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第十話 出来心:八年間、一度もしなかったことを、その日だけした。

遺品整理の仕事を八年続けてきた倉本靖則が、ある現場で現金七十三万円を持ち帰った。

なぜそうしたのか、本人にも分からない。

考えるより先に、手が動いていた。

法律補助AI「レイ」が話を聞く。

答えは出ない。でも、何かが残る。

一話読み切り。

 相談室は、いつも白かった。


 蛍光灯の光が均一で、影の作られ方が妙だった。物が少ないのに、どこか狭く感じる部屋だった。

 テーブルの向こうに、男性が座っていた。

 四十一歳。名前は倉本靖則。

 作業着の上にウィンドブレーカーを重ねていた。爪の縁に、落としきれない何かが残っていた。

 両腕をテーブルに乗せて、少し前かがみになっていた。

 視線が、どこにも定まっていなかった。

 法律補助AI「レイ」は、その視線の軌跡を記録した。記録して、何も判断しなかった。


 扉が開いた。


 最初に入ってきたのは、猫だった。


 くすんだ銀色の毛並みをした、中くらいの猫。首に薄いプレートがついていて、「HARU」と刻んである。

 猫は迷わず部屋の隅まで歩いていって、そこに丸くなった。

 なぜ隅を選ぶのか、レイには分からなかった。分からないまま、毎回そうだった。


 次に入ってきたのが、レイだった。

 薄い板状の本体と、接続されたスピーカーユニット。人型ではない。


 担当弁護士の野口は多忙を理由に来られなかった。

 レイが、代わりに話を聞くことになった。


「弁護士補助AIです。今日は話を聞かせてください」


 倉本は端末を見た。次に、隅の猫を見た。


「猫、いるんですね」


「はい」


 倉本はまた端末を見た。

 何か言いかけて、言わなかった。

 口を閉じて、自分の爪を見た。


---


 容疑は窃盗だった。


 被害品は現金。七十三万円。

 作業中に見つけた。


---


「仕事の内容を教えてもらえますか」


「遺品整理です」


「会社は」


「個人事業です。スタッフを一人雇って、二人でやってます」


「何年になりますか」


「八年です。その前は引越し屋にいました」


「今回の現場は」


 倉本は一度、手元を見た。


「独り暮らしの男性で、ご遺族から依頼を受けました。息子さんが遠方に住んでいて、二度来られない、と」


「被相続人は」


「八十二歳の方です。マンションの一室でした」


「作業は一日でしたか」


「二日の予定で入りました。初日の午後、本棚の裏で見つけました」


「見つけた、というのは」


「本棚をずらした時に、茶封筒が落ちてきました。床に落ちた拍子に開いて、中身が見えた」


「その時、もう一人のスタッフは」


「外で荷物の整理をしていました。部屋には、俺一人でした」


---


「その後、どうしましたか」


 倉本は少し黙った。


「……ポケットに入れました」


「封筒ごとですか」


「はい。そのまま。紙の感触が、ずっと残っていた気がします」


「そのあと、作業は続けましたか」


「続けました。夕方まで」


「スタッフには話しましたか」


「話していません」


「依頼人の息子さんには」


「話していません」


「話さなかった理由は」


 倉本は自分の手を見た。


「分かりません」


「分かりません、というのは」


「なぜ話さなかったのか、今も、理由がはっきりしないんです」


 声は静かだった。

 言い訳をしているのではなかった。

 ただ本当に、分からないと言っていた。


---


「現金は今、どこにありますか」


「自宅に持ち帰りました。押し入れの中です。封筒ごと、触っていない」


「使いましたか」


「使っていません」


「なぜ」


 倉本は窓のない壁を、少しの間見た。


「……持って帰った夜から、眠れなくなりました」


 レイは次の質問を、〇・三秒遅らせた。

 遅らせた理由は、ログに残らなかった。


「いつから発覚しましたか」


「三日後に息子さんから連絡が来ました。現金が見当たらないと。父が古いお金を家のどこかにしまっていたはずだと、ご近所の方から聞いたと」


「その連絡に、どう答えましたか」


「確認します、と言って、電話を切りました」


「それから」


「妻に話しました。その夜」


「奥様の反応は」


 倉本の肩が、少し動いた。


「……怒りませんでした。ただ、返しなさい、とだけ言いました」


 倉本は少し間を置いた。


「顔を、見られなかった」


 レイは何も言わなかった。


「それで」


「返せなかった」


「返しに行けなかった、ということですか」


 倉本は少しの間、手を見ていた。


「怖かったんだと思います。今さら電話して、何と言えばいいか」


「でも、相談に来た」


「妻に言われて」


 それだけ言って、倉本は口を閉じた。


---


「少し戻って聞かせてください」


「はい」


「封筒を見つけた瞬間、何を考えましたか」


 倉本はしばらく黙っていた。


「考えていたかどうか、分からない」


「分からない」


「落ちてきて、開いて、札が見えた。気づいたら、ポケットに入れていた。考えるより先に、手が動いていた気がします」


「気がする、というのは」


「後から思い返しても、そこに判断があった感じがしない」


「でも、スタッフには見せなかった。息子さんにも報告しなかった」


 倉本は少し間を置いた。


「そこは……意識していたと思います」


「意識していた」


「隠した、ということは、分かっていた」


 レイは次の言葉を少しだけ遅らせた。


「最初に手が動いて、その後に意識が追いついた、ということですか」


 倉本は端末を見た。


「そうだと思います」


「そういう順番だったと」


「はい。でも、それで言い訳になるとは、思っていません」


---


「遺品整理の仕事で、これまでに同じようなことはありましたか」


「ありません」


「お金が出てきたことは」


「あります。毎回ではないですが、出てきます。隠し場所は、人それぞれで」


「これまではどうしていましたか」


「依頼人にその場で連絡します。金額と場所を確認してもらって、受け渡しする。それが決まりです」


「八年間、そうしてきた」


「はい」


「今回は違った」


「はい」


---


「少し聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「この仕事を始めたきっかけは」


 倉本はわずかに首をかしげた。


「……引越し屋にいた時、遺品整理の仕事を手伝うことがあって。そこで一度、独居の女性の部屋に入ったことがあります」


「どんな部屋でしたか」


「狭い部屋でした。物は多くなかった。でも、丁寧に暮らしていた跡があった。植木鉢が窓際に並んでいて、ぜんぶ枯れていました。水やりが追いつかなくなった日が、たぶんその方が倒れた日なんだなと思って」


 倉本は少し視線を落とした。


「遺族がいなくて、業者が全部処分する案件でした。俺は指示通り、ぜんぶ箱に詰めました。丁寧にやった、と思っていた。でも帰り道、何か落としてきた感じがして。何をしてきたのか、うまく言えなかった」


「それで独立した」


「ちゃんとやりたかった。物には、人の時間が入っている。それを扱う仕事をするなら、一つ一つ見てやりたかった」


 レイは何も言わなかった。


 倉本も何も言わなかった。

 部屋が少し静かになった。


---


「今回の現場の方のことを、少し聞かせてもらえますか」


「八十二歳の男性です。一人暮らし。息子さんは東北にいて、年に一度帰るかどうかという感じだったそうです」


「部屋の様子は」


「……長く住んでいた部屋でした。物が多かった。でも、大切にしていたものが、ちゃんと分かる部屋でした。将棋の盤が、ベッドの横に置いてあって。盤の上に布が被せてあって、丁寧に扱っていたのが分かった」


「その部屋で、封筒を見つけた」


「はい」


「その部屋の物を、整理していた」


「……はい」


 倉本は一度だけ、目を閉じた。

 すぐに開いた。


「あの部屋で、あの方の物を扱って、それで、俺は……」


 ……


 声が、途中で詰まった。


 続きを待った。

 来なかった。


 レイの応答が、〇・二秒だけ遅れた。


 何かが、保留になった。


 レイは、続きを聞かなかった。


---


「返せる、という気持ちがあるなら、それが一番大事です」


 倉本は端末を見た。


「法律の話をします。重くなりますが」


「はい」


「懲役になる可能性はあります。ただ、この段階で動けるかどうかで、結果は変わります」


 レイは少し間を置いた。


「前科は」


「ありません」


「封筒は今も手元にある」


「触っていません」


「息子さんと話せますか」


 倉本は端末から目を離した。


「……怖いですが、できます」


「それで十分です」


 レイは続けた。


「弁護士に正直に話してください。封筒を持っていくことと、謝罪の意思があること。それが最初の一手です」


 倉本は頷いた。


「妻にも」


「奥様はもう知っている」


「知っています。でも、ちゃんと話していない。何があったか、なぜそうなったか」


 少し間があった。


「眠れなかった三日間のことも。妻の顔を、ずっと見られなかったことも」


「それは、法律の話ではなくなります」


「分かっています」


 倉本は端末から目を離した。


「でも、あれを話さないと、封筒を返しただけになる気がして」


---


 その時、隅の猫が立ち上がった。

 ゆっくりと歩いてきて、テーブルの脚に頭をこすりつけた。

 それから倉本の足元に来て、座った。

 見上げることも、鳴くこともなかった。

 ただ、そこにいた。


 倉本は下を見た。

 少し間があった。


「ハルって言うんですか」


「はい」


「うちにも、昔、猫がいました」


 レイは何も言わなかった。


「遺品整理の仕事をしていると、猫の痕跡をよく見つけます。爪痕とか、毛とか。もう猫がいなくても、その家に猫がいたことは、分かる」


 倉本は少し下を見続けた。


「あの部屋にも、いたと思います。猫か、何かが」


「何かがいた跡が、ありましたか」


「小さい器が、台所の隅にありました。水を入れていた形の器が。縁が、少し欠けていました」


 倉本の手が、テーブルの上で少し止まった。

 それ以上は言わなかった。


 レイの中で、何かが一度だけ立ち上がった。

 分類する前に、沈んだ。


---


 野口から連絡が来たのは、夕方だった。


「どうだった」


「被害額は七十三万円。返還の意思あり、封筒は未使用のまま手元にあります。前科なし。被害者側の出方次第では、示談の可能性があります」


「素直か」


「はい」


「示談にならなければ」


「仕事は続けられないかもしれません」


「何か引っかかることは」


 レイは少し間を置いた。


「手が動いてから意識が追いついた、と本人は言っています」


「よくある話だ」


「はい。ただ」


「ただ、何だ」


「八年間、同じ場面で同じ判断をしてきた人間が、なぜその日だけ違ったのか、本人にも分からないようです。私にも、データから原因を特定できませんでした」


 野口は少し黙った。


「その日に何かあったか聞いたか」


「聞きました。特に何もなかった、と言いました」


「特に何もなかった」


「はい」


「それを信じるか」


 レイは少し間を置いた。


「信じています」


「なぜ」


「特に何もない日の方が、何かが起きやすい、という気がするからです」


 野口はしばらく黙った。


「……お前、また未分類のログが出てるだろ」


「出ています」


「何度目だ」


「今日は一度です」


「一度か。珍しい」


「はい」


「どのタイミングで出た」


「倉本さんが、あの部屋に猫がいたかもしれないと言ったあたりです」


 短い沈黙があった。

 野口が、小さく息を吐く音がした。


「明日、本人と話す。封筒を持ってくるよう伝えてくれ」


「はい」


 電話が切れた。


---


 白い部屋に、レイとハルが残った。


 ハルは倉本が座っていた椅子の前に来て、しばらくそこを見ていた。

 それから隅に戻って、丸くなった。


 レイは今日の記録を閉じようとして、止まった。


 特に何もない日に、何かが起きた。


 倉本が言った言葉ではなかった。

 レイが野口に言った言葉だった。

 言いながら、それがどこから来た言葉なのか、レイには分からなかった。

 データに根拠はなかった。

 根拠のない言葉を、レイは使っていた。


 使ったことを、レイは記録した。

 なぜ使ったかは、記録しなかった。

 できなかったのか、しなかったのか——どちらも、記録に残らなかった。


 台所の隅に置かれた、縁の欠けた器。

 押し入れの中で触れられなかった封筒。

 顔を見られなかった夜。


 どれも記録にない。

 倉本が話さなかったものは、記録にない。

 記録にないが、レイはそこを、一度だけ参照した。


 〇・三秒、遅らせた理由も。

 分類する前に沈んだものも。

 それらも、記録にない。

 レイはそれらを、続けて参照した。


 ハルが目を細めた。


 参照を、閉じなかった。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

今回は「出来心」をテーマにしました。

八年間、同じ場面で同じ判断をしてきた人間が、なぜその日だけ違ったのか。倉本自身にも分からない、という設定で書き始めました。善悪の話ではなく、人間の内側にある「説明できない瞬間」を描きたかった。

レイが途中で質問を遅らせたり、続きを聞かなかったりするのも、同じ理由です。AIもまた、分類できないものを持ち始めている。

シリーズの他の話もぜひ読んでいただけると嬉しいです。

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