第24話 好きになったのに、言えない
交際二十二日目、月曜日。朝、目が覚めた瞬間から、莉奈は昨日の写真を見ていた。
二人で並んで笑っている写真。その前には、悠斗が自分だけを見ている一枚がある。
昨夜、自分の中でようやく認めた。悠斗が好き。
もう罰ゲームの相手でも、彼氏役でもない。本当に好きな男の子になっていた。
認めてしまえば、今まで曖昧だったことが全部つながる。ほかの女子に話しかけられると嫌だったこと。
休日に会いたくなったこと。手をつないで離したくなかったこと。
名前で呼ばれるだけで嬉しくなったこと。全部。
好きだったから。
「……最悪」
ベッドの上で呟く。好きになったことが最悪なのではない。
もっと早く、自分が何をしているのか考えなかったことが最悪だった。最初の告白は嘘。
一か月付き合って、悠斗が本気になったところで罰ゲームだったと明かす。そんな話を、みんなで笑いながら決めた。
その相手を。今は自分が本気で好きになっている。
スマートフォンが震えた。悠斗。
『8時でいい?』
いつもの確認。莉奈は画面を見る。
昨日までは、この一文だけでも嬉しかった。今日は少し苦しい。
『うん』
送る。少し迷って、もう一件。
『おはよう、悠斗』
すぐ既読。
『おはよう、莉奈』
名前で返ってきた。胸が温かくなる。
同時に。もっと苦しくなった。
朝八時。いつもの場所へ行くと、悠斗はすでに待っていた。
「おはよう」
「おはよ」
顔を見る。昨日までと同じ。
でも。莉奈の中では、もう違う。
好きだと認めた相手が目の前にいる。それだけで、まともに顔を見られない。
「莉奈?」
二人きりなので名前で呼ばれる。
「何?」
「今日、なんか眠そう」
「ちょっと寝るの遅かった」
「何してたの?」
「写真見てた」
言ってから。止まる。
悠斗も少し黙った。
「昨日の?」
「……うん」
「俺も見た」
「どれ?」
聞いてしまう。悠斗は少し考えた。
「二枚目」
やっぱり。自分を見ている写真。
莉奈は前を向く。
「何回?」
「何回って?」
「見た回数」
「数えてない」
「結構見た?」
「まあ」
それ以上聞くと。期待してしまう。
「そっか」
二人で歩き始める。少しして、悠斗が普通に手を出した。
昨日までと同じ。莉奈も握る。
でも今日は。その手を握った瞬間、好きという言葉が頭に浮かんだ。
「……」
「何?」
「何でもない」
「今日それ多くない?」
まだ一回目だ。
「悠斗こそ」
「俺何も言ってないけど」
「顔」
最近よく使われる言葉を返す。悠斗が笑う。
「俺、そんな分かりやすい?」
「最近は」
「莉奈にだけ言われる」
違う。家族にも言われているはずだ。
感情でも。
『莉奈にだけ』
その言葉だけ拾ってしまう。
「……そうなんだ」
「何?」
「何でもない」
今度は本当に二回目だった。学校が近づくと、いつものように手を離す。
その瞬間。少し寂しい。
でも今日は、その感情から逃げなかった。悠斗と手をつないでいたい。
それは。好きだから。
教室へ入ると、真帆が莉奈の顔を見た瞬間に眉を上げた。
「莉奈」
「何?」
「ちょっと来て」
「どこに?」
「いいから」
腕をつかまれ、由依まで一緒に廊下へ連れていかれる。
「何なの?」
人気の少ない階段近くまで来たところで、真帆が止まった。
「昨日、高瀬と会った?」
莉奈も止まる。
「……なんで?」
「顔」
今日二回目。由依が少し笑う。
「莉奈、分かりやすくなったね」
「何が」
真帆は莉奈の顔を見る。
「会ったんだ?」
「会ったけど」
「二人で?」
「うん」
「何した?」
「普通に出かけただけ」
「手?」
「つないだ」
もう隠す意味がない。真帆が小さく息を吐く。
「キス?」
「してない!」
思わず声が大きくなる。由依が笑う。
「そこはまだなんだ」
「まだって何」
「じゃあ何があったの?」
真帆が聞く。
「何もないって」
「写真」
由依が突然言った。
「え?」
「昨日、莉奈がアイコン変えようか迷ってるって言ってた写真」
莉奈はスマートフォンを見る。昨夜、三人のグループLINEに写真を一枚だけ送っていた。
三枚目。二人で普通に笑っている写真。
真帆が言う。
「どう見ても普通のカップルだった」
「付き合ってることにはなってるんだから普通でしょ」
「そこ」
真帆の声が少し変わる。
「まだ『ことにはなってる』って言う?」
莉奈は答えられなかった。由依も何も言わず待っている。
昨日。一人で認めた。
悠斗が好き。でも。
人に言うのはまた違う。
「莉奈」
真帆が少しだけ声を落とす。
「昨日、何か分かった?」
逃げられない。莉奈はしばらく黙った。
そして。
「……好き」
小さく言った。真帆も由依も黙る。
もう一度。今度は少しだけはっきり。
「悠斗のこと、好きになった」
口にした瞬間。胸が大きく鳴った。
でも。不思議と。
否定したいとは思わなかった。真帆がゆっくり息を吐く。
「やっと言った」
由依も少し笑う。
「うん」
「笑わないでよ」
「笑ってないよ」
「笑ってる」
「嬉しいだけ」
その言葉で。莉奈の表情が少し曇る。
「嬉しくないよ」
二人の笑顔が止まった。
「最初が最初だから」
言葉にすると、現実が重くなる。
「私が好きになったからって、なかったことにはならないし」
「うん」
由依は否定しなかった。莉奈は壁へ背中を預ける。
「むしろ前より言いにくくなった」
真帆が聞く。
「本当のこと?」
「うん」
「何で?」
「好きだから」
答えは簡単だった。
「嫌われたくない」
初めて。はっきり口にした。
「悠斗に知られたら、絶対傷つく。怒るかもしれないし、もう会いたくないって言われるかもしれない」
それだけではない。高瀬家の人たち。
美咲。彩花。
凛。千春。
健司。みんな自分を本当の彼女だと思って受け入れてくれた。
「家族にも嫌われると思う」
真帆が何も言えなくなる。由依が静かに聞いた。
「でも、このままなら?」
莉奈は顔を上げる。
「あと八日だよ」
分かっている。一か月。
もう八日しかない。
「最初の予定通りなら、八日後に言うんでしょ?」
「……うん」
「そのときの方が、もっと言いにくくない?」
何も返せなかった。八日後。
ここまで普通の恋人みたいに過ごして。手までつないで。
写真まで撮って。好きになって。
それから。実は最初の告白は罰ゲームでした。
そんなことを言うのか。
「無理」
思わず口から出た。真帆が聞く。
「何が?」
「八日後まで待つの」
二人を見る。
「無理だと思う」
由依が頷く。
「私も、その方がいいと思う」
真帆も今回は笑わなかった。
「莉奈。早い方がいいよ」
怖い。でも。
分かっている。
「……うん」
自分で始めたことだ。好きになったから終わりではない。
むしろ。好きになったからこそ。
ちゃんとしないといけない。
「今日?」
真帆が聞く。莉奈はすぐに答えられなかった。
今日。いきなり。
「まだ……」
言いかける。でも。
また先延ばしにしようとしているだけだと、自分でも分かる。
「少し考える」
結局そう答えた。教室へ戻る。
悠斗は拓真と話していた。莉奈が入ってきたことに気づく。
目が合う。少し笑う。
莉奈も反射的に笑い返す。好き。
そう思う。だから。
怖い。昼休み。
いつもの六人で机を寄せる。昨日のカラオケの話になり、陸が採点結果についてまだ文句を言っている。
「絶対機械がおかしかった」
真帆が即答する。
「高瀬に負けたから?」
「二点差だぞ」
「負けは負け」
「次やったら勝つ」
俺――悠斗が笑う。
「別に勝負してないけど」
「次はする」
「勝手に決めるな」
いつもの会話。莉奈も笑う。
でも。以前とは違う。
悠斗を見るたびに。あと八日。
その数字が浮かぶ。蓮が莉奈へ聞く。
「莉奈、昨日も高瀬と会ってた?」
莉奈の動きが止まる。
「何で知ってるの?」
「陸が写真見たって」
「俺?」
陸が驚く。
「真帆が見せたじゃん」
「真帆!」
莉奈が睨む。真帆は悪びれない。
「三枚目だけ」
「勝手に見せないでよ」
「ごめんって」
悠斗が少し驚いている。
「写真、陸たちも見たの?」
「見た」
陸が答える。
「普通によかったぞ」
「何が」
「カップルっぽくて」
悠斗が一瞬。莉奈を見る。
その顔が。少し嬉しそうに見えた。
胸が痛む。蓮も笑う。
「見せて」
「嫌」
莉奈は即答した。蓮が少し驚く。
「なんで?」
「二人の写真だから」
言ってから。教室が少し静かになった気がした。
実際には、周りは普通に騒がしい。感情でも。
この机だけ。少し止まった。
真帆が莉奈を見る。由依も。
悠斗も。蓮は少しだけ笑った。
「そっか」
「ごめん」
「いや。別に謝らなくていい」
普通の返事。でも。
少しだけ寂しそうだった。莉奈には分かった。
以前なら。蓮の気持ちに気づかないふりをしていた。
今は。悠斗が好きだと分かったから。
曖昧にしたくなかった。陸が空気を変えるように言った。
「じゃあ俺と真帆の写真撮ろうぜ」
「なんで」
「カップルっぽいやつ」
「絶対嫌」
「即答?」
「百円くれたら考える」
「安いな」
みんなが笑う。空気が戻る。
莉奈も笑った。その横で。
悠斗が小さな声で言った。
「ありがとう」
「え?」
「写真」
周りには聞こえないくらいの声。
「二人のって言ってくれたから」
それだけ。胸が苦しくなる。
嬉しい。でも。
嬉しいほど。隠していることが重くなる。
放課後。莉奈は悠斗と一緒に校門を出た。
二人になり。名前で呼ぶ。
「悠斗」
「何?」
「今日、どっか寄る?」
「いいよ」
「どこ?」
「莉奈が決めて」
「また私?」
「昨日呼んだのも莉奈」
「それはそうだけど」
普通の会話。いつもの二人。
駅へ向かう途中、自然に手をつなぐ。莉奈はその手を見る。
今日。言うなら。
今かもしれない。でも。
口が動かない。
「莉奈」
「何?」
「今日、なんか変じゃない?」
やっぱり気づかれた。
「そう?」
「朝から」
「寝不足」
「それだけ?」
「……たぶん」
自分まで『たぶん』を使っている。悠斗が少し笑う。
「うつった?」
「何が?」
「たぶん」
「悠斗がよく言うから」
「俺そんな言う?」
「言う」
しばらく歩く。手はつないだまま。
信号待ち。横を見る。
悠斗。好きな人。
今言えば。全部壊れるかもしれない。
感情でも。言わなければ。
もっと壊れる。
「悠斗」
「何?」
莉奈は口を開く。
「私さ」
「うん」
ここまで。出た。
でも。その先が。
出ない。悠斗は急かさず待っている。
「……もし」
やっと続ける。
「もし?」
「もし、私が悠斗に言ってないことあったらどうする?」
悠斗の表情が少し変わった。心臓が痛いほど鳴る。
「内容による」
凛と同じ答え。
「嫌なことかもしれない」
「俺にとって?」
「……うん」
悠斗は少し考えた。
「言いたい?」
「分からない」
「じゃあ、言えるときでいいんじゃない?」
優しい。やっぱり。
優しい。だから余計に苦しい。
「怒らないの?」
「まだ何も聞いてないのに?」
「聞いたら怒るかも」
悠斗は少し黙った。それから。
「怒るかもしれない」
莉奈の手が少し強くなる。
「でも」
悠斗も握り返す。
「聞かないと分からない」
その言葉。逃げ道がない。
でも。正しい。
「……そっか」
「何かあるの?」
聞かれる。今。
言える。最初の告白は嘘だった。
全部知っていた。一か月の罰ゲームだった。
言えばいい。
「……ある」
初めて。そこまで認めた。
悠斗の表情が少し真剣になる。
「そっか」
「聞かないの?」
「莉奈が話したいなら聞く」
「今じゃなくても?」
「うん」
優しすぎる。本当は。
今言うべきだ。でも。
莉奈は怖かった。
「もう少しだけ」
言う。
「待って」
悠斗は数秒黙った。それから。
「分かった」
それだけ。責めない。
疑わない。問い詰めない。
胸が痛い。
「ごめん」
「何で謝るの?」
「……まだ言えないから」
「じゃあ言えるようになったら」
普通に返される。莉奈は前を向いた。
泣きそうになる。でも。
泣く資格なんてない。自分がやったことだ。
「悠斗」
「何?」
「ありがとう」
「まだ何もしてないけど」
「それでも」
駅まで。二人は手をつないだまま歩いた。
いつもより少し会話は少なかった。でも。
悠斗は手を離さなかった。改札前。
いつもの場所。手を離す。
「また明日」
悠斗が言う。
「うん」
莉奈も答える。少し歩く。
振り返る。悠斗はまだいた。
「悠斗」
「何?」
本当のことは。まだ言えない。
でも。これは言える。
「好きな人に、嘘つくのって最低だよね」
悠斗の表情が止まった。言ってしまった。
莉奈はすぐ後悔した。
「ごめん。今の忘れて」
「莉奈」
「また明日」
逃げるように改札へ入る。呼び止められなかった。
ホームまで歩いて。ようやく息を吐く。
心臓が苦しい。ほとんど。
言っているようなものだ。でも。
肝心なところだけ言えていない。スマートフォンを見る。
悠斗からLINEは来ていない。当然だ。
莉奈は自分から送ることもできなかった。一方。
改札前に残された悠斗は。しばらく動けずにいた。
『好きな人に、嘘つくのって最低だよね』
莉奈の言葉。俺は。
意味を知っている。たぶん。
莉奈は嘘告のことを言おうとしている。そして。
もう一つ。好きな人。
その言葉。誰のことだ。
普通に考えれば。かなり答えは近い。
でも。俺はそこで。
自分に都合のいい答えを選ぶのが怖かった。莉奈が俺を好き。
そう思って。もし違ったら。
かなり痛い。
「……他人なら分かるのにな」
一人で呟く。拓真に何度も言われた。
他人なら分かる。自分のことだけ分からない。
本当にその通りだった。ただ。
一つだけ。はっきりしたことがある。
莉奈は。嘘告のことを気にしている。
そして。俺も。
もう一つの嘘を抱えている。最初から全部知っていたこと。
仕返しするつもりで付き合ったこと。俺だけが被害者ではない。
今の莉奈に。本当のことを言わせるなら。
そのときは。俺も話さないといけない。
一か月の終わりまで。あと八日。
でも。たぶん。
そこまで待つ必要は。もうなかった。




