第25話 あと七日
交際二十三日目、火曜日。朝、いつもの待ち合わせ場所へ向かいながら、俺は昨日の莉奈の言葉を考えていた。
『好きな人に、嘘つくのって最低だよね』
たぶん、意味は分かっている。莉奈は嘘告のことを話そうとしている。
そして俺は、それを最初から知っていたことを隠している。どちらが先に話すか。
そんな問題ではない。俺たちは二人とも、同じ関係の中で別々の嘘を抱えている。
待ち合わせ場所には、莉奈が先に来ていた。
「おはよう」
「おはよ」
顔を見ると、昨日より少しだけ元気がない。目が合っても、いつものようにすぐ笑わなかった。
二人で歩き始める。今日はすぐには手をつながなかった。
「莉奈」
「何?」
「昨日のことだけど」
肩が少し揺れた。
「……うん」
「無理に言わなくていいって言ったけど」
莉奈は前を向いたまま歩いている。
「うん」
「ずっと待つって意味じゃないから」
今度は俺を見る。
「え?」
「莉奈が話したいことがあるなら、ちゃんと聞きたい」
言いながら、自分にも返ってくる言葉だと思った。莉奈だけに話させるわけにはいかない。
「悠斗」
「何?」
「怒るかもしれないよ」
「昨日も聞いた」
「本当に」
「うん」
「私のこと嫌いになるかも」
その言葉だけは、少し嫌だった。
「それは聞いてから決める」
「……そっか」
莉奈は小さく答える。しばらく歩いてから、俺は手を出した。
莉奈がその手を見る。一瞬迷ったあと、握ってくる。
昨日までより、少しだけ強かった。
「これも」
莉奈が言う。
「何?」
「話したら、できなくなるかもしれない」
つないだ手のことらしい。俺は少し考えた。
知っている俺からすれば、莉奈が想像しているようなことにはならない。でも今それを言えば、全部話すことになる。
「まだ分からない」
それだけ答える。
「でも今はつないでていいだろ」
莉奈が少しだけ笑った。
「……うん」
学校が近づくまで、そのまま歩いた。教室へ入ると、真帆が莉奈の顔を見ただけで何か察したらしい。
「莉奈」
「何?」
「昨日言えなかった?」
莉奈が俺を見る。真帆もその視線を追って俺を見る。
「何の話?」
俺が聞く。
「女子の話」
またそれだ。莉奈が真帆の腕を軽く引く。
「真帆」
「分かってはいる。言わない」
由依も何も言わず莉奈を見る。その三人の空気で、かなり分かる。
たぶん。真帆と由依は全部知っている。
当然だ。最初の嘘告を一緒に知っている二人なのだから。
俺が自分の席へ向かうと、拓真がすでに座っていた。
「おはよ」
「おはよう」
鞄を置く。拓真が俺の顔を見る。
「何かあった?」
「最近みんなそれ言うな」
「実際あるだろ」
こいつには隠しても仕方ない。
「水瀬……じゃなくて、莉奈が」
名前で言い直した瞬間、拓真が笑った。
「何」
「いや、普通に莉奈って言うようになったんだなと思って」
「二人のときだけだけど」
「学校でも言いかけてるじゃん」
確かに。
「慣れてきたから」
「いいじゃん」
拓真はそれ以上いじらなかった。俺は声を少し落とす。
「昨日、莉奈が嘘のこと話そうとしてた」
拓真の表情が変わった。
「マジで?」
「たぶん」
「言ったの?」
「まだ。言えないから待ってって」
「で、お前は?」
そこだった。
「俺も話さないといけない」
拓真は少し黙る。
「最初から知ってたこと?」
「うん」
「仕返しするつもりで付き合ったことも?」
「それも」
改めて並べられると、自分もかなりひどい。莉奈の嘘告を知って傷ついた。
だからやり返しようとした。惚れさせて、一か月後に俺の方から余裕を見せるつもりだった。
今となっては。そんなことを考えていた自分が、かなり遠く感じる。
「悠斗」
「何?」
「水瀬のこと好きなんだろ?」
俺は少しだけ周囲を見る。誰もこちらを気にしていない。
「うん」
昨日より簡単に言えた。拓真が少し笑う。
「認めたんだ」
「昨日」
「遅い」
「うるさい」
拓真は少しだけ真面目な顔に戻る。
「だったら、告白する前に全部言った方がいいんじゃね?」
同じことを考えていた。好きだと伝える。
その前に。始まりを全部話さないといけない。
「俺もそう思う」
「いつ?」
分からない。今日でもいい。
明日でもいい。でも。
一か月という期限がある。俺はふとカレンダーを思い出した。
「あと七日」
「何が?」
「一か月」
拓真も少し考える。
「もうそんな経った?」
「今日で二十三日目」
最初は三十日もあると思っていた。今は七日しかない。
たぶん。莉奈も同じように感じている。
「別に三十日目まで待つ必要ないだろ」
拓真が言う。
「うん」
「でも?」
俺は莉奈を見る。真帆と由依に挟まれながら何か話している。
「莉奈が決めることでもあるから」
俺から全部言ってしまえば早い。
『知ってた』
それだけで、莉奈の悩みはかなり消えるかもしれない。でも。
莉奈は自分から話そうとしている。なら。
少しくらい待ってもいい。
「珍しいな」
拓真が言う。
「何が?」
「お前が待つ側になるの」
美咲姉にずっと言われてきた。相手が話せるまで待つことも大事。
ようやく少しできるようになったのかもしれない。昼休み。
いつもの六人で机を寄せる。昨日までなら普通に話していた莉奈が、今日は少し静かだった。
陸がすぐに気づく。
「莉奈、今日元気なくない?」
「寝不足」
「最近寝不足多くない?」
「ちょっとね」
蓮も莉奈を見る。
「体調悪い?」
「大丈夫」
「無理すんなよ」
「ありがと」
普通の会話。俺も心配ではある。
でも理由を知っていると思うので、今は何も言わない。真帆と由依も無理に明るくしようとはしなかった。
そんな中、陸だけがいつも通りだった。
「そういえば日曜、暇な人いる?」
真帆が呆れた顔をする。
「また遊ぶの?」
「青春には期限があるんだぞ」
「何その名言っぽい適当な言葉」
「卒業したら高校生じゃなくなる」
「当たり前」
陸が全員を見る。
「で、暇?」
日曜。交際二十八日目。
残り二日。その数字がすぐ浮かんだ。
莉奈も同じなのか、少し表情が変わる。
「俺はまだ分からない」
答える。莉奈も、
「私も」
と続けた。陸が不満そうな顔をする。
「カップルだけ予定未定?」
真帆がすぐ反応する。
「二人で何かあるんじゃない?」
「ない」
莉奈が答える。その否定が、今日は少し弱い。
「じゃあ空けといてよ」
陸は気にせず続ける。
「考えとく」
俺が答えると、莉奈も頷いた。昼休みが終わり、席へ戻る途中。
莉奈が小さな声で呼ぶ。
「悠斗」
学校では名字の約束だった。でも周囲には誰もいない。
俺も立ち止まる。
「何?」
「日曜」
「うん」
「空けといてほしい」
声が少し硬い。理由は聞かなかった。
「分かった」
それだけ答える。莉奈が少し驚く。
「聞かないの?」
「莉奈が言うまで待つ」
昨日と同じ。莉奈の表情が揺れた。
「……ありがとう」
日曜日。二十八日目。
たぶん。その日に話すつもりなのだろう。
俺も。そのつもりでいた方がいい。
放課後。いつものように二人で帰る。
学校を離れ、人が少なくなったところで手をつなぐ。昨日までなら自然に話していたが、今日は二人とも少し静かだった。
重い沈黙ではない。考えていることが多いだけだ。
「悠斗」
「何?」
「日曜ね」
「うん」
「二人で会いたい」
「分かった」
「朝からじゃなくていいから」
「何時?」
「まだ決めてない」
いつもの莉奈らしい。少し笑ってしまう。
「何?」
「また決めてないんだなと思って」
「今回はちゃんと決める」
「珍しい」
「大事な話だから」
笑えなくなった。やっぱり。
「そっか」
俺はそれ以上聞かなかった。莉奈も黙る。
少しして。
「怖い」
小さく言った。俺は横を見る。
「日曜?」
「うん」
「俺も」
莉奈が驚く。
「悠斗も?」
「俺も話したいことあるから」
足が止まった。俺も止まる。
つないだ手だけはそのまま。
「……何?」
「日曜に言う」
「今じゃ駄目?」
「莉奈も今言わないだろ」
返すと、何も言えなくなった。
「ずるい」
「お互い様」
「嫌な話?」
俺は少し考える。嫌な話。
たぶん。莉奈にとっては。
「最初は嫌かもしれない」
「最初は?」
「最後まで聞いてほしい」
自分でも驚くほど真面目な言葉になった。莉奈もそれを感じたらしい。
「……分かった」
「莉奈の話も最後まで聞く」
「うん」
約束。日曜日。
二人とも本当のことを話す。そう決まった。
また歩き始める。不思議だった。
怖いはずなのに。少しだけ楽になった。
言う日が決まったからかもしれない。莉奈もさっきより表情が柔らかい。
「悠斗」
「何?」
「日曜まで普通にしてていい?」
その質問が少し寂しい。
「普通って?」
「朝一緒に行ったり、帰ったり」
つないだ手を見る。
「これも」
俺は少し握り返した。
「今まで通りでいいだろ」
「……いいの?」
「俺はそうしたい」
好きな相手と。残り数日だから距離を取る理由はない。
莉奈も少し握り返す。
「私も」
それからは。少しずつ会話が戻った。
今日の数学の小テスト。先生が黒板の字を間違えていたこと。
真帆と陸がまた昼休みに言い合っていたこと。本当にどうでもいい話。
でも。こういう時間が好きだ。
俺はようやくそれを自覚している。駅前。
改札の少し手前で手を離す。
「じゃあ明日」
俺が言う。
「うん」
莉奈は少し歩いた。そして振り返る。
「悠斗」
「何?」
「あと七日だね」
やっぱり。同じことを考えていた。
「うん」
「最初、長いと思ってた」
「俺も」
「今は?」
聞かれる。俺は迷わなかった。
「短い」
莉奈が少し笑った。感情でも。
目は少し寂しそうだった。
「私も」
それだけ言って改札へ入る。俺はその背中が見えなくなるまで見ていた。
その夜。夕食後。
リビングでは父さんがテレビを見ていて、母さんは食器を片づけている。彩花姉と凛はソファ、美咲姉はテーブルでスマートフォンを見ていた。
俺は少し迷ってから、美咲姉に声をかける。
「美咲姉」
「何?」
「ちょっといい?」
全員がこっちを見る。
「美咲姉だけ」
「えー」
彩花姉が不満そうに言う。
「何で?」
「ちょっと」
美咲姉は俺の顔を見ると、立ち上がった。
「部屋?」
「うん」
二階へ行く。俺の部屋へ入ると、美咲姉は机の椅子に座った。
俺はベッドへ座る。
「どうしたの?」
すぐには言葉が出なかった。
「莉奈のこと」
「うん」
「日曜に話することになった」
美咲姉は少しだけ表情を変える。
「何の?」
そこまでは言えない。家族にはまだ。
「お互いに隠してること」
「悠斗も?」
「うん」
美咲姉はすぐ追及しなかった。
「話したら、関係変わるかもしれない?」
鋭い。
「たぶん」
「別れるかもしれない?」
その言葉。胸が嫌な感じになる。
「……可能性はある」
美咲姉は少し考える。
「それでも話すの?」
「話さない方が駄目だと思う」
自分で答えて。やっと分かった。
怖い。莉奈に嫌われるのも。
今の関係が終わるのも。でも。
隠したまま本当の恋人になる方が嫌だ。美咲姉が少し笑った。
「じゃあいいんじゃない?」
「それだけ?」
「悠斗がちゃんと考えて決めたんでしょ?」
「うん」
「だったら、私は何も言わない」
いつもそうだ。答えを教えるのではなく。
俺に決めさせる。
「ただ」
美咲姉が続ける。
「自分が正しいと思って話さない方がいいよ」
「どういう意味?」
「相手が悪かったとしても、自分にも悪いところがあるならちゃんと認める」
胸に刺さった。手に。
俺たちのことだった。莉奈が嘘告した。
でも。俺も仕返ししようとした。
「……分かった」
「あと」
「まだある?」
「好きなら最後にちゃんとそれも言いなさい」
一瞬。返事が止まった。
美咲姉が笑う。
「昨日好きって認めたんでしょ?」
「それ家族内だけの話じゃないの?」
「本人に言わないなら意味ないじゃん」
正論。
「日曜に言うかは分からない」
「それも悠斗が決めればいいよ」
美咲姉は立ち上がる。ドアのところまで行き、振り返った。
「でも、喧嘩して終わるために話すんじゃないんでしょ?」
「うん」
「じゃあ大丈夫」
そう言って部屋を出た。大丈夫。
本当にそうなのかは分からない。でも。
俺はスマートフォンを見る。莉奈からLINE。
『日曜、14時でいい?』
ついに時間まで決まった。
『いいよ』
返信する。
『駅前?』
少し間。
『最初にデートしたところで待ち合わせよう』
初デートの日。俺たちが互いの私服を見て固まった場所。
そこから始めるらしい。
『分かった』
送る。少しして。
『悠斗』
文字だけ。
『何?』
返信。少し待つ。
『日曜、逃げないでね』
俺は画面を見る。
『莉奈も』
送る。すぐ既読。
『うん』
それだけ。あと五日で日曜日。
そして。一か月の終わりまで。
あと七日。俺たちの嘘が終わる日は。
三十日目より少し早くなりそうだった。




