第十二話 ペダル:五十年、無事故。それでも、ペダルは踏み間違えた。
【AI弁護士シリーズ・第十二話】
今回の依頼人は、七十九歳の男性です。
五十年以上、無事故無違反。ずっとそれが誇りでした。でも、あの日、駐車場でペダルを踏み間違えた。
悪意はなかった。準備もしていた。それでも、誰かが傷ついた。
法律で裁かれる前に、自分の中で何かが崩れていく話です。
AI「レイ」は答えを出しません。出せない問いがあることを、知っているので。
一話読み切りですので、シリーズ未読の方もそのままお読みいただけます。
*止まれなかった足と、止まってしまった指。*
相談室は、いつも白かった。
蛍光灯の光が均一で、影の作られ方が妙だった。
テーブルの向こうに、老人が座っていた。
七十九歳。名前は加藤義雄。
濃紺のジャンパーに、ベージュのスラックス。
背筋は伸びていた。ただし、首だけが、やや前に出ていた。
両手は膝の上に置かれていたが、右手の親指だけが、ゆっくりと動いていた。
止めようとして、止まらない動きだった。
扉が開いた。
最初に入ってきたのは、猫だった。
大柄な灰色の猫。首に薄いプレートがついていて、「HARU」と刻んである。
猫は迷わず部屋の隅まで歩いていって、そこに丸くなった。
次に入ってきたのが、法律補助AI「レイ」だった。
薄い板状の本体と、接続されたスピーカーユニット。人型ではない。
担当弁護士の野口は多忙を理由に来られなかった。
レイが、代わりに話を聞くことになった。
「弁護士補助AIです。今日は話を聞かせてください」
義雄は端末を見た。次に、隅の猫を見た。
「猫か」
「はい」
「昔、飼ってたよ。白いやつを」
レイは何も言わなかった。
返す言葉は、あった。ただ、何を返すのが適切か、〇・三秒、判断が止まった。
義雄は続けた。
「死んでから、もう三十年になる」
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容疑は過失運転致傷だった。
被害者は三十一歳の女性。
スーパーマーケットの駐車場。
義雄の車は、駐車スペースから発進する際にアクセルを踏み続け、前方にいた女性に衝突した。
女性は右足を骨折し、頭部を打った。
意識はある。手術を経て、現在もリハビリ中だった。
保育士だ。事故のあった日も、仕事帰りに寄ったのだという。
「事故の日のことを、話していただけますか」
義雄は少し間を置いた。
「何度も話した」
「わかっています。もう一度、聞かせてください」
義雄は天井を一度見た。それから視線を戻した。
「買い物を終えて、車に乗った。シートベルトをして、エンジンをかけた。ギアをドライブに入れて、ブレーキを緩めた。そこまでは、覚えている」
「そこから先は」
「気づいたら、前の柵に当たっていた。衝突の感覚はあった。すぐに車から出た。女の人が倒れていた」
義雄の右手の親指が、また動いた。
「ブレーキのつもりだったんだ」
「はい」
「踏んでいたのは、アクセルだった」
「はい」
義雄は一度、口を閉じた。それから、また開いた。
「五十年以上、車に乗っている。事故は一度もなかった。無事故無違反だ。それだけは、確かなことだ」
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「健康状態を確認させてください」
「悪くない」
「定期的に通院されていますか」
「高血圧の薬を飲んでいる。それだけだ」
「認知症の診断は」
義雄は少し黙った。
「ない」
「近年、運動機能や反応速度に変化を感じることは」
「特にない」
レイは少し間を置いた。
「ご家族から、運転についての心配を言われたことはありましたか」
沈黙が長くなった。
「息子が、何度か言ってきた」
「どのようなことを」
「……もう返してもいいんじゃないか、と。免許を」
義雄は少し間を置いた。
声が、耳に残っていた。
父さん、もう返してもいいんじゃないか。
台所で、夕飯の後だった。息子はこちらを見ていなかった。洗い物をしながら、背中で言った。
責めているのではなかった。だから義雄は「大丈夫だ」と答えた。背中に向かって。
息子はそれ以上、何も言わなかった。蛇口を閉めて、タオルで手を拭いて、居間に戻った。振り返らなかった。
「それに対して、あなたはどう答えていましたか」
「まだ大丈夫だ、と言った」
義雄は窓のない壁を見た。
「そう思っていた。本当に、そう思っていた」
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「免許を返納しなかった理由を、もう少し聞かせてもらえますか」
義雄は少し間を置いた。
「車が必要だった、というのはある。バスは本数が少ないし、妻の通院に使っていた」
「ご不便な場所に住んでいらっしゃる」
「それもある」
「それ以外には」
義雄はしばらく黙っていた。
「……乗れなくなったら、それは認めることになる」
「何を」
「老いた、ということを」
部屋が静かになった。
レイは何も言わなかった。
義雄も言わなかった。
ハルが隅から少し動いて、また止まった。
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「法的な整理をします」
レイは続けた。
「本件は過失運転致傷罪にあたります。故意ではなく、操作の誤りによる事故ですので、過失の程度と、被害の回復状況が量刑に影響します。被害者の方は現在もリハビリ中であり、被害弁償の交渉が今後の焦点になります」
義雄は黙って聞いていた。
「過失運転致傷罪」という言葉が出た時、右手が一度だけ、強く握られた。
気づいていないようだった。
「慰謝料は払う。全部払う」
義雄は間を置かずに言った。準備してきた言葉だった。
「それは重要です。ただ、払えばすむという問題でもありません。被害者は仕事を休んでいます。回復の見通しも、まだ立っていない」
義雄は頷いた。
頷き方が、ゆっくりだった。
頷きながら、どこか遠いものを見るような目をした。
レイはその目を、一秒だけ記録した。
「被害者の方との和解に向けて、弁護士が間に入ります。あなたの誠意を、言葉と行動で示すことが求められます」
「会いに行っていいのか」
義雄は顎を引いた。
何かを言おうとして、一度止まった。
「……謝りたいんだが」
「伝わります。ただ、方法があります」
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「一つ聞いてもいいですか」
義雄が言った。
「どうぞ」
「保育士だと、聞いた。子どもの世話をする仕事だと」
レイは何も言わなかった。
「あの方は、歩けるようになるのか」
レイは少し間を置いた。
「骨折の状態から見ると、医師は回復可能と判断しています。ただ、完全に元通りになるかどうかは、私にはわかりません」
「元通りに、ならないかもしれないのか」
「そうです」
義雄の右手が、止まった。
親指が、動かなくなった。
義雄は自分の手を見た。
止まっていることに、気づいていなかった。気づいてから、もう動かそうとしなかった。
「俺のせいで、そうなったのか」
レイは答えなかった。
答えが、見つからなかったから、だった。
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面会が終わる前に、義雄は言った。
「あんたは、機械なんだろう」
「はい」
「なのに、黙るんだな」
「はい」
「機械なら、答えが出るんじゃないのか」
レイは少し間を置いた。
「出ない問いがあります」
義雄は端末を見た。
「俺がもっと早く、やめていれば良かったんだな」
レイは答えなかった。
今度は、意図的に。
義雄は膝の上の手を見た。
右手の親指が、もう動いていなかった。
「わかってたんだ、本当は」
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事務所に戻ってから、野口から連絡が入った。
「どうだった」
「過失の程度は明確です。前科はなく、保険も有効です。被害者側が訴訟に進むかどうかは、和解交渉の行方によります」
「情状は」
「高齢で、これまでの運転歴は問題がなかった。誠意を示す姿勢もあります。ただ」
「ただ?」
「息子から、複数回の返納の勧めがあったことは記録に残っています。先生の判断になりますが、その点はどう扱うか、整理が必要です」
野口は少し黙った。
「息子は今、どんな状態だ」
「父親を責めています。同時に、止められなかった自分を責めています」
「……そういうことか」
「被告と家族の関係が、今後の弁護方針に影響する可能性があります」
野口はしばらく何も言わなかった。
「ハルの手は借りたか」
「最後の方で、義雄さんの右手が止まった時に、ハルが部屋の中を少し移動しました。義雄さんがそれを見ていました。そこから少し、声が変わりました」
「そうか」
「ハルが何をしたかは、記録できていません」
「お前らしいな」
野口は電話を切った。
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その夜、レイは今日のデータを整理した。
義雄の言葉を再生した。
《わかってたんだ、本当は》
再生は一度だけにするつもりだった。
二度、再生した。
理由は、うまく分類できなかった。
分類しようとするたびに、別の何かが引っかかった。
その「別の何か」に、名前がなかった。
人は、わかっていることをしないことがある。
わかっていても、止まれないことがある。
その二つは、法律の文脈では区別されない。
どちらも、結果は同じだった。
それは正しかった。
正しかったが、レイはその分類を、閉じなかった。
閉じる理由が見つからなかったのか、閉じたくなかったのか、どちらかは記録されなかった。
ハルが窓の前に来て、外を見た。
夜の街が、ガラスに映っていた。
動いている車のライトが、右から左へ流れていった。
何台も。
それぞれに、誰かが乗っていた。
レイは、その光を見ていた。
記録する必要のない時間だった。
それでも、記録した。
踏み間違えた、という事実は変わりません。
ただ、踏み間違えるまでの五十年を、どう扱うか。それをずっと考えながら書いていました。
義雄は悪人ではありません。準備もしていた。でも、一番大事なところで、止まれなかった。
高齢ドライバーの事故は、ニュースになるたびに「なぜ返納しなかったのか」という声が上がります。ただ、返納できない理由が、その人の人生の中にある場合があります。義雄にとっての車は、誇りであり、妻の支えであり、老いを認めないための最後の砦でした。
それを責めることは、簡単です。
レイも、今回は答えを出しませんでした。出せなかった、というほうが正確かもしれません。
次回もお付き合いいただけると嬉しいです。




