第18話 昨日の手が気になる
交際十七日目、水曜日。朝、いつもの待ち合わせ場所が見えたところで、俺は少しだけ歩く速度を落とした。
莉奈はすでに来ている。昨日と同じ制服、いつもの鞄、いつもの髪型なのに、今日は最初に顔ではなく手を見てしまった。
昨日、駅までずっとつないでいた右手。意識した瞬間、自分でも馬鹿みたいだと思う。
「おはよう」
「おはよ」
莉奈も少しだけぎこちない。そのまま並んで歩き始めたが、普段ならすぐ始まるはずの会話がなかなか出てこなかった。
お互い前を向き、歩く速度だけは妙にきれいにそろっている。
「……高瀬」
「何?」
「今日、静かじゃない?」
昨日も同じことを言われた気がする。
「水瀬もだろ」
「私は普通」
「俺も普通」
二人とも嘘だと思う。少し歩くと、莉奈の手が視界に入る。
鞄を持っていない方の手が、普通に体の横で揺れていた。昨日の別れ際。
『次は高瀬からね』
あれはどう考えても、手をつなぐ話だ。でも朝からいきなり手をつなぐのは違う気がする。
そもそも昨日だって、人が多かったから莉奈がつないだだけだ。
「高瀬」
「何?」
「さっきから何見てるの?」
ばれた。
「別に」
「私の手見てたでしょ」
「見てない」
「見てた」
莉奈がこちらを見る。
「昨日のこと気にしてる?」
「水瀬は?」
聞き返すと、少し黙った。
「……少し」
正直だ。俺も諦める。
「俺も」
それだけで、少し空気が軽くなった。莉奈は前を向いたまま言う。
「昨日、LINEでも言ったけど」
「うん」
「嫌じゃなかったからね」
「俺も言っただろ」
「分かってる」
また少し沈黙が続く。でも今度は気まずくなかった。
学校が近づいてくると生徒の数が増え、俺たちの周りにも同じ制服が目立ち始めた。昨日なら、この辺りで莉奈が俺の袖をつかんでもおかしくなかった。
今日は何もない。俺も何もしないまま、結局学校まで普通に並んで歩いた。
教室へ入ると、真帆がこちらを見る。そして俺と莉奈の間を見た。
「おはよ」
「おはよ」
莉奈が答える。真帆は数秒黙ったあと、
「何か変」
と言った。莉奈の顔が止まる。
「何が?」
「二人とも」
「普通だけど」
「そう?」
由依もこちらを見る。
「ちょっと意識してる感じはする」
鋭い。
「何を?」
莉奈が聞く。由依は少し考えた。
「お互い」
さらに鋭い。
「してない」
莉奈が即答する。真帆が笑う。
「昨日何もなかったんだよね?」
「何もない」
「ほんとに?」
「ほんと」
俺は自分の席へ向かおうとした。
「高瀬」
真帆に呼ばれる。
「何?」
「昨日、何もなかった?」
ここで俺まで変な反応をすると面倒になる。
「普通に帰っただけ」
嘘ではない。手をつないだだけである。
普通かどうかは知らないが。
「ふーん」
真帆は納得していない。その横で莉奈が俺を見た。
目が合い、何となく二人同時に視線を逸らす。
「やっぱ何かあるじゃん」
真帆の声が聞こえた。失敗した。
午前中は特に何もなかった。ただ、休み時間になるたびに昨日のことを思い出す。
莉奈が友達と話していても、机の上に置かれた手が目に入ると意識してしまう。こんな状態で自分から手をつなげるのか。
無理だと思う。昼休み。
いつもの六人で机を寄せる。昨日とは違い、今日は蓮を見ても妙な感じはしなかった。
莉奈が蓮を恋愛対象として見ていないと分かっただけで、ここまで変わるものらしい。それでも二人が近くで話していると、まったく何も感じないわけではない。
その程度だった。
「そういえば」
陸が弁当を食べながら言う。
「今週末どうする?」
「何が?」
真帆が聞く。
「またどっか行かね?」
「毎週遊ぶ気?」
「高校生なんだから遊べるうち遊ぼうぜ」
雑な理屈だ。莉奈が俺を見る。
「高瀬は?」
「まだ予定ない」
「じゃあ行けるじゃん」
「何するの?」
陸が考える。
「カラオケ」
真帆が即答した。
「陸の歌聞きたくない」
「ひどくね?」
「前回ずっと同じバンド歌ってたじゃん」
「名曲だから」
由依が笑う。
「私はカラオケでもいいよ」
蓮も頷いた。
「俺も」
自然に全員の視線が俺と莉奈へ向く。
「俺はいいよ」
答える。莉奈も、
「私も」
と続けた。
「決まり」
陸が満足そうに言う。俺は何となく莉奈を見る。
目が合う。昨日までなら普通だったはずなのに、今日はそれだけで少し意識する。
莉奈も同じなのか、すぐ弁当へ視線を戻した。真帆が俺たちを交互に見る。
「やっぱ変」
「まだ言ってるの?」
莉奈が少し強く返す。
「何かあったなら言えばいいじゃん」
「何もないって」
「キスした?」
俺と莉奈の箸が同時に止まった。
「してない!」
莉奈の声が少し大きくなる。周りの生徒がこちらを見る。
「真帆!」
「ごめんごめん」
全然悪いと思っていない顔だ。俺は水を飲む。
キス。まだ手をつないだだけで、こんな状態なのに。
一か月でその唇を奪う。最初に決めたあの言葉が、最近は完全に自分へ返ってきている。
蓮が少しだけ笑う。
「でも付き合って半月だろ?」
その言葉で、俺は時間を意識した。十七日目。
もう半分を過ぎている。最初は一か月もあれば十分だと思っていた。
でも今は、残りの日数を考えると少し落ち着かない。莉奈も同じことを考えたのか、一瞬だけ表情が変わった。
ただ、何も言わなかった。放課後。
今日は莉奈が委員会で少し残るらしい。
「先帰ってていいよ」
鞄を持ちながら言われる。
「どれくらい?」
「三十分くらいだと思う」
「待つよ」
莉奈が止まった。
「いいの?」
「特に予定ないし」
「家帰っててもいいのに」
「一緒に帰るんだろ?」
何気なく言ったつもりだった。莉奈は少しだけ笑う。
「……うん」
「じゃあ待ってる」
俺は図書室で時間を潰すことにした。三十分ほどして、スマートフォンが震える。
『終わった』
昇降口へ向かうと、莉奈が待っていた。
「ごめん、待った?」
「全然」
「図書室いたの?」
「うん」
「珍しい」
「失礼だな」
「勉強してた?」
「スマホ見てた」
「やっぱり」
笑われる。二人で学校を出た。
夕方の道は朝より人が多い。莉奈と並んで歩きながら、俺は昨日のことを思い出す。
別れ際に言われた『次は高瀬からね』という言葉が、ずっと頭に残っていた。でも、自分から手を出すタイミングが分からない。
知識としてなら、歩き始めでも、人混みでも、信号待ちでも、いくらでも理由は作れる。問題は、俺自身が緊張することだ。
「高瀬」
「何?」
「また手見てる」
二回目。
「見てない」
「今日はもう無理あるよ」
莉奈が笑う。俺も諦めた。
「昨日言っただろ」
「何を?」
「次は高瀬からって」
自分で言ったくせに、莉奈の声が少し小さくなる。
「覚えてる」
「じゃあ何で何もしないの?」
「簡単に言うなよ」
「何が難しいの?」
「水瀬は昨日自分からできたじゃん」
「人多かったから」
「じゃあ今は理由ないだろ」
莉奈が黙る。少しして、
「理由いる?」
と聞いた。俺の方が黙った。
手をつなぐ理由。人が多いから。
離れないため。彼女だから。
色々考えていた。でも、付き合っているなら。
つなぎたいから、でいいのかもしれない。
「……いらないか」
「たぶん」
二人とも前を見る。少し歩いたところで、俺は一度手を動かしかけてやめた。
莉奈が横から見る。
「今やめたでしょ」
「うるさい」
「何でやめるの」
「タイミングが」
「今でいいじゃん」
「水瀬が言うと意味なくない?」
「めんどくさい」
その通りだと思う。俺は小さく息を吐き、莉奈の手を握った。
今度は偶然ではない。人混みでもない。
完全に俺からだった。莉奈の指が一瞬だけ動く。
でも離れない。むしろ、すぐに握り返された。
「……できるじゃん」
莉奈が言う。
「うるさい」
「顔赤いよ」
「水瀬もだろ」
「私はいいの」
「何で」
「先にやったことあるから」
昨日一回だけだろ。それでも二回目は昨日より少しだけ楽だった。
緊張はするが、つないでしまえば離したいとは思わない。
「高瀬」
「何?」
「昨日より普通?」
「何が?」
「手」
俺は少し考える。
「昨日よりは」
「私も」
莉奈が答える。そのまま歩く。
会話は普通に戻った。今日の委員会が長かったこと、先生が細かかったこと、週末のカラオケで陸がまた同じ曲を歌うだろうという話。
手をつないだまま普通の話をする。昨日はそれだけで頭がいっぱいだった。
でも今日は少し違う。たぶんこうやって、少しずつ普通になるのだろう。
それが嬉しいような、怖いような。駅前へ着く。
昨日と同じ場所。でも今日は、莉奈から『いつ離す?
』とは聞かなかった。改札の少し手前で自然に手を離す。
莉奈が自分の手を見る。
「今日は早いね」
「改札だろ」
「昨日はもっと粘ったのに」
「誰が」
「二人とも」
それは否定できない。
「じゃあ明日」
俺が言う。
「うん」
莉奈が少し歩き、振り返った。
「高瀬」
「何?」
「今日は合格」
「何の?」
「手」
採点されている。
「何点?」
「七十五」
「低くない?」
「最初一回逃げたから」
見られていた。
「次頑張って」
莉奈は笑って改札へ向かった。俺はその背中を見る。
次。普通に『次』がある。
明日も、その次も。そう思っている自分に気づいた。
一か月後に終わる。最初はそれが前提だった。
でも最近、『次』を考えるとき、一か月の期限を越えた先まで自然に続いている気がする。その夜、高瀬家。
夕食後、リビングでスマートフォンを見ていると、凛が隣へ座った。
「お兄ちゃん」
「何?」
「莉奈さんと何かあった?」
危ない。
「何もないけど」
「最近返信遅い」
「俺に?」
「違う。莉奈さん」
意味が分からない。
「水瀬の返信が遅いと、なんで俺に何かあったことになるんだよ」
「昨日からちょっと変だから」
凛は普通に言う。俺はスマートフォンを見る。
莉奈と凛。俺の知らないところでどれだけ話しているんだ。
「何て言ってるの?」
「秘密」
まただ。そこへ彩花姉が飲み物を持ってきた。
「何の話?」
「お兄ちゃんと莉奈さんが怪しい」
「いつもじゃん」
ひどい。
「何もないって」
俺が言うと、彩花姉がこちらを見る。
「悠斗」
「何?」
「その顔で?」
「どんな顔だよ」
「なんか嬉しそう」
また家族に言われた。そこへ美咲姉までリビングへ入ってくる。
「何が嬉しいの?」
「何でもない」
「莉奈ちゃん?」
彩花姉が聞く。
「違う」
凛が俺を見る。
「絶対そう」
「なんで断定するんだよ」
「じゃあスマホ見せて」
「嫌だよ」
「ほら」
何が『ほら』なのか分からない。美咲姉は少しだけ笑った。
「楽しそうならいいんじゃない?」
その一言で、彩花姉と凛も少し黙る。
「まあね」
彩花姉が言う。凛も頷いた。
「お兄ちゃん、最近前より楽しそうだし」
俺は返事をしなかった。少ししてスマートフォンが震える。
莉奈。
『今日は75点』
またそれだ。
『明日は?』
送る。すぐ既読。
『高瀬次第』
俺は画面を見る。明日も。
その文字を打つことに、もう迷いはなかった。
『じゃあ80目指す』
返信。
『期待してます』
俺は少し笑った。
「ほら」
凛が言う。
「やっぱ莉奈さん」
「見るな」
スマートフォンを伏せる。彩花姉が笑う。
美咲姉も何も言わず、少しだけ笑った。俺はまだ、これが好きなのかどうか、はっきり言葉にはできない。
でも、明日も会いたい。明日も一緒に帰りたい。
そして、また手をつなぎたい。そこまで思っている時点で、答えはもうかなり近いところまで来ている気がした。




