第21話 二人だけの呼び方
交際二十日目、土曜日。駅前のカラオケ店に着いたのは、集合時間の十分前だった。
今日のメンバーは俺、莉奈、真帆、由依、蓮、陸の六人。学校以外でこの六人が揃うのは珍しいが、昨日から陸だけは妙に楽しみにしていた。
店の前へ行くと、すでに陸と蓮がいる。
「お、高瀬」
陸が手を上げる。
「早いな」
「家にいても暇だったから」
「俺より悲しい理由」
「うるさい」
蓮も軽く手を上げる。
「おはよ」
「おはよう」
普通に返す。以前なら、蓮がいるだけで少し気になっていた。
でも今日はそこまででもない。莉奈が蓮をそういう意味では好きじゃない。
それを本人から聞いているだけで、かなり違うらしい。
「女子組は?」
俺が聞く。
「まだ」
蓮がスマートフォンを見る。
「莉奈から今駅着いたって」
その名前に一瞬だけ反応する。昨日から俺も、二人きりのときは莉奈と呼ぶようになった。
でも今日は違う。
『学校では真帆に絶対何か言われる』
そう話して、二人のときだけ名前で呼ぶことにした。つまり今は水瀬だ。
分かっている。なのに一度名前で呼び始めたせいか、前より名字が遠く感じる。
「高瀬?」
陸がこちらを見る。
「何?」
「ぼーっとしてる」
「してない」
「最近それ多くね?」
否定しようとしたところで、駅の方から三人が歩いてきた。真帆、由依。
そして莉奈。昨日までなら普通に水瀬が来たと思ったはずなのに、今日は頭の中で先に『莉奈』と出る。
向こうも俺を見つけた。一瞬だけ目が合う。
少し笑った。俺も何となく笑い返す。
「お待たせ」
真帆が言う。
「まだ時間前」
蓮が答える。莉奈が俺の前まで来る。
「おはよ、高瀬」
一瞬だけ間があった。たぶん俺だけではない。
莉奈も少し言いにくそうだった。
「おはよう、水瀬」
返す。お互いの名字が妙に固い。
真帆が俺たちを見る。
「何?」
「何が?」
莉奈がすぐ返す。
「なんか今、二人とも変じゃなかった?」
「普通だけど」
「高瀬は?」
俺まで聞かれる。
「普通」
真帆は少し疑った顔をしたが、それ以上は追及しなかった。危ない。
昨日まで何ともなかった呼び方で、こんなに意識するとは思わなかった。受付を済ませ、六人用の部屋へ入る。
ソファはコの字型。陸が真っ先に奥へ行き、真帆がその反対側に座った。
「高瀬、そこ」
莉奈が自分の隣を指す。自然に言われたので、俺も普通に座った。
その向かいに蓮。隣に由依。
真帆が部屋を見回す。
「飲み物取ってこよ」
「俺コーラ」
陸が即答する。
「自分で行け」
「真帆ついでに」
「嫌」
結局、全員でドリンクバーへ行くことになった。戻ってくると、陸はすぐに端末を持つ。
「一曲目俺な」
真帆が嫌そうな顔をする。
「もう?」
「何が」
「例のバンド?」
「もちろん」
「帰っていい?」
「まだ始まってもないだろ」
陸が昨日から宣言していた曲を入れる。前奏が流れ始めると、陸は立ち上がった。
歌い始める。普通に上手い。
「上手いじゃん」
俺が言うと、真帆が首を振る。
「最初だけだから」
「どういう意味?」
陸が曲の途中で反応する。
「三時間これが続く」
「全部違う曲だから!」
「同じバンドでしょ」
楽しそうだ。一曲目が終わる。
次は真帆。その次が蓮。
由依。莉奈。
自然に順番が回っていく。俺だけまだ入れていない。
「高瀬」
莉奈が横から見る。
「何?」
「入れないの?」
「何歌えばいいか考えてる」
「好きなの入れればいいじゃん」
「あんまり歌わない」
「カラオケ来て?」
「みんな来るっていうから」
莉奈が少し笑う。
「下手?」
「普通だと思う」
「また普通」
「本当に普通」
「じゃあ確認する」
勝手に俺の前へ端末を出してきた。
「何歌える?」
「ちょっと待て」
「これ?」
「高い」
「これは?」
「知らない」
「じゃあこれ」
画面を見る。知っている曲。
「歌えるけど」
「決まり」
莉奈が予約する。
「勝手に」
「歌わないよりいいでしょ」
「そうだけど」
少しして、俺の番になった。マイクを持つ。
歌い始める。自分では普通だと思う。
一番を歌い終えたところで、莉奈がこちらを見ているのに気づいた。楽しそうというより。
少し意外そうな顔。曲が終わる。
「どうだった?」
聞くと、莉奈が言った。
「普通じゃない」
「下手?」
「逆」
「上手い?」
「思ったより」
微妙な褒め方だ。
「もっと音痴かと思ってた」
「なんで」
「高瀬、運動も歌も普通って言うから」
「普通だろ」
「いや、今のは普通より上」
陸が割り込む。
「高瀬、もう一曲行け」
「何で」
「俺と勝負」
「何の勝負だよ」
真帆がすぐ言う。
「陸が負けるだけじゃない?」
「まだ俺一曲しか歌ってないから!」
結局、もう一曲入れられた。今度は自分で選ぶ。
歌っている間。また莉奈が見ている。
終わる。
「何?」
俺が聞くと、莉奈が少し笑う。
「別に」
「ずっと見てただろ」
「聞いてたの」
「同じじゃない?」
「違う」
何が違うのか分からない。感情でも。
悪い気はしない。一時間ほど経ったころ。
陸が端末を見ながら言う。
「デュエット入れようぜ」
嫌な予感がした。真帆もすぐ反応する。
「いいじゃん」
「誰と誰?」
由依が聞く。
「適当」
陸が俺たちを見る。絶対適当ではない。
「高瀬と莉奈とか」
来た。
「なんで俺」
「カップルだから」
理由が雑だ。莉奈が俺を見る。
「歌える?」
「曲による」
「これなら?」
端末に表示された曲を見る。知っている。
有名な男女デュエット曲。
「一応」
「じゃあ歌お」
返事が早い。
「いいの?」
「何で?」
「いや」
断ると思っていたわけではない。でも。
普通に誘われると少し嬉しい。
「入れるね」
莉奈が予約する。真帆が笑う。
「最近、莉奈積極的だよね」
莉奈の指が止まった。
「何が?」
「何でも」
「言って」
「別に」
またその言葉。曲が始まる。
マイクを一本ずつ持つ。最初は俺。
次に莉奈。交互に歌う。
隣に座っているから、いつもより距離が近い。歌いながら莉奈を見ると、向こうもこちらを見る。
目が合う。莉奈が笑う。
俺も少し笑う。歌詞は恋愛の曲だ。
普通なら気にしない。でも今は、一つ一つの言葉が妙に気になる。
俺のパート。莉奈のパート。
そして二人で歌うところ。声が重なる。
何となく恥ずかしい。でも楽しい。
曲が終わる。陸が拍手する。
「おお」
真帆も笑う。
「普通にカップルだった」
「歌っただけだろ」
俺が言う。莉奈も、
「そうだよ」
と続ける。真帆が二人を見る。
「そこだけ息合うよね」
反論できなかった。そのあとも何曲か歌った。
陸の予定通り、本当に同じバンドの曲が何度も続き、途中から真帆が勝手に予約を消そうとして喧嘩になった。由依は思っていたより歌が上手い。
蓮も上手い。莉奈はかなり上手かった。
学校では知らなかった部分が、また一つ増える。二時間を過ぎたころ。
莉奈が席を立つ。
「飲み物取ってくる」
「俺も」
何となく立った。真帆がこちらを見る。
「二人で?」
「俺も空だから」
コップを見せる。
「ふーん」
その顔。
「何」
「別に」
放っておく。部屋を出て、二人でドリンクバーへ向かう。
廊下には誰もいない。莉奈が少し前を歩いている。
「ねえ」
呼ばれる。
「何?」
莉奈が振り返る。一瞬。
周囲を見る。誰もいない。
「悠斗」
名前。それだけで、さっきまでの名字より近くなる。
「何?」
返事をする。莉奈が笑った。
「やっと呼べた」
「我慢してた?」
「ちょっと」
「俺も」
俺も周囲を見る。誰もいない。
「莉奈」
呼ぶ。莉奈が少し嬉しそうな顔をした。
「何?」
「何でもない」
「呼んだだけ?」
「うん」
「意味ないじゃん」
「莉奈もだろ」
「私は呼びたかったから」
「俺も」
言ってから。二人とも少し黙った。
莉奈が前を向く。
「……そういうの急に言うよね」
「何が」
「何でもない」
ドリンクバーに着く。莉奈がミルクティーを入れる。
俺はアイスティー。
「コーラじゃないんだ」
莉奈が聞く。
「映画じゃないから」
「あ」
初デートの会話を思い出したらしい。
「覚えてた?」
「覚えてるよ」
「映画はコーラなんだろ」
「そう」
「今日は?」
「今日はミルクティー」
「知ってる」
「何で?」
「この前買っただろ」
ボウリングで負けたとき。莉奈が少し笑う。
「そういうの覚えてるよね」
「普通じゃない?」
「高瀬……じゃなくて」
言い直す。
「悠斗にとってはね」
また名前。何度聞いても少し効く。
飲み物を持って部屋へ戻る。ドアを開ける直前。
莉奈が小声で言った。
「ここから高瀬ね」
「分かった」
「間違えないでよ」
「莉奈こそ」
「大丈夫」
そう言った五分後。事件は起きた。
陸がまた曲を入れている。真帆が、
「また?」
と叫んでいる。俺はソファで端末を見ていた。
次に何を歌うか探していると、莉奈が横から画面を覗き込む。距離が近い。
「これ歌って」
「知らない」
「絶対知ってるって」
「サビだけ」
「じゃあ私も入るから」
「またデュエット?」
「これは普通に二人で歌えば――」
そのとき。俺が別の曲を押しかけた。
莉奈が反射的に言う。
「悠斗、それ違う」
部屋が静かになった。本当に。
一瞬で。陸の曲の前奏だけが流れている。
莉奈の顔が固まる。俺も固まる。
真帆がゆっくりこちらを見る。由依も。
蓮も。陸ですらマイクを持ったまま止まっている。
「……今」
真帆が言う。莉奈が即答する。
「違う」
何が違う。
「今、悠斗って言った?」
「言ってない」
「言ったよ」
陸まで参加する。
「俺も聞いた」
「歌って!」
「まだ前奏」
逃げられない。真帆が笑い始める。
「いつから?」
莉奈が俺を見る。助けを求めている。
俺も何と答えればいいか分からない。
「昨日」
正直に答えた。
「高瀬!」
「嘘ついても聞かれてただろ」
「そうだけど!」
真帆の目が輝く。
「昨日から名前呼び?」
「二人のときだけ」
俺が答える。さらに莉奈が固まった。
「そこまで言う!?」
「もう同じだろ」
「全然違う!」
由依が笑っている。
「だから今日、朝ちょっと変だったんだ」
ばれていた。陸も笑う。
「何それ。二人だけのときは悠斗と莉奈なの?」
言葉にされると恥ずかしい。
「まあ」
答える。
「高瀬!」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
真帆が莉奈を見る。
「莉奈」
「何」
「顔真っ赤」
「うるさい!」
蓮は笑っていた。でも。
少しだけ。その笑い方が違った。
俺には分かった。たぶん。
名前で呼ぶこと自体が問題ではない。蓮は昔から莉奈と呼んでいる。
でも。俺と莉奈が二人だけの呼び方として始めた。
そこが気になったのだと思う。少し前の俺なら、その表情を見て焦ったかもしれない。
今日は違う。申し訳ないとは少し思う。
でも。莉奈を名前で呼ぶことをやめたいとは思わなかった。
「じゃあ」
真帆が楽しそうに言う。
「ここでも名前で呼べばいいじゃん」
「嫌」
莉奈が即答する。
「なんで?」
「二人のときだけって決めたから」
その言葉。俺の胸に少し残る。
真帆も一瞬止まった。それから笑う。
「はいはい。特別なんだ」
「そういう意味じゃ」
莉奈が反論しかける。俺は横から言った。
「別にいいんじゃない?」
莉奈が俺を見る。
「何が?」
「特別で」
今度こそ。完全に黙った。
真帆が両手で顔を覆う。
「高瀬、最近急に強くなってない?」
「何が」
陸が笑う。
「莉奈が負けてる」
「負けてない!」
そんな騒ぎの中。俺は少しだけ嬉しかった。
二人だけの呼び方。最初は真帆にからかわれたくないから、というだけだった。
でも今は。本当に二人だけのものにしておきたい。
そう思っている。三時間のカラオケが終わった。
店を出ると、夕方になっていた。
「疲れた」
真帆が伸びをする。陸が不満そうに言う。
「まだ歌えた」
「陸だけ延長してきなよ」
「一人は嫌」
「知らない」
駅へ向かう。今日は全員同じ方向なので、しばらく六人で歩く。
俺と莉奈は少し後ろ。手はつながない。
みんながいるから。でも。
歩いていると、時々手が触れる。昨日までなら、そのたびに少し離れていた。
今日は離れない。触れてもそのまま歩く。
数分後、蓮と陸が別の路線へ向かうため、途中で別れた。
「じゃあ月曜」
陸が手を上げる。
「またな」
俺も返す。蓮も、
「じゃあな」
と言う。莉奈を見る。
「莉奈、また月曜」
「うん。またね」
普通の会話。もう。
蓮が名前で呼んでも、昨日ほど気にならなかった。なぜなら。
俺には別の呼び方がある。そのことを考えている自分が、少し子どもっぽいと思う。
真帆と由依も駅で別方向へ行く。別れ際。
真帆が莉奈へ言った。
「じゃあ二人になったから、名前に戻していいよ」
「余計なこと言わないで!」
真帆と由依が笑いながら去っていく。二人だけになる。
数秒。沈黙。
「……最悪」
莉奈が言う。
「何が?」
「ばれた」
「別によくない?」
「絶対月曜いじられる」
「それはそう」
「悠斗のせいでもあるからね」
名前に戻った。俺は少し笑う。
「最初に言ったの莉奈だろ」
「事故」
「俺は普通に答えただけ」
「全部説明する必要なかったでしょ」
「隠すほどでもないし」
莉奈が少しだけこちらを見る。
「隠したかったの」
「なんで?」
少し間が空く。
「二人だけだったから」
小さな声。俺は黙った。
莉奈も、言ってから恥ずかしくなったらしい。
「……何か言って」
「俺も」
「何が?」
「二人だけの方がいい」
莉奈がこちらを見る。今度は俺が少し恥ずかしい。
でも。本当だから仕方ない。
「だから学校では水瀬でいい」
「うん」
「二人のときだけ莉奈」
「……うん」
少し笑う。
「何?」
「同じこと考えてた」
そう言われると。妙に嬉しい。
駅までの道。俺は周囲を見る。
知り合いはいない。だから普通に莉奈の手を握った。
今日は迷わない。莉奈もすぐ握り返す。
「今日は何点?」
俺が聞く。
「何の?」
「昨日八十五だっただろ」
莉奈が少し考える。
「九十」
「上がった」
「名前の件で加点」
「ばれたのに?」
「ばれたけど」
莉奈が俺の手を少し握る。
「悠斗が二人だけでいいって言ったから」
また。そういう言い方をする。
「あと十点は?」
聞く。莉奈の足が一瞬遅くなった。
「……秘密」
「また?」
「それは本当に教えない」
「何すれば百点?」
「自分で考えて」
難しい。でも。
何となく。以前より答えが近くにある気がした。
手をつなぐ。名前で呼ぶ。
二人で会う。一緒にいることが普通になっていく。
百点が何なのか。まだ分からない。
でも。最初に俺が考えていた答え。
キス。それが頭に浮かんだ瞬間。
隣の莉奈を意識する。すぐに消す。
まだ無理だ。手をつなぐだけで、ようやく普通になってきたところだ。
「悠斗」
「何?」
「今なんか変なこと考えた?」
鋭い。
「考えてない」
「ほんと?」
「ほんと」
これは言えない。莉奈が少し疑いながらも、それ以上は聞かなかった。
駅に着くまで手をつないで歩く。昨日より自然だった。
改札前で離れると、莉奈が俺を見る。
「今日楽しかった」
「俺も」
「歌、上手かったし」
「普通」
「まだ言う」
「莉奈の方が上手い」
「ほんと?」
「うん」
莉奈が嬉しそうに笑う。
「じゃあまた行こ」
「二人で?」
何気なく聞いた。莉奈が一瞬止まる。
「……行く?」
「俺はいいけど」
「じゃあ行こうよ」
また予定が増えた。一か月後のことを考えずに。
普通に。次の約束をしている。
「いつ?」
俺が聞くと、莉奈が笑う。
「まだ決めなくていいでしょ」
「じゃあそのうち」
「うん。そのうち」
その言葉が。一か月より先まで続いているように聞こえた。
莉奈が改札へ向かう。
「また月曜」
「うん」
数歩進む。振り返る。
もう恒例になっている。
「悠斗」
「何?」
周りには知らない人しかいない。だから。
「またね」
「またな、莉奈」
莉奈は笑って改札の向こうへ行った。俺はその背中を見送る。
好きかどうか。数日前まで。
まだ分からないと言っていた。でも今日。
蓮が莉奈と呼ぶことより。俺だけが特別な呼び方を持っていることが嬉しかった。
二人だけという言葉に、嬉しくなった。次に二人でカラオケへ行く約束までした。
そして。その約束が一か月後でも構わないと。
普通に思っていた。もう。
答えを分からないふりする方が。難しくなってきていた。




