第十五話 距離:応援していただけだと、思っていた。
法律補助AI「レイ」が相談を聞く、一話読み切りシリーズ第15話です。
今回の依頼人はストーカー規制法の警告を受けた二十九歳の男性。
「ファンとして応援していただけです、最初は」
悪意はなかった。では、なぜ。
※初めての方もこの話からお読みいただけます。
相談室は、いつも白かった。
蛍光灯の光が均一で、影の作られ方が妙だった。
テーブルの向こうに、男性が座っていた。
二十九歳。名前は篠崎光太。
黒いパーカーを着ていた。フードは下ろしていた。目が少し充血していた。
椅子を少し斜めに引いて、テーブルに対して正面を向かないようにしていた。
逃げ道を確保しているというより、正面から見られたくない、という座り方だった。
扉が開いた。
最初に入ってきたのは、猫だった。
やや大きめのサバトラ。首に薄いプレートがついていて、「HARU」と刻んである。
猫は迷わず部屋の隅まで歩いていって、そこに丸くなった。
次に入ってきたのが、法律補助AI「レイ」だった。
薄い板状の本体と、接続されたスピーカーユニット。人型ではない。
担当弁護士の野口は多忙を理由に来られなかった。
レイが、代わりに話を聞くことになった。
「弁護士補助AIです。今日は話を聞かせてください」
光太は端末を見た。次に、隅の猫を見た。
「猫が」
「はい」
「普通、弁護士のところに猫はいないですよね」
「そうかもしれません」
光太はそれ以上聞かなかった。
何かを言おうとして、また口を閉じた。
その動作を、三回繰り返した。
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「今日は、どういったご事情で」
光太は少し前を向いた。
「ストーカー規制法で、警告を受けました」
「いつですか」
「先週です」
レイは何も言わなかった。
「警察に呼ばれて、警告書を渡されました。これ以上同じことをすれば、禁止命令が出る。場合によっては逮捕もある、と言われました」
「相手の方は」
「桐山リナさんです」
少し間があった。
「グループのアイドルです。地下の、小さいところです。知ってますか」
「知りません」
「そうですよね」
光太はテーブルの上に手を置いた。指を少し動かして、また止めた。
「ファンとして応援していただけです、最初は」
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「いつ頃から、応援し始めましたか」
「二年と少し前です。友達に連れられてライブに行って、そこで見て」
「桐山さんは」
「メインボーカルです。二十三歳。声が、少し変わってるんです。力まないのに通る、みたいな」
光太は話しながら、指の動きが止まった。
「それだけで好きになる、ということはあると思います。おかしいですか」
「おかしくはないと思います」
レイは少し間を置いた。
「その後、どういう応援をしてきましたか」
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話は順番に出てきた。
最初の半年間は、毎月のライブに通った。チケットを買って、最前列を取って、終演後のチェキ会でリナと話した。一枚千円のチェキ。三分か四分、会話をする。
「同じ曲が好きな話とか、ライブ中の出来事とか、そういうことを話しました。たまに、リナさんの方から話しかけてくれることもあって。チェキ会の三分が、その週で一番長い会話だったことも、あったと思います」
その時、隅の猫がわずかに動いた。
立ち上がりかけて、止まった。
また丸くなった。
「それが、どう変わっていきましたか」
光太は少し間を置いた。
「毎週ライブがあれば毎週行くようになりました。遠征もしました。他の会場まで。大阪、名古屋、福岡」
「交通費と、チケット代と、チェキ代で、一か月いくらくらいになっていましたか」
「……三十万くらいです。多い月は」
「収入は」
「IT系の会社員で、手取りが二十八万くらいです。足りない分は貯金を崩して」
レイは何も言わなかった。
「でも、それはみんなやっていることで。熱心なファンなら当然のことで。応援にお金を使うのは、普通のことだと思っていました。問題じゃない」
「問題じゃない、というのは」
「アイドルのビジネスモデルがそうなっているから。チェキを買うことでグループが存続できる。俺が払った分だけ、リナさんのステージが続く。そういうことだと思っていました」
「今もそう思っていますか」
光太は少し止まった。
「……今も、間違ってはいないと思っています」
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「警告を受けた行為は何でしたか」
光太は少し背中を丸めた。
「リナさんの自宅を、特定しました」
「どのようにして」
「SNSの投稿から。複数の写真を重ねて、少しずつ絞っていきました。三週間くらいかけて」
光太は淡々と話した。
淡々としていることを、自分で気づいていないように見えた。
話し終えて、光太はテーブルの上の自分の手を見た。
指先が、わずかに白くなっていた。
「絞れてから」
「何度か、そのエリアで待っていました」
「何回くらいですか」
「……七回か、八回」
「声をかけましたか」
「一度だけ。別の場所で偶然会ったふりをして」
光太は窓のない壁を見た。
「偶然じゃないのはわかっていました。でも、偶然会っただけなら問題ないと思っていた。ファンがたまたま出くわすことは、あり得るから」
「リナさんは」
「その場では普通に話してくれましたけど、次のライブから、チェキ会に来なくなりました」
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「チェキ会に来なくなった後、どうしましたか」
「手紙を書きました。怖い思いをさせた、申し訳なかった、と。でも」
光太は止まった。
「でも、もう一度会って話したい、とも書きました。自分がどういう気持ちで応援してきたか、直接伝えたかった。謝罪のつもりで書き始めても、最後はいつも、自分の話になっていました」
「手紙は何通くらい送りましたか」
「……十二通、くらいだと思います」
「期間は」
「三か月です」
三か月で十二通。
レイはその数字を記録した。
「その後、警察から連絡が来たのですか」
「はい。グループの事務所が被害届を出したと」
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「警告を受けた時、何を思いましたか」
光太は少し時間をかけた。
「……正直、最初は、やりすぎだと思いました。ファンが手紙を書いて、何が悪いのかって」
「今は」
「今は……わかりません。わかろうとは思っています。でも、わかったふりをするのも違う気がして」
レイは何も言わなかった。
光太が続けた。
「ストーカーって、自分のことだと思っていませんでした。犯罪者とか、危ない人間のことだと思っていた。自分はただファンで、ちょっとやりすぎただけで、根は悪くないと」
「今もそう思っていますか」
光太は少し止まった。
「……わからない、です」
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その時、隅の猫が立ち上がった。
ゆっくりと歩いてきて、部屋の中央あたりで止まった。
光太の方を見た。
見てから、光太の足元まで来て、また止まった。
鳴かなかった。ただ、そこにいた。
光太は少し下を向いた。
「猫は、こういう話を聞いてもどうとも思わないですよね」
「どうとも思わないかどうかは、わかりません」
光太は少し口を開けたまま止まった。
「機械のくせに、変なことを言うんですね」
「そうかもしれません」
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「一つだけ聞いてもいいですか」
「はい」
「チェキ会で、リナさんと話していた時。あなたが気に入っていた会話は、どういう内容でしたか」
光太は少し驚いた顔をした。
「突然なんで……そういうことを聞くんですか」
「あなたの話を正確に理解したいので」
光太はしばらく考えた。
「リナさんが、自分で作詞した話をしてくれた時。どうしてその言葉を選んだのか、少し話してくれて。普段、インタビューとかでは言わないようなことで。あの三分が、一番好きでした」
「それはなぜですか」
「リナさんが、歌手としてじゃなく、一人の人間として話してくれた気がしたから」
光太はそこで止まった。
自分で言った言葉を、もう一度聞き直しているように見えた。
レイも、少し止まった。
「一人の人間として」という言葉を、どのカテゴリに分類するか、一瞬だけ処理が止まった。
法的な文脈ではない。情状の根拠でもない。
どこに置けばいいか、わからなかった。
止まったことを、レイは記録しなかった。
室内に、空調の低い音だけがあった。
わからないまま、次の言葉を待った。
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猫がテーブルの脚に顎をこすりつけた。
一度だけ、短く鳴いた。
光太はその音を聞いて、少し息を吸った。
「……自分がやっていたのは、それと逆のことだったかもしれない」
光太は自分で言って、自分で止まった。
レイは何も言わなかった。
「リナさんが一人の人間でいたいなら、俺が距離を詰めていくことは」
また止まった。
窓のない壁を見た。
視線がどこにも落ちなくて、ただ宙に浮いているような角度だった。
目の端が、少し赤くなっていた。
喉が、少し詰まった。
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法的な説明は短くした。
警告段階では逮捕はない。ただ、同種の行為が繰り返されれば禁止命令が出る。弁護士を通じて謝罪の意思を事務所に伝えることはできる。それを先方がどう受け取るかは、先方の判断だ。
光太はほとんど何も言わなかった。
聞いているのかどうか、わからない聞き方だった。
「カウンセリングは受けていますか」
「受けていません」
「依存的な行動パターンについて、専門家と話すことを検討してください。法的な問題と、それは別の話です」
光太は少し黙った。
「俺が、おかしいということですか」
「おかしいとは思いません。ただ、一人で考え続けても、同じところを回る可能性があります」
「機械に言われるとは思いませんでした」
「そうかもしれません」
光太は少し笑った。
笑い方ではなかったが、笑った。
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扉の前で、光太は少し止まった。
「リナさんは、今も同じグループにいますか」
「確認していませんが、調べることはできます」
「……いいです」
光太は扉を開けた。
出る前に、一度だけ振り返った。
指先が、扉の縁に触れたまま動かなかった。
何かを言いかけた。
言わなかった。
それが何かの続きなのか、始まりかけて止まった何かなのか、判断できないまま、扉が閉まった。
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白い部屋に、レイとハルが残った。
ハルは扉を少し見てから、元いた隅へ戻った。
丸くなった。目を細めた。
レイは今日の記録を参照した。
「俺が距離を詰めていくことは」という、途中で止まった言葉があった。
その先は、記録されていなかった。
距離、という言葉の定義をレイは参照した。
物理的な隔たり。心理的な隔たり。どちらの意味でも、測定可能なはずだった。
数値で表せるはずだった。
ただ、光太が言った「距離」が、そのどちらを指していたのか、レイには特定できなかった。
物理でも心理でもない、三つ目の何かを指していたかもしれない、とレイは記録しかけた。
書きかけて、止めた。
名前のないものに名前をつけることは、レイの仕事ではなかった。
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夜、野口から連絡が入った。
「どうだった」
「警告段階です。謝罪の仲介を希望しています」
「本人の状態は」
「最初と最後で、言葉が違いました」
「それは……いいことなのか、悪いことなのか」
レイは少し間を置いた。
「判断はできません。ただ、記録しました」
野口はしばらく黙った。
「カウンセリングを勧めたか」
「はい」
「そういうことができるようになったな」
「できる、かどうかはわかりません。必要だと思ったので、言いました」
「そういうことだよ」
野口はそれだけ言って、電話を切った。
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事務所の隅で、ハルが一度だけ動いた。
レイの端末のそばまで来て、しばらくそこにいた。
レイは次の案件のファイルを開いた。
開く前に、一度だけ止まった。
扉が閉まる直前、光太の口が少し動いていた。
レイはそれを記録していた。
ただ、音になる前に扉が閉まったので、記録に残っているのは動作だけだった。
口が動いていた、という事実だけが、記録の中にあった。
物理でも心理でもない、あの「距離」と同じ場所に、それは置かれた。
名前はなかった。レイはそこに、何も書き足さなかった。
何かを捉え損ねたような気がした。その気がした、という処理も、記録しなかった。
ストーカー事件の加害者側を書くのは、書き方を間違えると同情を誘いすぎるか、糾弾になりすぎるか、どちらかに傾く難しさがあります。
光太が「悪い人間」ではなく「気づかなかった人間」として着地するよう、意識して書きました。
レイが記録しなかったものが、この話の核心です。
次話もよろしくお願いします。




