第15話 会う理由なんてなくても
交際十四日目、日曜日。午前九時。
俺はリビングのソファでスマートフォンを見ていた。特に予定はない。
拓真から昼過ぎにゲームでもしようと誘われているが、それ以外は完全に暇だった。昨日は莉奈が彩花姉たちと買い物へ行っていた。
俺抜きで。最初に聞いたときは変な感じがしたが、帰ってきた彩花姉と凛はかなり楽しそうだった。
『莉奈ちゃん、普通に可愛い』
『お兄ちゃんにはもったいない』
『それ何回言うんだよ』
そんな会話を昨夜したばかりだ。スマートフォンが震える。
莉奈。
『起きてる?』
俺は少しだけ姿勢を変えた。
『起きてる』
すぐ既読。
『今日何してる?』
『昼から拓真とゲームするかも』
送ると、少し間が空いた。
『かも?』
『まだ時間決めてない』
また少し間。今度は返信が来ない。
二分、三分。俺は意味もなくトーク画面を閉じて、また開いた。
ちょうどその瞬間。
『じゃあ午前中暇?』
『暇』
即答していた。送ってから少し考える。
何の話だ。莉奈から次のメッセージ。
『駅前来れる?』
俺は画面を見る。今日。
今から。昨日会っていないだけだし、学校では毎日会っている。
それなのに。
『行けるけど』
『じゃあ11時』
『何する?』
既読。少しして、
『決めてない』
と返ってきた。
「……決めてない?」
思わず口に出す。そこへキッチンから母さんが顔を出した。
「何が?」
「何でもない」
「莉奈ちゃん?」
なぜ分かる。
「なんで?」
「顔」
最近、家族全員がそれを言う。俺はスマートフォンを見る。
『決めてないなら何で呼んだの?』
そこまで打って、送信する直前で止めた。消す。
代わりに、
『了解』
だけ送る。すると、
『昨日買った服着る』
と来た。昨日、彩花姉に選んでもらった服。
『楽しみにしとく』
昨日そう返した。覚えている。
莉奈も覚えていたらしい。少しだけ。
本当に少しだけ、十一時が楽しみになった。
「母さん」
「何?」
「ちょっと出てくる」
「はいはい」
母さんは何も聞かなかった。そこへ階段から凛が降りてきた。
「どこ行くの?」
「駅前」
「誰と?」
「水瀬」
凛が止まる。
「今日も?」
「今日もって何だよ」
「昨日、莉奈さん私たちと一日いたよ」
「俺は会ってない」
言ってから、自分でも少し変だと思った。凛の口元が上がる。
「ふーん」
「何」
「別に」
最近みんなその言い方を使う。
「莉奈さんから?」
「何が」
「誘ったの」
「そうだけど」
凛の顔がさらに楽しそうになる。
「へえ」
「何だよ」
「何でもない」
絶対何かある。でも聞いたら負けな気がする。
部屋へ戻り、着替える。クローゼットを開けると、以前なら黒いTシャツを適当に取って終わっていた。
今日は一度手を伸ばし、止めた。その横にある、先週彩花姉に買わされた服を見る。
数秒迷って、結局そちらを取った。
「……何やってんだ」
莉奈が昨日買った服を着ると言ったから、俺も少しくらいちゃんとした方がいい。それだけだ。
髪も整える。最近、理由をつけるのが上手くなった気がする。
駅前に着いたのは十時五十二分。待ち合わせ場所にはまだ莉奈はいない。
俺はスマートフォンを見る。
『着いた』
『あと3分』
近い。周囲を見る。
日曜なので人は多い。先週、初デートでここに立っていたことを思い出す。
あのときは緊張していた。今も少ししている。
でも種類が違う。初デートだからではない。
莉奈がどんな服で来るのか。それが気になっている。
少しして、人混みの向こうから莉奈が歩いてきた。すぐ分かった。
昨日彩花姉が選んだという服。淡い色のトップスに、すっきりしたスカート。
派手ではないが、莉奈によく似合っている。髪も少しだけ巻いていた。
俺を見つけると、少し歩く速度が落ちる。俺も何も言わず見ていた。
莉奈が前まで来る。
「……何?」
「いや」
「何その反応」
「見てた」
「だから何を」
「服」
莉奈が少しだけ姿勢を正した。
「どう?」
来た。昨日から用意されていた質問。
たぶん。
「似合ってる」
莉奈が俺を見る。
「それだけ?」
また採点が始まった。
「彩花姉が選んだんだろ?」
「そう」
「水瀬に合ってると思う」
少し考える。
「先週のデートの服より、今日の方が好きかも」
言った瞬間、莉奈が完全に止まった。俺も気づいた。
今の言い方。まずかったか。
「……何?」
莉奈が聞く。
「いや」
「今、普通に言ったよね」
「何を」
「今日の方が好きって」
「服の話だろ」
「分かってはいるけど」
莉奈が髪を触る。顔が少し赤い。
「そういうの急に言わないでよ」
また言われた。
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
「もうちょっと……」
「もうちょっと?」
「知らない」
無茶苦茶だ。でも、莉奈は少し嬉しそうだった。
「で」
俺が聞く。
「今日何するの?」
「……まだ決めてない」
「本当に何も決めずに呼んだの?」
「悪い?」
「悪くないけど」
「じゃあいいじゃん」
莉奈が歩き始める。俺も隣へ並ぶ。
「何か買いたいものある?」
「ない」
「映画?」
「今日はいい」
「昼?」
「まだ早い」
「じゃあ何するんだよ」
「適当に歩けばよくない?」
デートのときとは違う。目的がない。
予約もない。予定もない。
俺は少し不思議だった。
「水瀬」
「何?」
「本当に暇だっただけ?」
聞くと、莉奈の足が少しだけ遅くなる。
「……そうだけど」
「ふーん」
「何その反応」
「いや」
俺は深く考えなかった。莉奈も暇だった。
俺も暇だった。だから会う。
彼氏と彼女なら、それくらい普通なのかもしれない。駅前を歩く。
店をいくつか覗きながら、莉奈は昨日彩花姉たちと来た場所を教えてくれた。
「ここ、昨日入った」
「服買った店?」
「違う。そこはもう少し向こう」
「美咲姉とはどこで会ったの?」
「あっちのカフェ」
「何話した?」
莉奈が少し考える。
「高瀬の悪口」
「絶対嘘」
「半分くらい」
「半分もあるの?」
莉奈が笑う。
「美咲さん、優しかった」
「怒らせなければね」
「まだ言ってる」
「本当に怖いんだって」
「でも高瀬のこと、すごく心配してたよ」
「美咲姉が?」
少し意外だった。家ではそんな雰囲気を出さない。
「何て?」
「秘密」
「俺の姉だぞ」
「私と美咲さんの話だから」
いつの間にそんな関係になったんだ。
「凛とも秘密あるし」
「何話してんの」
「教えない」
「彩花姉とも?」
「ある」
「俺、家族全部取られてない?」
莉奈が吹き出した。
「取ってないよ」
「最近みんな水瀬側なんだけど」
「日頃の行いじゃない?」
「昨日まで会ったことなかったのに?」
「人望」
「俺の家族だぞ」
笑いながら歩く。特に何もしていない。
それなのに、先週の初デートより気楽だった。俺はふと気づく。
前回は、莉奈を楽しませることや失敗しないこと、ちゃんとデートすることばかり考えていた。今日は何も考えていない。
行き先すら決まっていない。でも楽しい。
彩花姉が言っていた。
『デートは接待じゃない』
今さら少し分かった。
「高瀬」
「何?」
莉奈が雑貨店の前で止まる。
「入っていい?」
「いいよ」
中へ入る。莉奈は文房具や小物を見て回り、俺はその後ろを適当についていく。
しばらくして、莉奈がスマートフォン用の小さなストラップを手に取った。
「これ可愛くない?」
「うん」
「反応薄い」
「可愛いと思う」
「ほんと?」
「水瀬のスマホにはこっちじゃない?」
隣のものを指す。少し落ち着いた色。
莉奈が見る。
「また選ぶ」
「聞いたの水瀬だろ」
「そうだけど」
二つを並べる。
「どっち?」
「こっち」
俺が選んだ方を指す。莉奈は少し考えて、そちらを籠へ入れた。
「買うの?」
「うん」
「俺が言ったから?」
「違う。私が気に入ったから」
即答。でも少し笑っている。
レジを出たあと、莉奈は早速ストラップをつけた。
「どう?」
「いいんじゃない?」
「またすぐ気づいてよ」
「毎日テストする気?」
「高瀬なら気づくでしょ」
その言葉が、少し嬉しかった。自分でも単純だと思う。
昼になり、適当に見つけたファストフード店へ入った。前回みたいに店を三軒調べてはいない。
空いていたから入っただけ。莉奈はポテトを食べながら言う。
「今日の方が楽かも」
俺は顔を上げた。
「初デートより?」
「違う」
すぐ否定する。
「初デートも楽しかったけど」
「けど?」
「今日は何も決めてないから」
同じことを考えていた。
「俺も」
「ほんと?」
「前は結構考えてたから」
「三軒も店調べてたもんね」
「覚えてた?」
「覚えてるよ」
莉奈がポテトを一本取る。
「今日、何も調べてないでしょ」
「呼ばれたの一時間前だからな」
「それもそうか」
「でも」
俺は少し考える。
「こっちの方が普通っぽい」
莉奈の動きが止まる。
「普通?」
「付き合ってる感じ」
言ってから、またやったと思った。莉奈が俺を見る。
「高瀬」
「何」
「今日、急にそういうこと言いすぎ」
「何が」
「自覚ないの?」
「ない」
本当にない。思ったことを言っているだけだ。
莉奈は小さくため息をつく。
「ずるい」
「何が?」
「何でもない」
またそれ。俺はポテトを取る。
莉奈も同時に手を伸ばす。指が触れた。
二人とも止まる。一週間前、映画館でも同じことがあった。
あのとき俺は、それだけで映画の内容が入らなくなった。今も緊張する。
でも、前ほどではない。莉奈も手を引かない。
ほんの一秒。二秒。
先に俺が手を引いた。
「どうぞ」
「……ありがと」
莉奈がポテトを取る。少しだけ空気が変わった。
何となく、二人ともスマートフォンを見る。意味もなく。
俺は時間を確認する。午後一時過ぎ。
「拓真は?」
莉奈が聞いた。
「何が?」
「ゲームするんじゃなかった?」
忘れていた。スマートフォンを見ると、通知が三件。
全部拓真。
『何時から?』
『悠斗?』
『生きてる?』
「……忘れてた」
莉奈が笑う。
「最低」
「連絡する」
『ごめん。今日は無理』
送る。すぐ既読。
『女?』
早い。俺は迷う。
『水瀬』
送信。数秒。
『裏切り者』
続けて、
『凛ちゃんいる?』
結局そこか。
『今日は出かけてる』
『じゃあ許す』
何なんだこいつ。
「何て?」
莉奈が聞く。
「裏切り者って」
「かわいそう」
笑っている。
「水瀬のせいだろ」
「私?」
「急に呼んだから」
「嫌なら来なければよかったじゃん」
その言葉。俺は少し考える。
「嫌じゃないから来た」
また莉奈が止まった。今日はよく止まる。
「……そう」
小さく答える。それだけ。
でも、少し嬉しそうだった。店を出る。
午後二時。特に次の予定はない。
「どうする?」
莉奈は少し考えた。
「帰る?」
声が微妙だった。帰りたい人の言い方ではない。
「まだ時間あるけど」
「高瀬は?」
「俺も暇」
「じゃあ……もうちょっと歩く?」
「うん」
また歩く。理由もなく、目的もなく。
少しして公園が見えた。駅前から少し離れた、小さな公園。
「座る?」
ベンチへ座る。休日だが人は少なく、子ども連れの家族が少し離れた場所にいる程度だった。
風が吹き、莉奈の髪が揺れる。俺は何となく見る。
「何?」
すぐ気づかれた。
「別に」
「最近それ高瀬も使うよね」
「水瀬がよく言うから」
「真似しないで」
少し笑う。沈黙。
でも気まずくない。莉奈はスマートフォンを見ていた。
少しして画面が光る。何かメッセージが来たらしい。
確認した瞬間、表情が少し変わった。
「誰?」
俺は何気なく聞いた。
「蓮」
胸の奥。少しだけ何かが引っかかった。
「何て?」
聞いてから、自分でも少し驚いた。普段なら誰から何が来たかなんて聞かない。
莉奈も少し意外そうにこちらを見る。
「明日、みんなで放課後どっか行かないって」
「ふーん」
それだけ答える。別に普通だ。
蓮だけではない。みんなで、いつもの友人グループ。
何もおかしくない。莉奈がスマートフォンを操作する。
「行くの?」
また聞いてしまう。
「まだ分かんない」
「そっか」
何だ。この感じ。
莉奈がこちらを見る。
「高瀬も来る?」
「俺?」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ来れば?」
俺は少し考える。蓮もいる。
そのことが先に浮かんだ。なぜだ。
「行く」
答える。莉奈が笑った。
「じゃあ蓮に言っとく」
たぶん、
『高瀬も来るって』
と送ったのだろう。少しして、莉奈が画面を見る。
「何て?」
今度は俺から聞いていた。
「何が?」
「蓮」
莉奈の口元が少し上がる。
「気になるの?」
「別に」
「へえ」
何だその顔。
「『了解』だって」
「そっか」
それだけ。なのに、なぜか安心した。
意味が分からない。莉奈が俺を見る。
「高瀬」
「何?」
「もしかして」
「何」
少し間を置く。
「嫉妬?」
心臓が一瞬跳ねた。
「違う」
即答。莉奈が笑う。
「返事早い」
最近同じやり取りばかりしている。
「普通に聞いただけ」
「蓮が何て送ったか?」
「うん」
「なんで?」
「……友達だから」
苦しい。自分でも分かる。
莉奈がじっとこちらを見る。
「ふーん」
「何だよ」
「別に」
またそれ。俺は前を見る。
蓮。莉奈のことが好きな男。
それは分かっている。だから気になるだけ。
俺は一か月で莉奈を惚れさせる。その邪魔になる相手だから。
それだけだ。たぶん。
午後四時前、駅まで戻ってきた。今日はここで別れる。
「じゃあ明日」
「うん」
莉奈が少し笑う。
「今日はありがとう」
「呼んだの水瀬だろ」
「来てくれたから」
「暇だったし」
答えると、莉奈が少しだけ口を尖らせた。
「あ、そう」
何か違ったらしい。
「でも」
続ける。
「楽しかった」
莉奈がこちらを見る。
「俺も呼ばれてよかった」
今度は笑った。
「ならよし」
改札へ向かう。莉奈が数歩進み、そこで止まった。
振り返る。
「高瀬」
「何?」
「今日さ、本当は……」
また止まる。
「何?」
莉奈は数秒黙ってから言った。
「……昨日買った服、見せたかっただけ」
俺は少し驚く。
「それで呼んだの?」
「悪い?」
「悪くない」
むしろ、嬉しい。そう思った。
「見られてよかった」
莉奈が笑う。
「じゃあね」
今度こそ改札へ入っていった。俺はその背中を見る。
服を見せるため。それだけで呼ばれた。
つまり、俺に見せたかった。そこまで考えて、少し口元が緩む。
でもすぐに戻す。罰ゲーム。
彼女役。そういうことだ。
ただ、今日の誘い方は、誰かに言われたわけでも、彼女らしく見せる必要があったわけでもない。日曜日。
二人だけ。誰も見ていない。
そこで莉奈は、俺に会おうと言った。その事実だけは。
どう説明すればいいのか。少し分からなくなっていた。




