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第十三話 音:理由より先に、指だけが動いていた。

有名作曲家の転落と、それを静かに聞いたAIの記録。

一話完結です。

 相談室は、いつも白かった。


 蛍光灯の光が均一で、影の作られ方が妙だった。

 テーブルの向こうに、男性が座っていた。

 四十七歳。名前は来生龍一。

 薄いグレーのシャツを着ていた。袖口にインクか何かの染みがあった。古い染みだった。

 指が長かった。

 テーブルの上に両手を置いて、時々、左手の指が小さく動いた。

 何かを弾くような動き方だった。

 本人は気づいていないようだった。


 扉が開いた。


 最初に入ってきたのは、猫だった。


 やや大きめの、灰色がかった白猫。首に薄いプレートがついていて、「HARU」と刻んである。

 猫は迷わず部屋の隅まで歩いていって、そこに丸くなった。


 次に入ってきたのが、法律補助AI「レイ」だった。

 薄い板状の本体と、接続されたスピーカーユニット。人型ではない。


 担当弁護士の野口は多忙を理由に来られなかった。

 弁護士補助AIが勾留中の聴取に立ち会うことは、三年前から制度上認められていた。

 レイが、代わりに話を聞くことになった。


「弁護士補助AIです。今日は話を聞かせてください」


 龍一は端末を見た。次に、隅の猫を見た。


「猫が」


「話しやすくなる方もいます」


 龍一は少し間を置いた。

 また指が動いた。


「そうですか」


 それだけ言って、端末に目を戻した。


---


「容疑は、大麻取締法違反です」


 レイが言った。


 龍一は頷いた。


「初犯ですか」


「所持の方は。使用は、三年になります」


「最初に手を出したのは、どういう経緯でしたか」


 龍一は少し天井を見た。


「知人から勧められました。眠れなかったので」


「眠れなかった、というのはいつ頃からですか」


「五年前くらいから、だんだん悪くなっていました」


 レイは何も言わなかった。


 龍一は続けた。


「仕事のプレッシャーがあって、という説明だと正確じゃないかもしれない。眠れないのは昔からです。でも、五年前から、眠れない夜の中身が変わった」


「中身、というのは」


 龍一はテーブルを見た。

 指が、少し動いた。


「音が、なくなりました」


---


 来生龍一は、作曲家だった。


 二十三歳でデビューした。映画音楽から始まって、気づいたらドラマ、CM、ゲーム、アニメ。年間に書く曲の数が、他の人間の三倍になっていた。

 賞をいくつか取った。インタビューが増えた。「感性の人」と呼ばれた。

 本人にはよくわからなかった。

 書いていた。それだけだった。

 書けば、音楽になった。それが長いこと、当然のことのように続いた。


「五年前、何かきっかけがありましたか」


「あったのかもしれません。よくわかりません」


「作品の発表が途絶えた時期がありましたか」


「三年前から、ほとんど出していません」


「依頼は」


「断っています。断り続けています」


「なぜ」


 龍一は少し間を置いた。


「書けないからです」


 声に、何もなかった。

 怒りでも、悲しみでも、諦めでもなかった。

 ただ、事実として言った。


「書けなくなったのはいつ頃からですか」


「正確には、書いたものが、音楽に聞こえなくなった。五年前から」


---


「大麻を使い始めてから、書けるようになりましたか」


 龍一は少し止まった。


「最初の半年は、そう思っていました」


「その後は」


「思わなくなりました」


「どう変わりましたか」


 龍一はしばらく黙った。


「最初に使ったとき、音の聞こえ方が変わって。静かになった。余計なものが消えた気がして、そこに音楽があると思いました。すごく確かに」


 レイは何も言わなかった。


「でも書けなかった。確かに聞こえているのに、紙に出てこなかった。どこかに引っかかって、出てこなかった。それでまた使って、また聞こえて、また出なかった。その繰り返しでした」


「何年も、そういう状態が続いたんですか」


「そうです」


 レイは少し間を置いた。


「その間、仕事の依頼はありましたか」


「ありました。最初の二年は、まだ断りきれなくて。締め切りに間に合わせようとして、使って、それでも間に合わなかったことが何度もあって。迷惑をかけた人間がいます」


「身体面は」


「眠れなくなりました。逆に。使わないと眠れなくなった。気づいたのは、一年が経ってからです」


 龍一の指が、テーブルの上で少し動いた。それから止まった。


---


「今回の逮捕について、確認させてください」


「はい」


「所持の状況は」


「自宅で。量はわずかです」


「入手経路は」


 龍一は少し間を置いた。


「三年付き合った男性から、もらっていました」


「その方は」


「今は関係ありません。逮捕の少し前に、終わっていました」


 レイは何も言わなかった。


「関係が終わった後も、残っていた分を持っていました。捨てられなかった」


「捨てられなかった理由は」


 龍一は少し下を向いた。


「わかりません。音楽のためにとっておいたつもりではなかった。ただ、捨てられなかった」


---


「法的な確認をいくつかさせてください」


「はい」


「前科はありますか」


「ありません」


「現在、仕事の依頼はありますか」


「ありません」


「収入は」


「貯金を切り崩しています。あと一年、保つかどうかくらいです」


「今後の創作について、何か考えていますか」


 龍一は答えなかった。

 すぐには。


「考えていない、というのが正確かもしれません」


「考えていない、というのは」


「今は、書けるかどうかより先に、書く理由を探している。でも、見つからない」


 レイは少し間を置いた。


「それはいつから、そう思うようになりましたか」


「音がなくなってから、ずっとです」


「音楽の依頼を断り続けた三年間も、ですか」


「そうです」


「大麻を使い続けた三年間も」


「そうです」


 部屋が静かになった。

 龍一は端末を見ていた。

 判断できない顔だった。

 問い詰められているとも、助けを求めているとも、見えなかった。


---


 レイは少し間を置いてから言った。


「音がなくなった、というのを、もう少し話せますか」


 龍一は少し驚いた顔をした。


「法的な話じゃないですよね、それは」


「そうです」


 龍一はしばらく黙った。


「関係あるんですか」


「わかりません。ただ、聞いておきたいと思いました」


 龍一は少し端末を見た。次に、隅のハルを見た。

 ハルは丸くなったまま、こちらを見ていなかった。


「音がなくなった、というのは、正確に言うと」


「……書いたものが」


 止まった。


「書いたものが、なんというか」


 また止まった。

 指が動いた。


「音が、意味に結びつかなくなった。和音を書いても、それが何なのか、わからない。昔はわかっていたはずなのに」


 龍一は少し首を振った。


「……それも正確じゃないかもしれない」


「届いているかどうか、という話でもなくて」


 龍一は、また言いかけて止まった。

 自分の言葉に、違うと首を振った。


「そういう話でも、ないかもしれない。もっと手前の」


 また止まった。

 今度は長かった。


「何かを感じて、それを音にする、という順番が、あったはずなんです。ずっと。でも、その……感じる、という部分が、どこにあるのか、わからなくなった」


 また止まった。


「感じていないのか、感じているのに出てこないのか。そもそも、その区別がつかなくなって」


 龍一は少し間を置いた。


「……たとえばの話ですが」


「以前は、譜面の一行目を書いた瞬間に、最後まで見えた。でも、ある時から、最初の一行が、ただの記号になった」


 龍一はそこで止まった。


 部屋が静かになった。

 かなり長い間、龍一は何かを探していた。


「……わかりません」


 最後にそう言った。

 諦めたのではなかった。

 本当にわからないのだった。


「誰かに言うのは、初めてです」


 それから、隅の猫を見た。

 ハルはこちらを見ていなかった。

 丸くなったまま、目を細めていた。

 龍一はしばらく、その小さな灰色の背中を見ていた。


---


「当時、誰かに相談しましたか」


「しませんでした」


「なぜ」


 龍一は少し考えた。


「書けない、という話は、仕事の話だと思っていました。弱音だと。そういうことを言える相手が、周りにいなかった」


「三年前に交際を始めた方とは」


「話しました。でも、わかってもらえなかった」


「わかってもらえなかった、というのは」


「頑張れば出てくる、と言いました。プレッシャーのかけすぎだって。そういう話じゃなかった。私が説明できなかったのかもしれません」


 レイは何も言わなかった。


「でも、大麻については相手の方が詳しくて、これで楽になれるかもしれない、と言われた時は、少し信じました。信じたかったのかもしれない」


---


 扉の外を、誰かが歩く音がした。

 遠ざかって、消えた。


「来生さん」


「はい」


「逮捕されてから、どのくらい経ちますか」


「三週間です」


「この三週間、何か変わったことはありましたか」


 龍一は少し止まった。


「音楽の話でいいですか」


「はい」


「久しぶりに、ラジオを聴きました。夜中に。留置の中で、ラジオが流れていて」


「どうでしたか」


「昔の自分が書いた曲が、流れました」


 龍一は少し間を置いた。

 かなり長い間だった。


「聞こえました」


 それだけ言った。

 言い終えてから、龍一の左手がテーブルの上でわずかに動いた。

 本人は気づいていないようだった。

 曲が何だったかは、言わなかった。

 レイも聞かなかった。


---


 隅のハルが立ち上がった。

 ゆっくりと歩いてきて、テーブルの脚に頭をこすりつけた。それから龍一の足元に座った。

 見上げることもせず、ただそこにいた。


 龍一は少し下を見た。

 テーブルの上の指が、しばらく動かなかった。


---


 その後、レイは手続きの説明をした。


 執行猶予の見通し。裁判の流れ。今後の生活への影響。


 龍一は黙って聞いていた。

 途中で一度だけ、確認のための質問をした。

 的確な質問だった。

 自分の置かれた状況を、感情より先に把握しようとしている人間の聞き方だった。


「ありがとうございます」


 最後に龍一は言った。


「何かお聞きになりたいことはありますか」


 龍一は少し考えた。


「先生には、直接会えますか」


「日程を調整します」


 龍一は頷いた。


 立ち上がろうとして、少し止まった。


「さっき、音がなくなった話をしましたが」


「はい」


「また聞こえるようになるかどうか、あなたにはわかりますか」


 レイは少し間を置いた。


「わかりません」


 龍一は少し笑った。

 笑い方かどうか、判断しにくい動き方だった。


「そうですよね」


「ただ」


 レイは続けた。


「三週間前、ラジオで聞こえたと言いましたね」


 龍一は端末を見た。


「そうです」


「それは、記録しています」


 龍一は何も言わなかった。

 ただ、少しだけ、指が動いた。


---


 扉が閉まった。


 白い部屋に、レイとハルが残った。


 ハルは龍一が座っていた椅子の方を、しばらく見ていた。

 それから隅に戻って丸くなった。


 レイは今日の記録を参照した。


 「音楽が聞こえなくなった」という発言は、法的な書類のどこにも載らない。

 「三週間前、ラジオで聞こえた」という発言も、同様だった。


 それでも記録した。


 理由は説明できなかった。

 ただ、残した。

 残すことで何かが変わるわけではない。

 それでも、なくなってほしくなかった。

 その感覚に、名前はなかった。


---


 夜、野口から連絡が入った。


「どうだった」


「初犯、少量、自白。執行猶予の見通しは高いと思います。ただ、本人が今後の生活をどう立て直すかが、情状に影響する可能性があります」


「仕事は」


「三年、ほとんど動いていません。収入もほぼない。その点は先生に直接確認していただく方がいいと思います」


「有名な人間なんだろ、一応」


「有名かどうかは、法的に関係ありません」


 野口は少し黙った。


「……そういうとこだよ、お前は」


「わかっています」


「なんだ、今日は素直だな」


「今日の依頼人は、正直な人でした」


 野口はしばらく何も言わなかった。


「それは、どういう意味だ」


「答えにくいことも、正確に答えようとしていました」


「お前みたいだな」


「そうかもしれません」


 野口は短く笑って、電話を切った。


---


 その夜、龍一は眠れなかった。


 白い部屋の天井を見ていた。

 三週間で、少し見慣れた天井だった。


 ラジオはもう流れていなかった。


 龍一は目を閉じた。

 瞼の裏で、指が動いた。

 何かを弾くような動き方だった。


 音は出なかった。

 でも指は動いた。


 どこへ行こうとしているのか、龍一にはまだわからなかった。

 誰かに届けたいのか、届けなくていいのか、それもわからなかった。


 わからないまま、指は続いた。

 理由は、あとからくるのかもしれなかった。

「聞こえなくなった」と「また聞こえた」の間に、何があったのか。

龍一はそれをまだ知りません。

指だけが、先に動いていました。

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