第5話 彼女だから、特別
交際三日目。朝七時五十分。
俺は昨日と同じ場所で水瀬を待っていた。昨日より二分遅く家を出た。
八分前は少し必死に見える気がしたからだ。こういう調整をしている時点で十分必死なのでは、と途中で気づいたが、もう考えないことにした。
「おはよ」
声に振り返る。水瀬がこちらへ歩いてきた。
「おはよう」
今日は昨日より少し早い。七時五十五分。
「待った?」
「三分くらい」
「ほんと?」
「ほんと」
「昨日も早く来てたでしょ」
「昨日はたまたま」
「今日も?」
「今日もたまたま」
水瀬が笑う。
「二日続いたらもうたまたまじゃないでしょ」
痛いところを突かれた。
「じゃあ明日は遅く来る」
「それはそれで嫌」
即答だった。俺が水瀬を見る。
水瀬も俺を見る。
「あ」
本人も気づいたらしい。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
「待たされるの嫌って意味」
「なるほど」
「何、その顔」
「別に」
「絶対なんか思ったでしょ」
「思ってない」
少し面白い。からかうと、思ったより反応が素直だ。
これも今まで知らなかった水瀬の一面だった。二人で校門へ向かう。
昨日ほど沈黙は気にならない。三日目にして、少しずつ一緒に歩くことに慣れてきたらしい。
「そういえば」
水瀬が俺を見る。
「今日、髪ちょっと違う?」
俺は思わず立ち止まりそうになった。
「分かる?」
「うん。なんかいつもよりまとまってる」
今朝。洗面所で彩花姉に捕まった。
『三分だけ』
と言われ、前髪と横を少し整えられた。三分どころか十分かかった。
最後には、
『まだ素材を殺してるけど、今日はこれでいい』
と意味不明な評価をされた。
「姉ちゃんにやられた」
「お姉さん?」
「うん」
「昨日言ってた?」
俺はまだ姉妹のことを詳しく話していない。
「言ってない」
「じゃあ、彼女できたって話したの?」
「話した」
水瀬の歩みが少し遅くなった。
「家族に?」
「うん」
「……もう?」
「普通じゃない?」
俺には普通だった。隠してもどうせすぐばれる。
というより、高瀬家で恋人の存在を一か月隠し通す方が不可能だ。だが水瀬はなぜか黙った。
「どうした?」
「いや」
「何?」
「なんて言ってた?」
「誰が?」
「家族」
嫌な質問だ。本当のことを全部言えば、たぶん水瀬は引く。
「おめでとうって」
かなり要約した。
「それだけ?」
「姉ちゃんたちは色々言ってたけど」
「例えば?」
「服を買えとか、LINE気をつけろとか」
水瀬が吹き出した。
「何それ」
「俺もそう思う」
「お姉さん何人いるの?」
「二人」
「二人もいるんだ」
「あと妹が一人」
水瀬が止まった。
「女きょうだい三人?」
「そう」
「高瀬以外みんな女?」
「そう」
数秒。水瀬が俺を見る目が変わった。
「なるほど」
「何が?」
「なんとなく分かった」
「何が分かったんだよ」
「高瀬が思ってたより女子に慣れてる理由」
俺は内心少し焦った。そこまで早く結びつけるか。
「慣れてないよ」
「嘘」
「本当に」
「だって昨日から全然変な感じしないもん」
「変な感じって?」
「なんていうか……」
水瀬が言葉を探す。
「距離が変じゃない」
それはかなり具体的な指摘だった。
「距離?」
「やたら近づいてきたりしないし、逆に妙に離れたりもしないし」
「普通じゃない?」
「そういう普通ができない男子、結構いるよ」
そういうものなのか。俺にとっては、美咲姉に何度も言われてきたことだ。
『相手との距離は、自分が近づきたいかじゃなくて、相手がどこまでなら安心できるかで考えなさい』
小学生に教える内容ではなかった気もする。頼まれてもいないのに叩き込まれた。
でも今になって役に立っている。
「姉ちゃんたちがうるさかったからな」
「恋愛について?」
「まあ」
「どんな家なの」
「普通の家」
「絶対普通じゃない」
それは否定できない。昇降口へ着く。
靴を履き替えながら、水瀬がまた聞いてきた。
「妹は何歳?」
「一年」
「え、同じ学校?」
「違う」
「会ってみたい」
何気ない一言だった。俺は手を止めた。
「凛に?」
「名前、凛ちゃんっていうんだ」
しまった。勝手に情報を一つ増やした。
「うん」
「会える?」
「そのうち」
「何それ」
「たぶん向こうも会いたがる」
これは間違いない。むしろ危険なのはそこだ。
凛だけではない。彩花姉も美咲姉も、水瀬を見たいと言っていた。
母さんに至っては、
『今度ご飯でも食べに来てもらえば?』
と簡単に言っている。まだ三日目だぞ。
俺としては、できれば一か月の間に家族と深く関わらせたくない。理由は単純。
この交際には期限がある。一か月後、水瀬は俺に「罰ゲームでした」と言う。
そこで終わる。そのとき姉ちゃんたちまで水瀬に情が移っていたら面倒だ。
特に凛。絶対に怒る。
「高瀬?」
「何?」
「また考えてた」
「考えてない」
「考えてたよ」
水瀬は笑いながら教室のドアを開けた。入った瞬間。
「おはよー、カップル」
陸の声が飛んできた。
「朝からうるさい」
水瀬が即座に返す。真帆もこちらを見ている。
「今日も一緒?」
「悪い?」
「誰も悪いなんて言ってないじゃん」
完全に楽しんでいる。俺は自分の席へ向かった。
すると拓真がこちらを見る。そして俺の髪を見た。
「……始まったな」
「何が」
「彩花さん」
一発でばれた。
「なんで分かるんだよ」
「お前が自分で髪セットするわけない」
失礼な幼馴染だ。
「三分だけって言われた」
「何分?」
「十分」
拓真が笑う。
「だと思った」
俺は鞄を置いて椅子に座った。拓真が少し声を落とす。
「順調?」
「何が」
「水瀬と」
「普通」
「昨日一緒に帰っただろ」
「見てた?」
「陸から聞いた」
情報源が全部同じだ。
「今日も一緒に来た」
「見れば分かる」
拓真は少し離れたところにいる水瀬を見る。
「お前、結構ちゃんとやってんじゃん」
「何を」
「彼氏」
その言葉に少し引っかかった。ちゃんとやっている。
確かにそうかもしれない。俺は水瀬を惚れさせるつもりでいる。
だから付き合っている間は、ある程度きちんと彼氏をやる必要がある。でも昨日から思う。
意外とそれだけではない。朝一緒に行く。
昼を一緒に食べる。帰りも一緒。
LINEもする。普通に楽しい。
そこは計算していなかった。
「悠斗」
拓真が俺の顔を見る。
「何」
「今、なんか考えてただろ」
「最近みんな同じこと言うな」
「分かりやすいんだよ」
「学校じゃ分かりにくい男だと思われてたはずなんだけど」
「他人にはな」
拓真は笑った。
「俺には昔から分かりやすい」
「気持ち悪い」
「ひどくない?」
チャイムが鳴る。拓真が自分の席へ戻った。
一時間目が終わった休み時間。俺が教科書を片づけていると、水瀬が席まで来た。
「高瀬」
「何?」
「シャーペン貸して」
「持ってないの?」
「壊れた」
手に持っているシャーペンを見せる。ノックしても芯が出ないらしい。
「いいよ」
筆箱から一本出す。渡そうとして少し迷った。
俺は普段、二本持っている。一本は黒。
もう一本は青。青い方が軽くて書きやすい。
俺はいつもそちらを使っている。少しだけ考えて、青を差し出した。
「これ」
「ありがとう」
水瀬が受け取る。
「放課後返す」
「いつでもいいよ」
「なくしたら?」
「一本くらいなら」
「雑」
そう言いながら、水瀬は自分の席へ戻っていった。それを見ていた拓真が俺を見る。
「何」
「いや」
「言いたいことあるなら言え」
「それ、お前がいつも使ってるやつじゃん」
気づいたらしい。
「だから?」
「もう一本あるだろ」
「あるよ」
「そっち貸せばよかったじゃん」
「書きやすい方がいいだろ」
拓真が黙った。
「何だよ」
「お前、それ無意識?」
「何が」
「いや、いい」
妙ににやにやしている。腹が立つ。
「気持ち悪いぞ」
「悠斗」
「何」
「姉ちゃんたちの教育、怖いな」
「何の話だよ」
拓真は答えずに笑っていた。昼休み。
今日も水瀬と一緒に食べることになった。ただし今日は二人ではない。
真帆と由依、それから陸と蓮も一緒だった。机をいくつか寄せる。
俺の隣に水瀬。向かいに真帆と由依。
その横に陸と蓮。
「なんか新鮮」
陸が言う。
「高瀬と一緒に昼食うの初めてだな」
「そうだな」
「お前、普段黒瀬としかいないもんな」
「お前らもだいたい同じメンバーだろ」
「まあな」
思ったより普通に話せる。陸は距離の詰め方が早いタイプらしい。
蓮も明るい。
「高瀬、部活入ってないんだっけ?」
蓮が聞く。
「入ってない」
「バイトは?」
「してない」
「じゃあ放課後暇?」
一瞬。水瀬が蓮を見る。
ほんのわずかな反応だった。普通なら気にしない。
でも俺は気づいた。
「まあ、用事なければ」
「莉奈と遊び放題じゃん」
陸が笑う。
「そういう言い方やめて」
水瀬が陸の腕を軽く叩いた。
「痛っ」
「全然痛くないでしょ」
「彼氏の前で他の男に触るなよ」
真帆が面白がって言う。
「それくらい普通でしょ」
水瀬が答える。そこで俺は何も言わなかった。
当然だ。陸と水瀬は昔からの友達なのだろう。
腕を軽く叩いたくらいで何か思う方がおかしい。そう思った。
なのに。なぜか少しだけ気になった。
ほんの少し。自分でも意味が分からない程度に。
「高瀬?」
水瀬に呼ばれる。
「何?」
「卵焼き」
水瀬が俺の弁当を指さしていた。
「それ甘いやつ?」
「たぶん」
「たぶん?」
「いつも食べてるから意識したことない」
「一個ちょうだい」
俺は止まった。
「これ?」
「嫌ならいいけど」
「別にいいよ」
箸で取ろうとして。一瞬迷う。
自分の箸で渡すのはどうなんだ。だから弁当箱ごと少し水瀬側へ寄せた。
「取って」
「そこは食べさせてくれないんだ?」
真帆が即座に言った。俺と水瀬が同時に真帆を見る。
「何?」
真帆は笑っている。
「彼氏彼女なんだから、あーんくらいすれば?」
「しないよ!」
水瀬が即答した。俺もほぼ同時だった。
「無理」
一瞬。全員が俺を見る。
「何?」
陸が吹き出す。
「高瀬、そこは即答すんなよ」
「いや、無理だろ」
「なんで」
「恥ずかしい」
笑いが起きた。水瀬まで笑っている。
「高瀬でも恥ずかしいんだ」
「恥ずかしいに決まってる」
「朝は結構普通なのに」
「普通に喋るのとそれは別だろ」
真帆が面白そうに俺を見る。
「へえ。高瀬って意外と可愛いね」
「やめて」
「照れてる?」
「照れてない」
「顔赤いよ」
「暑いだけ」
九月だ。まだ暑い。
嘘ではない。たぶん。
水瀬は笑いながら俺の弁当から卵焼きを一つ取った。
「いただきます」
食べる。
「あ、甘い」
「そうなんだ」
「自分の弁当でしょ」
「毎日食べてると分からない」
「美味しい」
その一言。なぜか俺は少し嬉しかった。
作ったのは母さんなのに。午後。
五時間目の授業中。先生が黒板に問題を書いている間、俺は斜め前を見る。
水瀬が朝貸したシャーペンを使っている。別に意味はない。
ただそれだけ。そのとき。
水瀬が振り返った。目が合う。
俺は視線を黒板へ戻す。数秒後。
スマートフォンが机の中で震えた。授業中なので見ない。
休み時間になって確認する。水瀬。
『さっき見てた?』
俺は水瀬の方を見る。向こうもこちらを見ている。
『シャーペンちゃんと使ってるなと思って』
送信。すぐ返ってくる。
『見張ってたの?笑』
『なくされたら困るから』
『さっき一本くらいいいって言ったじゃん』
痛いところを突かれた。考える。
『それは俺がいつも使ってるやつだから』
送ってから気づいた。余計なことを書いた。
既読。返事が来ない。
数秒。十秒。
水瀬を見る。シャーペンをじっと見ている。
やがてメッセージが来た。
『じゃあなんでこっち貸したの?』
答えは簡単だ。書きやすいから。
そのまま打つ。
『そっちの方が書きやすいから』
送信。また既読。
今度は返事が少し遅かった。
『そっか』
それだけ。俺はスマートフォンをしまった。
何も特別なことではない。本当に。
ただ、せっかく貸すなら使いやすい方がいいと思っただけだ。放課後。
水瀬が俺の席まで来た。
「これ」
青いシャーペンを差し出す。
「ありがとう」
受け取ろうとすると、水瀬は少しだけ手を引いた。
「何?」
「もう一本あるんだよね?」
「あるけど」
「じゃあこれ、明日まで借りていい?」
俺は一瞬考える。
「いいよ」
「ありがとう」
水瀬が笑う。本当に、ただそれだけだった。
その夜。俺が夕食を食べていると、凛が突然聞いてきた。
「お兄ちゃん」
「何」
「彼女に何した?」
箸が止まった。
「何もしてない」
「ほんと?」
「なんで?」
「今日なんか進展あった?」
「ない」
「手つないだ?」
「ない」
「抱きしめた?」
「三日目だぞ」
「じゃあキス?」
「するわけないだろ」
父さんが反応した。
「キスか」
「違う」
「父さんが若い頃は――」
「お父さん」
美咲姉の一言。
「はい」
父さんが黙る。速い。
彩花姉が俺を見る。
「じゃあ今日は何したの?」
「朝一緒に行って、昼食べて、シャーペン貸した」
三人が止まった。凛が聞く。
「どっち?」
「何が」
「シャーペン」
「青」
凛が俺を見る。彩花姉も見る。
美咲姉まで見る。
「何だよ」
「お兄ちゃん」
凛が少し呆れた声を出す。
「それ自分が一番使ってるやつじゃん」
「拓真にも同じこと言われた」
「なんでそっち貸したの?」
「書きやすいから」
三人が顔を見合わせた。
「何」
誰も答えない。
「だから何なんだよ」
彩花姉が笑い始めた。凛も笑っている。
美咲姉だけが少しだけ口元を緩めた。
「別に」
「絶対何かあるだろ」
「悠斗」
美咲姉が俺を見る。
「あなた、その子には最初から結構特別扱いしてるのね」
「彼女だから」
俺は当然のように答えた。一瞬。
美咲姉の視線が止まった。
「……そう」
なぜか、それ以上何も言わなかった。俺には分からなかった。
そのとき三人が同じことを考えていたことを。そして水瀬もまた、自分の部屋で青いシャーペンを眺めながら、少し似たことを考えていたことを。
まだ交際三日目。俺は水瀬を惚れさせるために、少しずつ特別扱いしているつもりだった。
ただ一つ。自分がどこから計算で、どこから自然にそうしているのか。
その境目だけは、もう少し曖昧になり始めていた。




