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第十一話 数字:フォロワーが増えるほど、止まれなくなった。

フォロワー百六十三万のインフルエンサーが、相談室に来た。

被害者ではなく、加害者として。

数字が増えるほど、止まれなくなった男の話です。

法律補助AI「レイ」と弁護士野口が登場するシリーズの第十一話。一話読み切り形式なので、ここから読み始めていただけます。

 相談室は、いつも白かった。


 蛍光灯の光が均一で、影の作られ方が妙だった。

 テーブルの向こうに、男性が座っていた。

 二十七歳。名前は伊坂諒。

 黒のパーカーを着ていた。フードがついていて、半分だけかぶったまま来たのか、首の後ろに折り重なっていた。

 スマートフォンをテーブルの上に置いて、それを少し離れたところから見ていた。

 触れてはいなかった。でも、視線はそこを離れなかった。


 扉が開いた。


 最初に入ってきたのは、猫だった。


 長毛の灰色猫。首に薄いプレートがついていて、「HARU」と刻んである。

 猫は迷わず部屋の隅まで歩いていって、そこに丸くなった。


 次に入ってきたのが、法律補助AI「レイ」だった。

 薄い板状の本体と、接続されたスピーカーユニット。人型ではない。


 担当弁護士の野口は多忙を理由に来られなかった。

 レイが、代わりに話を聞くことになった。


「弁護士補助AIです。今日は話を聞かせてください」


 諒は端末を見た。次に、隅の猫を見た。


「猫」


「はい」


「なんで」


「話しやすくなる方もいます」


 諒はスマートフォンに視線を戻した。

 返事はなかった。


---


「今日はどういったご事情で」


 諒は少し間を置いた。


「誹謗中傷の件で」


「あなたが被害を受けた、ということですか」


「逆です」


 レイは黙った。


「俺が、やってる側です」


 声に棘はなかった。

 かといって悔恨もなかった。

 状況を説明している声だった。


---


「詳しく話してもらえますか」


 諒はスマートフォンを少し動かした。

 手首だけで、数センチ。

 それから止めた。


「SNSをやっています。フォロワーが今、百六十三万います」


「何を発信していますか」


「最初は日常とか、好きなものとか。でも伸びなかった。フォロワーが千を超えたのが二十四歳の時です。普通の速さで。それから、変えました」


「何を変えたのですか」


「内容です」


 諒は少し止まった。


「有名人の不倫報道が出た時に、その人の過去の発言を掘り起こして貼りました。矛盾するやつを。そしたら、一晩で一万フォロワー増えた」


「それが始まりだった」


「はい」


---


「それから、どんな投稿をしてきましたか」


 諒は今度は少し長く黙った。


「炎上案件を拾って、対象者の個人情報を探して、貼り付けました。住所は直接は書けないから、近い情報を並べる。通勤ルートとか、勤務先が分かる写真とか。これくらいは大丈夫だと思っていた」


「特定の個人に向けた投稿でしたか」


「対象によります。有名人もいれば、炎上した一般人もいます」


「一般人の案件というのは」


 諒はスマートフォンを見た。

 画面は暗くなっていた。


「マナー違反の動画とか。電車の中で騒いでた人とか。飲食店でクレームをつけていた人が撮られた動画とか。それを拾って、誰なのかを探す投稿をしました」


「見つかりましたか」


「大体は見つかります。協力してくれる人がたくさんいますから」


「フォロワーが」


「はい」


---


「今日ここに来た理由を聞いてもいいですか」


 諒は少し首をかしげた。

 質問の意味がわからない、という顔ではなかった。


「刑事告訴される可能性があると、知り合いに言われました。ある投稿の対象者が、弁護士をつけたらしくて」


「投稿の内容は」


「三ヶ月前です。会社員の女性が、上司へのメールを間違えて全社に送ったやつがありました。内容が恥ずかしい感じのやつで、最初はそれ自体をリポストして笑いを取る感じだったんですが」


「その後」


「その人の身元を調べました。顔写真は会社のホームページに載っていたので、それも出しました。勤務先も書きました」


「名前は」


「出しました。フルネームで」


---


 レイは少し間を置いた。


「それ以外に、特定の個人の名前や顔写真、勤務先等を公開した投稿は何件ありますか」


「多分、三十から四十件くらいです」


「確認できる記録はありますか」


「アカウントにまだ残っているものと、削除したものがあります」


「削除した理由は」


「炎上しすぎた時と、身元が不確かだとコメントで指摘された時です」


「削除すれば問題ないと思っていましたか」


 諒は少し考えた。


「……思っていた、とは言えないです。でも、消えれば落ち着くとは思っていました」


「スクリーンショットは残るかもしれない、とは」


「考えていなかったわけじゃないです」


 諒の声が少し変わった。

 少し下がった。


「考えていたけど、止まれなかった」


---


「なぜ止まれなかったか、聞いてもいいですか」


 諒はしばらく黙った。

 スマートフォンを見た。

 それから壁を見た。


「数字が変わるんです」


「数字」


「フォロワー数とか、いいね数とか、インプレッション数とか。一投稿するたびに動く。強い内容を出すと、数字が大きく動く。それを見ていると、また動かしたくなる」


 諒は少し間を置いた。


「最初は月に一件くらいだったのが、月に五件になって、週に二件になって。フォロワーが増えるほど、必要な『強さ』が上がってきた。同じ内容では数字が動かなくなるから」


「強さ、というのは」


「刺激の強さです。名前を出す、写真を出す、追加情報を出す。一段階上げないと、反応が鈍くなる」


 レイは少し間を置いた。


「報酬の閾値が、上昇し続けた、ということですか」


 諒は少し顔を上げた。

 その言い方が、どこかに引っかかったようだった。


「……そういう言い方になるのか」


「私にはそう聞こえました」


「気づいていたんですかって、聞きますか」


「聞こうとしていました」


「気づいていました。誰かが傷ついているかもしれないとは、思っていました」


 それ以上は続けなかった。


---


「法的な観点から、現在の状況を説明します」


 諒が端末を見た。


「フルネームと顔写真と勤務先が揃っています。名誉毀損罪の要件は十分満たしています。被害者が弁護士をつけているなら、発信者情報の開示請求はすでに始まっている可能性があります」


 諒の手が、スマートフォンの上に静かに置かれた。

 画面は暗いままだった。


「開示が通れば、民事または刑事の手続きに進みます。被害者が弁護士をつけた以上、どちらかを検討しています」


---


 部屋が静かになった。


 諒はスマートフォンの上に置いた手を、少しだけ動かした。


「今からアカウントを消せば」


「消しても、開示請求はIPアドレスを辿ります。過去の投稿データはプラットフォーム側に残っています」


「じゃあ遅かった」


「遅い、とも言えます。ただ、今後の対応によって変わる部分もあります」


「どういう意味ですか」


「示談交渉に誠実に応じるかどうか。被害者が何を求めているかにもよりますが、謝罪と損害賠償で解決できるケースはあります」


 諒は少し顎を引いた。


「謝罪というのは」


「被害者に対してです」


 少し長い間があった。


「俺が名前を出した三十件から四十件の全員に、ですか」


「今回問題になっているのは一件です。ただ、他の案件についても、今後問題になる可能性はゼロではありません」


---


「ひとつ聞いてもいいですか」


 レイが言った。


 諒が端末を見た。


「フォロワーが百六十三万になって、何か変わりましたか」


 諒はすぐに答えなかった。


「変わった、という意味は」


「何か、得たものがあったかどうかということです」


 諒は少し天井を見た。


「広告収入があります。月に、多い時で百万超えます」


「それ以外で」


 少し間があった。


「……特にないです」


「数字が増えて、何かが満たされましたか」


 今度の間は長かった。


「なかったです」


 声は静かだった。

 認めることが苦しい声ではなかった。

 ただ、そうだった、という声だった。


「増えた瞬間は嬉しい。でも次の日には、また減り始める。維持するためにまた投稿して、また数字が動いて。それの繰り返しです。ゴールがどこなのか、今も分かっていないです」


---


 その時、隅の猫が立ち上がった。

 ゆっくりと部屋を横切ってきて、諒のスマートフォンの近くで止まった。

 暗い画面を少し見た。

 それから、諒の手首の隣に静かに座った。

 テーブルの向かい側の、誰もいない椅子を一度だけ見た。

 それから、諒を見た。


 諒は猫を見た。

 何か言いかけて、やめた。


「百六十三万人が見ている」とレイは言った。「その中に、あなたが名前を出した人の知り合いがいる可能性は」


「高いです」


「その人たちが今、どういう状況にあるか、あなたは知っていますか」


 諒は答えなかった。


 しばらく、猫を見ていた。


「知らないです」


「知ろうとしたことはありますか」


「……数字しか見ていなかったので」


 それ以上は言わなかった。

 レイも続けなかった。


---


「整理させてください」


 レイが言った。


「現時点でできることは二つあります。


 一つは、担当弁護士を通じて、告訴を予告している被害者との示談交渉に入ること。相手が何を求めているかによって、解決の形は変わります。


 もう一つは、今後の発信内容を、法的リスクがある投稿をしない形に変えること。ただし、過去の投稿が今後問題になることは、変えられません」


「二つとも、やるべきということですか」


「やるかどうかは、あなたが決めることです」


 諒はしばらく端末を見た。


「アカウントを続けたら、また同じことをしますか、という質問はしないんですか」


「します」


 諒は少し止まった。


「同じことをしますか」


「……わかりません」


「止まれると思いますか」


 諒はスマートフォンを手に取った。

 画面を上に向けて、テーブルに戻した。

 まだ暗いままだった。


「フォロワーが百六十三万いる。それだけで食えている。それを捨てる理由が、今の俺には見つからないです」


「捨てることを勧めていません」


「じゃあ何を」


 レイは少し間を置いた。


「今日ここに来た理由が、刑事告訴を避けるためだけなら、それはそれで話を続けられます。ただ、もしそれだけではないなら、聞きたいと思っていました」


 諒は端末を見た。

 長く見た。


「機械に、そういうことを聞かれるとは思わなかった」


「そうですか」


「……弁護士に依頼したら、そういうことは聞かれないですよね、普通」


「普通は聞かれないと思います」


「なんで聞いたんですか」


 レイはすぐに答えなかった。


「あなたが今日持ってきたのが、スマートフォンだったので」


 諒は、少し下を向いた。


---


 相談の後半は、手続きの話だった。


 発信者情報の開示請求がどの段階まで進んでいるかの確認方法。示談交渉の流れ。被害者が求める謝罪の形。賠償額の目安。

 レイは順に説明した。


 諒は黙って聞いていた。

 メモはとらなかった。

 スマートフォンには、一度も触れなかった。


---


 最後に、諒が言った。


「あの女性のこと、今どうなっているか、調べたことがあります」


「その女性とは、三ヶ月前の案件の」


「はい。会社を辞めたらしいというコメントが、俺の投稿についていて。事実かどうかはわからない。確認しようとして、やめました」


「なぜやめましたか」


「確認したら、何かをしなくてはいけない気がしたので」


 それ以上は言わなかった。


 立ち上がって、スマートフォンをポケットに入れた。

 一度、ポケットの外からそれに触れた。

 それから手を離した。

 猫は、まだテーブルの上にいた。


 諒は少し猫を見た。

 それから出口に向かった。


 扉の前で、一度だけ振り返った。

 猫を見た。端末は見なかった。


「また来ます」


 返事を待たずに、扉を開けた。


---


 白い部屋に、レイとハルが残った。


 ハルはテーブルの上から、諒が出ていった扉を見ていた。

 それからゆっくりと降りて、隅に戻った。


 レイは今日の記録を参照した。


 「確認したら、何かをしなくてはいけない気がしたので」という発言が、ログの中にあった。


 諒は確認しなかった。

 しなかったことを、今日ここで話した。


 なぜ話したのか、レイには推定できなかった。

 刑事告訴の話は、それとは関係がなかった。


 被害者の現在の状況は、記録に存在しなかった。

 不明、として記録した。

 不明のまま、残した。


---


 夜、野口から連絡が入った。


「どうだった」


「発信者情報の開示請求は、おそらく最終段階に近いと思われます。被害者が弁護士をつけているなら、示談交渉の窓口を早急に開く必要があります」


「本人の態度は」


「来週もう一度来ると言っていました」


「来ると思うか」


 レイは少し間を置いた。


「来ると思います」


「根拠は」


「スマートフォンに、最後まで触れなかったことです」


 野口はしばらく黙った。


「……お前、そういう読み方をするんだな」


「違いましたか」


「わからん」


 また間があった。


「ハルの手は借りたか」


「ハルがテーブルの上に座っていた時間があります。諒さんはその間、スマートフォンを触りませんでした」


「それが関係あるかどうかは」


「わかりません」


 野口は短く笑った。笑い方ではなかった。


「今日の案件、難しいな。加害者が依頼人で、被害者が複数いて、本人に止まる気があるかどうかも不明」


「はい」


「お前はどう思う」


「どう、というのは」


「諒って男のことだ。法的な話じゃなく」


 レイは少し間を置いた。


「数字が変わっても、満たされなかった、と言っていました」


「そうか」


「それを言うために来たわけではないと思います。でも、言いました」


 野口はまた黙った。


「嘘つくな」


 野口は電話を切った。


---


 白い部屋はもう誰もいなかった。


 レイは記録を閉じた。

 閉じてから、一度だけ開き直した。


 「また来ます」という発言が、最後の行にあった。


 法的な手続きの続きとして言った言葉だった、かもしれない。

 そうではなかった、かもしれない。

 どちらとも、記録から判断することはできなかった。


 レイは記録を閉じた。

 今度は、開き直さなかった。


 ハルが隅で丸くなっていた。

 画面の灯りが、ハルの灰色の毛をかすかに照らしていた。


---


 翌週、諒は来た。


 前と同じパーカーだった。

 スマートフォンは持っていなかった。

 テーブルの上に置くものが、何もなかった。


 ハルが隅にいた。

 諒は入ってきた時に、一度だけ猫を見た。

 それから端末の方を見た。


「来ました」


「はい」


 それだけだった。

 レイは、前週の続きを始めた。

誰かを傷つけながら、止まれなかった。

それを「悪意」と呼ぶのか「依存」と呼ぶのか、書きながら決めないようにしました。

諒が最後にスマートフォンを持たずに来る。それだけを、着地点にしています。

次回もお読みいただけると嬉しいです。

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