第26話 終わらせたくない
交際二十四日目、水曜日。朝、莉奈はいつもの場所へ向かいながら、スマートフォンのカレンダーを開いていた。
日曜日。そこに予定を一つ入れてある。
『悠斗と話す』
文字にすると、それだけだった。でも、その日を境に今の関係がどうなるのかは分からない。
怒られるかもしれない。嫌われるかもしれない。
もう会わないと言われるかもしれない。それでも話すと決めた。
決めたのに。
「……あと四日」
日曜日まで。一か月の終わりまでは六日。
最初は早く終わればいいと思っていた三十日が、今は少しでも長く続けばいいと思っている。矛盾している。
自分で始めた嘘なのに。待ち合わせ場所が見える。
悠斗はもう来ていた。こちらに気づくと、いつものように少し手を上げる。
「おはよう」
「おはよ」
その顔を見るだけで、やっぱり嬉しい。だから余計に苦しい。
二人で歩き始める。少しして、悠斗が手を差し出した。
莉奈はその手を見る。もう迷うことなく握る。
「今日早いね」
「何が?」
「手」
「最近これくらいだろ」
「そうだけど」
本当に。いつの間にか普通になった。
最初に手をつないだ日は、それだけで二人ともまともに話せなくなった。今は手をつないだまま、学校の話もできる。
その変化が嬉しい。でも。
日曜のあとも、こうできる保証はない。
「莉奈?」
「何?」
「また考え事?」
「ちょっと」
悠斗は一瞬こちらを見る。でも。
何を考えているのかまでは聞かなかった。
「日曜のこと?」
やっぱり分かっている。
「うん」
「俺も考えてる」
「怖い?」
聞くと、悠斗は少しだけ黙った。
「怖いよ」
意外だった。悠斗はもっと平気なのかと思っていた。
「悠斗も?」
「関係変わるかもしれないって言っただろ」
「うん」
「変わってほしくない部分もあるから」
胸が大きく鳴る。
「……どこ?」
思わず聞いた。悠斗は少し考える。
「朝一緒に行くのとか」
つないでいる手が少し熱くなる。
「帰りも?」
「うん」
「手は?」
そこまで聞いてから。自分で恥ずかしくなった。
悠斗がこちらを見る。
「莉奈は?」
ずるい。質問を返された。
「……変わってほしくない」
正直に答える。悠斗が少しだけ握る力を強くした。
「俺も」
それ以上は言わなかった。感情でも。
その一言で。日曜日の先にも少しだけ希望があるような気がした。
学校が近づき、手を離す。教室へ入ると、真帆と由依がすでに来ていた。
莉奈を見る。真帆は何も聞かなかった。
昨日までならすぐ話しかけてきたはずなのに。その気遣いが分かる。
「おはよ」
「おはよ」
普通に挨拶する。由依も、
「おはよう」
と返した。そこへ陸が来る。
「おはよー」
いつも通り。少し遅れて蓮も入ってきた。
「おはよ」
「おはよう」
莉奈が答える。蓮は一瞬、莉奈と悠斗を見た。
でも何も言わない。最近。
蓮も少し変わった。前みたいに悠斗とのことを細かく聞かなくなっている。
それが逆に。莉奈には少し申し訳なかった。
一時間目が終わった休み時間。莉奈が教科書を片づけていると、凛からLINEが届いた。
『おはようございます』
朝から珍しい。
『おはよ』
すぐ返す。
『お兄ちゃん今日普通でした?』
何の確認だろう。
『普通だったよ』
少しして。
『昨日、美咲姉と部屋で何か話してたので』
莉奈の手が止まる。昨日。
悠斗が家で何か話したと言っていた。その続きなのかもしれない。
『何の話か知ってる?』
既読。少し待つ。
『知りません』
続けて。
『でもたぶん莉奈さんのことです』
胸が鳴る。
『なんで?』
『お兄ちゃん最近ほぼ莉奈さんのことでしか美咲姉に相談しないので』
そこまでなのか。嬉しい。
期待してしまう。でも。
日曜までは。勝手に答えを出してはいけない。
『そっか』
それだけ返す。凛からすぐに、
『何かありました?』
と来る。指が止まる。
本当のことを言うなら。凛にも謝らなければいけない。
今までずっと、本当の彼女だと思って接してくれている。
『日曜に悠斗と大事な話する』
送る。少し間が空いた。
『別れるんですか?』
心臓が痛くなる。
『分からない』
それが正直な答え。凛からの返信は、今までより少し遅かった。
『私は別れないでほしいです』
莉奈は画面を見た。
『でも二人のことなので、私が決めることじゃないです』
続けて。
『ただ、莉奈さんが来なくなるのは嫌です』
目の奥が熱くなる。こんなときまで。
自分のことを心配してくれる。
『ありがとう』
それしか返せなかった。
「莉奈」
真帆に呼ばれ、顔を上げる。
「何?」
「大丈夫?」
「うん」
「泣きそうだけど」
莉奈は慌ててスマートフォンを伏せる。
「凛ちゃんからLINE」
それだけで真帆は察したらしい。
「そっか」
由依も莉奈を見る。でも二人とも、それ以上は何も聞かなかった。
昼休み。いつもの六人で机を寄せる。
陸だけが相変わらず明るい。
「日曜さ」
その単語だけで、莉奈と悠斗が同時に反応した。陸が止まる。
「何?」
「何でもない」
悠斗が答える。莉奈も首を振る。
「で?」
真帆が続きを促す。
「いや、日曜遊ぶ話どうなったかなって」
「ああ」
真帆が莉奈を見る。莉奈は少し迷った。
「ごめん。日曜は無理」
「俺も」
悠斗も続ける。陸の顔が変わる。
「二人で?」
真帆がすぐ陸の腕をつついた。
「そこ聞かなくていいから」
「何で?」
「いいから」
陸は意味が分からない顔をしている。蓮だけが少し真剣な表情になった。
「何かあるの?」
莉奈を見る。
「……ちょっと」
「デート?」
「違う」
今回は。本当に違う。
悠斗も何も言わない。蓮は少し考えたあと、
「そっか」
とだけ答えた。昼食が終わるころ。
陸と真帆が飲み物を買いに行き、由依も一緒に席を立った。悠斗は拓真に呼ばれて別の席へ行く。
一瞬。莉奈と蓮だけが残った。
少し気まずい。
「莉奈」
先に蓮が呼んだ。
「何?」
「日曜の話」
やっぱり。
「高瀬と何かある?」
「うん」
蓮は少し黙る。
「悪いこと?」
「分からない」
「またそれ?」
少し笑われる。でも。
いつもの笑い方ではない。
「蓮」
「うん」
莉奈は少し迷った。いつか話さないといけない。
だったら。今でもいい。
「私、悠斗のこと好き」
蓮の表情が止まった。莉奈も息を止める。
初めて。蓮にはっきり言った。
数秒。蓮が小さく息を吐く。
「そっか」
それだけ。でも。
少し苦しそうだった。
「ごめん」
「何で謝るの」
「蓮の気持ち」
「知ってた?」
「途中から」
蓮が苦笑する。
「高瀬には最初からばれてたっぽいけどな」
「悠斗に?」
「たぶん」
それはありそうだ。悠斗は自分のことには鈍いのに、人の恋愛には妙に鋭い。
「いつから好きだったの?」
莉奈が聞く。蓮は少し考える。
「結構前」
「ごめん」
「だから謝るなって」
声は優しい。それが余計に申し訳ない。
「告白しなかった俺の問題でもあるし」
「蓮」
「それに」
蓮は少し離れたところにいる悠斗を見る。
「普通に負けたなって思ってる」
「勝ち負けじゃないよ」
「分かってはいる」
少し笑う。
「でも男としてはそう思う」
その言葉に。莉奈は何も返せなかった。
蓮は続ける。
「最初はさ、高瀬なら一か月で終わると思ってた」
胸が痛む。
「俺も、そのあとでいいかなって」
正直な言葉。
「でも途中からお前、完全に高瀬のことしか見てなかったし」
「……そんな分かりやすかった?」
「かなり」
また言われた。
「だから最近はもう分かってた」
蓮は机の上のペットボトルを見る。
「ただ認めたくなかっただけ」
莉奈は少し黙る。
「蓮」
「何?」
「最初のこと」
蓮も知っている。嘘告。
一か月の罰ゲーム。
「日曜に悠斗に話す」
蓮の表情が変わった。
「全部?」
「うん」
「やっとか」
責める声ではなかった。
「怖い」
正直に言う。蓮は少し考える。
「怒るだろうな」
やっぱり。
「うん」
「でも」
蓮が悠斗を見る。
「高瀬、今のお前かなり好きだと思うけど」
心臓が跳ねた。
「何で?」
「見れば分かる」
「分からない」
「お前ら二人ともそれ言うんだな」
少し笑われる。
「高瀬も?」
「自分のことだけ分かってない感じ」
拓真と同じことを言っている。蓮は席を立つ。
「ちゃんと話せよ」
「うん」
「あと」
「何?」
少しだけ迷って。
「高瀬と駄目になったからって、俺のところ来るなよ」
莉奈が目を丸くする。蓮が笑った。
「俺、そこまでいい奴じゃないから」
「行かないよ」
莉奈も少し笑った。
「悠斗が好きだから」
言えた。今度は。
さっきより簡単に。蓮は少しだけ苦い顔をした。
「二回言わなくていい」
「ごめん」
「だから謝るなって」
そこへ陸たちが戻ってくる。
「何話してた?」
陸が聞く。蓮が答える。
「失恋」
陸の足が止まった。
「え?」
真帆と由依も蓮を見る。莉奈は困る。
蓮は普通に席へ座った。
「何でもない」
「いや、今失恋って」
「忘れろ」
「無理だろ」
陸は蓮を見る。次に莉奈。
そして悠斗。数秒。
何か理解したらしい。
「あ」
蓮がすぐ言う。
「言うな」
陸は口を閉じた。珍しく空気を読んだ。
でも。少しして小声で蓮に言う。
「お前、普通に負けたな」
「うるさい」
以前、冗談で言っていた言葉。今日は本当になった。
放課後。莉奈と悠斗はいつものように一緒に学校を出た。
二人になり、少し歩いたところで手をつなぐ。
「今日何かあった?」
悠斗が聞いた。
「何で?」
「蓮と話してただろ」
見ていたらしい。
「うん」
「何話した?」
以前なら。嫉妬しているのかとからかったかもしれない。
今日は普通に答える。
「蓮の気持ち」
悠斗は少し黙った。
「告白された?」
「違う」
「じゃあ?」
「私から言った」
悠斗の足が少し遅くなる。
「何を?」
莉奈も少し緊張する。でも。
これは言える。
「悠斗のことが好きって」
悠斗が止まった。完全に。
莉奈も止まる。つないだ手だけがそのまま残る。
「……え?」
初めて見る顔だった。
「蓮に言った」
「うん」
「悠斗が好きって」
悠斗は何も言わない。莉奈の方が恥ずかしくなってくる。
「何か言って」
「ちょっと待って」
「何を」
「今整理してる」
「そのままじゃん」
「分かってる」
顔が赤い。莉奈は少し笑った。
「悠斗でもそんな顔するんだ」
「するだろ」
「だって私、悠斗本人に言ったわけじゃないよ」
「俺の前で言い直しただろ」
確かに。間接的でも。
ほとんど告白だった。
「……そうだけど」
二人とも黙る。日曜日に全部話してから。
そのあとで。好きだと言うつもりだった。
でも。順番が少し変わった。
「莉奈」
悠斗が呼ぶ。
「何?」
「今の」
「うん」
「聞かなかったことにはしないから」
胸が鳴る。
「……うん」
「でも」
悠斗は少し考える。
「返事は日曜でもいい?」
予想していなかった言葉だった。返事。
ということは。ちゃんと。
告白として受け取っている。
「いいよ」
答える。
「私も、全部話してからの方がいい」
「うん」
また歩き始める。手は離さない。
むしろ。さっきより強くつながっている。
しばらくして莉奈が笑う。
「何か変だね」
「何が?」
「好きって言ったのに、付き合ってる」
悠斗も少し笑った。
「順番めちゃくちゃだな」
「最初からね」
その言葉で。二人とも少し静かになる。
最初。そこだけは。
まだ嘘のまま。日曜日。
全部話す。その約束は変わらない。
でも。一つだけ。
先に本当になった。莉奈は。
悠斗が好き。もう。
そこだけは。何があっても嘘ではなかった。
駅前へ着く。いつもの改札。
手を離す。悠斗が少し名残惜しそうに自分の手を見る。
莉奈はそれを見て少し笑った。
「何?」
「別に」
「最近それ俺にうつった?」
「悠斗が使うから」
数日前と逆になっている。
「じゃあまた明日」
悠斗が言う。
「うん」
莉奈は少し歩く。振り返る。
「悠斗」
「何?」
「さっきの」
「うん」
「忘れないでね」
悠斗は少し笑った。
「忘れるわけないだろ」
それだけで。十分だった。
莉奈も笑う。
「また明日」
改札へ入る。今日。
蓮に言った。悠斗が好き。
そして。悠斗本人にも聞かれた。
もう。戻れない。
でも。戻りたいとも思わなかった。
同じころ。悠斗は改札前で一人、しばらく動けずにいた。
『悠斗のことが好き』
莉奈が言った。俺にではなく。
蓮に。感情でも。
俺の目の前でもう一度言った。つまり。
ほぼ告白だ。俺も好きだ。
だったら。普通なら今すぐ答えればいい。
でも。日曜日。
その前に。俺たちは最初の嘘を全部終わらせる。
その上で。もう一度。
ちゃんと。好きだと言いたい。
スマートフォンを出す。拓真へLINE。
『今暇?』
すぐ既読。
『凛ちゃんのことならいつでも』
違う。
『俺の話』
少し間。
『珍しい』
『水瀬に好きって言われた』
既読。長い。
一分。
『は?』
さらに。
『お前今どこ』
『駅』
『電話する』
数秒後。着信。
俺は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『お前!』
声が大きい。スマートフォンを耳から離す。
「うるさい」
『詳しく』
「蓮に俺が好きって言ったらしくて」
『神谷に?』
「それを俺の前でもう一回言った」
電話の向こうが静かになる。数秒。
『それ告白じゃん』
「だよな」
『何て返した?』
「日曜に返事するって」
また沈黙。
『悠斗』
「何?」
『お前ほんと面倒くせえな』
「知ってる」
『好きなんだろ?』
「好き」
今度は迷わない。
『じゃあ言えよ』
「その前に全部話す」
拓真も黙った。意味は分かっている。
『嘘告のことか』
「うん」
『仕返しのことも?』
「全部」
少し間。
『なら日曜だな』
「うん」
『で』
拓真の声が少し変わる。嫌な予感。
『そのあと凛ちゃんに俺のこと――』
通話を切った。すぐ着信。
無視。また着信。
無視。LINE。
『お兄さん』
ブロックしようか少し迷った。でも。
笑ってしまった。日曜日。
怖い。それは変わらない。
でも。少なくとも一つ。
もう分かっている。莉奈は俺が好き。
俺も莉奈が好き。だったら。
最初の嘘さえ。二人でちゃんと終わらせられれば。
その先へ行けるかもしれない。初めて。
日曜日が。怖いだけではなくなっていた。




