第十四話 レンズ:娘が使っていたかもしれない。
小学校のトイレに、カメラが仕掛けられていた。
被害者かどうか、まだわからない。そういう場所にいる母親の話です。
法律補助AI「レイ」による一話読み切りシリーズ、第十四話。
相談室は、いつも白かった。
蛍光灯の光が均一で、影の作られ方が妙だった。
テーブルの向こうに、女性が座っていた。
三十八歳。名前は倉橋亜紀。
ダウンジャケットを羽織ったまま、ファスナーまで閉めていた。
六月だった。
窓はないが、外は確実に暑いはずだった。
扉が開いた。
最初に入ってきたのは、猫だった。
やや大柄な、縞模様の灰猫。首に薄いプレートがついていて、「HARU」と刻んである。
猫は迷わず部屋の隅まで歩いていって、そこに丸くなった。
次に入ってきたのが、法律補助AI「レイ」だった。
薄い板状の本体と、接続されたスピーカーユニット。人型ではない。
担当弁護士の野口は多忙を理由に来られなかった。
レイが、代わりに話を聞くことになった。
「弁護士補助AIです。今日は話を聞かせてください」
亜紀は端末を見た。次に、隅の猫を見た。
それから、また端末に視線を戻した。
猫については、何も言わなかった。
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「子どもの学校の話です」
亜紀はそう言った。
「お子さんの年齢を聞いてもいいですか」
「小学三年生です。九歳で」
「学校で何か」
「先生が……捕まりました。盗撮で」
レイは何も言わなかった。
「女子トイレに、カメラを仕掛けていた。男の先生です。今月の頭に」
「そのことを知ったのはいつですか」
「一週間前に、学校から文書が来て。でも文書には、詳しいことが書いていなくて。担任に聞いたら、被疑者が特定されたとだけ言われて、それ以上は答えられないと」
亜紀はファスナーを少し触った。
下げなかった。
「娘が……そのトイレを使っていたかもしれなくて」
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「状況を整理させてください」
「はい」
「容疑者は、どの立場の教員ですか」
「五年生の担任です。娘は三年なので、直接の担任ではないんですが。体育館を使う時とか、廊下で会う時とか、知ってる先生です」
「カメラが設置されていた場所を、学校から具体的に聞いていますか」
「聞いていません。お知らせの文書には、校内施設と書いてあるだけで」
「捜査の状況は」
「逮捕はされたと聞きました。それだけです。学校が教えてくれないので、ネットで探したら、名前は出ていなかったんですが、地元の学校のことらしいと」
亜紀は一度だけ、息を吐いた。
「娘には、まだ何も言っていません。学校に行くのを嫌がるようになったら、どうしようと思って」
レイは少し間を置いた。
「嫌がるようになりましたか」
亜紀は答えるまでに、時間がかかった。
「昨日の朝、お腹が痛いと言って。でも熱はなくて。結局、行ったんですが」
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「今日、相談に来られた目的を確認させてください」
「娘が……被害を受けているかどうか、知る方法があるかどうか聞きたかったんです。被害者の親に、学校は教えなくていいのか、とか」
「それから」
亜紀は少し言いよどんだ。
「もし被害を受けていたとして。娘が、まだ知らないとして。親の私たちは、何かできることがあるのか」
レイはすぐに答えなかった。
亜紀が続けた。
「無理に言わせた方がいいのか、知らないままにしておく方がいいのか、ずっとわからなくて。夫は、余計なことを言って傷つけたくないと言っていて。私は、何も知らないまま大きくなった時に、後で知ったら余計に辛いんじゃないかと思って」
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「いくつか、順番にお話しします」
「はい」
「まず、学校側の情報開示について。設置場所が女子トイレであった場合、学校は被害の可能性がある児童の保護者に対して、個別に説明する義務があります。文書一枚で済ませることが適切とは言えません」
亜紀は少し前に傾いた。
「義務、という言葉を使っていいですか」
「はい。ただ、法律が明示しているというより、学校保健安全法上の安全確保義務から導かれる実務上の義務です。個別説明を求めることは、保護者として正当な権利です」
「断られたら」
「教育委員会に申入れることができます。また、今後、刑事手続の中で被害の範囲が特定されます。捜査機関が撮影記録を押収していれば、検察を通じて被害の有無が確認される過程があります。そこで娘さんのことが明らかになる可能性もあります」
亜紀は頷いた。頷きながら、少し体が縮んだように見えた。
「明らかになる、というのは」
「撮影されていた記録が存在した場合、という意味です。捜査の結果、被害者として認定される過程で、保護者への通知が行われるケースがあります」
「その通知が来たら、娘に……」
亜紀は続けなかった。
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「娘さんへの対応についてです」
レイは少し間を置いてから言った。
「これは法的な判断ではありません。ただ、参考として聞いてください」
「はい」
「子どもが性的な被害を受けた可能性がある場合、親が先に知って何も言わないまま時間が経つのは、子どもにとって難しい状況を作ることがあります。子どもは、大人の様子の変化を察知する」
亜紀はジャケットのファスナーに触れた。今度は少し、下げた。
「察知する、というのは」
「何か起きている、ということは感じていても、内容がわからない。大人が言えないことは、自分が悪いことをしたせいだと解釈する子どもがいます」
亜紀は何も言わなかった。
「伝えるかどうか、どのように伝えるかは、親御さんと専門家が一緒に考えることです。性暴力被害の支援に特化した相談機関があります。弁護士の前に、そちらに相談することを勧めます」
「弁護士の前に?」
「あなたが必要としているのは、今日の段階では、法律の話より先に、娘さんへの接し方について誰かと話すことだと思います」
亜紀は端末を見た。少し長く。
「機械に、そういうことを言われると思わなかった」
「そうですか」
「悪い意味じゃ、ないです」
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猫が、立ち上がった。
ゆっくりと部屋を横切って、亜紀のすぐ横の床に来た。
座った。
見上げはしなかった。
ただ、そこにいた。
亜紀は少しだけ下を見た。
それから、ジャケットのファスナーを最後まで下げた。
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「学校への申入れは、どうすればいいですか」
「口頭ではなく、書面で行うことを勧めます。記録が残ります。内容は、設置場所の特定と被害確認の状況、および個別説明の要請です。回答期限も明記してください。返答がない場合、その不対応自体が次の申立ての根拠になります」
「書いたことがないので」
「雛形をお渡しできます。野口のところから送ります」
「ありがとうございます」
亜紀は少し間を置いた。
「先生は……なぜそういうことをするんですか」
レイはすぐに答えなかった。
「理由を私が説明できるとは思いません。ただ、娘さんのお腹の痛みと、先生の動機は、別のことです」
亜紀は頷かなかった。
頷かないまま、少し前を向いた。
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面会が終わる前に、亜紀が言った。
「子ども相談センター、というところに電話してみます」
「そこと、もう一つ。性暴力被害者支援のための機関が、都道府県に一つずつあります。学校が設置場所を教えなくても、相談員が個別に動ける場合があります」
「そうですか」
「番号をお渡しします」
亜紀は立ち上がって、鞄を持った。
扉の前で、一度だけ振り返った。
「娘が、知らないままでいる方がいいか、知っている方がいいか、まだわからないんですが」
レイは答えなかった。
亜紀は続けた。
「でも……お腹が痛い、って言った時に、なんでもないよ、って言ってしまって。それだけが、ずっと気になっていて」
それだけ言って、扉を開けた。
振り返らなかった。
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白い部屋に、レイとハルが残った。
ハルは亜紀が座っていた椅子の前にしばらくいた。
ジャケットの匂いが、まだ残っていた。
ハルはそれを少しの間、嗅いだ。
それから隅に戻って、丸くなった。
レイは今日の記録を参照した。
「なんでもないよ、って言ってしまって」
法的な観点から、その発言は記録する必要がなかった。
それでも、記録した。
そこで一秒だけ、処理が止まった。
亜紀が今日、ここに来た理由は、法律の話ではなかった。
法律の話でもあったが、本当は違った。
レイはそれを、最初の十分で把握していた。
把握していても、最後まで聞いた。
その理由は、記録項目にはなかった。
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夕方、野口から連絡が入った。
「どうだった」
「学校への申入れ書面を作ります。設置場所の特定と被害確認、個別説明の要請です」
「本人の気持ちは」
「娘への対応について、支援機関に繋ぎました」
「それだけか」
レイは少し間を置いた。
「朝、娘さんにお腹が痛いと言われた時に、なんでもないよと言ってしまったことを、気にされていました」
野口は黙った。
「法的には関係ない話だろ」
「そうです」
「じゃあなんで言う」
レイは答えなかった。
野口はしばらく黙った。
「……申入れ書面、明日には送れるか」
「はい」
「頼んだ」
電話が切れた。
レイは書面の作成を始めた。
宛先は学校長。件名は「学校施設内における撮影事案に関する情報開示請求」。
文字を並べながら、レイは一度だけ止まった。
「なんでもないよ」という言葉が、なぜ記録から消えなかった。
理由は、分類できなかった。
「未分類」のままにした。
それから、書面の続きを打った。
ハルは窓の前にいた。
窓はなかった。
ただ、壁を向いて座っていた。
何を見ているのかは、わからなかった。
「なんでもないよ、って言ってしまって」
亜紀のこの一言が、最初にありました。
法律では救えないが、誰かに聞いてもらう必要がある言葉というものがあると思って書きました。




