第2話 彼女ができました
家に帰るまでに、俺は三回スマートフォンを確認した。別に連絡を待っているわけではない。
付き合うことになったとはいえ、水瀬にとってこれは罰ゲームだ。わざわざ帰宅直後からLINEを送ってくるほど真面目に彼女役をやる必要もないだろう。
そう思いながら、四回目に画面を確認したところで通知が来た。水瀬莉奈。
『今日はありがとう!』
思ったより早い。玄関の前で立ち止まり、メッセージを開く。
『急に告白してごめんね笑』
……笑、か。これはどう返すのが正解なんだろう。
普段の俺なら、
『大丈夫』
これで終わる。だが今日からは違う。
少なくとも向こうが一か月間、俺の彼女を演じるなら、その間はこちらも遠慮する必要はない。
『俺の方こそびっくりした。でも嬉しかった。ありがとう』
打ってから、一度見直す。少し素直すぎるか。
いや、告白された直後の男子ならこれくらい普通だろう。送信。
数秒後、既読がついた。早いな。
『そう言ってもらえてよかった』
続けて、
『明日からよろしくね、彼氏くん』
「……なるほど」
やる気満々らしい。俺はその文字を眺めながら考える。
これが本当の告白だったら、かなり嬉しい。実際、少し嬉しい。
それが一番腹立たしい。
『よろしく、彼女さん』
送り返してスマートフォンをしまった。さて。
問題はここからだ。玄関の向こうには、俺に恋愛というものを必要以上に叩き込んだ三人がいる。
しかも今日は全員いるはずだ。俺は小さく息を吐いて玄関を開けた。
「ただいま」
「おかえり」
リビングから母さんの声がした。靴を脱いで入ると、予想どおり全員そろっていた。
母さんがキッチン。父さんがソファ。
彩花姉はテーブルでノートパソコンを開き、美咲姉はコーヒーを飲んでいる。そして凛はソファの端でスマートフォンを触っていた。
平和だ。今から俺がその平和を壊す。
「ねえ」
五人がこちらを見る。
「話があるんだけど」
凛がスマートフォンから顔を上げた。
「何。学校でなんかやった?」
「なんで最初から俺が悪い前提なんだよ」
「お兄ちゃんが改まって話すとき、大体ろくなことないから」
否定できないのが悔しい。父さんがテレビの音量を下げた。
「なんだ悠斗。父さんに相談か?」
「いや、家族全員に」
「金ならないぞ」
「そういう話じゃない」
「父さんの若い頃の武勇伝なら――」
「それもいらない」
「まだ何も言ってないぞ」
母さんが鍋を混ぜながら笑った。
「とりあえず聞いてあげたら?」
そうして五人分の視線が俺に集まった。妙に緊張する。
今日、水瀬から告白されたときより緊張している気がする。
「俺……」
言う。
「彼女できた」
数秒。誰も動かなかった。
最初に反応したのは凛だった。
「は?」
次が彩花姉。
「え?」
美咲姉はカップを持ったまま止まっている。父さんだけが一拍遅れて、
「おお」
と声を上げた。
「ついに悠斗にも春が――」
「ちょっと待って」
彩花姉が父さんを片手で制した。椅子から立ち上がり、俺の前まで来る。
「今なんて言った?」
「彼女ができた」
「誰に?」
「俺に」
「そこじゃない。誰が?」
「同じクラスの子」
凛もソファから立ち上がった。
「お兄ちゃんに?」
「そうだよ」
「女の子?」
「彼女って言っただろ」
「世の中いろいろあるから確認しただけ」
「確認しなくていい」
凛が俺を上から下まで見る。そして真顔になった。
「なんで?」
「ひどくない?」
「だってお兄ちゃんだよ?」
「俺だから何なんだ」
「学校ではあえて地味にしてるんでしょ?」
「そうだけど」
「女子ともあんまり話さないんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあなんで告白されるの?」
俺が聞きたい。いや、水瀬の場合は理由を知っているけど。
「向こうから告白されたの?」
今まで黙っていた美咲姉が聞いた。
「うん」
「今日?」
「今日」
「初めて?」
「何を?」
「告白されたの」
「……初めて」
彩花姉が顔を覆った。
「うわあ」
「なんだよ」
「弟が知らない間に青春してる」
「今日始まったばっかりだよ」
凛がじっと俺を見る。
「可愛い?」
「まあ……」
「その間なに?」
「普通に可愛い」
「写真」
「ない」
「SNS」
「知らない」
「付き合ったんだよね?」
「今日だから!」
凛が呆れた顔をした。
「役に立たないなあ」
妹に彼女の情報収集能力で説教されるとは思わなかった。その横で彩花姉の目が急に鋭くなる。
「ちょっと待って。明日もその格好で学校行くつもり?」
俺は自分を見る。学校から帰ってきたばかりなので、制服だ。
「制服だけど」
「髪」
「髪?」
彩花姉が前髪をつまむ。
「これ」
「痛い」
「彼女できたのに?」
「彼女できたら前髪切られるの?」
「そういう意味じゃない」
彩花姉の視線が俺の頭から靴下まで往復した。嫌な予感がする。
「今週末、空けといて」
「なんで?」
「買い物」
「何の?」
「服に決まってるでしょ」
「あるよ」
「服と呼べるものが何着ある?」
「全部服だよ」
「それは布」
「言い方」
話がどんどん大きくなっている。
「悠斗」
美咲姉が俺を呼んだ。彩花姉とは違い、声は落ち着いている。
「あなたは、その子のこと好きなの?」
来た。一番聞かれたくなかった質問。
「まだ……分からない」
これは嘘ではない。少なくとも、好きではないと思う。
今日まで水瀬とはクラスメイト以上の関係ではなかった。ただ、可愛いとは思う。
そして、嘘告を仕掛けられたことで腹が立っている。今ある感情はその程度だ。
「じゃあ、どうして付き合ったの?」
美咲姉は責める口調ではなかった。だからこそ困る。
本当のことは言えない。水瀬が罰ゲームで告白してきた。
それを偶然知った。だから逆に惚れさせてやろうと思った。
そんなことを話したら。俺は美咲姉を見る。
静かにコーヒーを飲んでいる。次に彩花姉を見る。
すでに俺の服装改造計画を頭の中で立てていそうだ。最後に凛。
疑うようにこちらを見ている。無理だ。
絶対に水瀬が生きて帰れない。物理的な意味ではない。
たぶん。
「せっかく告白してくれたから、ちゃんと相手のこと知りたいと思った」
俺がそう答えると、美咲姉は数秒黙った。
「それならいいんじゃない」
意外とあっさりしていた。
「ただし」
来た。
「付き合ったからって、何をしてもいいわけじゃないからね」
「分かってる」
「相手が嫌がることはしない」
「はい」
「何かをしてあげたからって、見返りを求めない」
「はい」
「付き合ってる期間の長さと、距離を縮める速さは別」
「はい」
「相手が黙っていることを、勝手に了承だと思わない」
「……はい」
懐かしい。恋愛経験ゼロなのに、こういうことだけは何度も聞かされてきた。
父さんが感心したように頷いている。
「美咲、さすがだな」
美咲姉が父さんを見る。
「お父さんも覚えておいた方がいいよ」
「父さんは母さん一筋だぞ」
母さんがキッチンから振り返る。
「それとこれとは別じゃない?」
父さんが黙った。強い。
「で」
彩花姉が割り込んできた。
「どこまで行ったの?」
「どこまで?」
「手つないだ?」
「ない」
「一緒に帰った?」
「別々」
「LINEは?」
「さっきした」
「見せて」
「嫌だ」
「なんで?」
「プライバシー」
彩花姉が驚いた顔をする。
「彼女できた瞬間、一人前みたいなこと言い出した」
「元々一人前だよ」
「じゃあLINEくらい自分でできる?」
「できます」
その瞬間、凛が吹き出した。
「無理でしょ」
「なんでだよ」
「お兄ちゃんのLINE、業務連絡だもん」
「必要なこと伝わればいいだろ」
「彼女相手にそれやったら終わるからね」
「終わらない」
「終わる」
現役女子高校生の断言は怖い。美咲姉がため息をついた。
「あなたたち、あんまり口出ししないの」
「でも美咲姉」
凛が言う。
「お兄ちゃん絶対分かってないよ」
「何が」
「彼氏のLINE」
「女心なら分かる」
「それが一番危ないの」
なんでだ。父さんが腕を組んだ。
「悠斗」
「何」
「ここは父さんに任せろ」
三姉妹が同時に父さんを見た。父さんが胸を張る。
「父さんが若い頃は――」
「お父さんは黙ってて」
美咲姉。
「参考にならないから」
彩花姉。
「絶対聞いちゃダメだからね、お兄ちゃん」
凛。三方向から一瞬で潰された。
「お前たち、父親への敬意は?」
美咲姉が真顔で答える。
「あるから止めてるの」
「説得力があるような、ないような」
母さんが笑いながら料理をテーブルへ運んできた。
「あなたたち、悠斗より盛り上がってるじゃない」
「だって初彼女だよ?」
彩花姉が言う。
「だからって、あまりやりすぎないようにね」
母さんはそれだけ言って、俺を見る。
「よかったじゃない」
「うん」
「今度連れてきたら?」
「え?」
「彼女」
簡単に言う。
「まだ付き合ったばっかりだよ」
「そのうちでいいわよ」
母さんは本当にそれ以上何も聞かなかった。こういうところは助かる。
だが三姉妹は違う。夕食中も質問攻めは続いた。
名前。同じクラスなのか。
部活。性格。
何が好きなのか。どんな服を着ているのか。
俺が答えられたのは半分くらいだった。
「本当に付き合ってるの?」
彩花姉が疑い始める。
「今日からだって言ってるだろ」
「好きな食べ物も知らないの?」
「これから知るんだよ」
「誕生日」
「知らない」
「血液型」
「知らない」
「身長」
「知らない」
「好きなブランド」
「知らない」
「何を知ってるの?」
俺は少し考える。
「水瀬莉奈って名前」
彩花姉が額を押さえた。凛が首を振る。
「先が思いやられる」
なぜ俺が怒られているのだろう。夕食が終わり、自分の部屋へ戻ったのは九時前だった。
ベッドへ座ってスマートフォンを確認する。莉奈からメッセージが来ていた。
『高瀬って明日何時に学校来る?』
なんだこれ。
『いつも8時くらい』
すぐ既読がつく。
『じゃあ私もそのくらいに行こうかな』
俺は画面を見た。これは彼女らしいことをしているという演出だろうか。
それとも罰ゲームを成功させるために、最初からかなり本気で彼女役をするつもりなのか。
『一緒に教室行く?』
送ってみる。少し間があった。
『いいよ』
その直後。
『彼氏彼女っぽいね笑』
……なんだろう。分かっているのに、少し心臓に悪い。
返信を考えていると、部屋のドアがノックされた。
「お兄ちゃん」
凛だ。
「何?」
「入るよ」
返事を待たずに入ってきた。手にはスマートフォン。
「LINE見せて」
「嫌だって」
「じゃあ今どんな話してる?」
「明日、一緒に教室行くかって」
凛が止まった。
「誰から?」
「俺」
「へえ」
「何だよ」
「お兄ちゃんからそういうこと言うんだ」
「彼氏なんだから普通だろ」
口にしてから少し違和感があった。彼氏。
今日の昼までは俺とは無関係だった言葉だ。凛が俺の顔をじっと見る。
「緊張してる?」
「何が」
「彼女できたこと」
俺は答えなかった。凛は少し笑う。
「してるんだ」
「うるさい」
「女心には詳しいのにね」
「関係ないだろ」
「あるでしょ」
凛はベッドの端に座った。
「お兄ちゃんさ」
珍しく少し真面目な声だった。
「知ってるのと、できるのは違うからね」
「分かってる」
「ほんとに?」
「たぶん」
凛が笑った。
「じゃあ一個だけ」
「何?」
「その子がお兄ちゃんの彼女になったからって、いきなり完璧な彼氏やろうとしない方がいいよ」
思っていたのと違う助言だった。
「なんで?」
「疲れるから」
凛は肩をすくめる。
「相手もね」
少し考える。確かにそうかもしれない。
俺は水瀬を惚れさせようとしている。だから知っていることを全部使おうとしていた。
でも最初から何もかもやったら、それこそ不自然だ。
「なるほど」
「私に感謝して」
「はいはい」
「あと」
「まだあるの?」
凛が俺を指さした。
「明日の髪、彩花姉にやってもらって」
「嫌だ」
「なんで」
「急に見た目変えたらおかしいだろ」
「彼女できた男子なんてそんなもんでしょ」
「偏見だ」
凛は笑いながら部屋を出ていった。ドアが閉まる。
俺は再びスマートフォンを見る。莉奈とのトーク画面。
まだ返信していなかった。
『彼氏彼女っぽいね笑』
俺は少し考えて打つ。
『一応、本当に付き合ってるんだからな』
送信。数秒後。
既読。そして。
『そうだった笑』
その後に笑っているスタンプ。俺も笑った。
水瀬。君は一か月後に全部終わらせるつもりなんだろう。
でも残念ながら。俺の家には、頼んでもいないのに本気になっている先生が三人いる。
しかも全員、手加減という言葉を知らない。
「……これ、俺が止められるかな」
仕返しを始めたはずなのに。なぜか少しだけ、自分の方が危ない気がしてきた。




