっぱり」
「何が」
「中村さんと高瀬が話してるとき、めっちゃ見てたじゃん」
「見てない」
「見てたよ」
「見てないって」
由依が静かに言う。
「莉奈」
「何?」
「高瀬くんが他の女子に優しくするの、嫌だった?」
莉奈は答えようとした。でも。
言葉が出ない。嫌。
そこまでではない。ただ。
朝、自分のリボンが曲がっていることに気づいた。昨日は眠そうなのも気づいた。
キーホルダーの金具にも気づいた。シャーペンも書きやすい方を貸してくれた。
そういうものを。自分だけに向けられているものだと思い始めていた。
だから。他の女子の小さな怪我にも同じように気づいているのを見た瞬間。
少しだけ面白くなかった。でも。
高瀬は言った。
『水瀬には特別だよ』
思い出しただけで。少しだけ頬が熱くなる。
「違うから」
莉奈は言った。
「何が?」
真帆が聞く。
「別に嫉妬とかじゃない」
真帆と由依が同時に黙った。数秒。
真帆が笑いを堪えるように口元を押さえた。
「私、嫉妬って言ってないけど」
「あ」
遅かった。由依まで小さく笑う。
「莉奈」
「何」
「それ、自分で答え言ってる」
「違うって!」
少し声が大きくなった。周囲がこちらを見る。
莉奈は慌てて声を落とした。
「ほんとに違うから」
真帆がにやにやしながら頷く。
「はいはい」
「その顔やめて」
「まだ何も言ってないよ?」
「だからその顔!」
莉奈は机に突っ伏した。まだ四日目。
罰ゲーム。一か月だけ。
それは何も変わっていない。なのに。
高瀬が自分にしてくれることを、他の女子にも同じようにするのは少し嫌だと思った。そして、自分だけは特別だと言われて安心した。
その事実だけが。どうしても頭から離れなかった。




