第3話 高瀬って、こんな人だった?
翌朝、俺はいつもより十分早く家を出た。理由は簡単だ。
水瀬と八時ごろ学校で会うことになっている。正確には待ち合わせではない。
昨日のLINEで、
『一緒に教室行く?』
と俺が送っただけだ。それに水瀬が『いいよ』と返した。
それだけ。それだけなのだが。
「……早すぎたな」
校門前の時計は七時五十二分。普段ならまだ歩いている時間だ。
こういうところで経験のなさが出る。姉ちゃんたちなら、
『女の子を待たせるよりいいでしょ』
と言いそうだが、八分も前から校門に立っている男子は少し必死に見える気もする。俺は校門から少し離れたところでスマートフォンを取り出した。
メッセージはない。だからこちらからも送らない。
昨日の夜、凛に言われた。
『完璧な彼氏をやろうとしない方がいいよ』
その言葉は意外と正しい気がする。一か月で水瀬を惚れさせる。
そう決めた。でも、だからといって朝から晩まで過剰に気を遣ったら不自然だ。
そもそも俺は学校では水瀬とほとんど話したことがない。昨日付き合い始めたばかりなのに、今日から突然別人になれば警戒される。
少しずつでいい。
「高瀬?」
顔を上げた。校門の向こうから水瀬が歩いてくる。
昨日までなら、クラスメイトの一人として見ていた女子。でも今日から形式上は彼女だ。
そう考えた瞬間、妙に意識してしまう。白いシャツ。
紺色のスカート。肩より少し長い髪。
毎日見ている制服姿なのに、昨日までと違って見える。水瀬が俺の前まで来た。
「早くない?」
「水瀬も」
「私、八時くらいって言ったじゃん」
「今、七時五十八分」
「細かい」
水瀬が笑う。そして俺の横に並んだ。
「じゃ、行こっか」
「うん」
二人で校舎へ歩き始める。会話がない。
昨日告白されたばかりの男女が初めて一緒に登校する。普通ならもっと何かあるのだろうか。
俺には分からない。隣を見る。
水瀬も少し落ち着かないのか、髪を耳にかけた。昨日もやっていた。
緊張すると触る癖なのかもしれない。
「昨日、ちゃんと寝られた?」
聞いてみる。
「え?」
「なんか眠そうだから」
水瀬が目を丸くした。
「分かる?」
「少し」
「昨日、真帆とLINEしてたら遅くなって」
当然、嘘告成功の報告会だろう。
「何時まで?」
「一時くらい」
「遅いな」
「高瀬は?」
「十一時半」
「早っ」
「普通だろ」
「高校生で十一時半は早いよ」
「そうなの?」
「たぶん」
他愛のない会話だ。だが昨日まで、水瀬とこんな話をしたことはなかった。
昇降口に入る。水瀬が靴箱を開けたところで、足元に何か落ちた。
小さなキーホルダー。俺が先に拾う。
「これ」
「あ、ありがとう」
渡そうとして気づいた。金具が外れかけている。
「これ、危ないよ」
「え?」
「ここ」
指で金具を示す。輪の部分が少し開いていた。
このままなら、また落ちる。
「ほんとだ」
「何か大事なやつ?」
「友達にもらったやつ」
「じゃあ今つけない方がいい」
俺は鞄の小さなポケットを開けた。
「とりあえずここ入れたら?」
「高瀬の?」
「教室着いたら返す」
「あ……うん」
俺はキーホルダーをポケットに入れた。それだけのこと。
水瀬が俺を見る。
「何?」
「いや」
「何だよ」
「高瀬って、そういうの気づくんだ」
しまった。少し早かったか。
「落ちたから」
「金具まで普通見る?」
「たまたま」
「ふーん」
水瀬は何か言いたそうだったが、それ以上は追及しなかった。階段を上がる。
二階の廊下まで来たところで、向こうから女子二人が歩いてきた。同じ学年だ。
名前までは知らない。俺たちを見る。
一瞬、水瀬。次に俺。
そしてもう一度水瀬。すれ違ったあと、小さな声が聞こえた。
「え、あの二人?」
「昨日かららしいよ」
早いな。もう広まっている。
水瀬も聞こえたらしい。
「もう知られてるんだけど」
「水瀬たちのグループからじゃない?」
「真帆……」
ほぼ犯人を確信している声だった。
「嫌?」
俺が聞くと、水瀬がこちらを見る。
「何が?」
「付き合ってるって知られるの」
一瞬だけ答えが遅れた。嘘告なのだから、本心では少し困るのかもしれない。
だが水瀬は首を振った。
「別に。付き合ってるんだからいいでしょ」
その言葉に、少しだけ引っかかる。演技としては自然だ。
むしろ自然すぎる。
「そっか」
教室の前まで来た。水瀬がドアへ手をかけようとしたとき、俺は止めた。
「ちょっと待って」
「何?」
俺は鞄のポケットから、さっきのキーホルダーを取り出した。
「忘れる前に」
「あ、そうだった」
水瀬が手を出す。そこへ返した。
「帰ったらペンチか何かで直した方がいい」
「うん」
「なくしたら嫌だろ」
水瀬がまた俺を見る。今度はさっきより長い。
「……何?」
「高瀬って」
そこで教室のドアが勢いよく開いた。
「おはよー!」
真帆だ。そして俺たちを見た瞬間、口元が上がる。
「へえ」
嫌な顔だ。
「なに」
莉奈が明らかに警戒する。
「いやあ?」
真帆が俺たちの距離を見る。
「一緒に来たんだ?」
「悪い?」
「別にー」
絶対に何か言いたい顔だ。教室へ入ると、何人かがこちらを見る。
昨日まではなかった視線。付き合い始めたことは、ほぼ確実に広まっているらしい。
俺は自分の席へ向かった。その途中。
「よう」
拓真がにやにやしながら片手を上げた。
「何」
「聞いたぞ」
「何を」
「水瀬」
俺は鞄を机に置いた。
「早いな」
「朝来たら陸が言ってた」
やっぱりそっちか。
「お前、彼女できたの?」
「できた」
拓真の顔から笑いが消えた。数秒、俺を見る。
「マジ?」
「マジ」
「水瀬莉奈?」
「そう」
拓真が水瀬の方を見る。そして俺を見る。
もう一度水瀬を見る。
「……お前が?」
「全員同じ反応するのやめてくれない?」
「いや、だって」
拓真は声を小さくした。
「お前、学校じゃ完全に封印してたじゃん」
「そうだな」
「どうしたの?」
「告白された」
「向こうから?」
「うん」
拓真は信じられないものを見る顔をしたあと、急に笑った。
「よかったじゃん」
意外と普通の反応だった。
「ありがとう」
「で?」
「何」
「美咲さんたちは?」
「昨日話した」
拓真が俺の肩を掴んだ。
「生きてる?」
「なんで彼女できた報告で死ぬんだよ」
「だってあの三人だぞ」
拓真は本気で言っている。高瀬家に昔から出入りしているこいつだけは、三姉妹の怖さをよく知っている。
「どうだった?」
「彩花姉は買い物に連れていく気」
「ああ」
「凛はLINE指導する気」
「うん」
「美咲姉は普通」
拓真が首を振る。
「それ一番怖いやつ」
「失礼だぞ」
「俺、美咲さんだけは今でも敬語になるからな」
「知ってる」
拓真は少し考えてから俺を見る。
「じゃあ、お前もついに使うの?」
その言葉だけで意味が分かった。
「何を?」
一応とぼける。拓真が俺の机に肘をつく。
「十七年間、高瀬家で叩き込まれたやつ」
「大げさだな」
「女子の髪切ったの三ミリで気づくくせに、学校じゃ一切言わない男が何言ってんだ」
「三ミリは無理」
「じゃあ五ミリ」
「そういう問題じゃない」
拓真が笑った。
「とうとう封印解いたのか」
俺は少し離れた席にいる水瀬を見る。真帆と由依が何か話している。
水瀬がこちらを見た。目が合う。
一瞬。水瀬が小さく笑った。
俺も軽く手を上げる。すると水瀬は少し驚いてから、同じように手を上げた。
俺は拓真へ視線を戻す。
「彼女なんだから」
「ん?」
「姉ちゃんたちのルールには違反してない」
拓真が数秒黙った。それから。
「お前、なんか悪いこと考えてない?」
鋭い。
「考えてない」
「今の顔、絶対考えてる」
「気のせい」
全部話すか少し迷った。拓真なら話しても問題ない。
こいつは昔から俺の事情を知っているし、三姉妹にも余計なことを言わない。ただ。
今はまだいい。
「そのうち話す」
俺が言うと、拓真の眉が上がった。
「やっぱなんかあるじゃん」
「そのうち」
「分かった」
あっさり引いた。その代わり、
「まあ、頑張れよ」
俺の肩を叩く。
「何を」
「初彼女」
「お前に言われたくない」
「俺は一途だから」
「誰に?」
聞く必要はなかった。拓真の表情が変わる。
「凛ちゃん」
「帰れ」
「ここ学校」
「じゃあ自分の席戻れ」
「将来的にはお前をお兄さんって――」
「黙れ」
朝から疲れる。一時間目。
二時間目。特に何も起きなかった。
付き合ったからといって、授業中に何か変わるわけではない。ただ。
水瀬を見る回数が増えた。たぶん向こうも同じだった。
時々、目が合う。そのたびにどちらかが先に逸らす。
俺の場合は、彼女の演技をどれくらい本気でやるのか確認しているだけだ。……たぶん。
昼休み。いつもなら拓真と食べる。
今日もそのつもりで弁当を出したところで、スマートフォンが震えた。水瀬。
『今日お昼どうする?』
俺は画面を見る。少し離れた席で水瀬がスマートフォンを持っている。
目は合わない。なるほど。
彼女役、かなり真面目にやるつもりらしい。
『一緒に食べる?』
送る。既読。
『いいの?』
何がだ。付き合っている設定なのだから、むしろ自然だろう。
『もちろん』
送信。数秒後、水瀬が立ち上がった。
真帆が何か言う。水瀬が答える。
そしてこちらへ歩いてきた。
「高瀬」
「うん」
少し緊張している。
「お昼、一緒に食べよ」
「いいよ」
教室の空気がほんの少し変わった。見られている。
高校生というのは、こういう話が本当に好きらしい。水瀬が俺の前の席を借りて座る。
弁当箱を出した。
「高瀬、お弁当?」
「うん」
「自分で作ってるの?」
「まさか。母さん」
「だよね」
「そこ笑うところ?」
「だって高瀬が朝から卵焼き作ってるの想像できない」
「料理くらいするよ」
「するの?」
「簡単なのなら」
「意外」
まただ。朝から何回意外と言われるんだろう。
俺は水瀬の弁当を見る。小さめの二段弁当。
彩りが綺麗だ。
「それ水瀬が作った?」
「これ? お母さん」
「だよな」
「なんで同じこと言うの」
「高校生なんてそんなもんだろ」
「私は時々作るし」
「へえ」
「今、信じてないでしょ」
「信じてる」
「絶対嘘」
普通に会話が続く。思っていたより話しやすい。
水瀬は明るい。相手が黙れば自分から話題を出すし、こちらが話せばちゃんと聞く。
人気がある理由はなんとなく分かる。食べ始めて数分。
水瀬が箸を止めた。
「ねえ」
「何?」
「朝から思ってたんだけど」
来た。
「高瀬って、こんな感じだった?」
「どんな感じ?」
「なんていうか……」
水瀬が言葉を探す。
「もっと喋らない人だと思ってた」
「喋るよ」
「女子とはあんまり話さないじゃん」
「話す必要がなかったから」
「私とは?」
俺は少し考える。ここは。
「彼女だろ」
水瀬が止まった。ほんの一瞬。
目が少し大きくなる。俺も言ってから恥ずかしくなった。
何を普通に言っているんだ。だが顔には出さない。
たぶん。水瀬は視線を弁当へ落とした。
「……そうだけど」
耳が少し赤い。演技。
これは演技だ。俺は知っている。
最初から全部。なのに。
なぜこっちまで少し緊張する。
「あとさ」
水瀬が話題を変えた。
「朝のキーホルダーも」
「うん」
「ああいうの、普通に気づくんだね」
「たまたまだって」
「ほんと?」
「ほんと」
俺は弁当を食べる。水瀬はまだこちらを見ている。
「高瀬ってさ」
「何?」
少し間があった。そして。
「思ってた人と違うかも」
初めて。計画が動いた気がした。
ただし。俺はそのとき、水瀬の少し後ろにいる真帆と由依に気づいていなかった。
真帆がこちらを見ながら、明らかに面白そうな顔をしていたことにも。由依が水瀬の表情をじっと見ていたことにも。
もちろん。昼休みが終わったあと、水瀬が真帆に問い詰められることも。
俺はまだ知らなかった。




