第19話 秘密が増えていく
交際十八日目、木曜日。朝の待ち合わせ場所へ行くと、莉奈はいつも通り先に来ていた。
昨日までなら顔を見て、そのまま並んで学校へ向かっていた。でも今日は、挨拶をしたあと一瞬だけお互いの右手を見る。
「おはよう」
「おはよ」
何も言わない。昨日は俺から手をつないだ。
駅までそのまま歩いて、別れたあとには七十五点と採点された。
『次頑張って』
そんなことまで言われた。だから今日はどうするのか。
朝からつなぐのか。学校が近いからやめるのか。
考えているうちに、莉奈が歩き始めた。
「行こ」
「うん」
結局、手はつながなかった。それでも昨日までとは少し違う。
歩いていると腕同士の距離が近く、たまに手が触れそうになる。そのたびに少し意識する。
莉奈も同じなのか、一度だけこちらを見た。
「何?」
「高瀬こそ」
「俺何も言ってないけど」
「顔が何か言ってる」
最近、家族にも莉奈にも同じことを言われる。
「今日も採点あるの?」
俺が聞く。
「何の?」
「手」
莉奈が少しだけ笑った。
「今日はまだ何もしてないじゃん」
「だから聞いた」
「採点してほしいの?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ自分で考えて」
また難易度が上がった。手も、嫌ではないらしい。
それだけは分かる。学校へ着く少し前、莉奈のスマートフォンが震えた。
画面を見た莉奈が小さく笑う。
「誰?」
何気なく聞く。
「凛ちゃん」
まただ。
「朝から?」
「昨日の夜の続き」
「何話してんの」
「秘密」
「最近そればっかりだな」
莉奈は楽しそうにスマートフォンをしまった。
「女同士には色々あるの」
「俺の妹なんだけど」
「今は私の友達でもあるから」
さらっと言われる。俺は少しだけ驚いた。
友達。二人が初めて会ったのは、まだ一週間も前ではない。
それなのに莉奈にとって、凛はもう『彼氏の妹』だけではないらしい。
「凛もそう思ってる?」
「聞いてみれば?」
「俺が聞いたら絶対否定する」
「それは高瀬だからじゃない?」
たぶんそうだ。教室へ入ると、真帆と由依がすでに来ていた。
莉奈が席へ向かう。俺も自分の席へ行こうとしたところで、真帆に呼ばれた。
「高瀬」
「何?」
「今日普通だね」
「昨日も普通だったけど」
「昨日は二人とも変だった」
まだ言っている。
「何もなかったって言っただろ」
「そうなんだよねえ」
真帆は納得していない。俺はそれ以上相手にせず、自分の席へ向かった。
莉奈の方を見ると、今度は由依と何か話している。その横から真帆も加わる。
三人だけの会話。俺には関係ない。
そう思ったが、真帆が一瞬こちらを見て笑った。嫌な予感しかしなかった。
一時間目と二時間目の間の休み時間。莉奈は真帆と由依に連れられて廊下へ出ていた。
俺は席で拓真と話していた。
「今日さ」
拓真が言う。
「何?」
「お前んち行っていい?」
「また?」
「凛ちゃんに用がある」
「帰れ」
「まだ行ってない」
「じゃあ来るな」
拓真は机に肘をつく。
「冷たくない?」
「凛本人に断られてるだろ」
「それとこれとは別」
「どう別なんだよ」
こいつの思考は時々分からない。
「昨日LINEしたんだけどさ」
「凛と?」
「既読だけついた」
「よかったな」
「返信ないんだけど」
「答え出てるじゃん」
「まだ分からないだろ」
「何が」
「文章考えてるかもしれない」
一晩かけて?俺は黙って拓真を見る。
「その顔やめろ」
「何も言ってない」
「言ってる」
俺も最近、顔で色々言うようになったらしい。拓真はスマートフォンを取り出す。
「見て。昨日送ったやつ」
「嫌だよ」
「いいから」
勝手に画面を見せてくる。
『凛ちゃん、今度の日曜映画どう?』
その下。既読。
それだけ。
「完璧に終わってるじゃん」
「まだだ」
「何でそんな前向きなの」
「好きだから」
あまりにも即答だった。俺は少し黙る。
拓真は本当に凛が好きなのだ。相手にされなくても。
何度断られても。理由を考えるより先に、好きだと言える。
「何?」
拓真が俺を見る。
「いや」
「また水瀬のこと考えた?」
「何でそうなる」
「今の顔」
こいつまで言う。
「別に」
「お前さ」
拓真が少し笑う。
「最近、水瀬のことで考え込む時間増えたよな」
「そう?」
「増えた」
自覚はある。否定しなかった。
「好きかどうか、まだ分かんない?」
昨日も聞かれた話だ。
「前よりは」
「前よりは?」
「かなり近いとは思う」
自分で言って、少し変な感じがした。好きという答えに近い。
そんな言い方をしている時点で、ほとんど答えは出ているのかもしれない。拓真が笑う。
「面倒くせえ男」
「うるさい」
「俺なら凛ちゃん好きって即答できるぞ」
「相手にされてないけどな」
「そこは今関係ない」
「一番大事だろ」
話していると、莉奈たちが教室へ戻ってきた。真帆は満足そう。
由依は少し困ったように笑っている。莉奈だけが顔を赤くしていた。
「何かあった?」
俺が聞く。
「何もない!」
強い。絶対何かある。
でも聞かない方がよさそうだ。昼休み。
いつもの六人で机を寄せた。真帆はまだ妙に楽しそうで、莉奈はできるだけ目を合わせないようにしている。
「莉奈」
陸が聞く。
「何?」
「朝から何か機嫌悪くね?」
「悪くない」
「真帆と喧嘩した?」
「してない」
真帆が笑う。
「むしろ仲良くなった」
「余計なこと言わないで」
ますます分からない。蓮も少し不思議そうにしている。
「何の話?」
「女子だけの話」
由依が静かに答えた。それで男三人は追及できなくなった。
昼食を食べながら別の話に変わる。週末のカラオケ。
陸がまた同じバンドの曲を入れると言い張り、真帆が拒否している。俺はその会話を聞きながら、隣の莉奈を見る。
「水瀬」
「何?」
「今日変じゃない?」
「高瀬まで言うの?」
「朝から」
莉奈が少しだけ俺を見る。
「高瀬のせいだから」
「俺?」
何もしていない。
「何した?」
「知らない」
「俺が原因なのに?」
「そう」
理不尽だ。真帆が笑いを堪えている。
由依まで少し笑っている。絶対何か知っている。
「真帆」
「何?」
「何の話?」
「言っていいの?」
そう聞かれた瞬間、莉奈が真帆の腕をつかんだ。
「駄目!」
大きな声。周りがこちらを見る。
「分かったから」
真帆が笑う。莉奈は手を離し、俺を睨んだ。
「聞かないで」
「俺何も悪くないだろ」
「悪くないけど」
「じゃあ何」
「恥ずかしいの」
そこまで言ってから、莉奈が止まった。真帆の笑顔がさらに大きくなる。
莉奈は顔を伏せた。俺もそれ以上聞けなくなった。
放課後。今日は莉奈が真帆と由依と一緒に帰ることになった。
「ごめんね」
莉奈が言う。
「何が?」
「今日は一緒に帰れないから」
「別に謝らなくていいだろ」
「でも最近ずっと一緒だったし」
その言葉が少し嬉しい。最近ずっと一緒だった。
俺だけがそう感じていたわけではないらしい。
「じゃあまた明日」
「うん」
莉奈は少し迷ってから続けた。
「明日は一緒に帰ろ」
「分かった」
「約束ね」
「うん」
それだけで、明日の予定が一つできた。俺は拓真と一緒に学校を出た。
「で」
拓真が言う。
「今日うち来るの?」
「行く」
「本人に連絡した?」
「した」
「返事は?」
「既読」
何も進んでいない。高瀬家へ着く。
「ただいま」
「お邪魔します」
リビングへ入ると、彩花姉がソファで雑誌を読んでいた。俺たちを見る。
「拓真?」
「こんにちは」
「凛ならまだ帰ってないよ」
今日も一発で目的を見抜かれた。拓真が少し傷ついた顔をする。
「俺、そんな分かりやすいですか?」
「かなり」
「悠斗より?」
「恋愛に関しては拓真の方が百倍分かりやすい」
それはそうかもしれない。俺たちは冷蔵庫から飲み物を出し、リビングでゲームを始めた。
二十分ほどして玄関が開く。
「ただいま」
凛。拓真がすぐ反応する。
俺はゲームから目を離さない。数秒後、リビングのドアが開いた。
「ただい――」
凛が拓真を見る。
「……またいる」
「おかえり、凛ちゃん」
「昨日LINE返さなかったですよね」
「だから直接聞こうかなって」
強い。凛は鞄を置く。
「日曜は行きません」
「まだ映画って言ってないけど」
「昨日LINEで言ってました」
「じゃあ見てくれてたんだ」
「既読つけましたから」
「嬉しい」
「怖いです」
俺は笑った。拓真がこちらを見る。
「笑うな」
「無理」
凛は冷蔵庫へ向かう。拓真が諦めずについていく。
「じゃあ映画じゃなくてご飯」
「行きません」
「買い物」
「行きません」
「散歩」
「犬いないですよ」
「俺がいる」
「もっと嫌です」
彩花姉が雑誌で顔を隠して笑っている。
「凛ちゃん」
拓真が言う。
「一回くらいチャンスくれてもよくない?」
凛は飲み物を取り出しながら少し考えた。拓真の顔が明るくなる。
「嫌です」
「考えた意味は?」
「ちゃんと断ろうと思って」
俺は耐えられなくなって笑った。
「悠斗!」
「ごめん、無理」
凛が俺の隣へ座る。
「お兄ちゃん」
「何?」
「莉奈さん、今日変じゃなかった?」
今度は俺が止まる。
「なんで知ってる?」
「LINE」
またか。
「何て?」
「秘密」
今日何回目だ。
「みんな俺の知らないところで何話してんの?」
彩花姉が雑誌を閉じる。
「彼女と妹が仲いいんだからいいじゃん」
「それはいいけど」
「悠斗が知らなくていい話もあるでしょ」
「俺の話してる?」
凛と彩花姉が同時に黙った。している。
「してるだろ」
「少し」
凛が認める。
「何を」
「言わない」
「何で」
「女子会だから」
「LINEでも女子会って言うの?」
「言う」
知らなかった。拓真が横から言う。
「俺も入れて」
凛が即答する。
「絶対嫌です」
「俺、女子の話聞くの得意だよ」
「それ以上近づいたらブロックします」
拓真が黙った。初めて効いた。
彩花姉が笑う。
「凛、それは強い」
「これくらい言わないと分からないから」
「分かりました」
拓真が素直にソファへ戻る。俺は少しだけ可哀想になった。
少しだけ。夕食前。
俺が自分の部屋へ戻ろうとすると、凛に呼び止められた。
「お兄ちゃん」
「何?」
「莉奈さんのこと、大事にしてる?」
急だった。
「何で?」
「いいから」
少し考える。最近のことが浮かぶ。
朝一緒に学校へ行く。帰りも一緒。
休日に呼ばれれば会いに行く。家族とも仲良くなった。
そして昨日、一昨日は手をつないだ。
「大事にはしてると思う」
「思う?」
「してる」
言い直す。凛は俺の顔を見る。
「ならいい」
「何なんだよ」
「別に」
またそれだ。
「水瀬、何か言ってた?」
「言ってない」
「じゃあ何で聞くの」
凛は少し迷った。
「莉奈さん、たぶん色々考えてるから」
それだけ言った。
「何を?」
「それは本人から聞けば?」
「教えてくれないだろ」
「じゃあ待てばいいじゃん」
美咲姉みたいなことを言う。
「お兄ちゃん、人の気持ち読むの得意なんでしょ?」
「他人なら」
「莉奈さんは?」
答えられない。凛が小さく笑った。
「やっぱりね」
「何が」
「お兄ちゃん、莉奈さんのことだけ全然分かってない」
また言われた。そのころ。
駅前のカフェでは、莉奈が真帆と由依の向かいに座っていた。放課後、二人に半ば強引に連れてこられた。
理由は分かっている。朝からずっと追及されていたことだ。
「で」
真帆が言う。
「もう逃げないでね」
「何から」
「昨日」
莉奈はストローで飲み物を混ぜる。
「何もないって」
「じゃあ聞き方変える」
真帆が少し身を乗り出す。
「高瀬と手つないだ?」
莉奈の手が止まった。由依が小さくため息をつく。
「真帆、直球すぎ」
「回りくどく聞いても莉奈逃げるし」
莉奈は二人を見た。
「……なんで分かったの?」
真帆がテーブルを軽く叩く。
「やっぱり!」
「声大きい!」
「いつ?」
「昨日じゃない」
真帆が止まる。
「昨日じゃない?」
莉奈は視線を逸らした。
「一昨日も」
数秒。真帆も由依も黙った。
「二日連続?」
「……うん」
真帆が椅子にもたれる。
「莉奈」
「何」
「それもう完全に普通の彼女じゃん」
言われると思っていた。だから言いたくなかった。
由依が静かに聞いた。
「どっちから?」
「最初は私」
真帆が目を丸くする。
「莉奈から?」
「人多かったから」
「二回目は?」
莉奈は答えにくい。でも二人は待っている。
「……高瀬」
真帆が顔を覆った。
「何その順調なカップル」
「だから違うって」
言ってから。自分でも、その言葉に違和感があった。
何が違うのだろう。二人で会う。
毎朝一緒に学校へ行く。毎日のように一緒に帰る。
家へ行った。姉妹とも仲良くなった。
休日にも会いたくなる。そして手までつないだ。
真帆が静かに聞く。
「莉奈、本当にまだ罰ゲームだと思ってる?」
笑っていなかった。莉奈は答えない。
由依も言う。
「最初に決めたことと、今莉奈がしてること、もう別じゃない?」
「……分かってる」
小さく答えた。
「分かってはいるけど」
その先が出ない。真帆も急かさなかった。
少しして、莉奈は両手でグラスを持つ。
「高瀬、何も知らないんだよ」
二人は何も言わない。
「私が最初に何で告白したか知らない。なのに普通に彼女だと思ってて、家族にもそう言ってて……美咲さんも彩花さんも凛ちゃんも、普通に私のこと受け入れてくれて」
声が少し小さくなる。
「お母さんも。また来てねって言ってくれて」
由依が聞く。
「だから言えない?」
「……うん」
「それだけ?」
莉奈は止まった。それだけではない。
本当は分かっている。言ったら終わるかもしれない。
高瀬に嫌われるかもしれない。家族にも嫌われるかもしれない。
でも一番怖いのは。高瀬の隣にいられなくなること。
「莉奈」
真帆が静かに言う。
「最近、高瀬の話ばっかりだよ」
「そんなことない」
反射で否定する。
「ある」
「ないって」
「今日だって、学校来て最初に話したの高瀬のこと」
由依も頷く。
「昨日も」
「一昨日も」
二人に言われる。莉奈は何も返せない。
真帆が続ける。
「高瀬が女子に見られたら嫌で、デートしたら楽しくて、家族と仲良くなって、休みの日に自分から呼んで、蓮のこと気にしてる高瀬見て嬉しくなって、今は手までつないでる」
一つずつ並べられると逃げ道がない。
「それでもまだ、高瀬に何も思ってないって言う?」
莉奈はグラスを見る。答えられない。
由依が静かに言った。
「好きって認めるのが怖い?」
胸が大きく鳴った。
「……違う」
声が弱い。真帆も由依も何も言わない。
莉奈はしばらく黙っていた。そして。
小さく息を吐いた。
「好きになったら」
初めて口にする。
「もっと最低じゃん」
真帆の表情が変わった。
「最初は騙すつもりだったのに。高瀬が本気になったところで笑って終わらせるつもりだったのに」
そこまで言うと、胸が苦しくなる。
「それで途中から私本気になったから、やっぱり付き合ってくださいって……そんなの都合よすぎるでしょ」
由依がすぐには答えなかった。少しして言う。
「都合がいいかどうかを決めるのは、高瀬くんじゃない?」
莉奈が顔を上げる。
「莉奈が勝手に答えまで決めることじゃないと思う」
真帆も頷いた。
「最初のことは謝るしかないよ。それで高瀬が怒るなら、ちゃんと怒られないと」
「……うん」
「でも」
真帆は少しだけ笑う。
「好きになったことまで悪いことにしなくていいんじゃない?」
莉奈は答えなかった。まだ。
好きだとは言えない。でも。
嫌いではない。友達とも違う。
罰ゲームの相手なんて、とっくに違う。そして今日。
高瀬と一緒に帰れないことを、少し残念だと思った。明日は一緒に帰ろうと、自分から約束した。
それが何なのか。もう分からないふりをする方が難しくなっていた。
その夜。莉奈はベッドの上でスマートフォンを見る。
凛とのトーク画面。
『今日、お兄ちゃんと帰ってないんですね』
『真帆と由依と寄り道してた』
『珍しい』
少し迷ってから送る。
『凛ちゃん』
すぐ既読。
『はい』
指が止まる。書いては消す。
また書く。
『もし』
消す。もう一度。
『もし私悠斗に何か隠してたら、凛ちゃん怒る?』
送った瞬間。後悔した。
重い。消したい。
でも既読がついた。返信は少し遅かった。
『内容によります』
凛らしい。続けて、
『でも、お兄ちゃんを傷つけることなら怒ります』
胸が痛む。当然だ。
さらに一件。
『莉奈さんのことも好きなので、莉奈さんが一人で悩んでるならそれも嫌です』
莉奈は画面を見たまま動けなくなった。凛は何も知らない。
それでも。自分を好きだと言ってくれる。
『ありがとう』
それだけ送る。しばらくして、悠斗からもLINEが来た。
『明日朝8時?』
いつもの確認。莉奈は少し笑う。
『うん』
送る。少し迷って。
もう一件。
『帰りも一緒ね』
すぐ既読。
『約束したからな』
その返事を見た瞬間。胸が温かくなる。
嬉しい。明日会える。
一緒に帰れる。また手をつなげるかもしれない。
そんなことを考えている。莉奈はスマートフォンを胸元へ置いた。
「……もう無理じゃん」
小さく呟く。好きだと認めたら。
もう罰ゲームではいられない。でも。
認めないまま続けることも。もうできそうになかった。




