第1話 その告白、知ってます
「水瀬が高瀬に告白するって、マジ?」
自分の名前が聞こえた瞬間、俺は教室へ戻ろうとしていた足を止めた。昼休みも残り十分ほど。自動販売機で買ったミルクティーを片手に廊下を歩いていた俺は、空き教室の前で立ち尽くしている。
別に盗み聞きするつもりはなかった。ただ、自分の名前を出されて素通りできるほど、俺は人間ができていない。
「声大きいって、陸」
「誰もいないって」
聞き覚えのある声だった。相沢陸。
同じクラスで、水瀬莉奈といつも一緒にいる男子だ。
「で、本当にやるの?」
今度は小宮山由依の声。少し間が空いてから、女子の笑い声が聞こえた。
「やるって。莉奈もオッケーしたんだから」
佐倉真帆だ。そして、その直後。
「まだちょっと迷ってるけどね」
水瀬莉奈本人の声がした。俺は手に持っていたミルクティーへ視線を落とした。
どうやら聞き間違いではないらしい。
「今さら? 高瀬なら絶対信じるって」
真帆が笑う。
「それは……まあ」
「莉奈から告られたら、一発だろ」
陸まで笑っている。何が一発なんだ。
嫌な予感しかしない。
「でも一か月は長くない?」
由依だけは少し乗り気ではないらしい。
「だから一か月が面白いんじゃん」
「高瀬、本気になったらどうするの?」
「最後にちゃんと罰ゲームでしたって言えばいいでしょ」
その言葉で、ようやく全部つながった。なるほど。
そういうことか。俺は廊下の壁にもたれ、音を立てないように息を吐いた。
水瀬莉奈が俺に告白する。一か月付き合う。
俺が本気になったところで、罰ゲームだったと明かす。随分とまあ、楽しそうな遊びを考えたものだ。
「でもキスとかはなしだからね」
莉奈が言った。
「当たり前じゃん」
真帆が笑う。
「そこまでやったら洒落にならないって」
……そこまでは分かっているらしい。少しだけ安心した。
いや、安心するところじゃない。
「つーか、なんで高瀬なんだっけ?」
陸の質問に、真帆が即答した。
「絶対信じそうだから」
俺は思わず眉を寄せた。
「恋愛経験なさそうだし」
それは正しい。
「女子と全然話さないし」
意図的にそうしている。
「莉奈に告白されたら、絶対舞い上がるって」
そこまで言われると腹が立つ。
「……悪かったな」
小さく呟いたところで、もちろん向こうには聞こえない。学校での俺、高瀬悠斗は目立たない。
髪型は適当。服にも興味がないと思われている。女子とも必要以上に話さないし、LINEも用事が終わればそこで終わる。だから、クラスの女子からすれば恋愛経験のない地味な男子。
実際、恋愛経験がないという部分だけは完全に正解だ。彼女がいたことは一度もない。
女の子と手をつないだこともない。当然、キスもない。
ただし――女の子という生き物について、何も知らないわけではない。むしろ逆だ。
俺には姉が二人と妹が一人いる。二十六歳の美咲姉。
二十一歳の彩花姉。十六歳の凛。
物心ついた頃から三人に囲まれて育ち、髪型、服、LINE、会話、距離感、プレゼント、女子同士の面倒な人間関係まで、嫌というほど叩き込まれてきた。小学生の頃、女子に「髪切った?」と何気なく言っただけで、
『それ、誰にでも言うようになったら面倒な男になるから気をつけなさい』
と美咲姉に説教された。中学では女子から相談を受けて普通に話を聞いていただけなのに、
『お兄ちゃん、好きでもない子に期待させるのやめた方がいいよ』
と凛に怒られた。そして三人から最終的に言い渡されたのが、
『学校で不用意に使うな』
だった。理由は単純。
面倒なことになるから。俺自身も面倒事は嫌いなので、その命令には素直に従っている。
だから学校では、何も気づかないふりをする。女子が前髪を切っていても言わない。
いつもより元気がなくても深入りしない。
「なんでもいい」と言われても、本当になんでもいいことにする。
その結果が、
『高瀬なら絶対信じる』
らしい。……姉ちゃんたち。
あなたたちの教育方針、裏目に出てます。
「で、莉奈はどうなの?」
真帆の声が続く。
「どうって?」
「高瀬に告白すんの嫌じゃないの?」
少し間があった。なぜか俺は、その返事を待っていた。
「別に嫌ってわけじゃないよ」
莉奈が答えた。
「高瀬、悪い人じゃないし」
フォローになっているようで、あまりなっていない。
「一か月くらいなら大丈夫かなって」
その程度か。胸の奥に、少しだけ引っかかるものがあった。
悲しいのか、腹が立っているのか、自分でもよく分からない。俺は恋愛経験がない。
だから告白された経験だってない。もし今日、何も知らずに水瀬から告白されていたら。
たぶん信じた。いや。
確実に信じた。明るくて、可愛くて、クラスでも人気のある水瀬莉奈から「好き」と言われたら、それだけで舞い上がっていたかもしれない。
そして一か月後。全部嘘だったと知る。
想像してみる。……普通に傷つくな。
「じゃ、放課後決行ね」
真帆の声が聞こえた。俺はその場を離れた。
これ以上聞く必要はない。教室へ戻る途中、手に持ったミルクティーを一口飲む。
ぬるくなっていた。
「あれ、悠斗」
教室の前まで来たところで、黒瀬拓真がこちらを見た。幼稚園の頃から腐れ縁の幼馴染だ。
「何してたんだよ。もう昼休み終わるぞ」
「飲み物買ってた」
「十分以上?」
「自販機が俺を離してくれなくて」
「怖い学校だな」
拓真は笑ったあと、俺の顔をじっと見た。こういうところだけ妙に鋭い。
「なんかあった?」
「別に」
「その顔で?」
「どんな顔だよ」
「家帰ったら美咲さんに説教されるって分かったときの顔」
「分かりにくい例えするな」
「俺には分かる」
長い付き合いだけはある。だが、今はまだ話す気になれなかった。
「本当に何もない」
「ならいいけど」
拓真はそれ以上追及しなかった。ありがたい。
その代わり、席に戻りながら余計なことを言った。
「そういや今日、水瀬がやたらお前のこと見てるぞ」
俺は一瞬足を止めた。
「そうか?」
「気づいてなかった?」
気づいていた。朝から何度か視線を感じていた。
ただ、理由までは分からなかった。今なら分かる。
タイミングを計っていたのだろう。
「へえ」
俺はそれだけ答えて自分の席へ戻った。窓際では水瀬たちが話している。
莉奈と一瞬だけ目が合った。すると彼女はすぐに視線を外した。
その横で真帆が何かを囁き、莉奈が小さく肘で突いている。今までなら何とも思わなかった光景だ。
でも事情を知ったあとでは、全部違って見える。五時間目。
六時間目。時間が妙にゆっくり進んだ。
俺は何度も考えた。放課後、水瀬に告白されたらどうするか。
断る。それが一番まともだ。
「ごめん、そういう気持ちはない」と言えば終わる。
あるいは最初から全部知っていると言ってもいい。
「罰ゲームなんだろ?」
その一言で向こうの計画は終了する。たぶん水瀬たちはかなり焦るだろう。
でも。それだけでは、なんとなく面白くなかった。
俺だけが馬鹿にされたまま終わるのも気に入らない。だったら――。
放課後。帰り支度をしていた俺の机の横に、水瀬莉奈が立った。
「高瀬」
教室にはまだ何人か残っている。真帆、由依、陸、それから神谷蓮。
全員、露骨には見ていない。でも明らかにこちらを気にしている。
分かりやすすぎるだろ。
「何?」
俺が顔を上げると、莉奈は少しだけ髪を耳へかけた。緊張している。
演技ではない。嘘の告白でも、本人なりに緊張はするらしい。
「ちょっと話したいんだけど」
「ここじゃダメ?」
「できれば……二人で」
教室の後ろで真帆が口元を押さえているのが見えた。笑いを堪えているのか。
腹立つな。
「分かった」
俺は鞄を持って立ち上がった。莉奈について校舎を出る。
連れていかれたのは体育館裏ではなく、校舎脇の人通りが少ない場所だった。思ったより普通だ。
二人きりになると、莉奈は急に黙った。さっきまで友達と笑っていたのが嘘みたいに、靴先で地面を軽く蹴っている。
「話って?」
分かっている。全部分かっている。
それでも俺は何も知らない顔をした。
「えっと……」
莉奈が俺を見る。また視線の外す。
そして、意を決したように俺を見た。
「私、高瀬のこと好きみたい」
みたい。そこ少し曖昧なんだな。
危うく笑いそうになった。
「……俺?」
「うん」
「なんで?」
「なんでって言われると困るんだけど」
莉奈は少し困ったように笑った。その表情は、普通に可愛かった。
なるほど。これは何も知らなければ信じる。
「前からちょっと気になってて。高瀬って静かだけど、優しそうだし」
設定まで考えてきたらしい。
「それで……よかったら、私と付き合わない?」
来た。人生初の告白。
それが嘘。なかなか酷い初体験だと思う。
俺は莉奈を見た。彼女の頬が少し赤い。
あれも緊張なのだろう。罰ゲームとはいえ、男子に告白するのだから平然とはできないのかもしれない。
「俺でいいの?」
あえて聞いた。
「高瀬がいいから言ってるんだけど」
莉奈が少し笑う。上手い。
今の言い方はかなり強い。本当に好きな女子に言われたら、たぶん一生覚えている。
だからこそ。ちょっと腹が立った。
「分かった」
「え?」
「付き合おう」
莉奈が一瞬止まった。たぶん、もう少し戸惑うと思っていたのだろう。
「……ほんと?」
「水瀬がいいなら」
「うん。よろしく」
嬉しそうに笑う。演技なのか、本当に計画が成功して嬉しいのか。
たぶん後者だ。俺も笑ってみせた。
「よろしく」
その瞬間。校舎の角から、わずかに人影が引っ込んだ。
真帆たちだろう。見届けに来たらしい。
莉奈は気づいていないふりをしている。
「じゃあ……LINEしていい?」
「もちろん」
「今日する」
「分かった」
短いやり取りをして、莉奈は「じゃあまた明日」と手を振った。俺も手を上げる。
彼女が校舎の角を曲がる。数秒後。
小さな歓声が聞こえた。
「成功した?」
真帆の声。
「した」
莉奈の声。
「めっちゃ信じてたじゃん」
陸が笑っている。俺はその場に立ったまま、空を見上げた。
夕方の空がやけに綺麗だった。……さて。
どうする。一か月後に「全部嘘でした」と笑われる未来を、そのまま受け入れるつもりはない。
かといって学校中に言いふらしたり、恥をかかせたりする気もない。それは趣味が悪い。
だったら。向こうが一か月だけ恋人を演じるつもりなら、俺もその一か月に付き合えばいい。
ただし。一方的に騙される役を続けるつもりはない。
頭の中に、美咲姉の言葉が浮かんだ。
『好きでもない女の子に、好きな子にするような接し方をするな』
俺は少し考える。そして気づいた。
「……彼女なら、いいよな」
少なくとも形式上は。我ながら最低な屁理屈だ。
でも、向こうから仕掛けてきた。だったら一か月だけ。
今まで学校で封印してきたものを、全部使ってみよう。会話。
距離感。LINE。
気遣い。デート。
服。プレゼント。
十七年間、姉二人と妹一人から叩き込まれてきたもの。恋愛経験はゼロ。
実戦経験もゼロ。それでも知識だけなら、たぶん普通の高校生男子よりかなり多い。
水瀬は俺を惚れさせるつもりだ。そして最後に「嘘でした」と言うつもりでいる。
なら、その前に。俺は校舎の角へ消えた莉奈の背中を思い浮かべた。
「そっちがその気なら――」
一か月。期限は同じだ。
思わず口元が緩む。
「一か月で、その唇奪ってみます」




