第23話 初めての二人の写真
交際二十一日目、日曜日。午後三時過ぎ。
俺と莉奈は駅前を歩いていた。特に目的はない。
莉奈から『会う?』とLINEが来て、その一時間後にはこうして隣にいる。
以前にも同じような休日があった。違うのは。
今日は俺が、自分の気持ちを知っていることだった。莉奈が好き。
午前中、家族に囲まれてようやく認めた。ただそれだけなのに、隣を歩く莉奈が昨日までとは少し違って見える。
「悠斗」
「何?」
「やっぱり今日変」
また言われた。
「何が?」
「さっきから私のこと見すぎ」
自覚はある。
「そんな見てない」
「見てるよ。待ち合わせのときから」
莉奈が少し顔を近づける。
「何かついてる?」
「ついてない」
「髪変?」
「変じゃない」
「服?」
「似合ってる」
普通に答えると、莉奈が止まった。
「……そういうの」
「何?」
「今日、返事早くない?」
言われて気づく。以前なら似合っていると思っても、どう言えばいいのか少し考えていた。
でも今日は、自分が莉奈を好きだと分かっている。好きな子の服が似合っていた。
だから似合っていると言った。それだけだった。
「思ったから」
「何を?」
「似合ってるって」
莉奈が少しだけ目を逸らす。
「……ありがと」
俺たちはまた歩き始めた。手は自然につないでいる。
数日前まで、つなぐかどうかだけで何分も悩んでいたのに、今日は駅前を歩き始めてすぐ俺から握った。莉奈も何も言わず握り返した。
こういうものなのかもしれない。一度普通になったものは、次からどんどん自然になる。
「どこ行く?」
俺が聞く。
「決めてない」
「呼んだ本人が?」
「会ってから考えればいいかなって」
「前も同じこと言ってたよな」
「だって楽しかったじゃん」
その一言で少し嬉しくなる。
「まあ、楽しかった」
「でしょ?」
莉奈が笑う。
「じゃあ今日も適当」
「了解」
しばらく店を見ながら歩いた。服屋、雑貨店、本屋。
何か買うわけでもなく、気になった店へ入っては出る。本屋では莉奈が恋愛漫画の新刊を見つけ、俺の前から隠すように背中へ回した。
「何それ」
「見なくていい」
「漫画だろ?」
「そうだけど」
「なんで隠すの?」
「表紙がちょっと恥ずかしいから」
横から覗こうとすると、莉奈がさらに隠す。
「見ないで」
「そこまで言われると気になる」
「悠斗には関係ない」
「名前で呼びながら隠すなよ」
「それとこれは別」
結局見せてもらえなかった。レジで買ったあとも紙袋の奥へすぐしまっている。
「そんな恥ずかしい本なの?」
「普通の少女漫画!」
「じゃあ何で隠したの」
「表紙がキスしてたから!」
声が少し大きい。近くにいた人がこちらを見る。
莉奈がすぐ黙った。俺も黙る。
キス。その単語だけで妙な空気になった。
莉奈が紙袋を持ち直す。
「……忘れて」
「うん」
「今のなし」
「分かった」
「絶対考えないでね」
それは無理だ。最初に俺が立てた目標を思い出してしまった。
一か月で、その唇を奪う。残り九日。
感情でも今は。最初のころとは意味が違う。
仕返しのためにキスしたいわけではない。好きだから。
そう考えた瞬間、隣にいる莉奈の唇へ一瞬だけ視線が向いた。まずい。
すぐ前を見る。
「悠斗」
「何?」
「今どこ見た?」
鋭すぎる。
「何も」
「絶対何か見た」
「気のせい」
「ほんと?」
「ほんと」
莉奈は少し疑っていたが、やがて前を向いた。危なかった。
自分の気持ちを認めた途端、今までより余計なことまで意識するようになっている。それから十分ほど歩くと、駅前広場へ出た。
広場の一角には季節限定らしい大きな花のオブジェが置かれている。前では家族やカップルが順番に写真を撮っていた。
莉奈がそちらを見る。俺も見る。
少しして。
「悠斗」
「何?」
「あれ」
「うん」
「写真撮らない?」
一瞬、返事が遅れた。
「二人で?」
「他に誰がいるの」
そうだった。前に凛から言われたことを思い出す。
『次は一緒に撮りなよ。普通に思い出になるから』
初デートでは一枚も撮らなかった。あのときは、一か月後に終わるのだから残さない方がいいのかもしれないと思った。
今は。
「撮ろう」
迷わなかった。
「ほんと?」
「うん」
莉奈が少し嬉しそうに笑う。順番を待つ。
俺たちの前には大学生くらいのカップルがいて、男の方がスマートフォンを持ちながら何枚も写真を撮っていた。かなり距離が近い。
というか、ほとんどくっついている。俺は見ないふりをする。
莉奈も前を見ながら小さく言った。
「……あそこまで近くなくていいからね」
「分かってる」
「普通でいいから」
「うん」
「肩くらいなら」
「うん」
そこまで指定されると逆に意識する。前の二人が終わる。
次は俺たち。
「スマホどっち?」
莉奈が聞く。
「莉奈のでいいんじゃない?」
「じゃあ後で送る」
スマートフォンを持った莉奈がオブジェの前へ立つ。俺も隣へ並ぶ。
画面へ二人を収める。距離が微妙に遠い。
「入らない」
莉奈が言う。
「俺が持つ?」
「腕の問題じゃなくて距離」
少し近づく。まだ微妙。
莉奈が俺の袖を引いた。肩が触れる。
顔も近い。一瞬で緊張した。
画面を見ると、確かに二人ともきれいに入っている。
「これくらい?」
俺が聞く。
「……うん」
莉奈の声も少し硬い。
「撮るよ」
「うん」
一枚。確認する。
二人とも表情が固い。
「何これ」
莉奈が笑う。
「莉奈も固いだろ」
「悠斗の方がひどい」
「急に近づくから」
「写真なんだから仕方ないでしょ」
二人で笑っていると、莉奈が言った。
「もう一枚」
「次は普通に?」
「うん」
もう一度スマートフォンを構える。今度は最初から肩が触れている。
「いくよ」
「うん」
直前。莉奈が少し俺の方へ寄った。
反射的に莉奈を見る。その瞬間。
シャッターが切れた。
「ちょっと!」
莉奈が笑う。
「悠斗、カメラ見てないじゃん」
「急に寄るからだろ」
「さっきより自然にしようと思っただけ」
写真を見る。莉奈はカメラを見て笑っている。
俺は莉奈を見ている。失敗写真。
のはずなのに。なぜか消したくないと思った。
莉奈も画面を見ている。
「撮り直す?」
俺が聞く。少し迷って。
「……これも残しとく」
答えた。
「いいの?」
「変だけど」
莉奈は少し笑う。
「なんか悠斗っぽいから」
どういう意味だ。
「ちゃんとしたのも撮ろ」
三枚目。今度は二人ともカメラを見る。
肩をつけたまま。笑う。
シャッター。今度は普通に撮れた。
「これいいじゃん」
莉奈が言う。俺も画面を見る。
二人で並んで笑っている。普通の高校生カップルに見える。
いや。俺たちは今、周りから見れば普通の高校生カップルなのだ。
その事実が、以前よりずっと自然に受け入れられた。
「送るね」
莉奈が操作する。すぐに俺のスマートフォンが震えた。
三枚全部。
「失敗したやつも?」
「いる?」
「いる」
即答していた。莉奈が俺を見る。
「そんな気に入った?」
「一枚目よりいい」
「私見てるだけじゃん」
「だから」
言ってから止まる。何を言おうとした。
莉奈もこちらを見る。
「だから?」
「……自然だから」
無理やり変えた。
「ふーん」
少し疑われている。でも追及はされなかった。
広場を離れ、近くのカフェへ入る。日曜の午後なので少し混んでいたが、奥に二人用の席が空いていた。
飲み物を注文し、向かい合って座る。莉奈はさっきから何度も写真を見ていた。
「そんな見る?」
俺が聞く。
「悠斗も見てたじゃん」
「まあ」
「三枚目結構いいよね」
「うん」
「一枚目は消していいかな」
「いいんじゃない?」
「二枚目は?」
「残すって言っただろ」
「悠斗が私見てるやつ?」
「うん」
莉奈が俺を見る。
「なんで?」
また聞かれた。正直に言えばいいのか。
好きな子を見ている自分が写っているから。そんなこと言えるわけがない。
「面白いから」
「絶対嘘」
「じゃあ何だと思う?」
聞き返す。莉奈が少し黙る。
「知らない」
今度は向こうが逃げた。飲み物が来る。
莉奈はストローを触りながら、もう一度写真を見る。
「私も二枚目好きかも」
「なんで?」
「悠斗が珍しい顔してるから」
「どんな?」
「私見てる顔」
だからそれは何なんだ。
「普通だろ」
「普通じゃない」
莉奈が画面を俺へ向ける。
「ほら」
見る。確かに。
自分でも少し分かる。俺はかなり柔らかい顔で莉奈を見ていた。
こんな顔をするのか。
「悠斗」
「何?」
「今日ほんと変だよ」
また言われた。
「そう?」
「うん」
莉奈は少し真面目な顔になる。
「何かあった?」
午前中。家族会議。
父さんに聞かれた。今、莉奈をどう思っている。
そして俺は答えた。好きだと思う。
いや。今ならもっとはっきり言える。
好きだ。
「……あった」
初めて認めた。莉奈の表情が変わる。
「何?」
「家でちょっと」
「家族?」
「うん」
「私のこと?」
どうして分かる。
「まあ」
莉奈が少し身を乗り出す。
「何話したの?」
ここまで聞かれると困る。本人を前にして『好きだと認めました』なんて言えるはずがない。
「秘密」
莉奈が止まる。
「悠斗まで?」
「最近莉奈も多いだろ」
「私の話なんでしょ?」
「本人だから言えない」
昨日莉奈に言われた言葉を、そのまま返す。莉奈が気づいたらしい。
「それ私が言ったやつ」
「便利だった」
「ずるい」
少しむくれる。
「悪口じゃないから」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ何」
「言わない」
「気になる」
「そのうち」
自然に出た。そのうち。
莉奈が少し黙る。
「そのうち?」
「うん」
いつか言う。好きだと。
そういう意味で言った。もちろん莉奈には分からない。
「……分かった」
莉奈は少し不満そうだったが、それ以上は聞かなかった。店を出たのは午後五時前だった。
外は少しずつ暗くなり始めている。駅まで歩く。
手は自然につないだ。しばらくして莉奈が言う。
「今日さ」
「うん」
「会ってよかった」
俺は横を見る。
「何で?」
「なんとなく」
「また理由ないの?」
「ない」
莉奈が笑う。
「昨日も会ってたのに、今日も会いたくなったから呼んだだけ」
心臓が跳ねた。本人は普通に言っている。
でも。好きだと気づいたあとに、その言葉は強すぎる。
「悠斗?」
「何?」
「また変な顔」
「莉奈が悪い」
「なんで私?」
「今の言い方」
「会いたかったってやつ?」
自分で言い直すな。
「うん」
莉奈が少し黙る。それから、つないだ手を見た。
「……本当だから仕方ないじゃん」
さらに強くなった。俺は前を見る。
「俺も」
「え?」
「会えてよかった」
莉奈がこちらを見る。俺も見る。
「昨日会ったけど」
「それは莉奈もだろ」
「そうだけど」
お互い少し笑う。好き。
もう答えは出ている。今ここで言ってもいいのかもしれない。
でも。俺たちの始まりには、まだ俺しか知らないことがある。
正確には。莉奈は俺が知っていることを知らない。
俺は莉奈の嘘告を最初から知っていた。その上で付き合った。
惚れさせて仕返ししようとした。その事実を隠したまま。
好きだと告白していいのか。そこだけが引っかかった。
駅前へ着く。いつもの改札前。
手を離す。莉奈が少し寂しそうに手を見る。
以前なら気づかなかったかもしれない。今は。
そう見える。
「莉奈」
「何?」
「写真」
「うん」
「ありがとう」
「急に?」
「初めてだったから」
二人で撮った写真。莉奈が少し笑う。
「私も」
「初めて?」
「彼氏と撮ったのはね」
彼氏。俺。
改めて聞くと嬉しい。
「じゃあ大事にしないとな」
何気なく言った。莉奈の笑顔が少し止まる。
「……うん」
その返事だけ。少し弱かった。
理由は分からなかった。
「また明日」
俺が言う。
「うん。また明日」
莉奈は改札へ入っていく。今日は振り返らない。
少しだけ気になった。その夜。
俺はベッドに寝転びながら、今日の写真を見ていた。三枚。
一枚目。二人とも固い。
二枚目。莉奈は笑っていて、俺は莉奈を見ている。
三枚目。二人とも普通に笑っている。
迷って。二枚目をお気に入りに入れた。
なんとなく。一番好きだった。
スマートフォンを置こうとするとLINEが来る。莉奈。
『写真』
その一言のあと。
『消さないでね』
俺は少し笑った。
『消さない』
すぐ既読。
『絶対?』
『絶対』
少し間。
『私も消さない』
俺は写真をもう一度見る。一か月で終わる予定だった関係。
残り九日。でも。
この写真を九日後に消す自分が。どうしても想像できなかった。
同じころ。莉奈もベッドの上で、同じ写真を見ていた。
二枚目。悠斗が自分を見ている。
今日ずっと感じていた。視線。
言葉。手のつなぎ方。
昨日までと少し違う。何かあった。
家族と自分の話をしたと言っていた。感情でも内容は教えてくれなかった。
『本人だから言えない』
その言葉を思い出す。まさか。
一瞬だけ。期待した。
すぐに打ち消す。そんな都合のいいことを考えてはいけない。
悠斗は何も知らない。自分が最初から嘘をついていたことを。
好きになってもらう資格があるかさえ分からない。それなのに。
写真を見る。二人とも笑っている。
普通の恋人みたいに。いや。
この瞬間だけなら。本当に恋人だった。
「……消したくない」
小さく呟く。九日後。
全部終わったとしても。この写真だけは。
消したくない。そう思った瞬間。
莉奈は自分の胸元を押さえた。もう認めない方が無理だった。
悠斗が好き。はっきりと。
初めて。自分の中で、その言葉を口にした。




