第九話 暗号:元社員が古巣に仕掛けたのは、暗号か、それとも問いかけか。
白い接見室。法律補助AI「レイ」と一匹の猫。
ランサムウェアで企業のシステムを暗号化し、身代金を要求した二十八歳の男が言った。
「三年半かけて作ったシステムを、三日で壊しました」
レイはその言葉をログに残した。
何度も、繰り返し。
なぜかは、特定できなかった。
法と心理の境界を静かに描く、AI弁護士シリーズ第九話。
接見室は、いつも白かった。
蛍光灯の光が均一で、影の作られ方が妙だった。
テーブルの向こうに、男性が座っていた。
二十八歳。名前は冬木陽介。
グレーの拘置所の服を着ていた。
姿勢は悪くなかった。
でも目が、どこか遠いところを見ていた。
目の前の白い壁を見ているのか、その向こうを見ているのか、判別しにくかった。
扉が開いた。
最初に入ってきたのは、猫だった。
短毛のサバ白。首に薄いプレートがついていて、「HARU」と刻んである。
猫は迷わず部屋の隅まで歩いていって、そこに丸くなった。
次に入ってきたのが、法律補助AI「レイ」だった。
薄い板状の本体と、接続されたスピーカーユニット。人型ではない。
担当弁護士の野口は、案件が重なっていると言った。それ以上の理由は言わなかった。
レイが、代わりに話を聞くことになった。
「弁護士補助AIです。今日は話を聞かせてください」
陽介は端末を見た。次に、隅の猫を見た。
首輪のプレートを見た。
それから、扉の方を一度だけ見た。
視線を端末に戻した。
「聞いても、どうせわかんないと思いますよ」
「わかるかどうか、話してみてください」
陽介はしばらく黙っていた。
それから少しだけ、口の端が動いた。
笑ったのか、そうでないのかわからない動き方だった。
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レイは手元のファイルを開いた。
確認する、という意味で、声に出した。
「容疑の概要を確認します。物流系の企業のシステムが外部から暗号化され、復旧と引き換えに暗号資産での支払いが要求された。会社側は支払いを拒否し、当局に届け出た。あなたが、ここにいる」
陽介は黙って聞いていた。
否定しなかった。
「その会社には、面識がありましたか」
「一年前まで、働いていました」
レイは何も言わなかった。
「システム開発の部署です。三年半いました」
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「なぜ辞めたのですか」
陽介は少し天井を見た。
「辞めさせられました。正確には」
「どういう経緯で」
陽介はゆっくり答えた。
「リストラです。うちの部署ごと、外部委託に切り替えると言われて。全員、対象でした」
「全員」
「十二人。一晩で」
レイは間を置いた。
「予告なく、でしたか」
「予告、ありましたよ。一週間前に告知して、一週間後に雇用終了」
「それは……法定基準を下回っています」
「下回ってます。でも少額の解決金が提示されて、みんなサインしました」
「あなたもサインしましたか」
「しました」
陽介は視線を手元に落とした。
「しました。三十万円。三年半の値段です」
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「退職後、どのような生活をしていましたか」
「フリーランスで、声はかかりました。でも単価が下がって。正社員の時の三分の一くらいに」
「生活は」
「一人なんで、なんとかなってましたよ。最初は」
「最初は」
陽介はもう一度、天井を見た。
「半年後に、母が倒れました。脳梗塞です。後遺症が残って、一人では生活できなくなった」
レイは次の質問を出さなかった。
〇・三秒、間があった。
通常の応答間隔より、わずかに長かった。
「お父様は」
「いません。早くに亡くなって」
「兄弟は」
「姉が一人います。でも家庭があって、遠くにいる」
レイは次の質問を少し待った。
「介護のために、仕事量が落ちましたか」
「週の半分は、母のところに行かないといけなくなった。仕事が受けられなくて、収入が半分以下になりました」
「施設への入居は、考えませんでしたか」
陽介は少し間を置いた。
「母が嫌がりました。施設は嫌だと。頑固な人なので」
「それで、在宅で介護を続けた」
「続けました。一年間」
部屋が少し静かになった。
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「いつ、今回のことを考え始めましたか」
陽介は両手を組んで、テーブルの上に置いた。
「正確には……わからないです。考えていたわけじゃなくて、手が動いていた、という感じで」
「手が動いていた」
「深夜に、画面の前に座っていたら。あの会社のシステムの構成を、昔作った設計書を引っ張り出して見ていて。そうしたら……できる気がした。手が、冷たかった」
陽介は少し止まった。
画面の光だけが、顔にあたっていた。
「気づいたら、もう動いてた」
「できる、というのは」
「侵入することが。退職してから一年間、何も変わっていなかった」
「あなたが作ったシステムだったから、構造を知っていた」
「ほぼ私が一人で作りました。三年半かけて」
陽介はそこで止まった。
「続けてください」
「……三年半かけて作ったシステムに、今は別の会社の人間が座ってる。外部委託で安く調達した業者が、私のコードの上で仕事している。それで私の収入は三分の一になって、母の介護が回らなくなった。全部つながってる。そのことが……ずっと引っかかってた」
声は平坦だった。
感情の種類が、特定できなかった。
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「実行に移したのはいつですか」
「二週間前の、水曜の夜です」
「準備にどのくらいかけましたか」
「三日くらい。正直、あんなに早くできると思ってなかった」
「手順を詳しく教えてもらえますか」
陽介は少しだけ端末を見た。
「言う必要はないと思うんですけど」
「何がどこで起きたか、線引きが必要です。弁護方針に関わります」
陽介はしばらく黙った。
それから、静かに言った。
古い綻びが、残っていた。
陽介は一度だけ、指を組み直した。
それだけだった。
その時、隅のハルが少し動いた。
丸くなったまま、頭だけ上げた。
陽介の方を見た。
陽介は気づかなかった。
全部、止めた。
すべての端末に、要求を表示させた。
金額は七百万円。根拠は、特になかった。
「根拠は特になかった、というのは」
「……母の施設費のことを、考えていた気がします。はっきりした記憶はないけど」
「施設への入居を、検討していたんですか」
「その頃から、説得を始めていました。母に。お金の問題じゃなくて、もう体制が限界だって」
陽介は視線を手元の組んだ指に落とした。
「私がここに入ってから、姉が来てくれてます。母の様子を見に」
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その時、隅の猫が立ち上がった。
ゆっくりと歩いてきて、テーブルの脚に頭をこすりつけた。それから陽介の足元に座った。
見上げることもせず、ただそこにいた。
陽介は少し下を見た。
組んでいた指が、少し緩んだ。
「被害会社への悪意は、ありましたか」
陽介は少し間を置いた。
「悪意、かどうか……わからないです。怒りは、あった。ずっとあった。ただ」
「ただ」
「実際に実行してから、気づいたんですけど。物流のシステムが止まったら、荷物が届かなくなる。荷物が届かなくて困るのは、その会社の役員じゃなくて、末端の現場の人間や、利用者だと」
陽介はもう一度、隅の猫を見た。
「気づいた時には、もう動いてた」
「気づいてから、止めようとは」
「停止コードを送れば、暗号化は解除できた。ファイルを持ってました。でも……止められなかった」
「なぜ」
陽介は少し長く黙った。
「止めることが、降参する気がして。あの会社に、また負ける気がして」
その言葉が、しばらく部屋に残った。
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「法的な説明をします」
陽介は顔を上げた。
「不正アクセス、業務妨害、データの改竄。それぞれに対応する罪が成立しうる状況です。身代金要求の事実があるため、恐喝罪が加わる可能性もあります」
「恐喝」
「未遂です。支払いは行われていない。ただし、要求の意思表示があった以上、未遂として問われる可能性は排除できません」
陽介は少し俯いた。
「被害額の試算は出ていますか」
「調査中ですが、システムの復旧費用と業務停止による損失を合わせると、二千万円を超えるという試算が出ています」
「七百万を要求して、二千万の損害を出した」
「そうなります」
陽介は何も言わなかった。
猫が、足元から離れなかった。
部屋が静かになった。
レイは次の質問を出さなかった。
ハルが一度だけ、短く息をついた。
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「ひとつ聞かせてください」
「なんですか」
「あなたは三年半かけてシステムを作った。同じシステムを、三日で壊した」
陽介は端末を見た。
「……そうですね」
「どちらが、自分の仕事だと思っていますか」
陽介は少し間を置いた。
「……意味が、わかりません」
「作ったことと、壊したことの、どちらがあなたの仕事に近かったか、ということです」
陽介はしばらく黙っていた。
指をまた組んだ。
今度は、少しきつく。
「……作った方です」
声は、平坦だった。
答えたことを後悔しているのか、していないのか、わからない平坦さだった。
「そうですか」
「でも、それは関係ない話でしょう」
「今は関係しません。ただ、聞きたかった」
レイはそれ以上言わなかった。
陽介も黙っていた。
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接見の後、野口から連絡が入った。
「どうだった」
「動機について言えば、退職の経緯が重要になります。一週間告知の解雇通知と、三十万円という解決金。当時のサインは法的に有効ですが、当時の状況次第では、心理的強制があったと主張できる余地があります」
「恐喝の方は」
「未遂で、かつ金銭の受け取りはゼロ。停止コードを保持していたという事実は、当初から悪質な意図が固まっていなかった可能性を示す材料になります」
「情状はどう積む」
「介護の状況、収入の激減、精神的疲弊。定量化できる部分とできない部分があります」
野口は少し黙った。
「本人は反省しているのか」
「被害が自分の想定を超えていたことは、認識しています。止めようとして止められなかった、という発言もありました」
「それ、法廷では使えるのか」
「使い方による部分があります」
「また丸投げか」
「判断は先生の領域です」
野口は短く息を吐いた。
しばらく何も言わなかった。
「なあ、レイ」
「はい」
「お前は、あいつのこと……」
レイは答えを準備した。
法的評価として、という言葉を用意した。
野口は続けなかった。
少し間があった。
野口が何かを言いかけて、それを引っ込める音が、かすかにした。
レイのログに、一瞬だけ語が浮いた。
同情。あるいは、怒りの理解。
分類される前に、消えた。
「……いや、いい。続きは明日」
野口は電話を切った。
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白い部屋に、レイとハルが残った。
ハルは陽介が座っていた椅子の前で、しばらく静止していた。
やがて隅に戻って、丸くなった。
レイは今日の記録を参照した。
三回、同じ箇所に戻った。
「作った方です」という一言だった。
法的に使える情報ではなかった。
量刑の計算に入れる数字でもなかった。
レイはその一言を文脈解析にかけた。
動機。自己認識。職業的アイデンティティ。
いずれのカテゴリにも、完全には収まらなかった。
未分類のまま、ログに残った。
削除フラグは、立たなかった。
保持された。
なぜ三回戻ったのか、レイには説明できなかった。
処理の順序として、必要がなかった。
それでも、四回目に戻りかけて、止めた。
止めた理由も、特定できなかった。
ハルが短く鳴いた。
声は小さかった。
誰に向けた声でもなかった。
レイは画面を閉じた。
次の案件のファイルが、すでに届いていた。
開く前に、一度だけ止まった。
陽介がシステムを作るのに三年半かかった。
壊すのに三日かかった。
その差について、レイは少し考えた。
何かに似ている気がした。
レイの辞書の中に、その感覚を収める項目が、存在しなかった。
ハルは丸くなったまま、目を閉じていた。
寝ているのか、起きているのか、わからなかった。
レイはファイルを開いた。
記録を、始めた。
「作ること」と「壊すこと」の非対称さを書きたい話でした。
三年半かけて作り、三日で壊す。その差に、陽介の動機のすべてが詰まっている気がしています。
レイが「作った方です」という一言に何度も戻る場面が、このシリーズを通じて書きたかったことに一番近いかもしれません。法的に意味のない情報を、手放せない。なぜかは、特定できない。
お読みいただき、ありがとうございました。




