第13話 嘘なのに、うれしい
交際十一日目、木曜日。朝起きてスマートフォンを見ると、莉奈には三件の通知が来ていた。
一件は真帆、一件はクラスのグループ。そしてもう一件。
『昨日ちゃんと帰れた?』
高瀬凛。昨日交換したばかりのLINEだった。
莉奈はベッドの上で少しだけ笑う。
『帰れたよ。昨日はありがとう!』
送ると、一分もしないうちに既読がついた。
『こっちこそ』
続けて、
『お兄ちゃんが学校でちゃんと彼氏できてるのか不安だったから安心した』
莉奈は思わず吹き出した。
『ちゃんとって何笑』
『家だとポンコツだから』
『それは昨日ちょっと分かった』
送信。すぐに、
『でしょ』
と返ってきた。普通だった。
昨日初めて会ったばかりなのに、もう普通に友達みたいにやり取りしている。凛だけではない。
彩花からも昨夜、『今度ほんとに買い物行こうね』とLINEが来ていて、莉奈は『行きたいです!』と返した。
それも嘘ではない。本当に行きたいと思った。
だから困る。一か月だけ。
最初はそのつもりだった。高瀬と付き合って、高瀬が本気になったころに真帆たちと笑って、最後に罰ゲームだったと明かす。
それだけだったはずなのに。今は高瀬だけではない。
凛がいる。彩花がいる。
優しかった母親がいる。面白い父親がいる。
まだ会っていない美咲の話も何度も聞いた。昨日玄関を出るとき、
『またいつでも来てね』
と言われた。莉奈はスマートフォンを伏せる。
「……どうすんの、これ」
誰に言うでもなく呟く。答えは出なかった。
学校へ向かう。いつもの場所へ着くと、悠斗はまだ来ていなかった。
時刻は七時五十二分。莉奈の方が少し早い。
スマートフォンを見ると、凛からまた来ていた。
『ちなみに今日のお兄ちゃんの髪、私が直してないから』
莉奈は笑う。
『じゃあ変だったら言っとく』
『お願いします』
何をやっているんだろう。完全に兄の監視役にされている。
「おはよう」
声がして顔を上げる。悠斗だった。
まず髪を見る。昨日とほとんど同じ。
「おはよ」
悠斗がこちらを見る。
「何」
「確認」
「何を?」
「凛ちゃんから頼まれた」
悠斗の顔が止まった。
「何を」
「今日の髪変だったら言ってって」
「もうLINEしてるの?」
「昨日交換したじゃん」
「それは知ってるけど」
「今朝からしてる」
明らかに嫌そうな顔をする。莉奈は笑った。
「仲良くなったら嫌なの?」
「嫌じゃない」
「じゃあ何」
「俺の情報が筒抜けになる」
「家で変なことしなければいいじゃん」
「お前もう凛側なの?」
「どっち側とかあるの?」
悠斗がため息をつく。
「昨日会ったばっかりだろ」
「話しやすいもん」
「凛が?」
「うん」
少し間を置いて、
「彩花さんからも来た」
と言う。悠斗が止まった。
「何て?」
「今度買い物行こうって」
「早い」
「行くって返した」
「もっと早い」
莉奈は笑う。その反応が面白い。
でも同時に、胸の奥が少しだけ重くなった。悠斗は何も知らない。
そう思っているから、家族と仲良くなっていく自分を見ても普通に呆れて、普通に笑っている。
「水瀬?」
「何?」
「どうした?」
「別に」
悠斗が少しこちらを見る。
「昨日疲れた?」
「全然」
「家族うるさかったから」
「楽しかったって言ったじゃん」
「ならいいけど」
それだけ言って、悠斗は歩き始めた。追及しない。
こういうところも最近分かってきた。高瀬悠斗は、気づかないわけではない。
気づいても、相手が話さないなら待つ。昨日、凛が言っていた。
好きでもない女の子に彼氏みたいなことをするなと言われていたから、学校では何も言わなかった。だったら。
今、自分にしていることは。そこまで考えて、やめた。
『彼女だから』
悠斗はいつもそう言う。今の自分は、その言葉に甘えているだけだ。
教室へ入ると、真帆はすでに来ていた。莉奈を見るなり、すぐ近づいてくる。
「昨日どうだった?」
「何が?」
「高瀬んち」
早い。
「なんで知ってるの」
「LINEしたじゃん」
そうだった。雨宿りで悠斗の家へ行くことになったと送っていた。
「で?」
「普通」
真帆が眉を寄せる。
「最近その答え多くない?」
「じゃあ楽しかった」
「家族いた?」
「いた」
「誰?」
「お母さん、お父さん、彩花さん、凛ちゃん」
「ほぼ全員じゃん」
由依も近づいてきた。
「美咲さんだけいなかったんだ」
「うん」
「どうだった?」
由依に聞かれ、莉奈は少し考える。
「……すごく普通だった」
「普通?」
「うん」
うまく説明できない。もっと質問されると思っていた。
悠斗とのこと。いつから好きだったのか。
どこが好きなのか。家族なら聞いてきてもおかしくない。
でも、ほとんど聞かれなかった。雨で濡れているからタオルを渡され、お茶を出され、ご飯を食べるか聞かれた。
ただ悠斗の彼女として、自然に家へ入れてもらった。
「お母さんがご飯食べていきなさいって言ってくれて」
「食べたの?」
真帆が驚く。
「うん」
「そこまで?」
その言い方に、莉奈の胸が少し痛んだ。
「雨すごかったから」
「いや、そうだけど」
真帆も少し笑えなくなっている。由依が静かに聞いた。
「家族は、莉奈が本当に高瀬くんの彼女だと思ってるんだよね」
分かっている。一番考えたくなかったことを言われた。
「……うん」
「高瀬くん、家族に話してたんだ」
「付き合った日から話してたみたい」
真帆が黙った。最初は一番楽しんでいた真帆も、最近は前ほど笑わなくなった。
「莉奈」
「何?」
「やっぱさ、そろそろ本当のこと言った方がよくない?」
まだ十一日目。一か月の半分にも届いていない。
最初なら、『まだ早いでしょ』と笑えたと思う。でも今は、すぐに返事ができなかった。
「……まだ」
やっとそれだけ答える。
「まだって?」
「今言ったら、最初に決めたのと違うじゃん」
言いながら、自分でも苦しいと思った。最初に決めたから。
一か月だから。罰ゲームだから。
最近、そればかり使っている。由依が莉奈を見る。
「本当にそれだけ?」
莉奈は答えなかった。そこへ陸と蓮が来た。
「何の話?」
陸が聞く。
「別に」
真帆が答える。だが蓮は莉奈の顔を見た。
「高瀬の話?」
「なんで分かるの」
「最近ずっとそうじゃん」
少し冗談っぽい言い方。でも前ほど余裕がない。
真帆が言った。
「昨日、莉奈が高瀬んち行ったんだって」
蓮の顔が止まった。
「家?」
「雨すごかったから雨宿り」
莉奈が説明する。
「家族もいた?」
「うん」
「飯も食べたって」
真帆が付け足した。
「真帆」
「事実じゃん」
蓮は少し黙る。それから笑った。
「ずいぶん本格的だな」
その言葉に少し棘があった。陸も気づいたらしく、蓮を見る。
「雨宿りだろ」
「分かってよ」
蓮が答え、そして莉奈を見る。
「でもさ」
「何?」
「嘘なんだから、そこまで本気になる必要ないだろ」
一瞬、誰も話さなかった。莉奈の胸に引っかかった。
言っていることは正しい。高瀬との交際嘘。
だったら家族と仲良くなる必要もない。デートを楽しむ必要もない。
髪型を気にする必要もない。イヤリングに気づいてもらって嬉しくなる必要も、他の女子に嫉妬する必要もない。
全部、その通りだ。なのに。
「……本気になってないし」
声が少し強くなった。蓮がこちらを見る。
「ならいいけど」
「何それ」
「別に」
その言い方が少し腹立たしい。
「私がどうするかでしょ」
「そうだけど」
「じゃあいいじゃん」
「莉奈」
由依が静かに呼ぶ。そこで自分の声が大きくなっていたことに気づいた。
「……ごめん」
蓮も少し困った顔をする。
「俺もごめん」
悪気があったわけではない。それは分かる。
蓮は昔からの友達だ。たぶん心配している。
それでも。
『嘘なんだから』
その言葉だけが残った。昼休み。
いつものように机を寄せる。悠斗が隣へ座った。
「今日静かじゃない?」
突然言われる。
「そう?」
「朝から」
やっぱり気づいている。
「寝不足」
「何時に寝た?」
「十二時くらい」
「普通じゃん」
「私には遅いの」
「昨日七時十分起きって言ってただろ」
覚えている。そんなことまで。
「じゃあ考え事」
「何かあった?」
一瞬、言ってしまいたくなった。昨日、あなたの家族に会って。
みんな優しくて。だから困っている。
本当は私嘘をついているから。でも言えない。
まだ。
「大したことじゃない」
答える。悠斗は少しだけこちらを見る。
「そっか」
それ以上聞かなかった。やっぱり待つ。
この人はそういう人だ。莉奈は弁当を見る。
ますます言いづらくなる。昼休みの終わり、悠斗が席へ戻ったあと、蓮が近づいてきた。
「莉奈」
「何?」
「朝は悪かった」
「もういいよ」
「俺、別に責めたいわけじゃないから」
「分かってる」
蓮は少し迷う。
「ただ、一か月経ったら終わるんだろ?」
その質問。答えは決まっている。
最初から。
「……うん」
なのに、声がすぐに出なかった。蓮がそれを見ていた。
「そっか」
それだけ言って離れていく。莉奈はその背中を見る。
なぜ、『終わる』と言うだけでこんなに嫌な感じがするのだろう。放課後。
悠斗と一緒に帰る。昨日とは違い、今日は晴れていた。
「そういえば」
悠斗が言う。
「凛と何話してるの?」
「教えない」
「なんで」
「女同士の秘密」
「昨日会ったばっかりじゃん」
「関係ない」
「俺の悪口?」
「それもある」
「あるのかよ」
莉奈が笑う。今日初めて自然に笑った気がした。
悠斗も少し笑う。
「彩花姉ともLINEしてるんだろ」
「うん」
「買い物いつ行くの?」
「まだ決めてない」
「本当に行くんだ」
「嫌?」
「嫌じゃないけど。姉ちゃんたち、距離詰めるの早いなと思って」
「高瀬に似たんじゃない?」
「俺?」
「付き合って次の日から一緒に登校してたじゃん」
言われて悠斗が止まる。
「……そういえば」
「今気づいた?」
「俺も早いな」
莉奈が笑う。その笑顔のまま、胸の奥だけが少し痛む。
「高瀬」
「何?」
「もしさ」
言いかける。悠斗がこちらを見る。
「うん」
「……なんでもない」
言えない。もし私、思っていたような人じゃなかったら。
もし最初から全部嘘だったら。そんな質問をしてどうする。
悠斗は少しだけ気にした顔をしたが、やっぱり追及しなかった。駅へ着く。
「じゃあ明日」
「うん」
莉奈は少し歩いてから振り返った。
「高瀬」
「何?」
「昨日のご飯、本当においしかったって、お母さんに言っといて」
悠斗が笑う。
「自分でLINEすれば?」
「交換してないもん」
「そのうち交換しそうで怖い」
「何が怖いの」
「俺の家族全部、水瀬と直接つながりそう」
冗談みたいに言う。莉奈は笑った。
でも、笑いながら胸が痛かった。悠斗と別れ、電車へ乗る。
座席に座ったところでスマートフォンが震えた。凛。
『莉奈さん』
『土曜暇?』
続けて、
『彩花姉が買い物行きたいって』
莉奈は画面を見る。行きたい。
その気持ちはすぐに浮かんだ。同時に、朝の蓮の言葉も浮かぶ。
『嘘なんだから、そこまで本気になる必要ないだろ』
正しい。これ以上、高瀬家に入り込まない方がいい。
一か月後のためなら断るべきだ。莉奈はしばらく画面を見ていた。
探す。そして。
『暇だよ』
送信する。すぐに既読。
『やった』
凛からスタンプが届く。莉奈も笑った。
嘘なのに。高瀬の家族から誘われることが、こんなに嬉しい。
それが今は、一番困ることだった。




